薔薇の天使(二)
下界は冬であるはずなのに、風に波打つ金の麦畑とみずみずしい紫の果実を目にしたガルシアは、この場所が過去のカヌアンであるとすぐに気づいた。
『ベネ・エル』──神々の宮廷という意味をもつ丘の高台に到着し、ガルシアを伴ったアシェラトは目の前にいる懐かしい姿に目を細めた。
「皆、揃っていますね」
「何?何がおきたの?!」
盆のように窪んだ中央で、双子とみられる容姿の似た小柄な男女が抱き合いながら辺りを見回している。
二人は揃いの服を着て少年の方はチュニックの下にハーフパンツを履き、少女は少年と同じチュニックの下にレギンスを履き、頭には大きなリボンを飾っている。
「落ち着けロット、ロッタ。大丈夫だ」
突然のことに混乱する幼い二人の傍に腰を下ろして抱き寄せたのは、柔らかな短い黒髪の毛先を夜風に遊ばせた長身の偉丈夫の姿だ。
久々に見かけた柘榴石の瞳を持つ彼に、ガルシアが話しかけようと口を開いたその時だった。
「ゼブ……」
「ゼブル、会いたかったぞ!!」
「ゴフッ! 」
背中に強い衝撃を受け、ガルシアはバランスを崩して地面に膝をついた。
なんとか美貌の顔面は死守できたことにホッと息をつき、ぶつかってきたものの姿を睨みあげた。
「アナト……いや、いまはアンネルだったか。久しいな。元気だったか」
ガルシアを突き飛ばし、ゼブルと呼んだ彼に駆け寄ったのは二対の羽を持つ智天使アンネルだ。
ピンクゴールドの髪をなびかせる彼女はガルシアの視線など気づいていないようである。
彼女もツァフと同じく、かつてはカヌアンの勝利の女神アナトだった。
アンネルはゼブルに長い腕を絡ませ、背伸びをして彼の頰に口付け微笑んだ。
彼らはカヌアンの地では夫婦として崇められていた二柱である。
ゼブルもまた彼女の頰に口付けをすると、愛おしげに、離れ離れになったかつての妻のその細い体を抱きしめた。そして身を離すと懐かしげに目を細めた。
「あの、大丈夫……ですか?」
元夫婦神たちに完全に存在をスルーされて心が折れそうになっていたガルシアに、おずおずと双子の妹の方が声をかけてきた。
「優しいねえ君。俺と天界に来るかい?」
差し出された手に嬉しくて思わず涙が溢れてくる。こんなに自分は涙もろかったかなとガルシアは鼻をすすった。
しかしガルシアが伸ばした手は、凄まじい勢いでやってきた双子の兄によって叩き落とされた。
「結構です! こら、ロッタ、知らない人に構ったらダメだろ」
「ご、ごめんなさい、ロット……」
ロットに手を引かれ、遠ざかっていくロッタは足をもつれさせながら謝っている。
「今、全俺が傷ついた……」
双子たちに不審者扱いをされ、完全に心が折れたガルシアはなんとか立ち上がると膝についた草の葉を払った。
元凶であるかつての夫婦神の二柱は2人だけの世界を作り出し、額を触れ合わせ近い距離で見つめ合いなにやら話していた。
「ウォッホンッ! ン、ンンッ!」
わざと大げさな咳をしてガルシアが半ば強引に二人の間に入ると、2人の世界を破壊しにきた熾天使にアンネルは舌打ちし、ゼブルは苦笑して彼女をなだめるように指を絡めた。
「ガルシア、先程倒れた時、結構大きい音がしたが大丈夫か?」
「こいつの心配は無用だぞ、ゼブル」
久々に感じる愛しい者の温度に機嫌をよくしたアンネルは舌を出してあっちへ行けと手を動かした。
「それ君のセリフじゃないよねぇアンネル」
引きつった笑みでガルシアがアンネルに詰め寄ると彼女はツン、とそっぽを向き、かわりにゼブルが妻の非礼を詫びた。
「ガルシアは俺に訊きたいことがあるんだろ?なんだ?」
「その……あいつは元気?」
「ああ、相変わらずだ」
ゼブルの苦笑まじりの答えにガルシアはホッと安堵の表情を浮かべた。
ガルシアがゼブルに訊きたかったのは魔界へ堕天した双子の兄、ルーのことだ。
彼は今、魔界のトップに君臨している。
天界戦争以来会えておらず、数千年の時が過ぎ、魔界との関係が軟化している今も連絡を取れずにいる。
連絡がないのは元気な証拠だとかどこかの地の言葉で聞いたが、やはり気になるのでこうしてルーの右腕でもあるゼブルに会うたびに彼に訊ねているのだ。
「元気ならいい。元気なら……」
堕天したルーは天界では二度と過ごすことはできない。
多分顔を合わせる機会もしばらくないだろう。ゼブルの口から彼の無事を知れただけで、ガルシアの心は安堵で満たされる。
「それよりも俺たちを呼んだのはツァフ、お前か……?いや、その姿はどうした」
「そうだよ。なぜ、“元の姿”に?」
アシェラトへ向けたゼブルの問いに、葡萄を一房摘んだロットが言葉を続けた。ロッタはガルシアから隠れるように兄の背に隠れている。
「この魂の持ち主の力です。皆、この魂に触れてみなさい」
アシェラトに促されるがまま、ゼブルたちは彼女が持つフリージアの魂に触れた。強い光がベネ・エルをゆっくりと満たして行く。
まるで湧き出ずる泉のようにフリージアの魂から溢れる光は、そこにいるものを全て包み込み、やがて海の潮が引くように静かに消えた。