一章 録音
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電車は最終だった。都会とは言えないが、田舎でもないこの中途半端な町は、深夜になると皆眠るらしい。実にいい子ばっかりだ。頭を撫でてあげたいくらい。そのいい子ちゃん達のお陰で、私は日帰りができなくなるのだが。
まあそんな事を悩んでいても仕方ない。むしろこの時間に電車があったのが僥倖と言ってもいいだろう。車内を見回す。電車に乗客は殆ど乗っていなかった。匂いの心配はまずクリア。問題は、あと二時間弱の暇つぶし。私はこの鉄の箱に乗って深い闇の森へと向かうのだ。
どこら辺に父親を埋めようか。
入ってすぐだと見つかりそうだし、それでもあまり深く入ると、私が遭難してしまう。遭難できるような山だったか覚えてないが、夜の登山は危険だろうが、そこはケースバイケース。適当にやっても大丈夫かもしれない。実に無計画に私の計画は進んでいく。障害に躓かないのが不思議だった。そこで引っかかるものがあった。障害……障害……。うーんと頭を捻って考えても、私は何が引っかかるのか解らない。まあ、こういう場合は大した問題じゃないと相場は決まっているし、別にいいかと楽観に軽率を重ねた気持ちで思考を放棄することにした。
あれ? それって結構危ないような?
そんなとりとめのないことを私は二時間弱も考えて―――いられる訳がない。二十分もしないうちに飽きる。飽きるというか尽きる。どうしよう、こんなに暇になるとは思わなかった。私はあと残り一時間半近く、この苦痛と戦わなくてはいけないのか。父親の解体でさえ、こんなに苦痛は感じなかったのに。携帯を弄っていてもいいが、これから森の中に入るのに電池切れになる事態は避けたい。こういう暇な時、考えてしまうのは大抵嫌な事、好きな事、これからの事だ。勝手な言い分だけど。私の場合、これからの事を考えてしまったから、後は好きな事か嫌な事か。
好きな事を考えるといっても、特に思い浮かばない。
嫌な事を考えてみても、特に何も浮かばなかった。
……手詰まり!?
どうしよう、このままじゃ本当に暇で死んでしまうかもしれない。私はこういう何もない時間が苦手だ。何か考えていたり、やってないと逆に疲れてしまう。
そこで私は、思い出に耽る事にした。まだ家族三人楽しく暮らしていた頃。父親も私に暴力を振るわず、笑顔で私に話しかけていた頃を。
たまに、思い出してしまうあの頃の記憶。
今でも、夢に出て忘れる事を許さない記憶。
暇潰しにはちょうどいい。
こんな私にもちょうどいい。
これが好きな事か解らないけど、
これが嫌な事か解らないけど。
では、不幸と不運と不実と不義を後ろ盾にして、
昔話を、始めよう。
あれは、私がまだ小学生に入ったばかりの頃。
十年も前の話。
始まりは、学校から家に帰る場面から始まる―――
ただいま、と私は世間一般の子供と同じように家に帰っていたと思う。今なら奇をてらった帰宅方法も考えなくないのだが、小学校にあがったばかりの私は、そんな事まで気が回らず、実に普遍性を伴った言葉と行動で帰宅していた。今考えてもする必要はなかったのでしなくてもいいのだけれど。その頃は今と違うアパートで暮らしていて、帰る度に母親が「おかえり」と出てきてくれた。
「おかえり」
「ただいま」
私はその日、母親に聞かれたのだ。
「今日お母さん買い物に行くけど、ニーニーは一緒に行く?」
……そういえば、ニーニーと言い出したのは母親だったかもしれない。それも今思うと、いらんことをと思う。私は行くと言って母親の買い物について行った。母親が向かった先は、近くのデパート。そこで私と母親二人は、色々と見て回ったはずだ。洋服だったり、おもちゃだったり。最後に食料品を見て、父親が好きだけど強くないビールと夕飯の材料を買って帰宅する事にした。その頃の家の状況は、中流家庭程度の、不便はないがあまり余裕もないという、そこそこの暮らしだった。
幸せだったと思う。
幸せだっただろう。
けれど、その頃の私は、その日常が当たり前過ぎて、幸せと感じていなかった。なんて愚かな、勘違い。私と母親は家に帰ると、母親は夕飯の支度を、私は一人で、何かしていたと思う。父親の帰りがいつもより遅く、先に夕飯を食べていると、電話が鳴った。
それは父親の勤め先の知人からだった。どうやらその人と父親は飲んで、今家に帰らせたと電話してきたらしい。それから少し言い争いみたいな事になったので、謝っておいてくれと言っていた。母親はその人にお礼と伝言の意思を伝え電話を切ると、父親を迎えに行こうと私を連れて外に出た。それがきっと、間違いだったのかもしれない。
その日は強い風が吹いていた。父親がいつも行っている居酒屋のルートを辿っていると、程なくして、近くの林に倒れこんでいる父親が見えてきた。 私と母親はお父さんと言い近づくと、父親はむくりと起き上がり、母親に向かって一言、「俺は……知っているぞ」と酒臭い声で小さく呟く。母親も私も何のことか解らず尋ねると、突然父親は母親に掴みかかり、声を荒げて叫んだ。
「お前がアイツと会っているの、知ってるんだからな!!」
支離滅裂。意味不明。お酒を飲んでいたせいか、父親は冷静さを完全に失っており、母親を睨みながら怒鳴り散らす。
母親が掴みかかる父親をなだめ、必至に引き剥がそうと抵抗していると――
――一台の車が、走ってくるのが見えた――
赤い、車に詳しくないので多分、スポーツカーだったと思う。
その車はここらで悪い意味で有名で、毎晩かなりのスピードを出して危ないと言われ、ご近所さんの嫌われ者だった。いつもの通り、その車が通常よりも速い速度を出して走ってくる。その時、父親から逃れた母親が、道路に出た。
照らされる母親。驚く運転手の顔。
人通りが少なく、人も車もあまり通らない道だから、驚いたのかもしれない。
人がいる事に。人が、自分の車の前に飛び出してきた事に。
母親は飛んだ。見た感じでは、母親は咄嗟に腕を出して、身体を守った感じだった。けれど、通常よりもはるかに上回っている速度を出していた車は、その紙のような防御をあっさりと弾き飛ばす。飛んだ方向が林の方なら良かったのかもしれない。それならまだ、土や木がクッションの役割を持ち、助かったのかもしれない。しかし母親が飛ばされた方向は、逆だった。
民家が立ち並ぶ、壁。
母親がぶつかったのが――電柱。
それも頭からぶつかり、日常では中々聞けないゴンッ! と痛々しい音を立てて、母親は、動かなくなった。電柱には、ペイントしたように、赤い、紅い色がついていた。鮮烈で強烈な、白黒の思い出の中にさえ鮮明に思い出せる、染色。
それからすぐに、近くの家から住民が出てきて救急車が呼ばれた。撥ねた運転手の若い男は呆然と母親を見ていた。先ほどまで喧嘩していた父親にしても、同じだった。
二人とも、何が起きたのか解らない、そんな顔をしていた。私もきっと、同じだろう。悲鳴さえあげず、母親に駆け付けることさえできず、ただただ茫然と、茫然自失に見ていた。
それからはあっという間に過ぎていく。
母親の死亡。母親の葬儀。母親の埋葬。
今回の事は運転手の過失に当たるので、莫大な慰謝料が渡された。そして母親の保険金。しかし父親は、葬儀が終っても、まるで夢を見ているように、呆然としていた。
暫くして、父親は会社を辞めた。ある日突然、会社に行かなくなったのだ。会社側も何かあったのか、莫大な退職金を渡してきた。あとで聞いた話だが、あの運転手は父親が働いている会社の社長の息子らしかった。だから通常よりも高額の慰謝料で、割高の退職金だったのだろう。口止め料、とは違うかもしれないが、それでも大袈裟な問題にしたくないという、息子の不始末に対する親の感情が見えたのは事実だ。
慰謝料。保険金。退職金。
たった数日に、沢山のお金が集まった。それこそ、父親が働かずとも私が大学に行けるくらいは大丈夫なほどに。けれども、父親がこの調子では当時小学生だった私は生きていけなかった。まだ弱い。まだ強さを持てない。世の中なんて概念さえよく解っていない、子供では。
そんな子供の私一人じゃ、生きるということさえ難しい。だから、父親の母親が、私の祖母にあたる人が一緒に住むことになった。祖母はいい人だった。未だショックから立ち直れない父親を、優しく見守った。それが正しかったのかは、解らないけど。
その頃の父親は、私が近づくと、毎回同じ事を繰り返し口にしていた。
「母さんは、誰とも会ってなかったんだな……」
あの時の原因。あれは、酔っていた父親の妄想だった、と思う。同僚に何を言われたのか知らないが、真実の実際はどうだったか解らないが、妄想だと父親は信じていた。今更ながら、手遅れながら。それを、母親が死んだあとに気づく。そして、父親は続ける。
「俺が……俺が殺したんじゃ、ない……」
警察の間では、父親が突き飛ばしたという考えもあったらしい。母親が自分から飛び出したのではなくて、突き飛ばす。例え突き飛ばしたとしても、偶然に通りかかった車に衝突したこともあり、殺人というわけではないけど。しかし、父親がこんな状況で、さらにあの運転手の若者は毎日法廷速度を無視したスピードで走っているという事で、有耶無耶になった。有耶無耶に、なってしまった。なってはいけない事が、有耶無耶に出来てしまった。
それから五年。父親は依然丸一日ボーとしたまま、私は普通に暮らし、祖母は、確かその頃、倒れた。寿命だったのだろう。あっけないほど簡単に逝ってしまった。またも、祖母の保険金が降りる。そして財産が転がり込んでくる。財産と呼べるほどのものはなかったかもしれないが、それでも祖母が今までの人生で貯めてきた貯金を、私達は手に入れた。それでも、父親は何もしなかった。
そして、そして……。
今のアパートに引越し、私が中学にあがると、父親は突然凶暴になった。それまでが嘘のように、突如暴力を振るうようになった。私は恐怖を覚えるよりも、痛みを怖がるよりも、何より不思議でしょうがなかった。訳が解らない、暴力を振るわれる毎日になっても、暴力よりもそちらの方が気になった。
なぜ今に? なぜ暴力を?
自殺やどこかに消えるというのは、まだ理解できた。母親が死に、祖母が死に、父親も、どこかに消えてしまうというのは、なんとなく理解できた。普通なら有り得ないことだろうけれど、私の周囲にいる人は大体がそうやって消えている。だから私は、父親もきっと同じなんだと思っていた。だからこそ、こんなにも凶暴に、こんなにも理不尽に、暴力に訴える理由が解らなかった。
酒を飲み、私を殴る。酒を飲むといっても、本来父親はそれほど飲める人じゃなかったから、飲む量なんてたかが知れていた。父親にとって酒は、ただの儀式。私を殴るという儀式に、必要なものだっただけ。そんな生活が、四年続いた。父親が変わった理由は、未だ解らない。それでも理由を考えるとなると、きっと、耐えられなくなったのだろう。
生きている事に。生きていると、実感できない事に。
それとも、生きていると実感する事に。
何もしない一日。慰めてくれる人がいなくなって、怠惰に生きるだけの日々。
生きていると言うには、難しかった。
生きてないと言うにも、難しかった。
近くには、一緒に生きてきた人が残した、形見いる。私が、いる。
だから、父親は痛みという形で、実感したかったのかもしれない。殴る痛み。不安を覚えた人が、リストカットするように。自分にではなく、誰かに対しての暴力を持って。
酒は、それを助長する為に過ぎない物だったのだろう。父親は決してお金を無駄に使ったりはせず、私に対してだけ、生きる意味を見出してきたのだ。
もう考える思考も、なくなった頭で。
「○○駅○○駅ー」
降りる駅の名前が聞こえた。思い出作戦は成功のようだ。ニ時間があっという間。私はキャリーケースと鞄を持ち、駅に降りる。誰もいない無人のホームで空を見上げる。
空に輝く鏡は三日月。
沢山の星が夜空を埋めている。
私はキャリーケースをガラガラと引きながら、改札口に向かう。当り前のように人気はなく、寂しい所だった。過去を思い出すのはやめにして、今は今やることを確かめながら、ガラガラと向かおう。
周りには、誰もいない。静かな闇が、私を待っていた。