一章 滑稽な殺人
寝静まる、とはこんな夜のことを言うのかもしれない。
人気はなく、足音も話し声も、人が出す音は一切ない。多くの者が明日への英気を養うために心休め始める時刻。街灯が照らす世界では暗闇が我が物顔で存在し、人の営みでは見渡す事の出来ない現実を顕在化させている。どれほど科学が進もうと、世界には解明できない現実があるとでも言うように。
そんな静寂の世界に響く、異質な音。
――暴力の音が、木霊する。
道路に人影はなく、辺りを見回しても人の姿はない。その音はとあるアパートに一室から、固いが柔らかい、同じ性質のモノ同士がぶつかり合う音が、闇夜に響いていた。
「はぁっ……はぁっ……」
男は荒い息を切らせ、一方的に、暴力的に、殴っていた少女を見下ろす。倒れ伏した少女は痛みに耐え、小刻みに体を震わせていた。花弁のように乱れ広がる黒く艶やかな髪。その美しさは可憐の言葉が当てはまり、だが現状の光景からは儚さよりも凄惨さが伺えた。
絵画にでも存在するその美しき存在を、しかし男に美学は理解できないのか、少女の腰近くまである髪を無造作に乱暴に掴み、無理矢理に顔を上げさせる。
少女を見つめる男の瞳に宿るのは燃え盛る業火の憎悪と狂気――ではなく。
恐れ縋るような、戸惑いの瞳だった。
「はぁ……はぁ……わ、解るか。お、お前が悪い子だからっ……悪い子だから!」
乱雑に少女の髪を掴み、唾がかかる程近い距離で絶叫する。それは何処か少女に言い聞かせるのではなく、自分は悪い事をしていない、自分は正しい事をしていると、言い訳にも似た自己の正当化に見えた。
倒れている少女――いや、もう第三者の視点はやめよう。私は殴られた痛みと苦しみに耐えながら、それを聞いていた。まるで懺悔のように繰り返される保身の言葉。暴力を正当化する男、私の父親はまだ何か言っていた。けれどそれは、先ほどと似た言葉であり、壊れたオルゴールのように繰り返しているだけの、意味も価値もない無様な戯言に過ぎない。
アパートの一室。家主はいまだ何か言葉の羅列を口にしている父親と、倒れ付している私の二人だけ。 他には誰もいなく、凶行を止める者はいなかった。
私が受けているのは一般的に虐待と呼ばれるものだと思う。けれど、それに対し不思議に感じる自分がいるのも事実だ。
これは果たして、虐待なのだろうか。
解らない。
ただ、こちらを見つめる父親の眼は―――とても、つまらないものだった。
激しい感情があるわけではない、ただただ何かに脅えるだけのその瞳に、私は退屈を覚える。抵抗なく暴力行為を受けるのは、マゾヒスト的な思考を持っているからではない。女子高生の私が、酒に溺れているとはいえ男性の力に勝てるはずもなく、下手に抵抗した場合、怪我だけでなくさらなる酷い目になることを懸念して黙っているのだ。
だからだろうか、父親がどんな暴力を振るおうと、自分が悪い子だからいけない、いい子じゃないからダメなんだ、という考えはなく、純粋にどうでもいいという考えしか持てなかった。
だからその夜、私が犯してしまった事は、もしかしたら、本当に、心の底から、実のところ、私にとってどうでもいい事だったのかもしれない。
私はいつも通り父親にひとしきり殴られると、夕飯の支度を始めた。こんなふざけたことがいつも通りとなる日常に笑いが込み上げてくるが、笑えるわけがないので無表情に支度をする。父親はまだ何か言っているが、酒を飲みながらなのでさっきよりも奇怪に、先ほどよりも難解な言葉となって部屋の中を飛んでいた。
呂律が回っていないという問題以前。
言葉が回っていない。言葉にさえなっていない。
この生活はある日を起源として成り立っている。
あの日、いやあの日じゃなかったのかもしれない。
もう少し前のあの日。
もう少し後のあの日。
ただ、こんなのはいつもの事だった。
いつもの事と、思うしかなかった。
ネギを刻んでいた手を止め、私は左手に持つ包丁を見る。受けた屈辱と現実から、嫌な感情が心の中から顔を出す。
この包丁で、あそこにいる男を刺せば……この数年間、私は常にその事を考え、そして諦めた。いつも通り、刻むのは肉ではなく野菜。小気味の良い音を鳴らし包丁を上下に動かす。
そう、簡単に諦められる。
冷静に考えれば馬鹿げた事だと理解できるし、他に私が耐える理由として、警察に捕まるとか人を殺すという禁忌が怖いのかもしれない。いくら理不尽な暴力を振るわれようと、一線を超えるには想像以上の覚悟が必要だった。その覚悟も、常識と道徳を覆すほどの力はそうそう持っていない。なんとも情けない話であるが、それは人が過ちを起こさない為の鎖だとしたら、それを千切るのはいささか躊躇われる……というかダメだろう。
人殺しは禁忌だ。やってはいけない。それに比べれば父親が私に振るっている暴力なんて、ただの自己満足。
個人で始まり、個人で終わる。
でも、禁忌だからこそ、それは妖艶な魅力を持っている。
人を惹きつける、魅力を持っている。
そんな事を考える私だが、本当は今のこの状況、この状態を壊したくないのかもしれない。理不尽な暴力を受け、それでもこの生活を維持する理由は、私に生きる価値や意味、そういうモノがよく解らない、それに近い感情を持っていないせいかもしれない。この年頃にはよくある悩みだと聞くが、そう言う彼らだってこの時期は悩みに悩んで悩み抜いたのだから軽く見ないでほしい。大人になれば解ると言っても、今は子供なのだ。何も知らない、何も解らない精神しかないのだから、悩み考えることくらい許されてもいいと思う。
私は人を、人間を見て、いつも思う。
何故、そんなに必死に生きるのだろう?
何故、そんなに生き永らえたいのだろう?
不思議だった。
無理して頑張って生きなくてもいいんじゃないか。名前も顔も存在さえ知らずに解らない、子孫や未来の為に、頑張るのはいい事なんだろう。だって皆そう言ってるし。
けれど、私はそうは思えなかった。
何故、人はそんな物の為に生きて、生き抜こうと思うのだろう……寂しいのだろうか?
一人で生きて、一人で死ぬのが。
一人になり、一人で続くのが。
熱に水滴を垂らしたような音が響いた。耳障りというほどでもなく、ただ緊急を有することだと気づかせる音。鍋を見ると味噌汁が吹き零れそうだった。火を止める。
私は深く、心を落ち着けるために深呼吸する。いけない、いけない。私は包丁を持ち直し、ギュッと、強く、強く握り締める。
また、死にたくなった。いや、死にたくなったのは間違っているかもしれない。
正しくは、殺されたくなった。
いつもそうだ。生きる事について考えると、人について考えると、何となく、不意に、殺されたくなる。気持ち悪い。自殺は私がもっともキライナコト。これもこの年代にはよくある思想だと聞いた事があるけど、自殺を厭がるなら良い事だ。というか、私達の年代はどれだけネガティブな思想を掲げているんだ。ポジティブな人間はいないのだろうか。ただそれでも、私は死ぬのが嫌とかそういう思いがあるわけではないけど、自殺はなんか、許せない。
終わりを自分で決めるなんて、簡単だ。
自殺なんて、自ら殺す……殺人と、一緒。
禁忌である、行為なのだ。
いつも通り、変わらず続く日常を迎えるため、私は夕飯の支度が出来たことを伝える。父親を呼ぶ為に振り返ると、そこには身体を震わせ、お化けでも見たかのように、眼球を丸々と浮き立たせ呆然とする父親の姿があった。
――なんだか……気持ち悪いなぁ……。
父親を見て、その哀れで醜い姿を見て、思わず微笑んでしまった。可愛いとは、思えないけれども。
そんな私の態度が気に喰わなかったのか、父親は一層身体を震わせると、制御しきれない口元から汚らしい涎を撒き散らしながら喚いた。
「お、お、お前もかぁっ!!」
「……?」
どうやら相当酔っ払っているらしい。しょうがない、またひとしきり殴られてから夕飯だ。食事が不味くなるんだよなぁと考えながら、殴りかかってくるのを待っていると、父親は一向にその場から動こうとしなかった。それこそ、お化けのような理解不能な存在を前にした人間が、猫が道路に飛び出し車に驚き固まってしまうような、予想外の出来事に身を硬直させるのに似た反応。
……どうしたのだろう。いつもなら、何か投げつけてくるか襲い掛かってくるのに。動かないどころか、父親は顔を青ざめて、激しく狼狽してコチラを見ていた。
「き、くっ、くしょおぉぉぉ! そっ、そそ、育てた恩を! わっ、忘れやがってぇぇ!」
……本当に何を言っているのだろう。今日は悪酔いしすぎだ。声をかけようと、私は左手を上げると、ソレが視界に入る。
――その手には、鈍く光る包丁。
モノを刻み切り分け痛みを伴って失わせることの出来る、命を狩る凶器。
「………」
暫し思考停止。何を持っているか再確認する。
そして……ああ、そういう事か……と、理解する。
どうやら父親は、私がこの包丁で自分を刺すのだと思っているらしい。そう思うと、また笑えてきた。普通の家庭で常備されている道具であるモノを、人に向けるなど普通なら考えないことを、父親は考えている。向けられる理由があると、考えていた。
――なんだ、悪い事をしている自覚、あるんだ。
私自身気づかないところで、気づけないところで、理不尽という感情が生まれた。
誰も気づけない、僅かな想い。私のことなのに、私にさえ気づかせない憤り。
いつまでもこんな下らない事をしていたら折角作った夕飯が冷めてしまう。私は包丁を置こうと、持ち上げた手を動かそうとしたが――
「う、うわぁぁやぁっゃぁああぁあぁぁぁ!!!!!!!」
父親が飛び掛ってきた。豚の断末魔にも似た悲鳴を上げ、しかし、相当酔いが回っているのでフラフラと浮浪者みたいな足取りで近づいてくる。私はどうでもいいので、いつも通りなすがままにされよう動かず来るのを待っていたのだが……、
――ズブッ――
現実は、面白いほど滑稽な結末を持ち出してきた。
「がっ」
「…………あ」
柔らかい、肉が抵抗する力が手の中に広がりながらも、肉を刺す感触が伝わってきた。
父親は何処をどう間違えたのか、私の上げっぱなしの腕に向かって、倒れこんできたのだ。私も面倒だったので動かなかったのが原因だ。失敗失敗。刃物を持ったまま、持ち上げたままでは危険だということは知っていたが、まさか刃物に向かってくる人間がいるとは考えなかった。
「グ、ゲ……ガ……」
奇怪な言語を発し、父親は私の方に倒れこむ。私に父親を支える力などなく、一緒に後ろ向きに倒れてしまう。これが若い男で彼氏などだったら甘い空気が流れるのだが、いかせんむさい中年なうえに相手は父親だ。そんなもの超高速で通り過ぎていく。光速なんか遅い遅い。時代はニュートリノ。テレビの受け売りでよく解らないけれど、光よりも早いと聞いたことがある。でも実際は間違いだったなど言っていた気がするが、興味がなかったので覚えていない。
益体のない、無意味な思考を展開しながら、私は無言で天井を見つめる。それはもしかしたら、現実逃避だったのかもしれない。
何が起こったのか解らない。
何を起こしたのか解らない。
――そんなわけ、ない。
何が起こったのか解る。
何を起こしたのか解る。
そして――
「あーあ」
上に乗っかっている父親を見て、私は、
「服、汚れちゃった」
血がドクドクと流れ続ける父親の脇腹を見て、どうでもいい父親よりも、私服が一枚ダメになるほうが深刻だった。
――この日から、私の日常は変わっていく。
良くも悪くも、私自身の手によって変わった。




