二十話
ミーン、ミーン、ミーン……。
蝉の騒がしい鳴き声が聞こえてきた。それと同時に眩しさも感じた。
もう、朝か、そう思って目を開ける。
夜遅く、というか、朝になる直前くらいまで優希ちゃんとあの、芝居のような普段じゃやらないようなやり取りをしていた。それから眠ったので、いつも起きる時間よりも遅いのは明らかだった。
今、何時だろう、と枕元に置いてある時計を見てみる。
時計は、今の時間が八時半だと告げていた。母さんはもうすでに仕事に行ってしまっている時間だ。
開けっ放しにしていたはずの扉が閉まっていたので一度、僕のことを起こしに来てくれたんだと思う。どうやら、僕は結構、ぐっすりと眠っていたようだ。
優希ちゃんは?、と思って少し首を動かしてみるとすぐに見つかった。ベッドの横に浮かんで、すやすやと気持ち良さそうに眠っていた。
起こすのは悪いかな、と思い、僕は静かにベッドから出た。先に朝ごはんを食べて来るためにだ。
静かに、足音を立てないように床に足をつける。それから、ゆっくり、ゆっくりと部屋から出て行った。
いつもは廃校に行くために曲がるところを素通りして僕たちはさらに山の上を目指していく。
今日は、優希ちゃんの両親の思い出の場所に行く日だ。夕佳に電話をしてみたけど、今日も用事があって来れないようだった。
優希ちゃんは僕の前にいることが多いけど今日は並んでいた。でも、だからといって何か違和感があるとかそういうことはない。ただ、単純に僕がこうして並んで歩けることが嬉しいからなんだろうけど。
一晩、優希ちゃんと話をしたおかげか優希ちゃんのことが好きだ、という気持ちを意識しながらも普通に振る舞うことができるようになっていた。
「今日は晴れてくれてよかったね。優希ちゃんが望んでたのはこんな天気なんだよね」
「うん、そうだよ。これくらい晴れてたら綺麗に見えると思うんだ」
そう言って優希ちゃんは空を見上げた。僕もつられて上を見る。
頭上に広がっていたのは眩しいくらいの青空だった。雲ひとつ見えない。夕日になると次の日が晴れるというのは本当なんだな、と再確認させられる。
「……ねえ、広也はさ、不安になってたりしない?わたしは、ちょっと、不安、なんだ」
突然の問いと心情の暴露。僕はそれに驚いてしまう。突然そんなことを聞かれたから、ではない。僕も漠然とだけど不安を抱えていたからだ。
彼女が昨日の夜、僕に不安だ、と言ってから僕も抱えるようになった不安。その不安の正体はわかっているような気がするけど目を合わせたくない。
「……って、わたしは何、言ってるんだろうね。お父さんとお母さんの思い出の場所に行けるのに不安だなんておかしいよね」
不自然に笑い、何かを誤魔化すように言った。
「うん、そうだよ。いろんなことを思い出す前だったらともかく、今は不安を感じる必要なんてないよ」
僕も自分自身の不安を隠すようにそう答えていた。
一時間ほど歩いて、開けた場所についた。
そこの中央には大きな木があった。そして、木の後ろには僕の住んでいる町が景色として広がっていた。
ここには初めて来たはずなのに一度来たことがあるような、そんな気がする。
「……ここが、お父さんとお母さんの思い出の場所、なんだ」
優希ちゃんが呟くように言った。なんだか、嬉しそうだとは感じさせられないような声だった。どうしたんだろうか。
「ねえ、広也はさ、ここの場所にとある伝説があるって知ってる?」
「ううん、知らないよ」
優希ちゃんの方を向いて答える。優希ちゃんの表情は悲しそうに見えた。
「そっか。そうだよね。広也こっちには引っ越してきたばかりだ、って言ってたもんね」
何かに納得したようにうんうん、と頷く。
「ここで、二人が強く同じことを願ったらその願い事が叶うらしいよ」
教えたいから教えている、というよりは、何かの訪れを遅れさせたいために話しているような感じだ。
「ここで子どもの頃にお父さんとお母さんはずっと一緒にいようって誓ったんだって。だからね、二人は一緒に死んじゃったのかな、って思ってるんだ。……死ぬときまで一緒じゃなくたって、いいのに、ね」
優希ちゃんは笑顔を浮かべていた。だけど、声は揺れていて、目元には何か光るものが浮かんでいた。
「お父さん、と、お母さん、が死んじゃったから、わたし、は寂しかったん、だよ……。寂しすぎて、お葬式が終わった、次の日に、お母さんのハンカチと、お父さんのライターを、持って家から、飛び出しちゃったんだ」
言いながら彼女はポケットの中からハンカチとライターを取り出す。それは昨日見せてもらった、優希ちゃんの両親の形見、だ。
「なんだか、よくわかんないけど、ね。わたし、この二つのものを、ここに、持ってこなくちゃ、って思ったんだ。なんだか、ここに呼ばれているような、気がしたんだ」
そう言って、彼女は中央の木へと近づいていく。
僕は彼女をそちらへと行かせてはいけない、と思っていた。別に悪いことが起こるわけではない。僕個人が望まないことが起こるんじゃないだろうか、という予感だけがある。
そんな、曖昧な予感だったから僕が出来たのは優希ちゃんの方へと手を伸ばすことだけだった。
「お父さんもお母さんも子供のころから本当にお互いのことが好きだったんだろうね。信憑性のない伝説なんかを信じてこんなところに来ちゃってさ」
彼女は木の表面を優しく、撫でる。
「……ねえ、広也。今までわたしのわがままに付き合ってくれて、ありがとう」
少し悲しさを帯びた声音で告げられる言葉。
「なに、言ってるの?それじゃあ、まるで―――」
―――お別れの言葉みたいじゃないか。
そう思った。だけど、口からその言葉を言うことは出来なかった。
怖いから、口に出してしまったら現実のものとなってしまうんじゃないだろうか、と怯えてしまっているから。だから、言えなかった。
「広也に出会ってからは楽しかったよ。幽霊になってから一度も人と関わってなかったから。それに、わたしは……」
そこで、彼女は頭を振って言葉を止める。
「ううん、やっぱり、いいや」
そう言って、彼女はその場にしゃがみ込みハンカチとライターを木の根元に置いた。
そして、僕と顔が真っすぐに合うように浮かび上がり、
「とにかく、広也、今までほんとに、ありがとう」
綺麗な、見惚れてしまうほど綺麗な笑顔を浮かべた。そして、呟くような小さな声で言った。
「さよなら、広也―――」
その言葉の直後、彼女の体が薄れ始めた。
「優希ちゃんっ!」
僕はその光景に驚き、彼女のもとへと駆け寄る。そして、無意識のうちに彼女のことを抱きしめていた。
彼女の姿は薄れているけど、まだ、こうして抱きしめることは出来た。それだけのことなのに、少しだけ安心をしてしまう。
たぶん、これから僕たちは永遠の別れを告げてしまうんだと思う。優希ちゃんの成仏、という形で。
なんとなく、こうなるとは予想していた。彼女が目的を達成したそのとき、消えてしまうんじゃないだろうか、って。
「ひろ、や……?」
驚いたような、呆然としたようなそんな声が聞こえてきた。
「なんでそうやって、一方的にいなくなろうとするの?」
彼女を抱きしめたまま聞く。
「だって、辛いから、悲しいから、こうしないと、わたしは自分の目的が達成できない、と思ったから……」
「そう、なんだ。……でも、どうせなら、もっと話をしてからの方がよかったな、って思ってるんだけど」
「それは、わたしだって、そうだよ。広也ともっと話をしていたかったよ。どうせなら、ずっと、ずっと、話をしていたかった……」
悲しそうな声で言う。彼女の思いは僕の思いと同じだった。悲しくなるくらい、同じだった。
「でも、広也は生きててわたしは死んでて相容れない存在なんだよ。だから、別れが来るのは早いんだよ」
「僕たち、もっと別の形で出会えていればよかったのかな?」
「うん、そうすれば、ずっとじゃないけど、もっともっと長い間一緒にいられたかもしれないね」
もう、僕たちはこのまま別れない、ということは考えていない。考えることが無意味だとわかっているから。
だけど、僕には伝えたい想いがある。この想いは別れてしまえば意味のないものだけど、それでも、伝えたい、という想いがある。
「優希ちゃん、僕はね、別れる前に、言いたいことがあるんだ」
僕はそう言いながら抱き締めるのをやめて彼女の肩を掴んで見つめあうような形になる。
「なに?」
なにかを、怖がるように僕の瞳をじっと見ている。
「僕はね―――」
ここで、一度深呼吸をする。そして、僕はゆっくりと口を開く。
「―――優希ちゃんのことが好きなんだ」
僕は、そうして、想いを伝えた。
これだけは、伝えたい、とそう思っていた想いを。