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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

天命少女 世界の終わりとはじめの一歩

 暗い玄関の扉を開けると、いつもひとりだという事を思い知らされる。

冬の空気は静かだ。ただいまという声への返事も、おかえりの言葉も、滅多に聞くことの無いこの家を余計に冷やしていく。


 少女、──美代みよはランドセルを下ろしながら、家の電気を点けていった。喜色の欠片も無い三白眼の瞳が暗い部屋を睨む。


(ご飯……何にしよう)


 どうせ一人分だから、簡単な物でいいや。そんなことを考えながら、服を着替える。

 父はトラックの運転手で、いつ帰ってくるか分からない。母は八歳のとき死んだ。交通事故であっけなく。


 母の死を、美代は信じることが出来なかった。葬式で花に囲まれた、青白い無表情の母の顔を見たときに、ようやく泣いた。あんまり酷く泣いたもので、父に外に出されてしまい、その後のことは分からない。

 外の煙突から上る煙を見て、美代は母のからだがこの世界から無くなった事を知った。


 父は数日間、諸々の手続きを済ませると、いつものように仕事へと行き始めた。悲しむ素振りなど見せず。それがさらに悲しかった。

 幼かった美代はただ悲しみに暮れるばかりで、無駄な時間だけを過ごした。


 今現在まわりを見渡してみると、昔とは正反対で、まるで冬の寒さのように、冷たく、耳が痛くなるほどの静寂に包まれ、そしてどうしようもなく空っぽになっていた。

 家には誰も居ない。運動会や、授業参観にも誰も来ない。

 今日のように友達と遅くまで遊んでいたって、迎えに来る人も、暗くなった帰り道で寄り添う影も、彼女には無い。

 日常は空しく続く。前を見ても何も無い。後ろを見たって何も見えない。

 彼女は今日も足元だけを見る。





 学校の帰り道を、いつもよりは軽い足取りで歩く。

 今日は、母が亡くなってから三回目の美代の誕生日。今日ばかりは父からもらったお小遣い(生活費でもある)を、いつもより多めに使う。

 ケーキにフライドチキン、欲しかったもの。そして母への花。

 今日は母の命日でもあるのだ。父は仕事で帰ってこないが。


「……ふん」


 どうせ未だに悲しいのは自分だけだ。誕生日にこんな気持ちなのも。

 花をしっかりと抱えなおし、美代は帰路を急いだ。


「――あれ?」


 ふと、前を見ると、道の真ん中に何かが落ちていた。

 小走りで近づいて確認してみると、分厚い本だった。まるで上から落とされたかのように、本はうつ伏せで倒れ、ページがたわんで所々折れている。

 美代はしばらく考えたが、結局好奇心には勝てず、本を拾ってみた。


 見た目は少々薄汚れているが、高そうな洋書だ。どんな本かと気になり、表紙のタイトルを読んでみると、『セファーラジエル』とローマ字で書かれていた。

 最初は英語かと思ったが、子音と母音の英字が並ぶ姿はおそらくローマ字だろう。これなら小学生の彼女でも読める。

 どんな本か気になるが、これが誰かの落とし物だとすると、持って帰るわけには行かない。


 ――いや、後で警察に届ければ……。


 周りを見渡すが、人影は見えない。


「ちょっとどんな本か見るだけだから……」


 罪悪感は残るが、美代は自分にそう言い訳して走って帰った。


 もちろん、本を持ったまま。




 部屋中に、良い香りが広がる。

 テーブルにはフライドチキン、ろうそくのついたケーキ。そして目の前には花を供えた仏壇。写真の中の母は微笑んでいて、まるで美代の誕生日を祝ってくれているようだ。


 ――誕生日おめでとう。


 そう呟いて、ろうそくの火を吹き消す。願い事は、しなかった。

 フライドチキンとケーキを胃に収め、残ったケーキは、仕事でいつ帰ってくるか分からない父のために、冷蔵庫にしまっておいた。それから持って来てしまった本にちらりと目をやった。美代の心に罪悪感が湧く。

 ページをぱらぱらとめくってみる。表紙と同じように子音と母音の英字がびっしりと並び、なぜか所々に平仮名や片仮名も混じっていた。


 少し分かりづらいが、何とか読めそうだ。ページをめくる手を止めて、一番始めのページへと戻る。美代は最初からじっくり読むことにした。


「さ、いしょ、に……」


 少しずつ解読を進めていく。最初のページにはこう書かれていた。


 ――最初に。

 この本を手にした者へ。君は幸運であり、不幸だ。

 君には、千五百通りもの奇跡や知識が手に入るだろう。

 だがそれと同じくらいの災厄が君に降りかかる。

 恐ろしければ早々に捨てたほうが良い。欲に駆られてはならない。これは最初で最後の忠告だ。

 覚悟ができたならば、最初の項目を見なさい。

 ここには君の手伝いをしてくれる者を呼び出す為の儀式が載っている。

 君によって呼び出される者が、人なのか、天使なのか、悪魔なのかは私にも分からない。

 しかし、その者は君を導き、知恵を与え、必ずや君の助けとなるだろう。

 だが忘れるな。君は幸運であり不幸だ。

 勇気を持ち、災いに立ち向かっていけ。

 然らば、おのずと道は開かれるはずだ。

 君が主より与えられし天命を、この本で見つめ直すか、より良くするために使うかは君次第だ。

 君の人生に幸あれ、と祈る―――。


「……うそつき」


 美代はため息をついた。

 こんな夢物語があってたまるか。これはきっと、誰かが適当に作ったおまじないの本みたいなものだろう。


(こんなことが本当なら、私はもっと幸せだったはずだ。ママだって、死んでなんか――)

「…………」


 美代はこの本を手放しで信じられるほど子供ではない。しかし、割り切れるほど大人でもなかった。

 その晩、彼女は再び本を開いた。



 用意する物は三つ。

 鏡を三枚。ろうそくを三本。自分を囲えるくらいの縄。

 そして後は、何事にも負けない精神と、健康な肉体があれば、きっとこの儀式は成功できる。本にはそう書いてあった。

 美代は、手順を書いたメモを熟読し、準備を進めていった。

 鏡は自分の正面、両隣。ろうそくはそれぞれ鏡の前に。そして縄で、自分を中心に円を作る。


「後は〇時を待てば、君の助けとなる者を呼び出せるだろう――か……」


 準備を進めるたびに高揚していく気持ちに、もう先ほどの疑いは微塵も残っていなかった。


(――もし、これが成功したら、私は……)


 激しく鳴り響く少女の心臓に急かされる様に、〇時の鐘がなる。




「……」

 〇時一分になった。あたりは変わらず静かなままだ。変わった様子は少しも感じられない。

 ――何も、起こらなかった……。


 そう思った後、美代は自分の心にひどく驚いた。

 いつの間にか本を信じきっていた。そのことが、自分が、恥ずかしい。


「うっ……」


 美代の目から涙が出てくる。


(なんだったんだ、なんだったんだろう。私は何を信じていたんだろう。何がしたかったんだろう)


 変わるわけが無いのだ。今更、何も。

 途端、美代は空しくなってろうそくを吹き消し、暗い部屋の中でしばらく泣いた。


 泣き疲れ、眠気が押し寄せ始めた。気づけばもう一時を過ぎている。

 仕方が無いのでそろそろ寝よう。本は学校帰りにでも届ければ良い。そう思い、立ち上がると、ふいに、肩をつかまれた。


「!」


 この部屋は自分以外誰も居なかったはずだ。入ってくる気配さえなかった。

 恐ろしくて声が出ず、指先を動かすことすら儘ならない。しかし、首だけは自由に動き、後ろを振り返ってしまった。


「……ヒッ……」


 背後にある姿を認識した途端、美代の腰が抜けた。

 恐怖なのか、驚きなのか。歯はかちかちと鳴り、体から血の気が失せ、汗が噴き出した。少女には些か刺激が強すぎたようだ。


 それほど、背後の者の姿は異常過ぎた。

 長い黒髪の男の顔の左右に、牛と羊の顔が生え、腹から下の下半身は、濃い体毛に覆われた蛸のようである。人と動物が雑じり合ったその姿を見れば、たとえ子供でなくても卒倒してしまうだろう。


 目の前の男に目を奪われ、動けない美代を尻目に、男が動いた。蛸のような足が美代の頬に伸びる。ふにゃりとした温かい肉の感触と表面の産毛がまるで生き物のように頬を撫でていく。その感触に美代の肌が粟立った。足が首の辺りまで下りると、男はにたりと笑い、口を開いた。


「お前、名前は?」

「え……あ、……み、よ……美代」


 舌が回らなかったが、美代は懸命に答えた。


「美代か……美代ちゃん、だな。ところで美代ちゃん。なんかして欲しいことがあるから、俺を呼んだんじゃないのか? ん? へたりこんでたって何もわかんねーぞ」

「う……」


 首元を撫でる足はそのままに、男は喋る。随分と軽い口調だが、悪魔(恐らく)は皆こんなものなのだろうか。

 姿形は異様だが、随分とフランクな男の物言いに、美代は少しだけ平常心を取り戻せた。


 ――して欲しいこと……。


 そう言われて、美代は考える。彼を呼び出したのは、正直好奇心の気持ちがほとんどなのだが、本に書いてあった通り、自分の助けとなってくれるのだろうか。

 願いなら一つだけある。出来る訳が無いと分かっているけれど。それでも願っていいのなら、一つだけ。


「わ、私、ママに、……会いたい」


 それは、ずっと強く望み、しかし気付かないようにしていた願い。


「はぁ? いやだね」

「!」


 だが、そんな少女の悲痛な願いは、無情にも撥ね返された。


「え、うそ……だって……」

「勘違いすんなよ。俺はお前の願いを叶えてやるなんて一言も言ってねーよ。それに、金とか名誉とか……もっと欲張った事のほうが、俺は好きだなァ? かーちゃんに会いたいなんつー安っぽい願いを聞いてやるほど、俺は暇じゃないんだよ」


 少女を見下し、せせら笑うその男の顔は醜く歪み、その姿に相応しい形相をしている。


「そんな……だってこの本には……」


 美代は傍らにあった本をそっと手に取った。

 確かにこの本には、自分の助けとなる者を呼び出すことができると書いてあった。なのに、何故……。


 美代にはもう、どうすればいいか分からなかった。困惑と悔しさ、悲しさがない交ぜになり、涙が溢れてきた。目から離れた雫が、ぱたぱたと本の表紙ではじけていく。


「泣くなよ、うざったい。俺に泣き落としなん、か……」


 言葉を途中で切った男が気になり、美代は顔を上げた。男は彼女を……いや、彼女の手元を見ている。


「おい、ちょっとその本見せてくれ!」


 半ば奪い取る形で、男は本を読む。中身をめくるたび、男の顔つきが変わっていった。


「なあ、この本のタイトルなんていうんだ?」

「……セファーラジエル、だと思う……」


 いきなり話しかけられ、美代は困惑しながらも答えた。男はなぜか、合点がいった様子だ。


「そうか、やっぱり……。お前さん、この本読めるのか?」

「え……うん」

 一応、彼女以外の日本人にも読めるはずだ。


「読めないの? 日本語は話せてるのに」

「俺がしゃべってる言葉を、お前が自分の言葉に変換してんのかもな。術者と意思疎通ができなかったら、意味無いだろうし」

「……」

「多分、この本のおかげだろ」

「う、ん」


 なんとなく納得できた。

 しかし、ほんの少し口調が砕けすぎてはいないだろうか。どんな力が作用しているかは分からないが。

 男は未だに本を眺めている。上から、下から、横から、と本を回しながら。だが、やはり字を読むことは出来ないようだ。


「噂どおり、暗号で書かれてるんだな。訳わかんねー……。どうやって解読したんだか……」


 物珍しそうにしばらく本に目を通していたが、いきなり本を閉じてこちらに向き直った。すかさず、美代が男の腕から本を奪い返す。


「おっと、そんなに警戒すんなよ。……なあ、美代ちゃん。この本俺にくれないか? そしたら願いをかなえてやるよ」

「えっ」

「いいじゃねぇか。悪い話じゃないぞ? 何でも叶うんだ」


 美代の喉がごくりと鳴った。

 ちなみに、男が欲しがっているこの本は、元々拾い物であって、彼女にどうこうできる権利は無い。

 しかし、願い事が叶うという誘惑で美代の頭からそのことが抜け落ちた。


(これで取引出来るんだ! これを、この本を渡せば……)


 本を持つ手を、男に伸ばす。


「よーし……いい子だ美代ちゃん」

「!」


 笑った男の顔が美代の目に映る。


「あらっ?くれんじゃないのかよ?」

「……」


 美代はなんとか思いとどまった。伸ばしかけた手を、本ごと引っ込める。拾い物を駆け引きの道具にする罪悪感もあるが、男に対して疑問を抱いたからだ。


 果たして、この男は本当に約束を守るのか。信じられる要素は一つも無い。約束なんか守らずに、本を渡した途端、持ち逃げする可能性のほうが高い。

 そんな彼女の思いが分かったのか、男は言う。


「……俺はご褒美さえもらえれば、なんだってするぜ。ま、俺を信じるかどうかは美代ちゃん次第だけどな。お前が決めろ」


“お前が決めろ”


 その言葉が、美代の心にずん、と責任重く響く。

 ほんの少し、冷静になった頭で考える。

 もし、騙されているとしたら? このまま進んで、もし、取り返しのつかないことになってしまったら――?

 いざ、自分で決めるとなると怖くなる。先の見えない未来に、足がすくむ。


 ……でもこのままでいたって何も変わらない。それは分かる。

 自分はずっと、冷たく、静かすぎる日常を変えたかったはずだ。 またあの毎日に戻ったって、何も意味は無い。

 美代は今度こそ、震える手でゆっくりと男に本を渡した。


 ――悪魔だ。


 にやりと顔を歪めた男に、ぼんやりと思った。あぁそうだ、きっとこいつは悪魔なのだ。

 まるで、魂まで売ったような気持ちになってしまったが、目の前の男は満足そうに、からからと笑っている。


(読めない本を抱えて、何が嬉しいのやら)

 美代は心の中で悪態をついた。


「良い判断だ。そうこなくっちゃな」

「はぁ……」

 意外に無邪気な笑みに、美代は脱力した。


「あ、俺はパピルス。名前まだ教えてなかったよな。よろしく美代ちゃん」

「……よろしく」


 ――とりあえず信じてみよう。こいつと出会ったことも、変わろうとしている自分自身も。

 いつの間に時間が経ったのか、外が白み始めている。

 もうすぐで夜が明ける。





 結局、夜が明けても、目が覚めてすべてが夢だった。なんてことはなかった。

 本当は、今すぐにでも願いを叶えてもらいたかったが、そう都合良くはいかない。

 小学生である自分は、それらしい生活をしなくてはならないのだ。とりあえず、帰ったらまた話し合うことにして、美代はほぼ不眠不休で学校に行き、そして今帰ってきた。

 あの男が家にいるかどうか不安で、何度早退しようと思ったか。それでもしっかり学業をこなした自分を褒めてほしい。


 しかし、そんな心配をよそに、彼はちゃんと我が家に居た。

 玄関をあがった奥の奥。憩いの場とも言える場所に似合わぬその存在、悪魔。

 いや、正確には悪魔というより、男と言った方が正しいだろう。

 その悪魔だったらしい男は、長い黒髪の中肉中背、中性的な顔立ちの普通の人間になっていた。

 ……何故か服装はジャージであるが。


(確かあのジャージは、パパが昔着ていた物だったような……)


 いや、服装はともかく少なくとも朝見たときは確かにあの夜、美代の恐怖心を煽った悪魔らしい姿だったはずだが、今は人間の男……優男と呼んでもいいような普通の人間になっていた。

 とにかく、悪魔───パピルスは家に居た。

 いないかもしれないという焦りと、またあの姿を見なくてはいけないという恐怖があったので、正直拍子抜けした。というより、目の前に広がる光景はそんな恐怖を簡単に吹き飛ばしてしまうだけの力がある、と美代は思う。


 パピルスは台所の食卓に着いていた。

 その手にはカップラーメンがあり、それをつついたり、回したり、振ってみたり。

 要するに、彼はカップラーメンと格闘していた。なんとも間抜けな光景である。

 あれは、腹が減った、と呟くパピルスに美代が渡しておいたものだ。

 やはり、「これ食べて」だけでは説明が足りなかったか。

 だが、徹夜状態で学校に行かなければならなかった少女に、一から十までの説明を求めるのも可哀想である。


「……何やってるの」

「おぉ、お帰り美代ちゃん。服借りたぞ。なぁ、これどうやって食うんだ?」


 そう言ってパピルスは、手元のカップラーメンを掲げて見せた。

 よく見るといくつか齧ったような後もある。そのまま食べようとしたようだ。思い止まってくれたようで、なによりだ。


「……はぁ」


 ほんの少し、ほんの少しだけ誰かがいる家に帰ってきたことに感動してしまった自分に、美代は呆れる。まさかこんな奴から久々のおかえりを聞こうとは。一人ぼっちの家と悪魔の待つ家。果たしてどちらが楽しいか。答えは出ないので考えるのはやめた。

 美代はとりあえずラーメンをもう一つ用意した。水を沸かし、火薬と粉末スープを入れ、湯を注いで約3分。

 その間、彼女の作業を神妙な顔で眺めていたパピルスは、疑わしい目付きで匂いを嗅いだり、蓋を開けて中を見たりしている。

「食えんのか? コレ」 という失礼な言葉付きだ。

 ……それよりもまず、蓋は閉めろ。

 美代は心の中でつぶやいた。


 三分がたった。美代は麺を軽くほぐしすする。

 パピルスにはフォークと共にラーメンを与えた。うろんな目をして恐る恐る一口すすったが、すぐに目を輝かせ、勢い良くカップの中をからにしている。

 美代もそれを眺めながら早めの夕食を終わらせた。


「それでどうするんだ?」


 美代がゴミを片付けているとパピルスが声をかけた。


「どうするって?」

「お前の願いだよ。かーちゃんに会いてぇんだろ?」


 ジャージの悪魔が美代を見る。間抜けな姿に似合わずその目は剣呑な光を帯びている。


「お前のかーちゃんはどこにいるんだ? 生き別れか、それとも死に別れとか?」

 そう聞かれて美代はぽつぽつと話した。


 母の死、父のことや自分のこと。パピルスは興味無さそうだったがそれでも構わず話した。

 いつになく話しすぎていることには気付いていたが止まらなかった。

 多分それは、彼が自分を哀れんでいないからだろう。と美代は思い至る。

 どんなに彼が自分に無関心でも同情的な目で見られるよりはいくらかマシだった。誰かにそんな目で見られるとひどく惨めになり、自分が何もかもをどうすることも出来ない、ただ与えられた運命を甘受するだけの弱いこどもなのだと思い知らされるからだ。

 それでも、本当は誰かに話を聞いてもらいたかったのだ。


 長い──時間にしたらせいぜい七、八分くらいだが、説明が終わり美代は一息つく。


「はーん、死んじまったのか。それで? どうしたいんだ」

「……生き返らせたい」

「生き返らせたいねぇ……そいつぁちょっと厳しいな」

「できないの?」


 美代がそう聞くとパピルスは答えた。どんな世界にもルールがあり、いくら自分でもそれを破ることは出来ない、と。


「……じゃあこの本は渡さないから」


 ランドセルを開け、件の本をパピルスに見せる。

 なぜ美代の手元にあるかというと、一度は手渡した本だが、願いを叶えるまではと奪い返しておいたのだ。正直、今はこれでしか彼を従わせる事が出来ない。


「分かってるって。そんな心配しなくても無理やり取りゃしねーよ」


 ランドセルごと本を抱きしめる彼女に苦笑を浮かべている。

 オレってそんなに信用ない?とつぶやいているが、得体の知れない化け物を信用しろ、と言うほうが無理な話である。

 美代の睨む目にパピルスはため息を吐いて肩をすくめてみせる。


「まぁそんな意地悪言うなよ、何も方法が無いってわけじゃない」

「あるの?」

「オレも初めて使う手段だからな。どうなるかは分からないが、試してみる価値はあるだろ」


 にたりと笑ってパピルスは言う。

 どんな方法かは分からないがあるならそれに賭けてみたい。

 美代の心に希望が生まれる。

 だが結局、彼女はまた件の本を開く事になった。




 彼の方法とはなんて事はない。ただ単に本――セファーラジエルから母親の死をどうにかできるような記事を探すというものだ。

 確かにパピルスが何も出来ないのであればそちらの方が確実であろう。この本は確かだという証拠も目の前にいるのだから。


 この日から美代は本を少しずつ訳していった。


 家のみならずそれは学校でも続いた。暇を見つけては人気のない教室や図書室などを利用し、まるでいけないことをしているかのように人目を避けて作業に没頭した。


 放課後、友人たちが美代を遊びに誘っても家事を理由に断る。

 休み時間の不在の理由も聞かれたが、終わったら教えると美代が言えば渋々といった様子で友人たちは帰っていく。

 彼女達は最近付き合いの悪い美代を訝しがっているようだ。このまま続ければきっと友達ではなくなるだろう。子供社会は移ろいやすいのだ。それでも美代は止めるわけにはいかなかった。


 そんなことをしばらく続け、ついにその記事にたどり着いた。優に百ページを越えた先、八日が過ぎたその日に。


 美代はパピルスに本と訳したメモを見せた。


「過去に戻る?」


 パピルスは呆気にとられ、きょとんと美代とメモを見た。


「そう。過去に戻ってママを助けるの」

「それしかないのか」

「まぁね。全体的にざっと読んだけど他に特にめぼしい項目は………」

「へぇ」

「ママが事故にあったのは三年前。どうにかその日に戻れれば……」

「ふぅん」

「……準備する」

「……」


 気のない返事をするパピルスを置いて、美代は部屋から出ていった。多少乱暴に閉じられたドアの音が響く。


「助ける、ねぇ」

 パピルスが背もたれに体重をかけると、椅子がぎしりときしんだ。


「無駄だと思うけどな」

 

 悪魔の呟きは部屋から出ず、彼女に届かなかった。


 時間は進む。

 誰がどうなろうといつまでも。




「本当はアンタが昔に連れてってくれれば早いんだけどね」


 カバンに荷物をつめながら美代はつぶやく。


「俺はそんな器用なことできねぇよ。魔法使いじゃあるまいし」


 カップラーメンを啜りながらパピルスが答える。すっかりインスタント食品が気に入ったのか自分で水を沸かし、色々と食べている。その為、少しずつ美代家の備蓄食料が減っている。

 ──まったくこいつは!


「協力者として呼び出した割に全然役に立たないわね。食って喋るか食って難癖付けるかしかしてないじゃない」

「辛辣だなー美代ちゃんは。友達逃げるぞ」

「うるさい、余計なお世話」


 荷物を詰め終わった美代は外に出る。するとパピルスもだらだらと歩いてついてきた。


「なぁ、どこ行くんだ?」

「人とあんたのいないとこ」

「ふーん。で、どこ行くんだ?」

 尚も聞いてくるパピルスに渋々ながら行き場所を教えてやる。

「……廃屋。近所におばけ屋敷って有名なとこがあるの」

「そりゃいいや。ははっ、おばけ屋敷か。大丈夫か? おばけ怖いぞー」

「いないわ、お化けなんて。私信じてない」

「お?」


 だって会ったことが無い。死んだ後もお化けとしての世界があるなら、会いに来てくれたって良いじゃないか。

 彼女がそんな思いを抱くのは何度目か。


 いつからだろう、お化けが怖くなくなったのは。

 美代も、もっと小さい頃はお化けや妖怪のたぐいが苦手であった。怖くなるたびに母にねだり、添い寝をしてもらっていた。

 守ってくれるものがいるときは恐怖を感じ、いなくなったら平気になるとはなんと皮肉なことだろうか。

 美代の心はその時から変わらず幼いままだ。楽しい思い出だけを守ろうとして追い縋っている。


 でも守るためなら、取り返すためならなんだってしてやる。美代の瞳は燃えている。


「………」

「またなんかぐだぐだ考えてんなーガキのくせに」

「あんたには関係ないでしょ」

「気を付けろよー憂鬱は治らない癖になるぞぅ」

「もう手遅れかもね」


 二人は廃屋へと向かった。





 【黒珠慈くろじゅじの術】


 ・本術は金曜日から土曜日へ変わる瞬間(0時0分0秒)に行う。その日が三日月ならなお良し

 ・本術は六畳程度の四角い部屋で行う

 ・半径五メートル以内に自分以外の哺乳類を入れないようにする

 ・床に自分の血液を用いて戻りたい年を書く

 ・トランプを一組用意する

 トランプは365日を表している。帰りたい月日の分のトランプを体内に取り込み、それ以外はすべて破き、床の文字の上に撒く

 ・床のトランプめがけて火を放ち、0時0分0秒になった時「世のたもう」を三回唱えて火の中に立つ



 ──ガシャン!


 小さくも鋭い破壊音が人の居ない庭に響いた。


「わぉ! やるじゃん美代ちゃん」

「静かにして」


 ひそひそと話しながら美代は窓によじ登った。

 廃屋に着いた彼女は鍵が掛かっている窓を石で小さく割り、そこから手を入れて鍵を開けたのだ。

 それから術に適当そうな部屋に入り、荷物を下ろした。


「アンタは出ていってよ。哺乳動物が近くにいると駄目なんだから」

「生憎だが、俺は哺乳類じゃないんで。しっかり見守っててやるよ」

「……」


 美代はそれ以上は何も言わず、メモを見ながら準備を進める。

 ハサミで指を傷つけ、痛みに耐えながら血で床に数字を書く。

 数枚以外のトランプを破って撒き、トランプを口に含む。えづきながらもどうにか噛んで飲み込み、時計を確認する。

 ……刻々と時間がせまってくる。


 一言も話さない美代をパピルスはつまらなそうに眺めている。

 残り数十秒となり、床のトランプにマッチで火を点ける。

 ちらちらと小さい火が、トランプとフローリングの床を薄く焦がした。

 美代とパピルスはそれを静かに見つめた。


 ───ピピピ、

 アラーム音が鳴り響き、時間を知らせる。美代は急いで言葉を唱えた。


「世のたもう、世のたもう、世のたもう!」


 美代が言葉を発したその瞬間、


「あっ!」


 頼りなかった火が舞い上がり、ごうっと音をたて、炎へ火柱へ姿を変え渦を巻きながら床に底の見えない穴を開けた。


それによって生じた風で、服のすそがめくれ上がり、美代の髪も、ばさばさと暴れ出した。

 熱い──今にも焼けてしまいそうな熱が部屋に広がる。しかし、不思議と髪も服も燃える気配はない。それでも美代の体は汗に被われた。


 ちらりと下を見る。

 床、トランプ、血文字が溶けるように螺旋状に伸びながら穴の中に吸い込まれていく。 それを見て美代は躊躇い、後退った。

 が、パピルスが背中を押して彼女を穴の中に押し込んだ。


「何びびってんだ早く!」

「うあ!」


 美代の体を炎が舐める。


(熱い! 痛い! 痛い!)


 どこも焼けていないはずなのに、何故か体が焼き付く激痛に襲われた。

 痛みに悶えている美代が最後に感じたのは、奥へ奥へと引きずり込むように、彼女の腕を下に引っ張るパピルスの手。


 ──やっぱりこいつは悪魔だ。


 そう思ったのを最後に、そのまま意識は闇へ飲まれていった。





 ──みよちゃん……美代ちゃん……、

 誰かの自分を呼ぶ声に、沈んでいた意識がゆっくりと浮上していく。まだ目覚めたくない美代は、体を捩ってそれをやり過ごした。しかし、


「起きろって!」

「いたっ」


 頭をぱちんと叩かれた衝撃で完全に目が覚めた。


「何すんの! あ……」

「起きたか。見ろよ美代ちゃん、成功だ」


 美代は目を見張った。目の前には見たこともない世界が広がっている。

 自分達がいる空間は真っ暗で、何処が地面か天井か分からない。美代の体はくるくると回って真っ直ぐを保つことが出来ずにいる。


「何、ここ」

「時空間を越えきる一歩手前の場所だ。人間の魂の歴史が詰まってるぞ」


 不安定な姿勢のまま上(多分)を見上げるとパピルスが(自分から見て)逆さまにこちらを見上げるように立っていた。


「歴史?」

「まわりをよく見な」


 空間にじっと目を凝らすと、真っ暗だと思っていた場所は、まるでノイズのような細胞のような……そんな小さな映像の集合体がひしめきあっている。隙間の無いそれのせいで暗く見えたのだ。酔いそうになった美代は目を凝らすのを止めた。


「この中から私の過去を探すの? 無理よ、できっこない」

「いや、ただ俺が無理矢理この場所に引き止めただけ。本来ならあの術で行きたい過去に直通で行ける」


 俺は此処にいるから一人で行ってこい。

 パピルスがそう言って美代の頭を押すと、ずぶりと彼女の体が空間に飲み込まれた。


 泥が体にまとわり付くような、重く、どろどろとした感覚が途切れ、美代は目を開けた。

 すると、目の前には見覚えのある景色が広がっていた。


「──あの公園って……」


 近くに見える公園は、美代が小さい頃に取り壊され、団地になってしまった。道路や信号も今とは違い古ぼけている。過去に戻ってきたのだと美代は悟った。


「あ、いま、今何時!? 早く、探さなきゃ……!」


 ぼけっとしてる暇はない。

 母がいつ、どこで事故にあったのかは口頭で簡単に教えられただけである。公園から見える時計は四時に近い。


(事故があったのは確か、四時半くらい……)


 美代は記憶を頼りにその場所へと急いで走った。


 今でもよく行くスーパー、コンビニを越え、自分の家から然程遠くない大通りの道を走り抜ける。息が切れて呼吸が苦しい。疲れで足がもつれる。周りの人は美代を不気味そうな目で見たが、彼女は止まらなかった。


(確かこの辺りの曲がり角!)


 きょろきょろと辺りを見回しながら母を探す。事故のあと現場には一度も行ったことが無い。なので事故が起こりそうな場所を大体で推測しなければならない。

 焦ってはいるが、冷静に行動している自分を少しだけ悲しく感じた。感傷に浸らない心が薄情に思えたからだ。


 それでも進まなければいけない。願いを叶えるために。



「あっ……!」


 思わず声が出た。

 前から紙袋を提げた女性が歩いてくる。

 明るい栗色の長い髪、見覚えのあるスカートやブラウス。穏やかな表情の、その顔。

 美代は涙が出そうになり口元を抑えて耐えた。


(――ママ……)


 紛れもなく、母がいる。

 自分はあなたの娘ですとすがって言えればどんなに良いか。

 あの提げている紙袋は自分へのプレゼントだ。遺品として返ってきたが、到底開ける気にならず今でもそのままになっている。


 なんとか涙を押し込めて母に近づく。

 そろそろ事故が起こる時間のはずだ。なんとしても阻止しなければならない。


「あの!すいません!」


 何をしたら良いか分からなかったが、とにかく声を掛けた。


「はい?」


 美代の顔をみた母は驚いて彼女の顔をまじまじと見ている。

 しまったと美代は思った。いくら数年たったとはいえ幼い頃の面影は消えてはいない。


「あ、あの……私……」

「あ、ごめんなさいね。どうしたの?」


 我に返ったらしい母が話す。訝しんではいるが一応大丈夫なようだ。


「あ、と、図書館……図書館どこですか?」


 吃りながらもなんとか適当に質問をする。とにかく足止め出来ればそれで良い。


「あぁ、図書館ね! ここからなら少し歩くけど、すぐ分かるわよ。案内しましょうか?」

「お願いします」


 自分が近くにいるならそのほうが安全だろう。美代は後を付いていく。


 母の背中は昔よりも少し小さく見える。無駄に過ごした年月に切なくなるが、見ていたかった。

 もっと遠い道を聞けば良かったとぼんやり考える。


「ほら、この道を抜けたところよ」


 声を掛けられ、あわてて顔を上げた。


「あ、はい!」


 路地から母が一歩踏み出す。美代もそれに続いた。


 元の時代では、この辺りで事故は起こっていなかった。

 道路の先に見える時計も、もうすぐで五時になりそうだ。


 ――上手く、いったのだ。


 美代はほっと息をついた。


(図書館に着いたらあいつを呼んで元の世界に戻してもらおう! やったんだ! 上手くいったんだ! これでママは!)


 歓喜が体を包む。美代が路地から出ると――、


 目の前から母が消えた。


 トラックの下に消えた。


「え?」


 車体の下からとろとろと血が流れ出ている。

 運転手が降りてきて何事か喚いているが、聞こえない。


 何が起こったか分からない、いや、認めたくない。


 呼吸が早くなる。息が上手く出来ず、うずくまる。

 その時、頭上から腕が伸びてきて美代の体を攫った。


 目を開けると、またあの暗い空間だった。


「どうだった? 美代ちゃん」

「はっ……は、あっ」


 パピルスが顔を覗き込んでくるが、上手く返事が出来ない。


「駄目……だっ、た。ダメ……だ、だめ」

「落ち着けよ。しょうがない、しょうがない。はい次、次」


 自分と彼の温度差に苛立ってくる。どうして、どうして。悲しさと恐ろしさが同時に襲い掛かってきてひどく暴れたい気持ちになる。


「何が次よ! もうチャンスは無いのに! うまく……上手くいったと思ったのに! なんで、何で……」


 母の死に姿を見てしまった美代はがたがたと震え、その頼りない両腕で自身の体を掻き抱いた。

 そんな美代を逆さまになりながら眺めていたパピルスは、にやりと笑って言った。


「馬鹿、何の為に俺がいると思ってんだ。ここからなら何度だってやり直し放題だ」

「えっ?」

「また行ってやり直せば良いんだ。何度だってチャレンジしてみろよ」


 パピルスが空間に手を振り下ろした。すると引き裂かれたように先程の景色が見える。


「さあ頑張れ、美代ちゃん」


 悪魔は愉しそうににたりと笑う。

 人の死をまったく気にしていない笑顔に恐ろしくなったが、美代は再び母に会いに行った。



 その後も美代は何度も母の元へ行った。道を変え、言葉を変え、状況を変え、何度も、何度もやり直した。それでも成功することはなかった。


 自分は未来から来たあなたの娘だと言ってみたり、なりふり構わず腰に抱きつき、行っては駄目だと泣きじゃくったりもした。だが、すべて無駄だった。


 心臓発作が起こった。通り魔に刺された。バイクが突っ込んできた。それから、それから……。


 次々と増える母の死因に、その内隕石でも振ってくるんじゃないかと美代は自嘲気味に笑った。


 もう何回目かも分からない程戻ってきた暗い空間で美代はたゆたう。母の命の終え方を何度も見てきた瞳は暗く濁っている。

 どこも見ていない視線をそのままに美代はぽつりと呟いた。


「何回やったって何回も別の死に方見るだけじゃない」


 つまらなそうに美代を見ていたパピルスは言葉を返した。


「そりゃそうだろうな」


 あっさりした返事に美代の頬が引きつる。


「何それ……分かってたの? 始めから?」

「死っていうのは一番強い運命なんだよ。変えらんねぇ」

「何で教えてくれなかったの!」

「聞かれた覚えはないな。それに、教えてもやめなかっただろ?」

「……私、何の為に」

「最初はかーちゃんに会いたいっつー願いだったろ? 叶えられたじゃねぇか。なのに欲張っているのはお前だ」


 美代は唇を噛んだ。


 そうだ。

 そうだった。


 最初、パピルスに漏らした願いはただ、『会いたい』だけだった。

 いつの間にかすり変わっていた。屁理屈とも取れる言葉に怒りは湧くが、彼を責める気力も無い。


 自分が馬鹿だった。これはきっと拾い物の本で幸せになろうとした罰だ。

 美代の瞳が閉じられる。もう全ての希望は絶たれた。

 望みが絶たれた。だから絶望だ。言葉の意味を心で知ってしまった、と美代はくすくす笑った。


 ただ浮かんでいるばかりの美代を馬鹿にしたような目で見続けていたパピルスだったが、美代の目に光る雫を見つけ、おや、と思った。


(こんな状況になってもこいつは泣き喚かないんだなぁ)


 助けてくれと、どうにかしてくれと。あるいは自分に対する八つ当りの言葉を吐きながら。

 人間がみっともなく喚く姿が好きなパピルスだったが、美代は今まで自分が相手にした子供や大人とは違い、静かに悲しんでいる。


 その姿に何となく居心地が悪くなったパピルスはあることを思いついた。


「よし、美代ちゃん。カップラーメンの礼ぐらいはしてやるよ」

「……は?」


 自分の心にわいた感情が罪悪感だと、パピルスは知らない。





「よし、行ってこい」

「……ここ、どこ?」


 美代の体をひっぱり、パピルスは先程とは違う空間へと来ていた。

 空や周りは霧に満ち、地面は水に浸かっており、底が見えない。あちこちに壊れた鳥居が並び、霧の先にぼんやりと姿を浮かべている。

 そして自分たちは橋の上に立っていた。


「ここはなぁ、『戻り橋』ってんで、死者に会いに行ける橋なんだ」


 よかったなー、俺のおかげで来れたなー、美代ちゃんはラッキーだなー、などとふざけているが、美代は聞いていない。


「ママと、会える?」

「あぁ、会えるさ」


 美代の目に光が戻った。

 橋の先を見る。ほのぐらい水の底につながっているが、なぜか美代はその先に行ける気がした。駆け寄り、足先からざぶざぶと沈み進む。恐いが、それでも体を沈め、歩く。

 顔をつけると、息をしている感覚が無くなった。しかし苦しくはない。恐らく死ぬことはないだろう。

 美代はとにかく前に進み続けた。

 完全に美代の姿が見えなくなり、パピルスは呟いた。


「まぁ、よっぽど運が良ければ……だけどな」




 水の中を進んでいくと、いきなり体が軽くなった。後ろを見ると橋は無くなっていた。

 真っ暗な空間に白く淡い光を発した球体が無数に飛び交っている。海蛍のような光が渦巻く空間。美代はそこに立っていた。


 周りを見渡し、探す。母はどこかと歩き回る。光の球が美代の体をいくつもすり抜けていく。


 ───いない、ママはどこにもいない。


 走り、歩き、時には止まってまた走る。

 美代の目に涙が浮かぶ。


 頭によぎるのは、嫌という程目に焼き付いている母の死に姿。それを振り払うように声を出す。


「神さま助けてよ……!ママを助けて!」


 答える声はない。

 何度も何度も何度も祈ったのに、いつも神様は助けてくれない。

 美代は嗚咽を洩らしながら迷子のように駆け回った。



 何時間、あるいは何日分そうしていたのか。ここはどこだろう。もしかしたら最初とはまったく別の所にいるのか、あるいは同じ所をぐるぐる回っているだけなのか。時間も目印も無い此処では計れない。美代はすっかり疲れていた。ただ虚しさだけが込み上げてくる。


 この空間では声は枯れず、擦った目元も腫れず痛むことはない。それが更に空虚さを増長させた。もう泣く元気も無い。

 何をしても、どう足掻いても覆せないことがこの世にはある。美代はようやく分かった。自分のしてきたことはすべて無駄だったのだ。最初から。


 立ち止まり、その場に座り込む。光の球は尚も彼女の体をすり抜け、彼方へと飛んでいく。


 ――まるで蛍の様で綺麗。


 そういえば昔のいつか、家族三人で見に行った時がある。そのことを思い出して懐かしくなってきた。


 この光はなんだろう。飛んでいった先で何をしているんだろう。


 美代は光が飛びかう先をただただ眺めていた。


 ふと、死者と会える場所と言ったパピルスの台詞を思い出す。


(そっか、そう言うことか)


 これはきっと魂、――誰かだったものだ。


 置いてった母も、置いてかれた私も、置いてかれる誰かも、皆。いつかはここに来るんだ。


 どんな死に方をしてもまた生まれ変わるんだ。そして、続いてゆくのだろう。


 母から置いてきぼりをくらった自分も、いつかは誰かを置いて、知らんぷりして生まれ変わってしまうのだ。


 辺りを見渡す。光の球は相変わらず暗闇に飛び交っている。


 ──みんな誰かを置いてったのかな。じゃあ残された人はこれより多いんだな。


 そう考えたら美代は、ほんの少しだけ気持ちが軽くなった気がした。

 悲しいのは自分だけじゃない。この光の数より多くの人や、パパだって、おじいちゃんおばあちゃんだって悲しかったんだ。


(───ママだって)


 美代は最後にもう一度だけ大声で泣き、その場で目を閉じた。

 そのうち眠りに落ちた彼女を、誰かの腕が包んだ。






(眩しい……)

 日の光を感じ、美代は目覚めた。夜が明けている。もう朝だ。

 ここはどこかと見渡す事もなくわかった。自分の家のリビングだ。ソファで寝てたせいか体が少しきしむ。


 美代がふと体を起こすと、毛布がかけられていた。そして目の前には床に転がって寝ているパピルスの姿が。

 どうやらこの毛布は彼がかけてくれたものらしい。


 美代はため息を一つつき、パピルスに自分の毛布をかけてやろうとした。しかしパピルスの手が美代の腕をがしりと掴んだ。


 しばし、目が合う。パピルスの黒曜石のような瞳を見つめたが、何も見えない。

 感情の読めないその瞳に美代もまた、感情のともっていない目で見つめ続けた。


 パピルスがにやりと笑い、聞く。


「ママには会えたか?」


 美代は答えた。


「……うん。おかげさまで」




「さぁ、美代ちゃん。約束の物を」


 手のひらをこちらに向けながらパピルスが言う。良い結果にはならなかったが、彼に世話になったのは事実なので、美代は大人しく本を渡した。


(ごめんなさい、元の持ち主の人。でもこんな本あったって良いことなんて起こらないから)


 心の中で謝罪と言い訳をして、彼女は自分の罪悪感をごまかした。


「読めない本なんかどうするの?」

「お前よりもっと欲のある人間を探して、これを使わせるんだよ。そいつらを破滅させれば俺は悪徳を積める。きっと大出世さ!」


 魔王だ邪神だと騒ぐパピルスに、うまくいかないだろうなと美代は笑った。

 今だから分かる。この本は都合の良い願いを叶える本じゃない。奇跡が起こってほしいと甘えた者に試練を与えてくれる本だ。

 そのルールはきっと調子にのっているパピルスにも適用されるだろう。これからの彼の苦労を思って、美代は更に笑う。

 すると、パピルスが驚いたような目でこちらを見た。


「何?」

「お前が笑ったの、初めて見た」

「あ……」


 そういえば、こんなに自然に笑ったのは久しぶりかもしれない。美代は自分の頬に手を当ててはにかんだ。

 パピルスも笑うと、背を向け、窓から庭に出た。


「じゃあな、美代ちゃん。カップラーメンうまかったよ」

「じゃあね、パピルス」


 ぶわりと吹いた風に、パピルスの姿は掻き消され、部屋には美代だけが残った。


「…………ありがとう」


 まだ心は辛いけど、きっと大丈夫。何があっても乗り越えていける。

 さようなら、手を貸してくれた悪魔。


 窓から体を離した美代は、和室に向かった。

 押し入れをあさり、紙袋を引っ張りだす。


 これは、母の最後のプレゼント。

 三年間、ずっと見ないでいた。見たら、母の死を現実だと認めてしまうような気がして。


 でも、ようやく向き合える覚悟が出来た。

 袋から箱を取り出し、恐る恐る開けてみる。


(食べ物とか、ケーキだったらどうしよう……)

 などとつい、間抜けなことを考えてしまう。


 蓋を取ると、中には靴と手紙が入っていた。

 ぴかぴかのエナメル質の赤い靴。美代が今より小さい頃、母のハイヒールに憧れて、欲しがっていたものだ。

 そっと手紙を開き読んでみる。


 ――みよへ。

 パパがあまり家に帰ってこないから、みよがさみしがってるの、ママは知っています。ごめんね。

 さみしくないように、ママがもっとがんばるから。

 これをはいて、いっしょに色んなところにいっぱいあそびにいこうね。

 たんじょう日おめでとう。

 ママより。


 短い文だが、母の想いは十分汲み取れる。

 読んでる途中から涙が溢れ、喉がつまって、痛い。


 ――なんで謝るの、ママ。

 ママは私に寂しい思いをさせまいと、頑張ってくれたよ。幼さに任せてわがままを言う私の事をちゃんと考えてくれた。


 いっぱい心配させてごめんなさい。いっぱい苦しい思いをさせてごめんなさい。

 もう私は大丈夫だから。安心して生まれ変わってください。


 またいつか、あなたの子供にしてください。

 ありがとう、私は幸せです。



 手紙は丁寧にしまっておいた。

 小さくてもう履けない靴は仏壇へ。今までの時間は決して無駄じゃなかったと忘れないために。


 美代は涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔を洗面台で洗った。

 顔を拭き、時計とカレンダーを見る。すると美代はあっと声を上げた。


「うそっ今日、月曜日なの!?」


 急いで支度をして、ランドセルを背負う。途中、和室に行って遺影に手を合わせる。


「行ってきます」


 顔を上げ、部屋を出た。

 元気な足音はそのまま彼女の心を表している。


 美代の心にはここ数日の出来事が流れていた。彼女の人生、きっと最初で最後の大冒険。 得たのは、独りよがりの世界の終わりと、始めの一歩。

 外へ出る時もう一度だけ後ろを振り返り、美代はドアを閉めた。



 もう彼女に奇跡はいらない。






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