生餌 (挿絵有)
ガルシアから向けられた、その冷たい視線にルドラーは震え上がった。
「あぁ……あなたは本当に、し、熾天使ガルシア様なのですか?私の前にいるあなたは、まるで……」
「まるで?」
ガルシアの問いにルドラーは震えたまま、しかしその美貌から目が離せないまま彼を見上げながらも次の句を告げずにいる。
「『まるで悪魔のようだ』とでも言いたそうだな」
からかうようにガルシアが笑うと、ルドラーは泣き出しそうに顔を歪めた。
「さて、お前はどうしようか。ネリのように一思いに消し去ろうか」
そう言ってガルシアはルドラーへ刃先を向ける。
その喉元に突きつけられた冷たく鋭いものに、先程消滅したネリを思い出したルドラーは恐怖に満ちた表情で首を振った、
「あぁ、天使様、どうかおたすけください!懺悔いたします! 私の罪をどうか、どうか許し、お救いください……!」
ルドラーはすがりつくように、ガルシアではなく可憐な天使の足元に跪いた。
「いいですよ。あなたの望み、私が叶えましょう」
可憐な天使は身を屈め、跪くルドラーに目線を合わせてにっこりと頷くと、ルドラーは救われたのだと思いホッとした顔をした。
だが次の瞬間その顔は再び恐怖に凍りつくことになるとは、ルドラーも想像しなかっただろう。
「ですが、私は悪魔なので。代償としてあなたの魂をいただきますよ」
可憐な天使がオレンジのまばゆい炎に包まれたかと思った次の瞬間、天使は魔界に君臨する魔王の姿に変化していたからだ。
可憐な天使───もとい、魔王ディウスは牡牛の角を光らせ、炎のように赤く燃えるように輝く髪をなびかせながら暗い金色の瞳でルドラーを冷たく見下ろしている。
「なっ……?!」
「あーあ、聖職者なのに悪魔と契約しちゃったな〜。これは大罪だなぁー」
言葉を失い、水槽の中の魚のようにパクパクと口を動かすルドラーをふざけた調子でガルシアが囃し立てている。
もはや何の言葉も言えずに、腰を抜かしたルドラーは白目を剥いて口角から泡を吹いていた。
ディウスが悪魔だと言う事実に恐怖を感じているせいかこの数分で彼はすっかり老け込んでしまったようにも見える。
「おやまぁ。眠るにはまだ早いですよ」
ディウスが指を鳴らすと、異空間から現れた水流がルドラーの脳天から降り注いだ。
ずぶ濡れになったルドラーは頭を振って顔をぬぐい、荒い息をつく。
「あ、悪魔がなぜ熾天使ガルシア様と共に……?!敵対しているのでは?」
「それいつの話だよ。ていうか、天界戦争の頃の話いつまで引っ張ってるんだ人間は。今はこーんなに、って言うか昔から仲良くしてるんだぜ」
「やめてください」
肩を組んできたガルシアの手を払いのけて、ディウスは腰を抜かしたルドラーの顎に手をかけた。
冷たい革手袋がルドラーの肌に当たり、これは夢でないのだと彼に実感させる。
「考えたことはありませんか?神も悪魔も存在の実は同じもので、その光の部分と影の部分の呼び名が違うだけ、と」
「……?」
ディウスの言葉が理解を超えるものだったようで、ルドラーは首を傾げている。
「天使は神の意志で救いを与える存在ですが、あなた方に“悪魔”と呼ばれる我々は神の意志で人に試練を与える存在として作られたのだとしたら……?」
「そんな、まさか……ありえない……」
「ディウス、そこまでにしておけ。それ以上は」
ガルシアに制止されたディウスはうっかり、というように口に手を当てた。
一方でルドラーはブツブツと「ありえない」とつぶやいている。
「ちょっと喋りすぎましたか。さぁ、あなたの魂はどんな色でしょうね…?」
にこやかにささやきながら、ディウスはルドラーの胸にずぶりと腕を差し込んだ。
「……っ?!」
手首の上あたりまでがルドラーの体内に埋まる。その異様な光景にルドラーは恐れおののき、目を剥いて失神しそうになる。
「あなたには特別に見せて差し上げます。これが、あなたの魂です」
まだ魂は体とつながっている。ゆっくりと腕を引き抜かれたディウスの手の中にある自身の魂を目にしたルドラーは愕然とした。
「こちらは先ほど見せた魔女フリージアの魂。そして、この汚らしい方があなたの魂です」
ルドラーの体内から取り出された魂はひどく汚れていて、黒々としたヘドロのようなものがまとわりついていた。
フリージアの魂とは雲泥の差だ。
ディウスは仕事柄汚れた魂を見慣れてはいるが、流石にここまで汚れたものは初めてで、小声で「うぇっ」と思わず呟くほどだ。
手袋をしていて正解だったとディウスは本心から思った。
「そんな、私の魂は、聖なる善行によって……」
「ならばなぜあなたの魂はこんなにも汚れているのですか?あなたのしたことは本当に善行だったのですか?」
「そんな……」
「こんなに汚れていては、もう使い物にならないですね。仕方ありません、私の使い魔の餌にさせてもらいますね」
ディウスはそう言うとゆっくりと魂を引っ張りはじめた。ルドラーはいつ切れるとも知れない魂の線を眺め、死の恐怖に慄いた。
そんなルドラーの様子を見たディウスは、焦らすようにゆっくり、ゆっくりと引っ張る。
「ほら、鼓動がだんだんとゆっくりになって……息が苦しくなって、意識が遠のいてきたでしょう?でも戻すと、ほら……」
恐怖のためか、それとも魂を引かれているせいかあるいは両方か。ルドラーは浅く荒い息を吐き、びっしょりと汗をかいていた。
「あなたは息が苦しいだけですが、生きながら焼かれた人、槍に貫かれて血を流した人の苦しみはどれほどだったのでしょうね?」
ディウスの言葉にルドラーは恐怖に引きつった顔をその首がちぎれんばかりに左右に振った。
「あぁ、そんなに期待しなくても。ご心配なく、あなたには特別に味わわせて差し上げます」
にっこり笑ってルドラーに魂を戻し、指を鳴らすと炎が周りを取り囲んだ。
「ね、暑くて苦しくて痛いでしょう?この中でやがて皮と肉が溶け、骨だけになるんですよ」
凄まじい叫び声が石塔にこだまする。
火だるまになったルドラーは炎を消そうとしているのか、そこら中をゴロゴロと転がった。
「そんなに叫ぶと喉が火傷して息がますます苦しくなりますよ?あ、そうそう、炭にはしませんよ。うちの子はレアが好みなので」
「えげつねー……」
それを見たガルシアが青ざめた顔でポツリと呟く。
「私たち“悪魔”にとって、契約者は特別なものです。それを引き裂き奪った罪は深いですから」
どうやらルドラーへの仕打ちはディウス自身の怨恨も加算されているようだ。
「あなたに私の大切な存在にも手を出されていたとしたらゾッとします。契約者を持つものとしてあなたのようなものは絶対許しません」
オレンジの光が照らすその表情は無表情で、いつも穏やかに笑んでいる彼の怒りが見て取れるようだとガルシアは両腕をさすった。
「さあ、そろそろ頃合いでしょうかね」
そう言うとディウスは指を鳴らしてルドラーにまとわりつく炎を消し、そして肩に乗っていた猫らしき生物を下ろした。
炎に焼かれた皮膚はただれ、肉が溶けかけて ドロドロになったルドラーはこれから何が起こるのかよくわからないまま迫り来る恐ろしい事を想像し短い呼吸を繰り返しながら震えた。
「よかったですね。“魔女”たちのように死ぬまで焼かれなくて」
ディウスが肩から下ろした猫のような生き物は巨大な異形の魔物へ姿を変えた。
大きな口を開けると鋭い牙が何本も並んでいるのが見えた。
「ちょうどお腹が空いているみたいですね。さあ、ごはんですよ」
「っひ、ひぃいいい…!!」
ルドラーは飛びかかってきた魔物の口の中にあっという間に捉えられた。
そして魔物の口の中からはルドラーの叫び声と骨が砕ける音がする。
咀嚼するたびに滴る血が床を汚し、生きながら魔物の餌となったルドラーの声はやがてしなくなり、魔物はごくんと喉を上下させた。
「おいしかったですか?」
主人の問いに、魔物は舌で口の周りをぺろりとひと舐めすると満足そうに喉を鳴らした。
「怖い」
ディウスが振り向くと、ガルシアは青ざめた顔で自らを抱きしめるようにして両腕をさすっていて、心なしか内股である。
「なんです」
「お前怖すぎ……やだ……近寄らないで怖い」
「馬鹿馬鹿しい。どちらも消滅という結果は同じでしょう」
大袈裟に怖がるガルシアの様子にまた殺気立ったままのディウスは毒づいた。
「俺がネリにやったことが生ぬるい気がしてきた…お前のあれを見たら……」
「魔女狩りのせいで仕事がだいぶ増えましたからね。契約者を失った魔族の報告とか処理とか、色々……えぇ、本当に色々と…」
「お、お前も大変だったんだな」
拳を握り不敵な笑みを浮かべながら低く言うディウスの姿にガルシアは直感であれこれ掘り下げるべきでないと感じ取り、当たり障りのない答えを返すのがやっとだった。
「他人事みたいに言わないでください。そもそも、結局は天界が原因だったじゃないですか」
「あ、そうだった。セフィロトの解除しないと」
色々なことを思い出し、治るどころか再燃し始めたディウスの怒りの矛先が自分に向きかけたので、ガルシアは慌てて残りの大事な仕事を思い出した風に手を打った。
ディウスとガルシアら塔から出て、ガルシアはその地にかけられたセフィロトの術式を解除した。すると塔を包んでいた神聖さはかけらもなく消え去り、そこはただの無機質な塔に戻っていた。
「では、あとは私が破壊しますね」
「待てよ、まだ捕まっている人間がいただろ? 」
ガルシアの言葉にディウスは首を振った。
「彼らはもう自ら命を絶っています。この塔には死の気配しかありません」
そう言ってディウスが手のひらを塔に向けて握る仕草をすると、たちまち塔はガラガラと崩れた。
「いやーしかし、お前の天使姿、やっぱ良かったわ。その魔王の格好とのギャップがたまらない」
「というか、あなたはそれを見た人間の反応を見るのが好きなだけでしょう?」
「うん、まぁな」
「相変わらず悪趣味ですね」
ディウスの言葉にガルシアは頭を掻いた。
「なぁ、ブルーエルはどうした?」
彼を消滅させるとディウスはいっていた。もちろん、本気ではないのだと思ってはいたが。
「あの後錯乱状態になってしまったので意識を休ませました。本当に、あの子には辛い思いをさせてしまいました……」
だが魂をガルシアに預けねばならない訳がどうしてもあるのだ。
ルドラーに魂を見せることのほかに、もっと大事なことが。
「だな……。じゃあそろそろ俺行くわ。ブルーエルが起きたら“忘却の川”に来るよう伝えておいてくれ。あとは俺が。ここから先は天界の領分だからな」
「わかりました。よろしくお願いします」
翼を広げたガルシアは夜空に飛び去っていった。彼を見送り、ディウスもまた、瓦礫と化したその場を後にした。
ディウスとガルシアのイラストは、由毘七緒様に描いていただきました!