朱雪の荒野
さながら粉砂糖のような細かい雪が、男の身体にまとわりつく。厚い雪で覆われた足元は、歩くたびに深く埋もれて歩きにくい。あたりの木々が多少なりとも風よけになっているが、それでも冷たい風と雪が男に容赦なく襲い掛かる。
くまなく獲物を探すために、視界のよい場所を探す。雪山では毎年多くの遭難者が出るため、移動の拠点となる広い場所を見つけることも重要だ。仲間たちも、ベースキャンプができる場所を、あちこち探している。
しかし、なかなかそういった場所は見つからない。行けども行けども木々が立ち並ぶ斜面で、開けた場所どころか平らな場所も見つからない。
「少しくらい、平らなところは無いものか……」
やがてこのあたりも暗くなる。そうなる前に、拠点を作らなければ。男はさらに奥へと歩きつづけた。
ふと、目の前の視界が開けた。山の中とは思えないほどに広い雪原が、目の前に広がる。
「驚いたな、山奥にこんな場所があったなんて」
いつも通り、連絡を取ろうと無線機を手にした。しかし、天候のせいか山奥のためか、まったくつながらない。
一度連絡を諦め、あたりを歩いてみることにした。遠くに見える森林地帯まで、ずっと真っ白なジュータンが続く。雪原は森林地帯にコの字型に囲まれるようにあり、開けたところから他の山々が見える。この寒さのせいで動物がいないのか、足跡一つ見当たらない。
「獲物はいなさそうだな。いるとすれば、この先か」
かすかな期待を抱いたまま、足を進める。少し歩いたところで、ベースキャンプの目印となる旗を立て、反対側の森林地帯に向かう。
すると、遠くから生き物と思われる黒い影が、こちらに向かってくるのが見えた。男はすぐに肩に掛けたライフルを構える。
「鹿……いや、あのシルエットはオオカミか? 絶滅したと聞いていたが……」
そう考えている間にも、影は徐々に近づいてくる。男はライフルを構えたまま、じっとその影の行方を見守った。
その影がはっきり見えたのは、男から百メートルほど離れたところあたりからだろうか。粉雪に紛れ、白く大きな体が姿を現す。体長一メートル半ほどの犬のような姿は、間違いなくオオカミだった。
オオカミは男を警戒することなく、どんどんこちらに近づいてくる。男はライフルを構えてはいるが、撃つ様子が無い。しばらくすると、男とオオカミとの距離は十メートルほどになった。
「どうした、撃たないのか?」
急にしゃべりだしたオオカミに、男は驚いてライフルの構えを解く。
「驚いたな。絶滅したはずのオオカミがいるというだけでも大ニュースだが、まさか人語をしゃべるとは」
「これだけの動物がいるのだ。別に人間の言葉がわかる生き物もいよう」
「たしかに人間の言葉を話す動物はいないことはないが、オオカミは初めてだな」
男はライフルを肩に掛けると、オオカミの方へ近寄った。幾分か風が弱まり、雪がふわりと落ちていく。
「そうか。なら一流の猟師とて、手が止まるのは仕方ないな」
そう言うと、オオカミは山の見える開けた方へと歩いていった。男も、オオカミの後をついていく。
「……? 何故付いてくる?」
「いやなら止めればいいことだろう。おまえが行く先に家族や仲間がいて、俺が撃ち殺すかもしれないだろう?」
「目の前にいる獲物すら撃てない奴に、仲間が撃たれるとは思えんがね。あんたこそ、私の仲間に囲まれて、食い殺されるかもしれないぞ?」
「武器を持たない相手に襲い掛かれないオオカミの仲間なんぞに、俺は食い殺されたりしないわ」
「ほぅ、大した自信だな」
ふん、と鼻を鳴らし、オオカミは足を進めていく。
不意に、男は立ち止まってライフルを取りだした。銃口を空に向けると、ライフルを一発撃ち放す。ダン、という重い銃声が、あたりに響き渡る。それを聞いて、オオカミも思わず立ち止まって振り返った。
「おいおい、銃口を向ける場所が違うのではないか? それとも、空の鳥でも狙ったか?」
「遠くに生き物の影が見えたのでね。銃声で警戒させたのさ。今はもう見えない」
そう言うと、男はライフルを
「わざわざ獲物を逃がすような真似をするとは、それでも一流の猟師なのか?」
「さあな。ついでに、今無線機が使えないから、さっきのを仲間への合図としたのだ。狩猟用の弾と違う銃声だから、この音を聞いて仲間がこちらにやってくるようにな」
「なるほど、仲間を集めて私を狩ろうということか」
「仲間にはあんたを狩ることはできんよ」
そう言うと、男は再び歩きだした。オオカミも、それに合わせるように歩きだす。
「ところで、さっきはどうして撃たなかったのだ?」
歩きながら、オオカミは男に尋ねた。
「なにせ、オオカミは絶滅したと言われているもんでね。そんなものを簡単に撃ち殺しでもしたら、何を言われるかわかったもんじゃない。もっとも、危害を加えられれば別だがね」
「なるほど、人間というのはめんどくさい生き物だな。他の種にも配慮せねばならんとは」
「おまえこそ、何故俺に襲い掛からなかったのだ?」
「人間の肉は不味くて喰えんからな。よほど腹が減ってない限りは喰おうと思わんよ」
「なるほどな。オオカミは狩りの成功率が低いと聞いていたが、そこまでグルメだったとはな」
男とオオカミは、広い雪原を歩きつづける。しばらくすると、急斜面になっている場所までやってきた。下には今まで見てきたような木々が茂っている。オオカミはそのへりまでやってくると立ち止まり、座り込んだ。
「お前にいいものを見せてやる」
「今でも十分いいものを見せてもらっているのだが、もっといいものなのか?」
「ああ、いいものだ」
男はオオカミの隣に座り込み、ライフルを地面に置く。雪が降り続いているために真上の空は暗かったのだが、斜面のへりから見るその先の空は、雲がなく真っ赤になっていた。
「ほう、こんなところで夕焼けが見られるとはな」
「間もなく日没だ。この時間帯になると、このあたりでは雪が降っているところに夕日が差し込んでくる。すると、それが雪に当たって朱色に染まるのだ。雪の降る所に夕日が差し込むタイミングはなかなかシビアでね。他の所ではなかなか見られないのだ」
しばらくすると、黒い雲から夕日が姿を現し、ゆっくりと山へ向かって沈んでいく。その光が降っている雪にあたり、白い雪が朱くなっていく。
「……きれいだな。積もっている雪が朱いのは何度も見たが、降っている雪が朱くなるのは初めてだ」
「そうか、それはよかった」
男とオオカミは夕日を見ながら、時々朱く染まった雪を手に取る。
「俺ももう長くないからな。最後にこんな景色が見られてよかった」
「……病気か?」
「ああ。病院でガンだと言われた。入院するようにと言われたが、どうせ入院すれば寝たきりになって死ぬだけだ。だから無理言って、猟師を続けている」
「私ももう長くはないな。二十年はさすがに生きすぎた」
「そうだな。野生でそれだけ生きているものは、まずいない」
野生のオオカミの寿命は、およそ五年から十年と言われている。飼育されているものでも、二十年はかなり長寿だ。
「それだけ生きれば、やり残したこともないだろう」
「それはそうなのだが、そもそもやり残したことがあるのかどうかすらわからない。自分の幸せとは一体何だったのか、見当もつかないのだ」
「幸せ、ねぇ」
「おまえの幸せは、何なのだ?」
「俺の? そうだな」
オオカミに尋ねられ、男はふむ、と腕を組んで考える。
「そうだな、今だったら、人語を操るオオカミの最後の晩餐になること、だな」
それを聞いて、オオカミは「わっはっは」と笑い出した。
「なるほど、なら私の幸せは、そんな人間の毛皮になることだな」
「まったく、妙なことが幸せだと感じるようになったものだ」
「お互いにな」
朱色の雪が降る静かな雪原の中、一人と一匹の笑い声だけが響き渡った。
しばらくすると夕日が沈み、一気に気温が低くなった気がした。
「……寒いな」
「ああ、それに、腹も減った」
「目の前にごちそうがあるようだが、食べないのか?」
「今の私には贅沢すぎる。おまえこそ、目の前に暖かそうな毛皮があるぞ? 着ないのか?」
「今の俺にはおしゃれすぎる」
「そうか、なら仕方ない」
夕日が完全に沈んだ頃、遠くからダン、と銃声が響いた。先ほど男が撃ったライフルの音と同じだ。
「仲間か?」
「ああ。どうやら俺が立てた目印に気が付いたらしい」
そう言うと、男は立ち上がってライフルを肩に掛けた。雪は降っていたが、足跡は残っていたのでそれを辿って元来た道を戻る。
「行くのか?」
オオカミが尋ねると、男は立ち止まった。
「ああ、さすがに仲間が集まっているのに、いつまでも他の場所にいるのはまずい。それに、他の仲間があんたを狙うだろう」
「言っただろう、私はそんな奴らの弾に当たるつもりはない」
「そうは言っても、下手な鉄砲もなんとやら、と言うだろう。流れ弾が当たるかもしれない」
「それは一理あるかもな」
「次に会う時も、朱色の雪が見られるといいな」
「今度は真紅の雪が見られるかもしれないがな」
「それはそれで面白そうだ」
男はそう言うと、ライフルを一発、空に放った。その音を聞いた直後、オオカミはその場から立ち去っていった。
翌日、男がベースキャンプで目覚めると、ゆっくりとテントの外に出た。昨日まで降っていた雪は止んでいる。しかし、空は相変わらず暗く、いつ降り出すかわからない。
嵐の前の静けさか、風も吹いていない。あまりに穏やかな空気に違和感を覚えながら、男は深呼吸をした。
その時、ダン、という猟銃の音が聞こえた。これは、獲物を狩るためのライフルの音だ。
「獲物が見つかったのか? それとも……」
男はライフルを担ぎ、銃声の方へ向かおうとした。すると、遠くから見覚えのある影がこちらにやってくるのが見えた。
「あれは……」
良く見ると、昨日出会ったオオカミだった。しかし、毛並みが血で汚れている。どこか撃たれたのだろう。
オオカミは男を見つけると、グルグルとうめき声を上げた。遠くからはまた一発、銃声が鳴り響く。
その音が切っ掛けとなったのか、突然オオカミは男に襲い掛かった。男を押し倒すと、左腕から噛みちぎろうとする。しかし、男は何も抵抗しようとしない。
オオカミは服を引きちぎり、そこからむき出しになった肌に噛みつき、肉を食いちぎろうとする。あたりの雪が、あふれ出る血で染まっていく。何度も執拗に噛みつき、やがて男の腕から肉片を引きはがした。
オオカミはその肉片を男の前に見せつけるように口に加えると、むしゃむしゃと食べ始める。男は苦痛に顔をゆがめながらも、その様子をじっと見つめて言った。
「……うまいか? 人間の肉は?」
その言葉に、オオカミの口が止まる。しかし、すぐに左手にかぶりつき、次の肉片を求めた。
男がその様子を見ていると、オオカミの目がうるんでいるように見えた。
「……そうか、そうなんだな」
男はつぶやきながら、右手の近くに落ちているライフルを手に取る。そして、銃口をオオカミの心臓に向けた。
銃声が一つ鳴り響くと、男の仲間はベースキャンプに戻った。
そこには、左腕を引きちぎられた男と、その上に毛皮のように覆いかぶさる一匹のオオカミが倒れていた。