惑星の襲来
(Ⅰ)
安心している時間が何万回あったとしてもたった一秒間の不安が的中することだってあるんだ。
確かそんなことをマッキンリー博士は言いなが分厚い本をぼくに指し示した。本の題名は「惑星の襲来」と書かれていて表紙に真っ赤な球体の絵が載っていた。
何度か読む機会をつくろうと思いながら結局一ページも開くことができずそのままになっていたがある日コージがやってきて「昨夜、変なことがあってさあ」とそのいきさつを語り始めたときふとぼくはその本のことを思い出した。
コージがいうには麻布の居酒屋でスペインのある画家の話をしていたときその作品のなかで「太陽の燃え尽きたかけら」という抽象画の概念はどこから来たものかということになりいろいろと議論したらしい。ところが妙なことにその話を隣で聞いていた女がいて「私知っている」と言ったというのだ。
「彼女は自分が惑星から来たといい、宇宙人とも言った」
コージはまじめな顔をしていた。
「酔っているんじゃない?」
「最初はオレも思ったさ。ところが普通なんだよな、なんていうか人をからかうような眼もしていなかったし」
「それで」
ぼくは気になっていた「惑星の襲来」という本の名前を頭によぎらせながら次を聞いた。
「何もないさ…それだけさ」
コージはあっさり答えた。
「惑星から来たと言ったんだろ?」
「そうさ宇宙人とも…」
「おかしいだろう?麻布の居酒屋にそんなやつが現われるなんて」
「おかいしよ、だから変なことがあったって言ってんじゃん」
ぼくはマッキンリー博士から借りたその本をいよいよ読む気になっていた。コージにはそのことを秘密にしておこうと思った。
(Ⅱ)
家に帰ってぼくはさっそく「惑星の襲来」のページを開いた。ところが驚いたことに最初のページから何語か分からない文字が並んでいて「こんなはずではない」と叫ばずにはおれなかった。ちなみに眼の前の本棚にある他の書物をとってみた。ページを開くと、ややっ!!どうしたことだ、読みなれた本のはずなのにその文字もすっかり化け妙な字体に変貌して何語だか分からない。
ぼくはマッキンリー博士に会いたくなった。いやコージのせいかもしれない。待て待て、ぼくは正気を取り戻そうとゆっくり呼吸をしてみた。悪夢でも見ているのか、いやきっとそうに違いない。しかしやがてぼくにはある種のアレルギーがあることに気づき始めていた。
超空間的透視能力症候群。マッキンリー博士はぼくをこう診立てた。数年前のことである。
ぼくは常々マイクロ・セクションで光と音との関係を調べる研究に携わっていたのでぼくの脳細胞はα線やγ線、あるいはヘルツにサイクルといった単位原子が微妙に蔓延り、時としてあらゆる知覚神経を狂わす起爆剤を秘めていたのである。
ただしマッキンリー博士はこうとも言ってくれた。
「たったひとつだけアレルギーを和らげる方法がある。それは宇宙に眼を向けなさい」
ぼくはそれを信じてきた。そしてコージともよく宇宙の話をしていたんだ。ところがよりによって昨夜、麻布の居酒屋でコージが宇宙人と会うなんて…
そんなこと思いながら今現実として「惑星の襲来」の文字の話だ。いや突如としてぼくを襲ったあらゆる書籍の文字の問題の解決を図らなければならない。これはいったい何語が書かれているのか。
ぼくのこころのなかは大騒ぎになりつつあり、ぼくの眼はじっとその表紙に描かれた赤い球体の絵に吸いよされていた。
ことの始まりはぼくがマッキンリー博士に「平和な世界はいつまで続くのでしょう」と尋ねたことからだった。それがなぜ「惑星の襲来」の本を借りることになるのかが不思議といえば不思議なことに相違なく、しかもぼくはその本を幾日もほったらかし一ページも開くことがなくせっせとマイクロ・セクションで仕事をし久しぶりにコージと会ったらば彼は「宇宙人と会った」と言うではないか…
その赤い球体の絵は恐ろしくぼくを見返してくるような波長を持っていた。ぼくは直感してそう思った。この絵は誰が描いた絵なんだろうとぼくの脳における一部の細胞がぼんやりと反応し始めていた。そしてぼくの超空間的脳細胞はひとつの解答を見出しつつあった。
(Ⅲ)
「いいかい、これから述べることは将来きみが見ることのすべてを記憶するかもしくは過去のすべてを削除してしまうかのどちらかを選ぶことによってこの不思議な出来事は解決することになります」
ぼくはすぐに計算した。ぼくのイメージからいけばマイクロ・セクションの第三工程のひとつだったのでこれは簡単に処理できるような気がした。
赤い球体の絵の作者はその波長の特徴を捉えるとすぐ分かったのである。つまりぼくのイメージはずっと前からこの色彩と形に執着し憧れを抱いて生きてきたのではないか。
やはりマッキンリー博士にすぐに報告すべきである。コージの奴にももう一度その麻布の居酒屋での出来事について確かめるべきだしこれは急がねばならない。
でもその赤い球体の作者はなぜそんな約束をぼくに押し付けようとするのだろう。ぼくのイメージが何をこれから想像しまた過去の出来事を白紙にするなんて…
早く、…しないと。
どちらを選べというんだ!!
文字が何語だか分からなくなったこの混乱は一大事ではないか。
しかしぼくのイメージは決まっていた。
だからぼくはすべての過去を潔く捨てるつもりでもう一度試みようと決心をしていた。
而して…ぼくはその赤い球体の表紙をゆっくりと開いてみたのである。
(Ⅳ)
言語は鮮やかに甦った。
そして概ねその「惑星の襲来」の意味することが理解できた。
同時にそのあとで次に行動すべきことをぼくはただちに計算に入れなければならなかった。
絵の作者がつまりコージが昨夜会った「宇宙人と称するおんな」とつながりがあることは読みながらぼくの脳細胞の一部が盛んに信号を出していた。
コージの話では麻布の居酒屋で、あるスペインの画家の話をしていたときだと言っていた。
もう一度詳しく聞こう。
で、ないとこの「惑星の襲来」に書かれていることがまもなく訪れる。襲来はすべてを破壊し「平和な世界」は突然暗黒の世を迎えることになるのだ。
…
あわてたぼくは急いでケイタイをかける。
「昨夜の話だけどさあ」
「ああ」
「宇宙人のおんなっていつも来てた人?」
「覚えないけどなあ、来てたんじゃない」
「今夜も来そお?」
「たぶんね」
話は決まった。ぼくの胸の高まりは最高潮になりつつある。
マッキンリー博士にはいい土産話ができそうだ。
「それからさあ、そのおんな、いや宇宙人だけど何語をしゃべってた?」
「何語?」
「宇宙から来たと言ったんだろう?」
「ああ」
「日本語でか?」
「さあ、どうだったか覚えてねえよ」
(Ⅴ)
ぼくはそのおんなに会いたいと思った。
「今夜その居酒屋にいこう」」
「いいよ」
コージは不思議そうにほくの顔を見た。
用意は万端整った。先ずキーワードは「赤い球体」の作者が描いている謎の波長だ。ぼくの脳細胞のγ線とぴったり合致する。それはマイクロ・セクションの第三行程でつかんだぼくの大切な宝物でもあった。マッキンリー博士に言わせれば宇宙人と会話のできる超能力的なインスペクターの部類に入るらしい。
「赤い球体」には宇宙人の波長がありその波長を解く鍵がスペインの画家の持つイメージが絡んでいることも分かっている。
約束の時間にぼくは麻布の居酒屋にいた。
少し遅れてコージがやってきた。
「そのおんなは来るのか?」
「多分な」
店なかには数人の客が居るだけだった。
しばらく緊張しながら飲んだ。
「燃え尽きた太陽のかけらの話をしていたときって言ったよなあ」
「うむ、まあ」
「どのへんにおんなは座っていたの?」
「だからそのうしろだよ」
コージはぼくのうしろを指差した。
「燃え尽きた太陽のかけらっていつごろの絵なんだ?」
「十六世紀の後半、スペインの画家が描いた絵らしいよ」
「どんな絵なんだ?」
ぼくは興味深くコージに尋ねた。
(Ⅵ)
ぼくの予想どおり「燃え尽きた太陽のかけら」とは「赤い球体」と同じ意味を指していた。
「惑星が降り注ぐ絵なんだけど雨とも火とも波とも似つかわしく見えるような…説明では太陽のかけらだと」
「抽象画なんだろ?」
「そう。終末を予言するとそんなふうになる…と」
「太陽が燃え尽きるってわけか」
「まあな」
「ありえないね」
「そうだよな」
ぼくもコージも同じ考えだった。
しかし、マッキンリー博士から借りた「惑星の襲来」の本のことを思い出すとたちまちぼくの不安は0.0001%だけγ線の脳の片隅でスパークし「暗黒の予兆」を想像せずにはいられなかった。
「スペインの画家は何て言ったっけ」
「R・BBNSS」
「!!」
コージは不思議そうにぼくを見た。
ぼくがほとんど気絶しそうなくらいびっくりしたからだ。
「惑星の襲来」の表紙に描かれた絵の作者がR・BBNSSだったからだ。
「彼女がやがてくる終末を知っているって言ったんだよな」
「うむ、まあな」
「自分は惑星から来た宇宙人だとも」
「確かそんなことを言ったと思うんだ…」
待てども待てども今夜はそれらしきおんなは現われなかった。
コージはすっかり酔ってしまって眠り始めた。
ぼくもやがて夢うつつ少しだけ居眠りをした。
遠くから赤いビーム光線が近づいてくるのが見えたような気がした。
何か音が聞こえる。
(Ⅶ)
ぼくはすっかり眼が覚めた。
何か清々しい気持ちになっていた。
コージはまだ酔い崩れて眠っている。
ぼくは居酒屋の店の人に聞いてみた。
「宇宙人っていう女の人来ないですか?」
「ああ、いつものコね。今夜は来ていないようだね」
「どんな人なんですか?」
「宇宙人と話ができるが口癖でね。でも彼女の絵は素晴らしいよ」
「どんな絵なんですか?」
店の人が壁を指差した。
「あの赤い球体の絵だよ」
それは紛れもなく「惑星の襲来」の表紙の絵に似ていた。
ぼくは決心した。
ぼくのγ線もマイクロ・セクションの第三工程も超空間的透視能力症候群もすべては一
瞬ぼくを襲った不安から生じた妄想に過ぎなかったことを確信したのだ。
だからぼくのマッキンリー博士もそろそろ消えてもらわなくてはならない。
ぼくは大騒ぎをした数日間にやっと終止符を打てたことにホッとした。
コージのやつ、まだ眠ってやがる。
「おい、帰るぞ」
肩を叩くとコージが寝呆けた声を上げた。
「えっ!女が来たのか」
「さあね。今夜は来ないだろう」
ぼくは軽く嘯いた。
それにしても本当に「R・BBNSS」の「惑星の襲来」の本ってあるのかなあ。
帰り道、コージに尋ねてみた。
「お前さあ、R・BBNSSの惑星の襲来っていう本知ってる?」
すると、
「あるんじゃないの」
とコージはあっさりと言ってのけた。