十八話
山の坂道を上っていく。隣には優希ちゃんがいる。
ここは、どこだろうか、と思って辺りを見回してみる。だけど、僕達が進む先以外はぼんやりとしていてどうなっているのか、というのがわからなかった。
それなら、どうして、ここが山の坂道だと僕はわかったんだろうか。
考えようとして、すぐに、どうでもよくなった。何故だか、いきなり考える気がなくなったのだ。
僕たちは足を止めずに何も喋ることなく坂を上っていく。いや、よく見てみると、優希ちゃんの口は動いている。だけど、声は聞こえてこない。僕は一言も喋っていないはずなのに楽しそうだった。
でも、そうじゃなかった。僕が気が付いていなかっただけで、僕自身の口も動いていた。そして、同様に声は出ていなかった。
僕は奇妙な感覚に捕らわれていた。だけど、それもさっきと同様に霧散してしまう。そう考えることをこの世界が拒むかのように。
と、不意に強い光が差し込んできた。僕は目を開けていられなくなり視界が真っ白に染まる。
それから、ゆっくりと光が収まってゆく。やがて、目を開けることができるくらいの明るさとなった。僕はゆっくりと目を開けた。
そして、視界に入ってきたのは開けた土地と、大きな木、そして、ぼんやり広がる景色だった。
優希ちゃんはいつの間にか木の下にいた。僕が目をつむっている間にあそこまで行ったんだろうか。
優希ちゃんは口を動かしているわけでも、体のどこかを動かしているわけでもない。それなのに彼女に呼ばれているような気がして木の下へと向かっていく。
たったった、と足音が思っている以上に響いた。この世界は不自然だ。そう思ったのに、またすぐにそういった考えは霧散してしまう。
ほとんど頭の中が空っぽとなった状態で優希ちゃんの方へと近づいていく。
そして、優希ちゃんの前に立つ。そうして、向かい合うような形になる。
何故だか、優希ちゃんは恥ずかしそうに顔を俯かせていた。
ざわぁぁ、と木が風に揺られる音が不自然に耳で響く。けど、それ以外は静寂だった。
優希ちゃんが顔をあげる。その顔は赤く染まっていて、それでいてなんだか強い意志が込められていてどきっ、とさせられた。
そして、ここにきて初めて声を聞いた。
『広也』
それは僕の名前を呼ぶものだった。どこか曖昧なだけど、真剣な響きを持っていた。
『私ね―――』
強い風が優希ちゃんの髪を撫でる。そして、次に聞こえてきた声は、
「広也のことが大好き、なんだ」
とても鮮明だった。
僕は優希ちゃんの声ではなくその内容に驚いてしまった。
優希ちゃんが、僕のことを好き?それに対して僕はなんと答えればいいんだろう。
なんでもいいから、言おうと思い、口を開こうとする。だけど、その直前に突然、視界が真っ黒になり―――
―――僕は見慣れた自分の部屋にいた。
いきなりのことで僕は混乱してしまっている。だから、さっきのが夢だと気がつくのに少し時間がかかってしまった。
それにしても、さっきの夢はいったいなんだったんだろうか。
優希ちゃんと山道を上って、大きな木のある場所につき、そこで―――
―――優希ちゃんに、大好き、なんだ、と言われた。
そこまで思い出した途端に、僕の顔が一気に火照ったのがわかった。なんだか心が落ち着かなくなってくる。
とりあえず、少し気持ちを落ち着けるために水を飲んでこよう、と思い上体を起こす。
「あれ?広也、もう起きたの?」
ベッドから足を降ろそうとした時に、優希ちゃんの声が聞こえてきた。
声がしたのは窓の方だった。僕はそちらに顔を向ける。
「広也、顔がなんだか赤いよ?……熱でもあるの?」
優希ちゃんが顔を近づけてくる。僕は、先ほど見た夢を意識してしまいまともに優希ちゃんの顔を見ることができない。
「だ、大丈夫だよ。ちょっと、喉が渇いたから、水飲んでくるね!」
「え?う、うん」
僕はベッドから降り、戸惑ったような優希ちゃんの声を背中に聞きながら逃げるように部屋から出て行った。
台所でコップを取り、そこへと、水道の水を入れていく。水がコップへと注がれる音がなんだか僕の心を落ち着かせてくれる。
と、少しぼーっとしていたらコップから水が溢れ出していた。慌ててて蛇口を閉める。
その程度のことに心を乱されながらも、コップの水を口に含む。それほど冷たくはなかったけど、少し僕の心を落ち着かせてくれた。
それにしても僕はなんだってあんな夢を見てしまったんだろうか。
僕が見た夢、というならそこで働いているのは僕の感情と記憶だけだ。
そこに他人の感情や記憶が関与しているとは思えない。
それなら、僕があんな夢を見た、ということは、僕が優希ちゃんのことを好きだっていうことだろうか……。
そう思った途端にまた、顔が火照り、気持ちが落ち着かなくなってきた。少しだけ心臓の鼓動が速くなっているような気さえもする。
気持ちを落ち着かせるようにもう一度、コップに水を注ぎそれを飲む。今度はその程度では落ち着くことは出来なかった。
どうして、とは思わなかった。ああ、僕は優希ちゃんのことが好きなんだな、と気が付いてしまったから。
でも、いつの間に好きになってしまったんだろうか。出会ったときからのような気もするし、出会ってから少しずつ好きになっていったそんな気もする。
まあ、そんなことどうでもいいか。そんなことを知ったところで何かが変わるわけではないだろうから。
それよりも、優希ちゃん自身はどう思っているんだろうか。これまでの優希ちゃんの様子からして嫌い、だということはないと思う。だけど、それ以上はわからない。
そういえば、優希ちゃんは僕にどう思われているのか、ということを聞いてきた。あの時、僕はどちらかというと好き、という曖昧な答えを返していた。
あの時に、僕が自分の気持ちに気付いていて、その上で、はっきりと好きだ、と答えていたら優希ちゃんはどう、答えていたんだろうか。
気になる。けど、気にしてもわかるわけではない。こういうのを後悔先に立たず、という。
はあ、なんであの時に気がついてなかったんだろうか。今さらだけど、こんな大事な気持ちに気が付けなかった自分自身に嫌気がさしてきた。
「ねえ、広也、なんでため息なんかついてるの?」
「うわっ!」
驚いて声の方を向き、後ずさる。そこにいたのは優希ちゃんだった。
「ゆ、優希ちゃんっ?」
先ほどまで好きだとかそういうことを考えていた相手がそこにいた驚きは僕が思っていた以上だった。優希ちゃんの名前を呼ぶ僕の声は裏返っていた。
「広也、驚きすぎだよ」
怒ったように優希ちゃんは言う。
僕が優希ちゃんのことを好きだと気がついたからだろうか、なんだか、その怒った顔が可愛いと思ってしまった。そして、それと同時に、彼女の顔を見るのが恥ずかしくなった。
「あれ?広也、やっぱり、顔、赤くなってるよ。熱があるんじゃないの?」
そう言って、優希ちゃんが僕の方へと顔を寄せてきた。
「い、いや、だ、大丈夫だよ」
顔をそらして、たじたじになりながら答える。優希ちゃんのことを考えていたからそうなっている、とは答えられない。
このときに僕は気がついた。あのとき、もしも僕が自分の気持ちに気付いていてもこんなふうになっていて正直に言えてなかっただろうな、ということに。
「ほんとう?」
僕がそう考えている間にいつの間にか優希ちゃんの柔らかい右手が僕の額に触れ いた。それも、左手で頬に触れて僕の顔を優希ちゃん自身の方へと向かせながら。
「う〜ん、熱はないみたいだから、大丈夫、かな?」
少し安心したような声だった。そんなに、僕のことを心配してくれていたんだろうか。
いや、そんなことよりも、この状態をどうにかしないと緊張でどうにかなってしまいそうだった。
「あ、あのさ、優希ちゃんって温度って、わかるの?」
とっさに思い浮かんだことを聞いてみた。
「うん、わかるよ。……特に広也の体温は特によくわかるんだよ」
僕の額に手を当てて僕の瞳を真っすぐに見たまま微笑んだ。僕はその表情に目を奪われてしまう。
「……って、へ、変な意味じゃないからね!」
いきなり僕の額から手を離してそっぽを向く。
「あ、う、うん、わかってるよ」
本当は優希ちゃんの言った、変な意味、というのがどういう意味かはわからなかったけど、優希ちゃんが手を離してくれたことにほっ、としてそう頷いていた。
「……」
「……」
そのあとは、お互いに何も言わなくなってしまう。優希ちゃんと二人きりでいる時によくあった妙な雰囲気が場を支配する。
「あ、あのさ、部屋に、戻らない?」
この場の雰囲気に耐えきれなくなったのか優希ちゃんは振り向きながらそう言ってきた。
「う、うん、そうだね」
僕自身もこれ以上この雰囲気でいるのは限界だったので優希ちゃんがそう言ってくれたのはありがたかった。