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一章 出会いの離別

      ∴      ∵


 駅を出ると、さらなる闇が広がっていた。本当にここは山しかないのだ。左右に分かれた道がある。右に歩いていけば、寂しいが人通りがある街道に出る。左に行くのなら、そこはもう、ここに住んでいる人でも、昼でさえ寄り付かないような山道しかない。私は、迷うこと無くみ……左を選んだ。いやいや、夜の山は怖いね。

 月明かりがあっても不確かで不安な足元を、持ってきた懐中電灯で照らし歩を進める。最初は舗装されていた道路も、少しずついい加減に変化していく。途中、山道とそのまま道路が続く道の二手に分かれた。この時点で肉体的疲労は限界近くまで達しており、大人一人分を運んでいるので当然だが、辛く厳しい登山は御免こうむりたい気持ちが湧き上がってくる。もういいかなここでもと、近くの茂みに視線を向けるも、よほど深く掘って埋めない限りどう考えても雨でも降ったら転がり出て見つかってしまいそうだった。

 なんとなく後ろを振り返って見る。何も変わったことはなく、ただ悠然と広がる闇が見えるだけだった。視線をまた前に向けると、生い茂った森林が月や星の光を拒み、真っ黒ではなく藍色と緑色に黒が混ざった深い色が行く手に満ちている。手持ちの明かりは懐中電灯だけで、かなり、怖い。

 どんなことを考えたって、ここまで来たら恐怖を我慢して進むしかない。他の選択肢は、一昨日の時点で全て消え去ったのだ。少しでも気を紛らわせるため、歌でも唄って行こうかしら。一瞬本気で考えるも、人に見つかるといけないし、自分が音痴だと解っているので却下した。歌の引き出しも多いわけではないし。虫の鳴き声すら聞こえない深い闇の中は、やっぱり怖いけど。

 それから三十分……いや、一時間は歩いただろうか。重い荷物を引きずり、休み休みなので実際どれほど距離を稼げたのか解らないけれど、感覚的には大分歩いた気分だった。汗が頬を伝わり、唇に触れるので拭う。腕を上げるのさえ億劫になってきた頃、見計らったように、小川がある広い場所に出た。

 そこは、とても、不思議な場所だった。

 広く、深い場所。

 誰もいないのに、誰かが居そうな場所。

 視線を感じず気配を感じる。

 木々もなく、ぽっかりと穴が空いた空間。

 今まで歩いた道のりと比べれば開放的にも関わらず、ひどく閉鎖的な場所に思えた。

 川があり、砂利と石があり、それ以外何もない、一言で表すなら――神秘的。

 夜だからか、星空に照らされたからか、この場所だからか、綺麗よりも、 静謐が似合う。

 静寂とは違う、種類が違う静けさ。

 周囲の闇は相変わらず。だけどその闇が、他とは違う。小川の近くだけ、木々の闇が届かず、月と星に照らされる。

 太陽のような輝きじゃなくて。電灯のような光りじゃなくて。

 そこは、仄かに揺らいでいた。蒼いとでも言えばいいのか。

 空の色と石の色。

 星の色に月の色。

 森の色に、闇の色。全てが、その部分だけを浮かび上がらせるために色づいたと感じさせる彩色。私は、その小川の近くで休憩することにする。ただでさえ慣れない山道に、さらに父親を引きずっているのだ。身体は限界を迎えていた。

 不可思議な印象のする場所であっても、それでも私にとってはオアシスに匹敵するほどありがたい。疲れ切った足はもう一歩も動きたくないと訴え、父親を引きずってきた腕は重力に従いたいと嘆いている。

 ぶらぶらと、手足を自由にさせてやる。小川の近くまで行くと、鞄とキャリーケースを置いて、水を掬ってみた。冷たく、透き通る。一口、口に含む。雪水のような冷たさが、熱くなった喉を冷やし、美味しく、甘い感じがした。私は適当に平らな場所に横になる。

 空には星と月。ここだけ、世界から外れたようだった。

 見える景色は、どれも神秘を携えて。

 感じる空気は、どれも神聖を携えて。

 私は、閉じられた聖域に入ってしまった、そんな背徳感にも罪悪感にも似た感情が出てくる。

 何人も入ることを許されない。

 何人も出ることを許されない。

 ここは、そんな場所。

 靴を脱ぎ、小川に足を突っ込み火照った足を冷やして疲れを癒していると、突然、何の前触れもなく闇の方から声がした。

「ん? おや、これは珍しい」

 隔てられた闇から出てきたのは、温和そうな細目を携えた、登山家と言えばいいのか、私とは比べられないほどちゃんとした装備を持った男が、こちらを見つめていた。

「こんばんは。君は、一人かな?」

 三十代くらいに見える男は、私ににこやかに話しかけてくる。何故、こんな時間にこんな場所にいるのだろう。

 出会ったのは偶然か、それとも運命か。

 この場所の、隔絶された、世界の悪戯か。

 私はそんな事を考えながら、男がこちらに来るのを眺める。返事をしなかったせいか警戒していると思ったのか、にこやかに、害のなさそうな笑みを浮かべながら、男がこちらに向かってくる。

 何も言わない、何も告げない。ただ見つかっちゃったな、と思っただけだった。

 ふいにこの場所が、人間に支配されたように感じた。

 森は、静謐を携えて、人間を拒絶しているのに。

 それだけが、残念だった。


「山登りは趣味でね。ときたまこうして、昼夜関係なく登るのが好きなんだ」

「お仕事は何をされているんですか?」

「大学の先生だよ」

「先生ってもっと忙しいイメージがありますけど、大丈夫なんですか?」

「はは、高校とかとは違ってね、自分の研究って題目と成果があれば、意外と自由が効くもんなんだよ」

 私はこの場所に偶然来た事を話した。どこか気に入られたのか、男が持ってきたカップに出来立てのコーヒーを頂き、手ごろな石に腰かけ雑談している。歓談とまではいかないが、警戒心を解くほどまで打ち解けたわけじゃないが、それでも仲良く、傍目には、和やかに会話が進んでいた。

 見つかったからどうしよう、とは考えていたけれど、どうかしようとまでは考えていなかった私は、結局どうしようも出来ずに、ただ相槌を含んだ社交辞令の会話を続けている。

 男は純朴そうな顔立ち、柔和な笑み、柔らかい物腰は親しみがあり、こんな夜更けに、こんな寂しい場所で、こんな状態だというのに、男は警戒させることのない態度に、いささか拍子抜けというか、毒気が抜かれるというか。思わず異性、しかも年上の異性という意識が、薄れてしまう。

 いくら相手が教師と名乗ったところで、年頃の娘が男と二人きりというのはあまりよろしくない。可愛い女の子なら尚更だ。私なんか特に可愛いのでその気にさせないよう気をつけなきゃなと、調子のいい絵空事を考えていたのだが、それよりも考えなくてはいけないことがある。

 見つかった。

 見つかってしまった。

 まだ何も起きていないけれど、何も起こしていないけれど、起こってしまった後だけど。

 ここで誰かと出会うのは、都合が悪く具合が悪い。

 アリバイ云々以前に、死体遺棄の現場にいたことを証明されてしまう。

 話しを聞いていると、男はこの山によく来ると言っているが、よく来るという事は、この山の地形もよく知っているだろう。

 山を登る場合、その地形を頭に入れとかないと危険だ。どんな形で、どちらに向かえば人里に近いのか、それらを理解していないと登山家は務まらない、と思う。偉そうな事を言ったが、全部テレビの受け売りだけど。しかし、ある程度地形を理解しているというのは事実だと思う。地図を見なくても、何度も登っていればおのずと把握できるものだ。知らぬうちに、少しずつ。

「あまり人が行かないような場所って、この山にもあるんですかね」

 私はひとまず、父親を埋めるのに適した場所を聞くことにした。森の奥深くに埋めればいいと考えていたが、それでも人がいない場所の方が安心感は増す。

 男は少し考え、口を開いた。

「山のほとんどの場所がそうだね。ただ、人が目印をつけ歩道をつけた場所以外なら、別だけどもね」

「もっとこう、登山家ならでは、というような場所は?」

「ん? 地元の人でも行かないような場所、ということかい?」

「ええ、そうです」

 人がいては困る。地元の人が行くような場所にはなるべく避けたい。たけのこが狩りなどで見つかるなど笑えない冗談だ。そういった懸念事項がないところに埋めたいのだけど、男は先ほどよりも考えることなく、柔和な顔を浮かべて言った。

「そうだね。そうか、うん。まあしいて言うなら――ここかな」

「え?」

 大地を指差し、この、神聖とも神域とも言える不可思議な場所を指差した。

「ここはね、ある意味神域と呼ばれている場所なんだ。普通の道を通っても、この場所はまず見つからない。僕みたいにここを知っているか、運よくたまたまここを見つける以外にね。たまたまと言っても、簡単には見つからないけど」

「……じゃあ、私は偶然に来れたんですね」

「いや、もしかしたら呼ばれたのかもね。この山の神様に」

 そう言って、男は笑った。私はそれが、とても嫌だった。

 神様。この人は、それを信じているのだろうか。平等だけを得意気に振りかざし、何もしないのを平等のせいにして、誰をも助けることなく愉悦に浸り世界を嘲笑う。

 神様なんて、世界で一番、最低な性格だ。

「ここは神が休む場所とされているんだ。だから、地元の人でも立ち寄らない。下手に踏み込むと、神にさらわれると言われているからね」

「……神隠しですか?」

「そうとも言うね。君、よく知ってるね」

 その口調は教師の匂いがするものだった。男は、私の眼を見て笑う。私は、男から眼を逸らす。柔和で温和で親しみを持てる相手なのだが、見つめていたくない相手だった。

 純朴そうな顔立ち、柔和な笑み、柔らかい物腰は親しさがある。

 それなのに、どうしても正視できない。正しく視ることが、できない。

 間違っている感じがした。

 おかしいと、感じていることを伝える自分がいる。

 その笑顔はここで見るようなものじゃないと、その笑顔はここで出るようなものじゃないと、それは笑顔なんかではないと。

 笑顔とは果たして、これほどまでに近寄りがたい嫌悪を含むモノだっただろうか。

「ここはそういう場所さ。君がどれくらいかけてここに辿り着いたかは知らないけど、ここに来るのに一時間以上はかかるね。だから、地元の人でも、普通の登山家でも、ここにはあまり近寄らない。地元の人は一時間以上もかかるし、登山家はここを知らないか、もっと先を目指すからね」

「…………」

 そうか、ならここに父親を埋めても、見つかる確率は少ない。この神秘的なところに父親を埋めるという事は、この神秘を壊しそうで嫌だったが、まあ骨になって土に還ってしまえば問題ないような気もした。日本では火葬が主流だが、外国では土葬が主流なのだ。

 どうしようか。この男がいつ立ち去るのかが、問題だ。

 今目の前にいる、笑顔がおかしい男。

 別に私は、人を殺して殺意に目覚めたとか、人を殺す快感を知ったとか、一人殺すも二人殺すも一緒だとか、そんな頭の捻子が外れたことを言いたいわけじゃない。

 できれば人を殺すなんてデメリットしかないことはもうやりたくないし、一人殺すのと二人殺すのは大分違う。同じなんて、思えるわけがない。男にはさっさとこの場から遠のいてもらって、去ってもらいたい。無駄な労力は避けたい。

 それとなく、男にこの後どうするのか聞きいてみようと思う。

「いつもここに、何しにくるんですか?」

「ん? 実はね、僕はここの土を調べたり、小川の水を調べたりしてるんだよ」

「土、を……?」

「そう、これでね」

 折り畳みの式のシャベルを取り出して教師のように説明し始めた。

 誰も踏み入れない場所の地質を調べているとかなんとか。夢物語を語る男の子の瞳。男はいつまで経っても少年なんて言うけれど、案外それは的を射ているのかもしれない。

 シャベルの持ち手部分に、男には似合わない猫のストラップが付いていた。誰かからのプレゼントだろうか。それを見て、電車での違和感の正体が解った。何を忘れているかと思えば、穴を掘る為のシャベルを忘れたのだ。死体を埋めるための道具を忘れていたのだ。なんて事だろう。これじゃあ父親を埋められないじゃないか。……いや、シャベルなら、目の前にある。

「ところで君は、何しにこの山に来たんだい? 見たところ、大荷物みたいだけど」

「私、私は……」

 どうする。適当に誤魔化すのは大前提だ。ここで真実、本当のことを言うなんて選択肢は出てこない。

 そうではなくて、そうじゃなくて。

 私が言い淀んでしまったのは、そのことじゃなくて。

 このまま男と別れて、もっと奥の場所に埋めるという手もある。しかし体力と時間を考えると、そろそろ限界だ。リミット。笑ってしまう。限界なんて、とうの昔に超えてしまったのに。いや、それ以上に、こんないい場所は他にはない。見逃す手は、ないだろう。

「……ただの、家出です」

「家出?」

「そうです。プチ家出です」

「親と喧嘩でもしたのかい?」

「まあ、そんなところです」

 一先ずありそうな、荷物の言い訳にもなるデマカセを言った。あながち間違いでもない。喧嘩というより、一方的な物であったが。

 男は、何か考える仕草をする。

 家出と言われ、一般的にどう対処するべきなのか考えているのかもしれない。訳を聞こうとするのか、それとも説教じみたことを言いだすのか少し気にはなったけれど、どちらでもいい。送り届けようとするだろうか。しかしそれはないと踏んでいる。私は家出をしてきたと言ったのだ。すなわち、決心してこの場所に来た。そう簡単に家に帰るとは思わないだろう。明日くらいには家に帰れと言うかもしれないが、今すぐに帰れなんて厳しい事も、一緒に家まで帰るという優しい事もないだろう。こんな真っ暗な山道を下りろなんて、言わないだろう。

 だから、今日はここで休めと言ってくる。この装備を見る限り、男はテントも持ってきていそうだ。そこに私を寝かして、自分は外で寝て……一緒に寝てくる場合は殺そう。まぁどっちにしろ、その時、寝る時に用を済ませればいい。

「じゃあ、ここに来たことは誰にも言ってないんだ?」

「ええ、そうです。親の留守中に出たんで、誰も知りませんね」

 親の留守中。親と喧嘩したはずなのに、おかしなことだ。まぁ荷物を見る限り、飛び出したわけではないからおかしい事はないのだけれど。

 しかし、男の反応は私が想像し考え用意していたのと、いくつか一般的な対応を思い浮かべた内容と、違った。

 一つも当てはまらずに、違った。まるで、男の浮かべる笑顔のように。

「そうか……」

 男は笑顔で言う。

 家出をしたと言った、笑えない状況でありながらも。

「さっき、ここに来る理由聞いたよね?」

 男はシャベルを握る。使い込まれ、先端が土で汚れている。手元の部分は赤く、全体的に安物ではない感じの、使いやすそうな印象。

「実は、まだ言ってない理由もあるんだ」

「言ってない……理由?」

 一瞬にして、全身に鳥肌が立つ。


        ―――言う―――

     ―――笑顔で―――

  ―――男は―――


 嗤っていた。嗤っているのだ。

 顔ではなく、眼が、瞳が、視が、線が、渦が、巻く。

 男の存在が、ただそこにいるだけで嗤っていると錯覚させる。

「僕には恋人がいたんだ。けどね、どうにも僕と彼女は上手くいかなかった」

 私は悪寒を感じながら、男を見る。

 私は危機を持ちながら、男を見た。

 警戒心を持ちだす。あまりにも遅すぎる、手遅れ過ぎる警戒心。

 それまで飄々と、多少達観し世界を斜めに見てやろう位のクールを装っていた私が、ここに来てやっと、危機感を思い出す。どういうものか思い出す。

 置き忘れていた危険の認識を、拾い直す。

 背中が総毛立ち、肌寒さを超えた痺れが腕に広がる。

 肩から肘までに、不可解な違和がゆっくりと走った。

 男は口を開く。嗤ったまま、嗤っていながら。

「僕はこれほどにも愛していたのに、あの子には伝わらなかった。いや、どうやらもう、飽きてしまったのかもしれない。愛することに、愛し合うことに。愛を渡し合う事に。だから、僕は、この場所を彼女に教えたんだ。誰でもない誰にもない場所。渡し渡されない場所。渡し合うことに疲れた彼女なら、きっと好きになってくれると思って」

 男は立ち上がっていた。私を、見下ろすカタチで、影を作り見えない顔の中に三日月の嗤いを浮かべ。

 男の背には、寒気がするくらいの星空。

 私の背後には、怖気がするほどの闇夜。

 光り輝く空の下には、埋もれ失う深い闇があった。

「そうしたら、彼女、ここを気に入ってくれたんだよ。ああ、そう、彼女は前と同じに、前と同じで、あの綺麗な顔で、あの綺麗な心で、あの綺麗な瞳で、あの綺麗な唇で、好きだって言ったんだ。愛を運んでくれたんだ。また、好きだと言ってくれたんだよ」

 喉が、渇く。小川の音が聞こえる。

 けれどもう、私はその小川の水を飲みたいとは思えなかった。その水が、汚らわしい。

 どうして気付かなかったんだろう。小川の水は、もはや、先ほど見た小川と違う。

 キレイスギテ、オカシスギテ、ノミミズトハ、オモエナイ。

「嬉しかったよ。嬉しかった。だから―――殺したんだ」

 ストンと、ボールがポケットに落ちたように、ゴールへと吸い込まれたような自然さで、男は言った。ストンと、あまりにあっさり、ストンと。違和感を覚える暇がないほどに。

 そして裂ける。

 三日月に裂ける。

 真っ黒な顔に、白い眼鏡と赤い口。

 有り得ない光景が視界に染みていく。

 『嗤い』だと気づくのに、数瞬の時が必要だった。

 それくらい、それは笑顔であるのに、笑顔でなかったのだ。

「ころ……した……」

 嗤っている男。

 月下に照らされ、異様で異常を掛け合わせた雰囲気を纏い、滲み出る嫌悪に似た空気を醸し出し、なおも漏れる歓喜を顔面に張り付けていた。

「好きだったのに、殺したんですか……?」

 冷静に聞いていた。いや、冷静だったのだろうか。ただ、男の告白を冗談や嘘だと思っているのではなく、真実だと理解している上で、私は尋ねた。

彼女に、嫌いと言われたなら解る。どんな事をしても、想いが伝わらないのなら、逆上して、殺してしまったのかと、思った。

 それは仕方ない。仕方なくない、仕方ないことだ。

 まるで私とは違うけれど、少しは近い立ち位置なのだから。

「好きだから、殺すんじゃないか」

 けれど、男は嗤って、嗤って喋る。愚問を当然と平然に。

「僕達は、最初の頃、お互い愛し合っていたんだ。それなのに、時間がその愛を冷ましていく。なら、好きという気持ちがあるうちに、殺してしまえば永遠じゃないか」

 時間なんか、簡単に殺せるんだから――と、男は言った。

 今度は私が、ああ、そうか、と。やっと解った。単純なことじゃないか。

 難しく考える必要もなく、穿って見る必要もなく、もっと純粋に感じていい。

 狂っている。この男は、狂っているだけだったんだ。

 最初から狂っていたのか、愛が狂わしたのか。

 愛が冷めるからと、殺した。

 愛があるからと、殺した。

 あってもなくても一緒じゃなくて、きっと、愛がなかったら殺さなかったんだろう。

 愛があるから残すために殺して、愛が変わらないために殺す。

 それは狂気と呼んでいいもので、それは純愛と呼べるものでもあったんだ。

 一途で本気で健気で純真で掛替えないモノ。

 それが解っても、解らない。

 解らないことは、怖い。

 私はこの同じ人殺しである男の思考が、理解できない。

「じゃあ……ここには、その人が……」

「そう、今も僕を愛しながら、眠っている」

 嬉しそうに、大好きな人を語る口調。それだけが大切で大事なことだと言いたいのか、それしか考えていないだろう台詞。

 徐に、男はシャベルを構えた。先端が土で汚れたシャベル。ナニかで汚れた先端。

 男は優しい狂気に満ちた笑顔で、穏やかな口調で頼みごとをする。

「彼女に会ってやってくれないかな。ほら、ここって人なんて滅多に来ないから、彼女も淋しいんだ。一緒にいてくれるだけでいいから」

 それは遠回しと言うにも直接的と言うにも当てはまらない、なんとも微妙な言い回し。

 だが、結局は同じ意味に行き着く。彼女と同じ場所に行き着く。

「………嫌、です」

 拒絶の言葉。私は、ここに来て遅ればせながら、やっと男が何をしようとしているのか気づく。殺そうとしていることに気付く。警戒心や嫌悪感、危機感を覚えていながら、男の狂気ばかりに目がいき、肝心の身の安全を考えるのを忘れていた。忘れていなくとも、今更遅いのだが。

 男はただ強者が弱者をいたぶる快感を味わいたいとか、そんなことで話をしているんじゃない。愛の告白を聞いて欲しくて語っているんじゃなくて、これから何が起ころうとも、本気であることを教える為、語っているんだ。

 私は殺されようとしている、その事実を、男は親切にも教えていた。

「大丈夫、彼女は人付き合いが上手い方でね。初めての人とでも、仲良くやってたよ。君の前に来た子も、きっと今じゃ彼女と仲良くしてると思うよ」

「……………え?」

 止まるとまる。思考がトマル。

 聞き捨てならない台詞。聞き逃しちゃいけない台詞。

 決定的で確定的。どうにもならないどうしようもない結論。

 目前の狂人は、今、何を言ったのか。

「前も女の子でね。君と同じように家出してきたらしいよ。あの子は君と違って、なんの荷物も持ってなかったけどね」

 何でもないことのように語る男。

 恍惚とした表情も、無念な想いもなく、ただ彼女に会わせただけ、その一点で話をする。

 ただその一点が、どうしようもなく、常人には理解できない領域にあった。

「その子も……」

「一人で寂しかったんだろうね。泣いていたから」


 普通に


      ――コロシタ――


                 と男は言った。


「今時の子は、携帯の電波が届かないと不安みたいだね。ここって電波が届かない場所だから、凄い不安がっていたな。ああそうそう、君はどうかな? あの子、携帯にストラップを沢山付けてたんだ。あれも、今時の女の子なら普通なのかな? 一つ貰って、シャベルに付けたけど、僕には理解できないなぁ」

 月を背後に、男の姿は歪に曲がる。座り込む私の顔を覗き込む。思わず身を引いてしまう。

 眼前に突き付けられた笑顔という単語を張り付けた表情が、怖くて怖くて仕方なかった。

「なんで、なんで殺したの……」

 意味もない、ただ会話を続けてさえいればまだ生きていられる、そんな考えから私は言葉を紡ぐ。だがそれは、男の狂気をより一層際立たせ、恐怖心を尚私の心に突きたてるだけだった。

「うん? だから、彼女が一人だと寂しいからだよ。彼女のためだ。僕は彼女の為だったら、彼女を殺すことも厭わないよ。それが彼女の愛のためなら、僕は喜んで手を下す」

 男の瞳は恍惚に彩られ、光が呑み込まれていく。

 醜悪なはずの思想は、蛍光色に近い輝きを発していながらも、肌寒い感情を呼び起こす。

「それに、殺す度に思い出すんだ」

 男の口が開いて閉じ歪に変化し言語となる。

 ――――カ ノ ジ ョ ヲ ア イ ス ル キ モ チ ガ――――

 彼女のために殺す。

 彼女のせいで殺す。

 男の行動起因は彼女であり、男の行動原理は愛のためだった。

 彼女が淋しくないように、愛を思い出しながら殺すのだ。このまま、私を。

 無慈悲に無情に無感動に、慈悲と愛情と感動を胸に秘めて。

 男は信愛の情を持って、聖職者の如き感情を持ちながら、悪逆非道の王のように断罪する。

「じゃあ君も、僕と彼女の愛の為に、死んでくれ」

 シャベルが振り下ろされた。

 シャベルの先端に色が付く。

 シャベルは汚れた。

 赤く黒い、鮮烈で汚濁な色彩に。


      ∴      ∵


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