二章 始まりのノコギリ
∴ ∵
灯夜逆燈莉は――私はベッドから跳ね起きました。
「………?」
寝惚け眼にはならず、起きた瞬間の覚醒です。明瞭な脳は、それでもまだ稼働したばかりだからか緩やかに現状を把握しようと動いています。普段と変わらない自室。女の子といった飾り気があるわけでなく、どちらかと言えば質素という印象が濃い部屋。私自身、あまり部屋を飾る気がないのですが、知り合いが遊びに来ると寂しい部屋とよく言われます。淋しいからぬいぐるみでも置けばと言われると、その必要性に首を捻らざるをえないのですが。部屋にはデスクトップのパソコンに本棚が二つ、あとはベッドしか置いていません。クローゼットに洋服は全部入りきっているせいで、他の女の子のように洋服ダンスといったものが必要ないのです。
話を戻しますが、私は最初、何故飛び起きなければならないのか解りませんでした。心地よい眠りに着いていたのです。怖い夢を見たわけでも、物音を聞いたわけでもないのに。
それはどちらかと言えば、虫の知らせ、に近いものでしょうか。
何かが、何か起きた。
無意識に感じ取った。
そんな、荒唐無稽な感覚。
妙な胸騒ぎは収まる事を知らず、鼓動は高く強くなり、冷や汗をかいている事に気がつきます。同時に、毎朝あるべき事がないことに、思い至ります。
「……まさか」
思わず漏れた呟き。この焦りにも似た感情を、私は知っています。気づきました。否、気づいてしまったと言った方が正しいかもしれません。何かに追い立てられるように、けれど確認するのが嫌で、それでも見ないことには安心する事が出来ず、恐る恐る、どうか勘違いであってくれと願いながら、背後を振り返ります。
見てはいけない。本能がそう囁きかけていますが、理性がそれを抑えます。
見なくてはならない。現実を見据えろ、と。
振り返った背後には、昨日寝る前に読んでいた本と電気スタンド。本はなかなか素晴らしいミステリーでした。最後、オカルトなトリックを使わなければ良作でした。
それから、目覚まし時計。無骨なデザインで、ニーニーからサラリーマンが使うみたい、と言われたものです。目覚まし時計の可愛さを求める意味が解らないので、特に変える予定はありません。そして、そう。それが、問題。
無骨なデザインの目覚まし時計は、今日も律儀に規則正しく時間を刻み。遅くなることも、早くなることもなく、正確に今の時間を。
現在時刻、十時三十四分。
「っっっ!!!」
声にならない悲鳴を上げ、半ば泣きそうになりながらベッドから飛び降りると、パジャマを慌てて脱ぎ捨てます。
「ち、遅刻!」
こうして、私のゴールデンウィーク初日の朝は、平和に始まりました。
制服を着て靴下を穿こうとしたら転んでお尻をぶつけ、痛みに涙を浮かべながら視線を上げるとカレンダーが今日はゴールデンウィークだよと教えてくれたので脱ぎたての靴下を叩きつけてプレゼントしてやりました。
制服から私服に着替えリビングに下りると、私の家は二階建てで、私の部屋は二階にあるのです、すでに家には誰もいず、私の分の食事がポツンとラップにかかって放置されていました。冷蔵庫にでも入れといてくれればありがたいのですが、どうやらそれは朝食のようで、起きるのが遅い私に原因がありそうです。
そもそも私は料理というモノができないので、朝食だけ用意されても昼食はどうしたらいいのだと理不尽かつ自分勝手な文句を心の中で呟きながら飲み物を取る為に冷蔵庫を開けると昼食が入っていました。ごめんなさいお母様。
朝食と昼食を食べ終え、一昨日買った小説を読みながらゆったりと居間で寛ぎます。シリーズもので、本格派ではないのですが、それでも昔から書いている有名な作家さんです。私自身、本格派よりも最近のトリックよりも、ロジックを重視する方が好きだったりするのでお気に入りです。
そろそろ犯人っぽい人がポカをやって伏線を張る頃に差し掛かると、チャイムが鳴りました。こんな時間から来るのは大抵セールスだろうと面倒に思いながら出てみると、そこにはクラスメイトであり恋人でもある釘咲深夜が馬鹿面を晒して立っていました。そわそわと犬みたいに。
無言で玄関を開けると、深夜は散歩に連れて行かれる子犬のように喜びを身体全体で表現しながら気持ち悪い口調で自身の気持ちを告白してきました。
「燈莉ぃ、会いたかったぜー」
「私は別に」
深夜の熱い言葉に私は冷たい言葉で返し、恐らく無情に当てはまる対応でドアを閉めます。念の為に鍵も締めておきます。そういえば、郵便配達のバイトをしている友人が前、荷物を届けた時、どんなに愛想よく対応されても最後に鍵を締められると何だか悲しくなると言ってました。やはり最後に鍵という拒絶の対応は、拒否という感情しか込められないということでしょうか。覗き穴から様子を見ると、一人寂しく両手を上げ固まった笑顔を浮かべる深夜がいました。間抜け面に間抜けな格好が可愛いです。
「……え? ちょっ燈莉さん!?」
ドアの向こう側で果てしなく情けない声をあげる深夜ですが、私はその声を無視し、居間に戻ると使っていたコップを片づけ、また玄関へ。靴を履いて靴箱の上に置いてある鏡を見て服装をチェックしてから、玄関を開けます。とてもいい天気です。
私は一度両手を後ろで合わせ伸びをして、ふぅと一息ついてから茫然とする深夜に言います。
「じゃあ行ってきます」
玄関の鍵を閉め、先ほどの事はまるでなかった態度でスタスタと歩きだします。深夜といえばその様子を見ているだけで、何の対応も出来ていませんでした。何か他に言葉をと求める深夜を無視する私。止まる気配がない私の足取りを見るや、意識が戻ったように慌てて後を追ってきます。
「え? うん? あ! ちょっと先行かないで!」
なんとも情けない声でしたが、私はそれさえも愛おしく、ほとんど解らないくらいに密かに仄かに、頬笑んでしまいます。
いつもの光景。
変わらない風景。
日常となった情景。。
今朝の慌ただしい出来事など忘却の彼方へ追いやり、今日は前から楽しみにしていた深夜とのデートです。この日の為に用意した服は、いつもよりもスカートの丈が短かったりします。別に何か目的があって短くしたわけではありませんが、でもちょっとくらい深夜にもご褒美をあげてもいいかと思ったのです。折角のデートですし。
ああ、デートといえばこの間の工具デートはつまらなかったです。ニーニーが帰った時点で用は済んだのですから、店から出ればいいのに、何故か深夜は工具デートを続けました。そもそもの目的はニーニ―が何故ノコギリを買おうとしたのか知る為であり、あんな日曜大工の道具しか置いてないところでデートなんて出来るわけありません。深夜の頭がおかしいのでしょう。可哀想に。
「全く、燈莉の冗談は解りにくいんだよ」
追いついた深夜が苦笑しながら言いました。私は隣に深夜が来た時点で、浮かべていた微笑みを打ち消し、決して見られるのが恥ずかしいなどといった気持ちからではないですが、普段の私が浮かべる表情、無表情を装備します。防御力アップです。
「冗談に聞こえました?」
真顔で尋ねた私の言葉に、深夜は一瞬不安そうな表情を。ああ……いい顔です。ゾクゾクします。ゾクゾクするのを懸命に隠し、あくまで真顔を維持していると、深夜は段々と不安な表情を広げていき、言葉尻も萎んでいきました。
「え? いや……その……」
「冗談ですよ」
私がそう言うと、深夜はふてくされたように黙りました。実はもっと酷いことを心の中で思っていたりいなかったり。これもいつもと同じ、私と深夜の会話。ただ少し苛め過ぎてしまったかなと思ったので、フォローしてあげる事にしました。優しい私です。
「深夜」
「……ん?」
立ち止まり、深夜の肩を掴み、耳に顔を寄せ、
「愛してますよ」
と一言だけ。
「……俺もだよ」
深夜は破顔します。ちょろい。ただこの技は何故か私の体温も上がるので切り札的な役割が多く、暫く深夜の顔を見ることが出来なくなるのでもろ刃の剣でした。
けれど、それだけで深夜は笑います。頬を赤くして、照れながら。きっと独り者が見たら憤怒の形相で睨んでくるでしょう。まあ、例えそうなったとしても、深夜が守ってくれますから安心ですけど。
これもノロケに違いないと思いながら、私たちは幸せを幸せと正しく感じ歩いてきます。幸福を幸福と感じず、不幸に置き換えるのはバカですが、不幸とも幸福とも気づかない人間は欠落しているといえます。
感情の欠落。情緒の欠損。感情は間違ってもいいから、感じなくてはいけないものです。
私はそう信じ、そう思います。
そしてこれから向かう先には、果たして正しく間違っていながらも、感情を得て覚えているか解らない人物。友人をこんな言い方で表すのは、悪口のように見えますが、信愛の気持ちからあえて言わせてもらうなら、そんな心がありながらも活用していない彼女。
一人のクラスメイトの家。昨日ノコギリを買って帰って行った、ニーニーの家に向かっていました。デートの前に友人、しかも女性の家に行くなんて、本来なら深夜を部屋に監禁して正座させながら放置し、私はベッドに横になり本でも読みながら生足を見せびらかして生殺しさせる刑罰を科す話なのですが、相手がニーニーではちょっと違います。変わってきます。
今朝、何通かメールを送ったのですが一通の返事もなかったのです。もしかしたらスルーされていただけかもしれないという、心にダメージの残る可能性は考えないようにしています。私はニーニーを信頼しています。きっと充電するのを忘れたか、センターに溜まっているのでしょう。これだからあの会社は。
一応一回ではなく、複数回、十時に一通、十一時に一通、十二時に二通、十二時のは私と深夜の分です。けれど、深夜の携帯にも返事はありませんでした。安心しました。良かったです。
普段のニーニーは早起きで、最低でも九時には起きている事を私は知っています。小学校からの友人である私に、ニーニーの事で知らない事はないと言っても過言ではありません。そう、父親が暴力を振るっていることさえも、知っています。それは私だけではなく、段々と家に近づくにつれ暗い表情を滲ませてきた、隣に居る深夜も。
以前深夜が、ニーニーに向かって、今のままじゃいけないと言った事がありました。
理不尽な暴力を振るわれていいのか、と。
ニーニーは何も悪くないのに、と。
深夜が囲まれている幸せの中から言った、深夜から見たその言葉。
幸福を正しく幸福と感じる世界の言葉。
不幸を正しく不幸と感じる世界の言葉。
そう深夜が言うと、ニーニーは他人事のように「別に気にしてないから、大丈夫」と言って無理矢理に話題を変えました。話題を逸らして、話を変えました。
以来、私達の中でこの話はタブー。禁忌扱いとなっています。
そんな家庭状況の中、ニーニーから連絡が一切ないというのは、不安です。普段なら次の日にでも学校で直接本人に事情を聞くのですが、残念ながら今日から誰もが待ちわびていたゴールデンウィークへ突入です。連休の間に学校があるので、最低四日間は会えない厳しい事になります。ならば、デートする前にちょっとニーニーの家に行って、大げさですが安否を確かめようと、深夜と二人で決めた次第でした。
深夜がもうすぐ家に着くという段階で、話しかけてきました。それは相談というより、確認に近い、先に何をするのか言っておく逃げ道の確保。
「もし親父さんがいたらどうする? 俺、正直親父さんの近くで、ニーニーと話せないと思う」
「それなら大丈夫です。ニーニーのお父さんはお客さんが来ると、近くの公園に行って時間を潰しますから」
「そうなのか?」
「ええ。昔遊びに行った時、私が家にあがるとすぐ出て行きました」
そっか、と言って深夜は黙りました。
何故、そんな事を聞くのか。
深夜の心情を解するなら、簡単な事。簡単と言っても、深夜のことを知らない人から見たら解らないでしょうけど。
深夜は優しい。
誰にでも手を差し伸べ、誰の手をも掴んでしまう。
それはそう、とても美徳な事。
その優しさは、誰かを守る為に拳を握り締めてしまう。
甘さの混じらない優しさ。
だからこそ、深夜はきっと行動に出てしまうと思ったのでしょう。
深夜もニーニーの家庭の事情は知っていて、だからこそ、父親のアンタがしっかりしなくてどうするんだと、怒鳴ってしまうと。本人がいなくとも、理不尽な光景を目にしていなくとも、助けを求めていなくとも、深夜はそれでも、誰かを救えるのなら、救わなくてはいけない人間がいるのなら、動いてしまう。
これが優しさで、そして、だから、心配になる。もちろんそれはニーニーに対してもですが、これからの人間関係にも繋がっているけれども、その優しさはニーニー対してだけじゃなく、今日これから予定しているデートについてでしょう。
今日一日が嫌な気分で始まる事に対して、考えているのでしょう。
見方を変えたら、変えずとも、他人から見たらその感情は、ニーニーよりデートの方が大事とも取れますが、深夜にそれは絶対にないです。
深夜はそれらを、同列に見なします。同じだと、差別することなく、例えただのクラスメイトでも、深夜にとってニーニーは何かあったら護るべき友人の一人。
護るなんて、高校生が使う単語ではあまりないですが、深夜はそう、人よりちょっと人を想い自分を蔑しろにします。深夜に比べるという事はありえません。
平等に、同一に、公平に、均等に、誰もの味方。
それは、褒められる事ではないかもしれません。
けれど、非難される事でもありません。
だけど、少し寂しいと思う事ではあります。
私を好きだと言ってくれる。けれど、何を置いても私という事は、ないのかもしれないです。平等だから、同一だから、公平だから、均等だから、誰にでも優しいから、深夜は自分の感情に走らない。走るのは、相手の感情を乗せた想い。深夜の感情は自身の感情でありながらも、相手の言いたくても言えない、表に出したくても出せない気持ちを代弁します。
だから深夜はみんなから好かれて、普通なら避けるべき、逃げてもいい場面でも、立ち向かう選択をします。いえ、選択ではないのかもしれません。 最初から選択するような道を見ていない、前しか前方しか見ていない。
それは凄くもどかしい部分でもあるけど、私はそんな深夜が好きなのです。
深夜が好き。何を置いても、何を犠牲にしても、私は深夜を離しません。
不平等に不同一に不公平に不均等に、私は優しくする相手を、愛する相手を選びます。
深夜は私も含めてみんなが大事で好きなのかもしれませんが、私は深夜と誰かを天秤にかけるなら深夜を取ります。何をおいても、今の私は良くも悪くも深夜しか見えていません。
まるで正反対な私と深夜。それとも同じような二人でしょうか。
こんな欲深い私を知ったら、深夜はどう思うでしょう。
哀れに思うでしょうか、嫌いになるでしょうか、恐ろしく思うでしょうか、惨めに思うでしょうか。だから私は自分の気持ちを隠します。好きとは伝えるけど、深夜がいなくては生きていけないくらい好きだとは言いません。まだ、言えない。今は、言えない。
でも、いつか。深夜が同じくらい私を好きになってくれたら、その時は―――
「着いたな」
深夜の声で、暴走していた思考を停止させました。強制ダウンです。顔をあげると、いつのまにかニーニーの家に着いていました。私は気持ちを仕切り直し、改めてニーニーが住むアパートを見ます。二階建ての木造の安アパート。外観は陽に焼けくすんでおり、階段は赤錆びで色が変わっています。 踏む度にギシギシと不吉な音を奏でる階段を登り終え、二階の端の部屋。そこにニーニーは住んでいます。父親と、二人で。
私と深夜は部屋の前まで行き、他の部屋に人の気配はなく住んでいるのか出かけているのか解りませんが、二ーニーの部屋の前まで来ても、それは同じでした。表札には名前が表記され、外には傘が立てかけられていて、けれども人の気配は皆無。無人の空気。
それでもドアをノックしようと、右手をあげ、私は一瞬躊躇して、深夜を見ます。
何に怯えたのか、何故深夜を見たのか解りません。
……嘘です、解っています。
もし、この扉の向こうで、電話にもかけることができないほどニーニーが酷い目にあっていたりしたら。そうでなくとも、それに準ずる何かがあったのなら、私は、このまま何の覚悟もないまま、扉を開けていいのか不安になりました。ただの友人風情が、関わっていい領域なのか。受け止められるのか、受け止めていいのか。そこまでの友達なのか、なんて最低な事を。
大事な大事な友人であるはずなのに、私はその責任を、自分が背負うのを嫌い、押し付ける先を、逃げる先を求めて深夜を見たのです。
私はなんて卑怯なんでしょうか。ここまで来て、何の為に来たのか。最後の最後で、生まれるかもしれない責任を誰かに負わせようとしたのです。吐き気がするほどの、醜悪さ。これが差別する私の本性。目を覆いたくなる、醜い私。
なのに。
それでも深夜は、笑って頷きました。
私の気持ちを何処まで理解したのか、それとも何の意味もないのか解りませんが、それでも、それでも深夜は笑顔を向けました。
大丈夫だと、付いている、と。
私の隣には、深夜がいる、と。
その笑顔に、何故か安心します。何が安心したのかわからないけど、安心することはできました。私は、他人に解らない程度に薄く笑って、安心してしまった事実に軽く頬を赤く染めると、ドアをノックしました。意を決することなく、決意なく、自然に接する気持ちで。友達の家に遊びに来ただけなのですから。そこまでの友人なんて、どこまでの友人という話だということです。友人に線引きが出来るほど、私は多くの友人を持っていないことに気付くべきでした。
差別するのが私なら、何処までも差別しましょう。深夜と違って、平等なんかにせず、私はどこまでも贔屓します。だから今は、贔屓させて下さい。 大事な友人である、ニーニーを。私よりも、大事にさせて下さい。
そんなことを私は心に言い聞かせていましたが、しばらく待っても物音ひとつしません。
辺りは不気味なほど静寂が満ち、生活音さえない空間はここが本当に街中なのかさえ疑わしくなってしまいます。
今度は深夜がもう一度ノックをし、ドアに手をかけるとガチャガチャと鍵がかかっていました。深夜が私を見て言います。
「留守、かな?」
「……開けてみましょう」
私はポケットから鍵を出します。アクセサリーも何もついていない素っ気ない鍵。それがこの部屋には、変に似つかわしくあります。
「え、なんで当然のようにニーニーの家の鍵持ってんの?」
「中学の時に作っておきました」
「なんの為に?」
「ほら、お金に困った時とか」
「ドロボー目的!?」
鍵を差し込み、あまり音を立てないよう静かにそっと、ゆっくりと回します。どんなに慎重にしても、鍵とは音が鳴る仕組みのようで、軽い金属と金属がすり合わさり重なりすれ違う、カキンという音色と共に開きました。ドアノブを握り、小さく深呼吸すると、こんにちはと呟きながら中を覗くと、やはり誰もいないのかカーテンも閉まったままの薄暗い部屋が見えました。
「やっぱ出かけてんのかな」
深夜がガランとした室内を見て言います。空気は冷たく静かで、少し物寂しい感じです。私の部屋とは違い、必要な生活用品などはあるのに、それでも、だからこそ、必要なモノしか置いていないからこそ、物寂しいと感じてしまう。本当なら、普通に生活しているのなら、生きていく上で色々な物が溜まっていってもおかしくないのに、この部屋にはそれがありません。ただ生きるだけのための空間、そんな、印象のする部屋でした。
家主はおらず、いない場合の対処を考えていなかったので、今後どうするべきかと思案していると、深夜は何の気後れもなく勝手に家にあがりました。散々鍵についてどうこう言っていたのに、家主のいない部屋にこうも簡単に上がれる無神経さは、男の子だからでしょうか。豪快というか、無鉄砲というか。少し常識がないところが困りものですが。
引き留めようか考えながらも、時すでに遅いわけで、深夜はすみませんと白々しく言いながら部屋を物色しています。私は溜息を小さく吐き、同じく部屋に上がりました。
けれど、深夜は気づかなかったようですが、私は入ってすぐ、違和感のある景色だと思いました。それが何かは、すぐに解らずもすぐに解る事で、玄関の脇にある台所にその答えがありました。視界に入ったので視線を動かし見て見よう、確認しよう。そんな反射の行為に近い挙動で、何の気なしに、覚悟も決めずに、気軽に視線を向けます。
そこには、赤く汚い、どす黒く赤に濡れたノコギリが、台所に置かれていました。
「――――っ」
私は悲鳴を噛み殺します。そんな情けない姿を、深夜に見せるわけにはいかず、必死に胸を抑え拳を握り締め、平常心を保とうと心を落ち着かせます。それでも私が固まってしまっているのに気づいた深夜が部屋の奥から戻り、台所に視線をやるとカッコ悪い悲鳴をあげました。ちょっと不満です。
「うわっ! ……昨日、ニーニーが買ってったやつか?」
「……ええ、恐らく」
嫌な想像が、頭を過ります。この惨状、惨状と呼ぶにふさわしい光景は、嫌な想像しか頭の中に構築させません。深夜はそれでも否定しようと口を開きました。
「え、何? ニーニーの家じゃマグロの解体とかやってんのかなー……なんて……」
「例えそうだとしても、マグロに髪の毛は生えていません」
よく見ると、恐らく血だと思われる液体に混じり、人間の毛髪と思われる黒い毛が、ノコギリの歯や持ち手に付いています。
それだけ、嫌な想像が膨らみます。
気分が悪くなる、思わず一歩引き、ここから今すぐ逃げ出したくなる想像が。
つまり、あれで、誰かが、誰かを、使った、ということです。
ギコギコと、ノコギリらしい音を発しながら、ギコギコと。
深夜も同じ想像に至ったのか、半笑いの顔をしながら、質問してきました。
「……人間?」
「……恐らく」
端的に返答すると、深夜は嫌な顔をします。何と言えばいいのか、何を思えばいいのか。予想外の、想定外のアクション。なんと言葉を紡げばいいのか、解らない。しかし、いつまでも驚きに固まるわけにはいきません。起こってしまった事実であり、避けようのない現実。
まずは考えましょう。逃避と言われようと、心を落ち着けるために冷静になったフリをするのは大切です。このような事態が起こったという事は、それ以前があるという事。
もしここで何かあったのならば、それが私達が想像する通りのことなのだとしたら、事実を事実として受け入れ、被害者も加害者も解らない、解らないと考える私は、この家で人間を解体する為に、ノコギリを使う事が出来る場所といったら。
ノコギリを見て固まっている深夜を置いて、私はさらに奥へ、風呂場に向かいます。大して広くない、2LDKの部屋。ノコギリを使うのに、ここ以外はありません。汚れなども考えても、掃除しやすく、尚且つ後始末が楽な場所。だから私は半ば核心を持って、風呂場の戸に、手をかけました。
手を、かけて、かけた。時点で、手を、かけた、気配が。
その時点で、気配が、嫌でも漏れ出る、不気味で怖気が走る気配が、漂ってきます。この先にあるのは、違う世界。踏み入れてもいいけど、戻ることはできない世界。認識を改める、誤認を受け入れる世界。
覚悟ない者は開けてはならぬと、まるで天国か地獄の門のように佇むそれに対し、それでも私は息を吸い、意を決して戸を開けました。開けなくてはならない。だって、そうしないと、ニーニーに近づけないのですから。私は近づこうと、決心したのですから。
戸を開け放つと、綺麗に掃除されている風呂場が現われました。けれど、そこはかとなく漂うなんとも言えない匂い。
肉の匂い。油の匂い。人の匂い。
人をグチャグチャに混ぜた、そんな臭い。原始的で原初的な、目を背けたくなる臭い。しかし、一度風呂を使ったのか、臭いがあると思えるだけでそれが何か特定するのは難しいです。ノコギリの印象があるから、怖気のする例えを使いましたが見ていなければ解りません。
大分、薄れている。
風呂場に入り、丹念に床や壁、浴槽の中を調べてみましたが、これといった物は見つかりませんでした。まあ肉や血が見つかったりしたら困りますが。お肉とか食べられなくなりそうです。風呂場は諦め、リビングを探す事にします。本音を言うと、風呂場のあの臭いとも言えない臭いに、耐えられなかったのです。薄まっているはずなのに、解らないはずなのに、あそこはもう、普通の場所じゃない。酷く、気持ち悪い。居心地どころの話じゃなく、それどころか、居場所が違う、そう思わせる、空気。
それとも私は、ニーニーがその原因を作ったと、想像するのが耐えられなかったのかもしれません。なんて、幼稚な感情。ここまで来て、やはり私は綺麗ごとしか、深夜のように全てを受け入れ平等にすることなど、できない。できない、のでしょう。私がどこまでも、私であるように。友人と言ったり、そんな適当なことを口にして、関わろうとしているだけなのか。
私はそんな益体もないことを考えながらリビングに戻ると、深夜が押入れを開けたりタンスを物色していました。なんの躊躇いもなく引き出しを開けて、中の衣類を引っ掻き回しています。一心不乱に、まるで泥棒みたいに。
家に上がった時もそうですが、先ほどからあまりにもな行動をする深夜に、私は無言で背後に近づくと、グーで頭を叩きました。空っぽのバケツを叩いた良い音に似ていました。
「痛った! 何すんだ!」
理不尽だと思っているらしい暴力に、深夜は頭をさすりながら私を見ますが、私は腕を組み、正論と常識を教えます。
「何を勝手に、人の家のタンスを物色しているんですか。私達はニーニーがいるか確かめに来ただけですよ」
「そうだけど、あれを見たら、な……」
深夜が台所にあるノコギリに視線を送ります。確かに、その気持ちは解ります。痛いほど、心配になって心が痛くなるほど、その気持ちは解ります。けれど、まだ何も確定していない現状で、自分が何をしているのか解っていない深夜に対し、私はすっと目を細めて見下ろします。
「仮にも、女の子が住んで使っているタンスを開けますか? そんなにニーニーの下着が見たいのですか?」
下着の部分を強烈に熾烈に強調して伝えると、慌ててバンッと思いっきり引き出しを閉めます。顔を赤く染め、そのあと隣にいるのが私だと思い出したのか気づいたのか、青く変わります。何故私で青くなるのでしょうか。まさか本当に下着を探していた……?
確認がてら聞いてみました。
「下着は見つかりました?」
「……ごめんって」
「何色でした?」
「俺が全面的にどうしようもなく悪かったです!!」
「ちなみに私は今日ワインレッドです」
「ワイ……ッ!?」
視線が私のスカート、それもちょっと、その、際どいラインにいったので膝蹴りを顔面にプレゼントしてあげました。……何をしているのでしょう。 脱力です、もう帰りましょうか。深夜もワインの色合いについて鼻を押さえながらも真剣に考え込んでいるようですし、どうやらまだお仕置きが足りないようですし。ここまで来てここまで見て、それでは納得というか、色々悶々してしまいますが。えっちぃ意味ではなく。
消化不良のままデートをしても楽しめなさそうですし、それに、心配だった気持ちは不安へと変わっている現在、このまま見過ごすわけにもいかない段階にまで来ています。仕方なく、というには積極的に取り組み、気を取り直し、改めて室内を見回します。
深夜は借りてきた猫のように大人しくなってしまいました。猫なら首輪がないといけませんね。私の不穏な空気を感じ取ったのか、深夜が怯えた瞳でこちらを見つめてきます可愛い。そこで、先ほど深夜が開けっ放しの押入れが目に入りました。押入れに何があると思ったのでしょう。せめて机の引き出しとか、捜すべき場所はあるでしょうに。何を漁ろうとしたのかは後で問い詰めるとして、私は襖を閉めようと手をかけ、止まる。
何か、見えた。
否、何か、見えなかった。
押入れの中。右側の奥のほう、何かを取り出したような空白が、まるで強調するように訴えてきます。以前来た時、ニーニーはここから昔のアルバムを出していました。あの時、ここには昔の物を入れてあると聞きました。ニーニーのアルバムや、小学校で使ったランドセルなど、まだ家族三人で楽しく過ごしていた時代の品が置いてあるスペース。
そして、一つぽっかりと空いた場所。結構大きな物か、いくつかまとめて取り出した感じです。人が一人座れるくらいのスペース。
では、あの空白には何が入るでしょうか。
体操着? 場所取り過ぎです。
中学の制服? 服ではあの大きさは無理です。
鞄? 鞄だとしても、あんまり使わない大きさ。それこそ、どこか旅行にでも行く時に使う、大きな大きな、キャリーケースのような。
「そうか……」
「ん? どうした燈莉」
あった。ここに入れるような鞄といえば……あの鞄しかないです。ニーニーが行きそうな、お父さんが買われたあの大きな旅行バックを持って行きそうな場所を考えます。
「あの大きな鞄を持っていくとなると、遠く……いや」
思案し推察します。もう一度部屋の中を見回す。台所に置いてある血のついたノコギリ。何かを解体したような歪な空気のする風呂場。そして、家主が二人ともいない家。
下手をしたら、下手をしなくとも。
「山、といった場所ですかね」
私は思いついた、最悪の展開を想像した上で、行き場所を言いました。ニーニーが行く、消えたニーニーが行くだろう、場所。
「え? なんで? ニーニーは山に行ったのか?」
深夜は私の妄想について来れないようです。それはきっと、私よりも純粋で、バカというわけではなく、それこそ信じているからこそ思いつかない結論。
でも私は、友達だとしても、友人だとしても、この惨状が似つかわしい室内を見て、考えてしまいます。夜寝る前には日課のミステリー小説を読み、父親と事件について嬉々と話す、そんな推理オタクに分類されるだろう私は、身近な人の不幸さえ、無意識に喜んでしまっているのかもしれません。
喜んでなんかいない、そう言い切れる自信は、なく。毎日どこかで起きている事が、当事者となれることに、私はきっと、焦がれていたのかもしれません。
深夜に告げます。理由を、根拠を。どうしてその結論に至ったか、簡潔に。
「人を隠すのに、ここら辺でいったら山くらいがベストでしょう」
「ニーニが? 山に?」
「父親を」
「…………」
一つ足りない単語を追加してあげると、深夜は考えるように俯き、台所にあるノコギリを見て、嫌そうな顔をしました。確かにその想像をするのは嫌でしょう。現に私も、凄く嫌な顔をしていると思いもいます。他人からは無表情に見えるかもしれませんが、自分でも事件を他人事で楽しむ私だって、こんな友人の事件、嫌なことには変わりありません。
「なあ……俺の勘違いっていうか妄想っていうか、一つ聞きたい事があるんだけど」
「馬鹿が抜けていますよ?」
「ヒドイ!?」
深夜は台所にあるノコギリを指差し、推理が確定へと繋がる疑問を口にします。
「あのノコギリについてる血ってさ……ニーニーの、親父さん、かな?」
「恐らくは」
「……そう、か」
深夜はジッと、ノコギリを見つめます。そんな深夜を横目に、ニーニーが父親を、父親のバラバラ死体を埋めそうな場所を考えます。切り替える、感情を、思考を。ここで不安に心配をしても、何も解決はしません。杞憂かもしれない、ならばその杞憂へと繋がる道筋を、繋がらない道筋を潰すためにも、私は考えます。もし山へと行くのなら、恐らくそう遠くへは行っていないでしょう。人間一人を持って、成人男性を一人抱えた状態で女の子が遠くまで運べるわけがありません。いくら持ち運びに便利な鞄を持っていたとしても、免許も自動車もないニーニーでは電車しか交通経路はなく、それならばなるべく近いところ、けれどもあまり見つかりにくいところを選ぶはず。 私が考えていると、深夜が神妙な面持ちで尋ねてきました。
「……なあ」
「なんですか? 今、ニーニーが何処に埋めたか考えているのですが」
「……考える必要、あるのかな」
「え?」
信じられない言葉を、深夜は言いました。いえ、それはもしかしたら常識的な言葉で、私の方が、信じられないことを考えているのかもしれません。 深夜はそして、私には想像もできなかった、思いつかなかったことを言いました。
「警察に、言った方がいいんじゃないか」
その言葉に、止められる。
思考が、論理が、時間が。
私は、深夜を見ます。深夜の眼は、何も言わない。何も言わない瞳を見て、解りました。
深夜が何を言いたいのか。
深夜が何を言いたくないのか。
「私に、関わるなと?」
声が震えていたのかもしれません。この私が、震えていたのかもしれません。考えるべき事項であり、考えるまでもない事項。けれどそれを、私は最初から考えていませんでした。通報しなきゃいけないのに、連絡のつかない友人の家で、惨状があったかもしれない証拠が残っているのに、私は何故、警察に届けないのか。これだけの物的証拠がある中、二ーニーが何かしたというのは確実。もしかしたら、二―ニーは何かに巻き込まれたという可能性がありますが、下駄箱に靴がないのと、二ーニーのお父さんの靴が残っている状況で、それも難しい。荒れていない室内を見ると、無理矢理連れて行かれたということもないですし、行儀よく靴を履いて出たという事は、その意思がニーニーの意思であったと考えるのが正しいです。それに事件か何かに巻き込まれるにしても、借金はないですし、近所で何か事件があったわけでもなく、関連すべきものが何もない。
もっとも簡単に、もっともスマートに、もっとも短絡的に、導く答え。
それが、二ーニーの手による犯行。
「友達として、心配なのはわかる。けど」
そう、心配で、それにこの状況でニーニーを警察に引き渡したら、確実に捕まる。それに、未成年と言えど殺人は殺人です。
親殺しの、殺人。
そう簡単に、二―ニーを売る事などできません。
でも、違う。
深夜はそこから先。もう一歩先の空想の、妄想の話をしているようでした。
そんな当たり前の感情じゃなくて、ニーニーのことではなくて。それが解るからこそ、私は深夜を愛していて、それが解ってしまうからこそ、私は戸惑ってしまった。
「事件を知った私も……口封じの為に、殺されると思っているのですか?」
深夜は、苦しそうな表情で見つめてきます。それだけで、言いたいがことが当たっていたと解ります。
友達に殺されるかもしれないと、告げなくてはならない事が、辛く苦しい。酷く酷い事を伝えることが悲しく虚しい。でもその役割を、非難され罵倒される立ち位置を、深夜は自ら買って出てくれました。それはきっと、私だから。奢りかもしれませんが、深夜が愛してくれる、私だから、言ってくれた。
そしてそんな事を考えてしまった自分自身、深夜自身も自己嫌悪に陥っているようでした。
苦しそうな、辛そうな深夜。そんな顔をさせたくありません。でも、私が無神経に考えなかったせいで、結果的に与えてしまった感情。
そのことは、反省しなくてはなりません。
そのことだけは、後悔するべきです。
けれど、間違っています。深夜は、それは考えが足りません。全然まったく、侮らないでもらいたい。侮らないでいてほしい。
私はニーニーの友達で、深夜もニーニーの友達です。
少しばかり無愛想で、少しばかり無表情で、少しばかり無頓着くらい自覚しています。そういう人で、そういう人でも、私は友人だと、大切な友達だと思っているのです。
凄くお節介で、凄く優しくて、凄く勇ましくて、凄く思いやりがあるくらい知っています。深夜のことを知っています。
だからこそ信じてほしいし信じようとしてほしいのです。
人を殺したかなんて、関係ない事を。
事件だからどうとか、そんな好奇心があったとしても、関係ない事を。
「私は、見捨てません」
たったそれだけ、何も語らず告げず省みず、それだけを言いました。
言葉足らずで舌足らず、とはちょっと違いますが、それでも私は幼い子供と同じ、ただ自分が信じているから貴方も信じてと、根拠も証拠もない感情の共有を求めます。願います。
深夜は、睨むでもなく、何か諦めるような顔をすると、私に近づき、私を抱きしめました。
柔らかく、温かく、それでいて、力強く。
解った、と。
「悪かった。そうだよな、お前は。うん、さっさとニーニーに、会いに行こうぜ」
「……ええ、行きましょうか」
信頼の笑顔を、浮かべて。
私は深夜に、信頼されていることに笑顔を、浮かべて……。
――― 浮かべて ――― 考える ―――
何故私は、ニーニーを庇うわけではなく、ニーニーを心配するわけでもなく、ニーニーを探そうとしているのか。
その理由を、ただ友達だからなんて簡単に済ませる話ではないことくらい解っています。そんなことをするはずがないと、最初から庇うわけじゃなく。何かに巻き込まれたんじゃと、身の安全を心配するわけでもなく。
本当は、私は……一体どんな感情から、ニーニーの現状を誰にも知らせず、探そうとしているのか。それはもしかしたら、夜寝る前の布団の中や、父親と話す時の感情に近く、そしてそちらの方が多い、のかもしれない。
解りません。解りません。解ろうとするのが、怖いです。
もし、もしも、もしももしも。
私が探す方を選んだのは、友人として、深夜と同じ気持ちでニーニーのことを考えたのではなかったら?
暖かい、いい香りのする深夜の腕の中で心の端っこに、深夜には見せられない、汚く不快なモノが滲み染み込むのを、密かに感じていました。
それから私は懸命に眼を背け、深夜の胸に顔を埋めて忘れようと、努力して。
∴ ∵