喪失
炎の熱気と大きさに比例するように、民衆の声も興奮も次第に大きくなっていく。
燃え盛るオレンジの炎の向こうにはもう人の形は残っていない。
声も何も残さず、フリージアはいなくなった。
「魔女フリージアは生まれ変わりのため、炎にその身の穢れを浄化されます。気高い彼女の魂は神のもとで新たに正しき道を歩むことになるでしょう」
ルドラーの言葉に民衆は喝采した。おそらくほとんどは意味など何もしらないのだろうが。
ルドラーは歓声に応じて手を振りながら壇上から降りると、ネリから何やら耳打ちを受けた。
それから周囲の僧兵たちに指示を出し足早に去っていった。
ネリはブルーエルを振り返り、一瞥してからルドラーについていった。
まるで嘲るような、勝利を見せつけるかのような顔に、ブルーエルは悔しさに拳を強く握りしめた。
(このまま帰ってなるものか……!)
ブルーエルは自分を押さえつける力を振りほどくように魔獣化すると力の限り咆哮した。
悲しみを全て吐き出すようなそれは空気をビリビリと震わせる。
魔獣化したことで強制転送の質量の限界を超えたために転送作業は中断され、彼を囲んでいた粒子はかき消えてしまった。
広場にあった結界もフリージアの処刑が済んだことで役目を終え、すでに消え去っている。
突然、まるでガラスが割れるような音がしたかと思ったら、天と地から炎の向こうにまだ残っているフリージアの魂を捕らえようと煉獄の鎖が現れた。
結界がなくなったのは煉獄の鎖をうけいれるためでもあったらしい。
彼女の最後の願いは自分の魂が煉獄へ行かないようにすること。
その望みを叶えるべく、処刑台に伸びたブルーエルは銀色の鎖を渾身の力を込めて粉砕し、壇上へ登った。
「フリージア……」
呼びかけてももう彼女の声は頭の中に響かない。ブルーエルは燃え盛る炎に手を差し込み、フリージアの白く輝く魂を取り出した。
(本当に美しい魂だ……)
ため息が出るほど美しい光を放つ魂を前に、まざまざと彼女の死を突きつけられて深い悲しみと怒りが襲ってくる。
ブルーエルは大地に足を踏みしめ、怒りと悲しみの叫びを上げた。
咆哮は地響きとなり、街の大地を揺らした。
彼の姿は人々には見えていないが、怒りの気配は感じるようで、ひりつく空気に皆怯えて周囲を見渡している。
「その魂は煉獄に行くものだ。渡してもらおう」
背後から鞭が空気を裂くような鋭い音が聞こえたかと思ったら、ブルーエルが抱えていた魂に何かが巻きつき、フリージアの魂は一瞬のうちに奪われてしまった。
「誰だ?! 」
ブルーエルが振り返ると、そこには黒の長衣を身にまとい、顔を金で装飾された黒い仮面をつけた、黒い二対の羽を持つ三体の煉獄の天使たちが居た。
ブルーエルの手から奪われた光り輝く魂は、中央に立つ、鞭を持ったそのうちの一人の手で透明な円筒に入れられた。
「返せ! 」
「行かせぬ! 」
フリージアの魂を取り返そうと跳躍したブルーエルに向かって槍を構えて突進してきた天使を、ブルーエルは太い前足の爪を立てて薙ぎ、煉獄の天使を突き飛ばす。
「っく! 」
魔獣化したブルーエルに比べたら小枝のように細い体格の天使は、あっけなくブルーエルに吹き飛ばされて円筒を持った天使にぶつかった。
その拍子に宙に飛んだ円筒を咥え、ブルーエルは難なくフリージアの魂を取り返した。
「取り返せ! 」
鞭を持った天使がリーダーなのだろう。彼からの命令を受け、彼の両脇に居る槍を持った二体の天使たちは負けじとその魂を取り返そうとブルーエルに刃先を向け突進してくる。
それらを巨躯で跳ね飛ばすとブルーエルはそのうちの一体を背中から踏みつけ、その黒い翼に噛み付いた。
「動くな。動けばこいつの翼を食いちぎる」
ほんの少し力を入れれば魔獣の顎で細い羽など容易に砕ける。ブルーエルの本気の気配に煉獄の天使たちは動けずにいる。
天使の数を減らすためにこのまま根本から折ってしまおうかとした時だった。
「待て!」
慌てた声と同時に、まばゆい光の粒子が形をなす。
「ガルシア様!」
足元で「助かった」と安堵の声を上げた煉獄の天使の翼に噛み付いたままブルーエルは唸り、新たに現れた顔見知りの天使を睨みつけた。
「ガルシア……」
ガルシアは怒りをまとっているとはいえ、見慣れた巨体の魔獣ブルーエルに臆さず近づいてくる。
「ブルーエル、そいつらを離せ。その三人は関係ないだろ」
「断る。こいつらはフリージアの魂を奪おうとした!彼女の魂は僕のものだ! 」
煉獄の天使の翼を噛んだままのブルーエルを刺激しないように、ガルシアは慎重に言葉を選ぶが、ブルーエルは黒い翼を離さずに語気を強めた。
「我らは煉獄へ行くべき魂の回収に来ただけだ!」
ブルーエルの牙によって翼に噛み付かれたままの天使は、悲鳴のような声で抗議を叫んだ。
「黙れ!絶対にフリージアを煉獄には行かせない」
黒い翼をくわえたまま、ブルーエルは囚われた天使を救おうと背後から密かに近寄ってきた別の天使を尻尾で跳ね飛ばした。
「フリージアは何も悪いことはしていないのに……!お前たちはそれを知っている筈だろう!? 」
「貴様、堕天使だろう。昔は許されたかもしれんが、今の天界のルールは変わったのだ。たとえ人の役に立っていようと貴様ら悪魔と契約を結んだ時点で煉獄のリストに入るのだよ」
だからフリージアの魂を素直によこせと天使の一人が言う。
人間にとって「悪魔」である自分と契約したことは事実だが、それは人の命を奪うとか、悪いことに使うためではない。
しかし自分の力ではなく“悪魔”の力を借りて知識を得たことは堕落、怠惰であるとされ、魂が囚われ罰されることになるという。
「ふざけるな!誰がそんな…… 」
「貴様が知る必要はなかろう」
天使の言葉に、ブルーエルは怒りのあまり噛みついていた天使の翼をついに嚙み砕いてしまった。
天使の言葉にならない叫びと血しぶきが散り、ブルーエルの体を赤く染めた。
そして翼を失った痛みに蒼白な顔をして呻く天使の頭を前脚で踏みつけ、ブルーエルはオレンジの瞳でガルシアを睨んだ。
「ガルシア!お前なら知っているだろう?!」
天使と悪魔の役割を。
何のためにいるのか、そして作られたのかを。
それをこいつらに言え、というブルーエルの意図を当然ながらガルシアは理解しつつも、色めき立つ部下たちを落ち着かせてガルシアは頭を掻いた。
「知っている。だが、それは今ここで明らかにすることではない」
そう言うと、「これ以上何も言うな」とエメラルドの目を細め、プレッシャーをブルーエルにかける。
「ガルシア……」
熾天使の眼光に怯んだブルーエルは忌々しそうにその名を呟いた。
「彼女の死には俺も少なからず関わっている……あの時救えなかったからな……。だから俺にはお前をどうこう言う権利はないと思う、が。契約に縛られてるとはいえ、守りたければ無理やり彼女を魔界に連れ去ればよかったじゃないか。馬鹿正直に契約を守って振り回されて。後悔することになったのは、お前の実力不足もあるんじゃないのか? 」
「……それは……」
ガルシアに自分の力不足を指摘され、言葉に詰まる。
確かに何度か彼女に魔界へ匿ってくれといわせようとしたができなかった。
彼女は賢いから誘導尋問などには引っかからないのだと心のどこかで諦めていた部分もあったかもしれない。
あの時自分が木こりを見つけなければ。助けなければこんなことにならなかった。
後悔ばかりがブルーエルの心を押しつぶす。
「あらゆる命の裁量は俺たち天使の領分だ。だからこの魂と天使たちの身柄は俺に預けてもらう」
ガルシアはブルーエルの足元に転がる、翼を失った天使を抱え、隙をついてブルーエルから円筒を取り上げた。
「ガルシア、返してくれ。それだけは……頼む! 」
ブルーエルがガルシアに懇願するが、彼は頑として魂を渡そうとはしなかった。
「お前には恩がある。僕はお前と争いたくない」
ブルーエルはゆっくりと、大きく深呼吸するように炎の息を吐いて、波立つ心を落ち着かせる。
ガルシアが持つフリージアの魂に傷をつけては大変だ。
「役に立たなかったのに恩を感じてもらえるとはありがたいね。だがこれを渡すわけにはいかない……悪いようにはしない。ブルーエル、この魂、俺に任せてくれないか?」
「嫌だ!僕は彼女の望みを叶える!」
ブルーエルは唸り、ガルシアに飛びかかろうと姿勢を低くする。ガルシアもまた、複雑な顔をして剣を抜いて身構えた。
「ブルーエル、魂はガルシアに預けなさい」
ブルーエルとガルシアが互いに戦闘態勢に入った時、柔らかな声が二人の間に割って入った。
あらわれたのはディウスだった。
「ディウス様、しかし……」
二人の間に立つディウスはブルーエルに向かい、にこやかな表情のまま、しかし厳しい声で言葉を続ける。
「聞こえませんでしたか?ブルーエル、私はお前に引けと言ったのです。それとも、魔王である私の命に背いて消されたいのですか」
「ディウス、さすがにそれは!」
ブルーエルを「お前」と呼び、声音に潜ませたディウスのが本気に気づいたガルシアが慌てた。
ディウスの言う“消去”は二度と復活も転生もしない、文字通りの消滅を意味する。
「……消してください。僕は、もう、……もう消えてしまいたい……!」
魔獣となったブルーエルは叫ぶように言って咆哮のような泣き声を上げる。
その悲しみの雄叫びに町の人々は目に見えない何かの気配を感じたのか辺りをキョロキョロ見回している。
「僕は彼女の望みを叶えさせてはもらえないのですか?!このままフリージアが煉獄に落ちるのをただ見ていろというのですか!!」
「落ち着きなさい。ガルシアは悪いようにはしない、といったのです。彼女の魂は彼を信じて任せましょう」
「………」
ブルーエルは、自分より格上の魔王ディウスの言葉に「はい」と答えなければならないのを本能ではわかっている。
しかしそれをすればフリージアの魂が天使たちの手に渡ってしまい、彼女の望みを叶えられなくなる。
「嫌……です。ディウス様、僕を消してください。フリージアの望みを叶えられないのなら……僕は……」
ブルーエルは絞り出すように言うと、最後の言葉を歯を食いしばって飲み込みうつむいた。
その悲壮な様子にディウスはため息をついて髪をかきあげる。
そして消沈し俯いた魔獣の顔を両手でつかみ上げさせると、曇ったそのオレンジの瞳を真っ直ぐに見つめた。
「いまあなたがすべき仕事は、あの男を地獄に引き込むことです。あなたが消えるのは勝手ですけど、地獄の総裁として最後にそれくらいできるでしょう」
ディウスに促されて見たブルーエルの視線の先には、未だに燃え続ける炎に興奮した様子の木こりがいた。
その手には処刑前に教会からもらった報酬の袋が抱えられている。
あいつが全ての元凶だ。
報奨金欲しさにフリージアを売ったあの木こりは絶対に許さない。
ブルーエルの心の中に怒りがふつふつとこみ上がってきて、悲しみと絶望を燃やし尽くす。
木こりは大怪我をして死ぬところを助けてもらったのに、彼は恩を仇で返したのだ。
「あの方はこちらが貰い受けます。ガルシア、異論はありませんね」
柔らかな中に拒否を許さない色を含んだディウスの言葉に「仕方ない」と頷くと、天使たちを引き連れてフリージアの魂を抱えたガルシアは姿を消した。
「待てガルシア!!!ディウス様どうして!」
「ブルーエル!」
不意打ちのように姿を消され、ブルーエルは騙されたような気持ちになってガルシアを追おうとしたが、ディウスがそんなブルーエルのたてがみを引き、静止した。
「まずはあなたの職責を果たすのです」
ディウスに促され、人型に戻ったブルーエルはゆっくりと木こりの後ろに近づいた。
(こいつだけは絶対に許さない)
両手をゆっくりと上げ、鍵となる言葉を紡ぐ。
「開け……暗き門……獣の咆哮聞こえしとき、其の魂の旅路は始まる。其が進むは暗き道、魂狩りの道……」
ボソボソと小さな声で言葉を続けると、木こりの目の前に突如として巨大な門が現れた。
目の前に現れたものに驚いたきこりは辺りを見回してみるが、他の人間には見えていないようでだ。彼は何度も門を見上げて不思議そうに首を傾げている。
木こり以外に見えないの当然だ。その門はブルーエルがわざわざ彼のために開いた、地獄へ繋がる特別な門なのだから。
「進め、其の進む道はいま開かれた。降るがいい。獣の待ちし場所へ……」
重苦しい音がして、門の先に重厚な扉が現れ、開く。そこからは生暖かく、錆びた鉄のような匂いが被さってくる。
扉の向こうは真っ暗でなにも見えない。それに怖気付いたのか、木こりは足を踏み出さず後退りしている。
「味わえ、絶望を。貴様に希望は二度と与えられない」
そしてブルーエルが、とん、と軽く木こりの背を押すと、彼は叫ぶ間もなく吸い込まれるように門の向こうへ消えていき、その場に金貨のはいった袋だけが取り残されていた。
「うぅ……う……っ……」
虚しい。こんなことをしてもブルーエルの気持ちは晴れないし、フリージアが戻ってくるわけでもない。
「う……ぅぅあああああああっ!!!!! 」
崩れ落ち咽び泣くブルーエルの背を、ディウスはたださすり続けた。