エピローグ
ブルーエルが忘却の川でフリージアを見送ってから、人の世界の時間で二百年ほど経過していた。
魔女裁判という暗い出来事があったのかと思うくらい、数えきれないほどの春を迎えたアンネルの街には穏やかな時が流れている。
フリージアの処刑の後、どういうわけか忽然と姿を消したルドラーにかわり、新たにアンステラの首都から派遣されて来た聖職者によって魔女裁判の違法性、異常性が認められ、今後一切の異教徒への拷問と処刑が禁止された。
またそのことをきっかけに国教以外の土着の宗教などを信仰することの是非が活発に議論され、結果、国教に限らず自身が信じたい宗教を信じても良い、ということが約束された。
そうして暗黒時代とも呼ばれた当時からは考えられないくらい、現在のアンネルは自由な空気に覆われていた。
各宗教の建造物も徐々に増えており、さまざまな民族との交流も増え、アンネルだけでなくアンステラという国全体が活気付いている。
そんな風に変化したアンネルで、ブルーエルはディウスが拠点の一つとしていた喫茶店『スカーレット』を任され、そこを一人で切り盛りしていた。
ディウスからこの店を引き継いだとき、ブルーエルが新たに名付けたスカーレットという店名はフリージアが髪を結っていた鮮やかな赤いリボンの色から取ったものだ。
店内の壁にはフリージアの花の絵を描き、各テーブルには開花の時期を迎えたフリージアの花を飾っているので、店の中は甘い花の香りでいっぱいになっている。
しかし実のところ喫茶店というのは表向きで、裏ではやはりディウスのように召喚された者たちのサポートやトラブルを解消する仕事をしている。
アンネルで信仰が自由になった分、悪意を持って召喚に手を出して破滅する人間や、中には興味本位で召喚に手を出した人間が呼び出した悪霊が、格上の悪魔や天使の名を騙って人間に危害を加えることもある。
そういった悪霊を自分の管轄である地獄に送るのもブルーエルの仕事だ。
もちろん、魔界の住人たちの中にはふるさとの味を懐かしみ、隠しメニューになっている魔界の素材を使った料理を楽しみにくる者もいる。
今日はまだ開店したばかりで、客はいつもの窓辺の席でモーニングを食べに来た常連である人間の老夫婦一組だけだ。
ブルーエルはグラスを拭きながら店内に流している音楽に耳を傾けて、次の定休日にはどこかに転生しているかもしれないフリージアを探しに行こうと考えていた。
この200年、ブルーエルは定休日の度に鏡の道を通ってあちこちに出かけた。
アンステラ以外の国にもいったけれど、どこへ行っても転生したフリージアを見つけることはできなかった。
過去の記憶を消去しきれていないのか、あるいはレテのどこかに引っかかっているのではないかと探しに行ったが、レテの流れのどこにも彼女はいなかった。
ふと、顔を上げてブルーエルが食器棚を見ると、襟の影になっている場所にフリージアに付けられた契約の証の痕が目に入った。
この印が、もしかしたら彼女の魂に何か反応をしてくれるのじゃないかな、なんて淡い期待を持った時だった。
「……っ痛……」
急に痣が疼きだし、ブルーエルがその痛みに眉を顰めていると、ドアにつけている来客を告げるベルがカラコロと鳴った。
ブルーエルは脂汗をかきながら痛みをこらえながら入り口に目を向け、入ってきた客を見た。
しかしその途端、ブルーエルは持っていたグラスを落としそうになった。
店に入ってきたのはすらりとした長身の女性だ。
旅行者なのか、赤いスーツケースを転がしながらやってきた彼女は、肩まで伸びたグレーの髪の側面を編み込み、左側に赤い花の髪飾りを飾っている。
服装は藍色のジャケットに、白のVネックシャツ、黒のパンツスタイルでいかにも動きやすそうな格好だ。
ブルーエルの心臓が勝手に早鐘を打ちはじめ、それと同時に契約の痣も痛みを増して行く。
(フリージア……見つけた!)
突然のことにパニックになりかけているブルーエルだったが、とにかく痛みを抑えようと気休め程度にしかならない痛み止めを急いで飲み、入り口の女性に声をかけた。
「いらっしゃいませ、よろしければこちらのカウンターにどうぞ」
女性はブルーエルにうなずき、カウンターに座ってサングラスを取った。
まだ薬が効かずにいるため、ブルーエルは痛みをこらえつつ、心の中で落ち着けといい聞かせながら営業スマイルを浮かべながら女性へグラスに注いだ水を差し出した。
「あ、どうも」
女性がグラスを傾けると、立方体の氷が当たって涼しげな音を奏でた。
ブルーエルはお盆を片付けながら女性をこっそりうかがう。
歳は二十歳になった頃だろうか。
右へと流された前髪の奥からは紫がかった青い瞳がのぞいている。
ほんのり差した紅い口紅が、彼女をとても魅力的に見せていて、何よりフリージアだった頃よりも長生きしていることにブルーエルは嬉しかった。
「ご注文は?エスプレッソがオススメですよ」
ブルーエルはメニューを女性に渡しながら言った。だが彼女は申し訳なさそうに言った。
「ごめんなさい、私コーヒーは苦手で…………」
その言葉にブルーエルは笑みを深くした。フリージアもコーヒーが苦手だったので、彼女はよくアレを飲んでいた。
「では、特製ホットミルクはいかがですか?」
「あ、はい!それください」
だからブルーエルは彼女に一緒に星を眺めた夜、彼女が入れてくれたもののように、はちみつを入れた温かくて甘いものを作ろうとミルクに入れた鍋を火にかけた。
沸騰しないように慎重にミルクを温める。適温になってからカップに注いでシナモンスティックと、お茶請けにクッキーを添えて出した。
「おいしい……」
カップに一口つけて、ため息とともに出た彼女の言葉にブルーエルはくすぐったい気持ちのまま、小鍋を流しに運び、蛇口をひねった。
「外、寒かったでしょう?」
「ええ、春だというのにまだ風が冷たくて。でもこのミルクのおかげで温まりました」
「僕の特別なレシピで作ってるんですよ」
「温めるだけなのに?」
「ある人から教えてもらった特別な温め方なんです」
水を止めてひそひそと冗談のようにいうと、彼女は鈴を転がすような声で笑った。
(見た目は違うけど、やっぱり彼女だ)
目の色も髪の色も違う。
けれどもブルーエルの直感と、なによりも痛みを増して行く、フリージアがつけた痣がそう言っている。
「旅をされている方ですよね、この街へは何をしに来たんですか?」
声が懐かしさに震えそうになる。それをこらえてブルーエルは女性に尋ねた。
でも少し声が震えていたかもしれない。
「私、歴史を専攻している学生で。いまアンネルの暗黒時代の研究をしているんです。魔女フリージアのことをまとめていて。知っていますか?彼女のこと」
「え、ええ、まあ……」
とてもよく知っているとは流石にいえなかったので曖昧な言葉を返しながらブルーエルは頷いた。
(と、いうか君がフリージアだったんだけどね)
期待を込めた視線を向ける女性に、ブルーエルはぎこちない笑みを返した。
彼女にどう伝えたらいいものか、と考えていると、レジに老夫婦がやって来た。
「すみません、少し失礼します」
ブルーエルは老夫婦の会計の対応をしながら切り出し方をあれこれと考えた。
いきなり自分は悪魔で、君の過去世の人物と魂の契約をしたのだなんて、変な目で見られそうな予感がする。
いや、変な目で見られるだけならまだマシかもしれない。
あれこれ考えるのだが、やはり結局、何も思いつかなくて。ブルーエルは老夫婦が使ったテーブルをきれいにすると食器を盆に乗せ再びカウンターに戻った。
気が重く、思わずため息が漏れる。
変なことを言って彼女をまた失いたくなかった。
何百年も待って探してやっと見つけたのに。
片付けをしながら悶々としていると突然女性がポツリとつぶやいた。
「なんとなく、ですけど……私、あなたに会うためにこの街に来た気がするんですよねぇ……」
ブルーエルをカウンター越しにぼんやりとみつめていた女性は、自分が呟いた言葉にはっとして口を押さえた。
「何を言っているのかしら、私……すみません、おかしいですよね、忘れてください」
照れ隠しのためか、彼女は暑い暑い、と手で赤くなった顔を仰いでいる。
「おかしくなんてないよ」
「え?」
ブルーエルはカウンターを出て女性の前に跪いた。
「僕もずっと、君を探していたんだ。……約束では迎えに行くのは僕だったけど」
ブルーエルの言葉に彼女の目から涙が溢れはじめた。
「どうして……わたし、涙が……」
「君から来させてしまうなんてごめんね。探していなかったわけじゃないんだ」
そう言ってブルーエルは彼女の溢れた涙をぬぐった。忘却の川では出来なかったことだ。
「また会えて良かった」
「あなたは一体……」
怪訝そうな彼女に微笑み、ブルーエルは意を決して口を開いた。
「僕はブルーエル。君の名前は?」
「わたしの名前は……ルネ。ルネ・アルクです」
「ルネ。今はそれが君の名前なんだね」
きっとこの印を見ればルネも何かを感じるはず。そう直感したブルーエルは彼女に契約の痣が見えるようにボタンを外した。
「その痣……」
「君はこれを知っているね? これは君が僕の主人である証だ。僕は君のために、これから先、すべての時間を捧げよう。ただし、君が望むのであれば、だけど……」
ブルーエルの言葉にルネは俯いた。
「いきなり言われてもそんな、よく……わからないけれど、でも……これだけはわかるわ……私はあなたがいう通りそれを望んでいると答えるべきである、と」
ルネがそういうと、ブルーエルの契約の印の痛みが消えた。再び意思を持って契約がなされたからだ。
再び出会えたことに感謝し、ブルーエルは彼女が研究しているというフリージアの全て……彼女の過去世の全てを告げることにした。
幸い、店には二人きりである。
ただあまり良い話でないことは確かなので、ブルーエルは言葉を慎重に選びながら口を開いた。
グラスの縁に溶けた氷が当たり、カラリと涼やかな音を立てた。
終わり
ようやく完結できました、
ブルーエルはどう彼女に伝えるかはご想像にお任せします。
お付き合いいただき、ありがとうございました!




