脱出
ブルーエルは不思議な気持ちで腕の中にいるフリージアを眺めていた。
フリージアが着ているのは囚人服だろうか。
いつもの可愛らしい、腰に赤い大きなリボンのついた深紅のローブではなく、ボロボロの粗末な黄ばんだローブを着て、いつもはきりりと結い上げていた髪も降ろされている。
いつも怪我をした人や具合の悪い人を救うのだと使命感に目を輝かせていたフリージアだったが、今目の前にいる彼女のその表情は、今まで見たこともないようなくらい弱々しくみえて、鎖を引きずりながら駆け寄ってくる彼女を思わず抱きしめてしまった。
実はその行動に最もうろたえているのはブルーエル自身なのだ。
今までは契約した人間の身に何が起ころうとも心をかき乱されることなどなかった。
一歩引いて、近づきすぎず冷めた目で契約者を見ていた。そうでなければ魂をもらう時に情が移ってしまっては厄介だからだ。
契約者が命を落としそうな時は、契約完了の代償である魂を得るために守ることはあったが、今のように契約者を抱きしめたいとかいう衝動にまで駆られたことなど、ブルーエル自身の記憶が正しければ一度もなかった。
「砂糖吐いていい?ねぇ袋ない?袋」
存在を忘れ去られているガルシアが咳払いをして、茶化すようなことを言うと、我に帰ったのか、フリージアは頬を染めてブルーエルから慌てて離れようとした。
だが彼女が離れるのを何故かブルーエルは嫌だと思って、すり抜けていくその腕をつかもうとした時だった。
「何……?!」
ビリっという静電気にも似た青い光が弾け、鋭い痺れと痛みを感じてブルーエルは思わず手を引いた。
抱きしめた時はなにもなかったのに、とまだ少し痺れている右手のひらを開いた閉じたりして感覚を戻していく。
「お前、何かされたのか?ブルーが触ろうとした場所に何かあるんじゃないのか?」
「焼印を……ここに……」
その光に表情を固くしたガルシアの問い、フリージアは袖をまくり腕を見せた。闇に白く浮き上がる腕には痛々しい火傷のあとが、くっきりと不思議な文様をうつしていた。
「……こんなものまで」
「これは何ですか?」
「天使文字で封印が施されているんだ」
先ほどまでふざけていたガルシアは苦々しげにフリージアの問いに答えた。
「おそらく、だが……ディウスがくれたんだろうそのダッサい作業着のおかげで、ブルーエルは魔力を隠すことが出来ていて、さっきはフリージアに触れることが出来ていた。だがブルーエルの手のひらまではガードされていないから、こいつが反応したんだろ」
そう言って、ガルシアは自分の肩にかけていた虹色のストールを切り裂き、包帯のようにしてフリージアの腕に巻きつけた。
「治癒術は俺の専門じゃないので何もできなくてすまないが、これを巻いておけ。その印の作用を遮断できる。それよりブルーエル、お前の調子はどうだ?痺れは取れたか?」
「痺れは取れたけど何だかくらくらする……こんなとこ、すぐ出よう」
ガルシアの問いに首を振り、ブルーエルは着ていた事務服をフリージアに羽織らせると、目を閉じて深呼吸を始めた。
大きく吸って、吐くことで、人間でいうヘソの下にある丹田という場所に溜まってくる魔力を、全身に行き渡らせていく。
人の世界で使用できる魔力の種類と制限は、契約時にフリージアと細かく取り決めたが、それはフリージアに危害を与えようとした時の話だ。
人を守護する役目を持つ熾天使ガルシアがそばにいる今、ブルーエルにも彼女を傷つける意識はないので今に限ってその契約は無効になり、思うがままに力を使うことができる。
「う……っぐ!」
魔力の解放をしようとすると、天界とカラーの違う異物を排除しようとする力のために全身を引き裂くような激痛が走る。
ふわりと漂う白檀とローズマリーの香りに、かつての故郷の気配を懐かしむ余裕などない。いまはその故郷の力が魔力を増していくブルーエルの存在を否定しているのだ。
気を抜けば全身を引き裂かれそうな、そんな命の危機すら感じる威圧感は、やがて青い閃光となり、それは網目のようにつながってブルーエルの体を覆い、自由を奪おうとしてきた。
「馬鹿!セフィロト結界の中で魔獣化する気か?!」
「ブルー!」
ガルシアはフリージアを青い閃光から守るように背後に隠し、剣を構えながら怒鳴った。フリージアも目の前の凄まじい光景に言葉を失っている。
「これしか、方法がないんだ……壁を壊すにはこれしか……!」
ブルーエルが外から塔に入る時に使った鏡の道は、人であるフリージアは使うことが出来ない。天使であるガルシアは自由にこの塔を出入りできるが、人間のフリージアはともかく、悪魔のブルーエルには不可能だ。脱出するには塔を破壊するしかないのだ。
ブルーエルの体にビキビキと血管が浮かぶ。集中しようとするのに、頭痛が起こってなかなか魔力をまとめられない。
(頭が割れそうだ……でもここまで来たんだ……!)
歯を食いしばり痛みを遠ざける。
散らばりそうになる魔力をまとめ、四肢の先端に送り出していく。
人の形をしている手の先の爪が伸び、腕も指先も脚も体の全てが一回り、ふた回りと大きさを増していく。
「大丈夫、だから、ガルシアは、フリージアをまもって」
ブルーエルは荒い息を整えながら、天界の力の抵抗を受けて尻込みし、指先から丹田へと戻ろうとする魔力を力ずくで押し出した。
「ぐうっ……」
鼻血がたらりと垂れてくるが構っていられない。魔界にいたときであれば一瞬で姿を変えられるのに、セフィロトの結界のせいでそれが出来ずに歯がゆかった。
だか塔を囲んでいる結界の術式がセフィロトのものだろうが、天界の結界だろうが、本物に比べたら随分小さなものだ。
きっと本物の前ではブルーエルは鼻血どころでは済まなくなっているだろう。
だからそのことを思えば、偽物に自分をどうにかできてたまるか、とブルーエルは四肢をバラバラにされるような痛みを振り払うように両手を広げた。
「おぉおおおお……っ! 」
魔力が指の先、つま先、毛の一本一本先まで流れていく。ブルーエルから発せられたまばゆい白い光は、青い閃光も全て飲み込み牢の中を満たした。
「うがぁあぁああああっ!!! 」
やがて絶叫と光が収まったそこには炎のたてがみをもつ巨大な獅子に姿を変えたブルーエルが居た。
ブルーエルはたてがみや体にまだまとわりつく青い閃光を振りほどこうと咆哮した。
「ブルー……エル?」
魔獣化は成功したものの、無理をしたせいかブルーエルの意識は朦朧としていた。荒い息を吐いて懸命に全身にまとわりつく痛みをこらえていて、フリージアの問いかけに頷く余裕もない。
ブルーエルは、自分の存在を否定してくる石牢の弱点でもある小窓に体当たりした。
天使が関わろうが、所詮人間が作ったものだ。
魔力を持った獣の渾身の体当たりを受けてガラガラと崩れていく。
結界の反動でブルーエルの体は皮が裂け、血が噴き出していたが塔の結界の外に出てしまえば問題ない。
「おま……こっちにも心の準備ってものがだなぁ!」
空中に放り出され、慌ててガルシアがフリージアを抱え、三対の深緑の翼を広げ塔の外へと飛び出した。
「あの森で態勢を立て直そう」
ガルシアはまっすぐに目の前の森へとフリージアを抱きかかえて飛び去り、飛行能力を持たないブルーエルは塔のそとに着地すると、脈打つ痛みをこらえながらガルシアの待つ森へ向かった。
派手に塔を壊してしまったから、脱出がルドラーに知られるのは時間の問題だろう。そう思うと、ブルーエルはたてがみが縮む思いだった。
ーーー
突然轟音が石塔に響き、地震のように揺れた。パラパラと天井から石のかけらが落ちて、石塔の中にある一室で書物に目を通していたルドラーは驚いて頭を庇いながら机の下に隠れた。
「な、何事でしょうか……」
揺れが収まり、ルドラーは机の下から這い出てローブについた埃を払った。そして揺れにも動じず壁に寄りかかったまま無表情でいる黒髪の天使に問いかけた。
「セフィロトの壁が破壊された」
黒髪の天使はゆっくりと瞼をあげてつぶやいたのと同時に、乱暴にドアがノックされた。その音に緊急性を悟ったルドラーが入室を許可すると、転げるように見回りの僧兵が入ってきた。
「失礼します!ルドラー様、魔女フリージアが脱走しました!」
「何ですって?!」
口の端から泡を飛ばしながら叫ぶ僧兵の信じがたい報告にルドラーは目を見開いた。そして僧兵の先導で魔女を幽閉していた牢へと向かった。
牢への通路は、先ほどの揺れのせいか、ところどころに岩壁のかけらが落ちている。ルドラーはそれらを慎重に避けながらも急ぎ足で向かうと、そこには信じられない光景が広がっていた。
「何と……!」
ルドラーがみたものは、大きく破壊された牢の壁だった。瓦礫の山の向こうには満天の星空が見えている。ルドラーは頬を撫でる冷たい夜風に言葉を失って立ち尽くすしかなかった。
「鏡が……」
牢の中に入って結界の穴を調べていたらしい黒髪の天使がコンパクトを見つけたらしく、古ぼけたそれをルドラーに見せた。
「鏡の道を通り、悪魔が来たようですね」
ルドラーは思わずそれを受け取ろうとしたが、黒髪の天使の言葉を聞いた途端にその手を引っ込めて、まるでおぞましいものを見るような目でコンパクトをみた。
その様子に無表情な黒髪の天使は笑ったのか「ふっ」と短く息を吐いた。
「悪魔ですって?!馬鹿な、悪魔はここに来ることはできないとあなた様が……」
ルドラーから向けられた非難の目を、まるで鋭利な刃物のような視線を投げて黙らせると、黒髪の天使は何かを考えるように親指の爪を噛んだ。
「内通者……あるいは協力者……」
魔女の持ち物は全て取り上げ、悪魔が通るという鏡類などは持たせなかったはずだ。牢にも鏡はおろか洗面台すら置いていない。
「天使様、私はどうすれば……!」
「あとは私に任せなさい」
無表情の天使は憤るルドラーにそう言うと、自らもまた二対の白い翼を広げで破壊された壁から満天の星が瞬く外へと飛び出していった。




