十三話
「あはは、広也には恥ずかしいところ、見せちゃったね」
やっと落ち着いた優希ちゃんは僕から少し離れた場所に浮かんで恥ずかしそうに笑った。
僕はそんな優希ちゃんの姿にどきり、としてしまった。
「……?広也、どうしたの?」
いつの間にか僕は優希ちゃんの顔を見つめてしまっていたらしい。不思議そうに僕の顔を見ている。
「な、なんでもないよ」
慌てて、僕は顔をそらす。だけど、こんなことをするのは不自然だと思い、優希ちゃんの方へと顔を戻す。
と、そこで、優希ちゃんの目元にまだ涙が残っていることに気がついた。というか、よくよく見てみると、顔全体が涙で濡れていた。
僕はポケットの中からハンカチを取り出して、優希ちゃんへと近づく。
「優希ちゃん、顔が涙で濡れてるから拭いてあげるよ」
と、僕は言った。最初はハンカチを優希ちゃんに渡そうと思ったんだけど、よく考えたら優希ちゃんはものには触れないんだった。かと言って、僕が持っていたからといって優希ちゃんがそれに触れることができるのかどうかはわからない。少なくとも服には触れているみたいだけど、手に持っているものは、どうなるのかわからない。なので、試してみることにする。
その時優希ちゃんが、え?、と小さく言っていたような気がしたけど、気にせずに優希ちゃんの顔を拭こうと万が一のことも考えてゆっくりと頬へと手を伸ばす。
「ひゃっ!」
優希ちゃんがそんな小さな悲鳴を上げた。どうやら、ハンカチは優希ちゃんをすり抜けてしまったようだ。僕の指に優希ちゃんの頬の柔らかい感触がある。
「ひ、広也!い、いきなりなにするのっ!」
怒っているような、恥ずかしがっているような声。それに対して、僕は、
「ご、ごめん優希ちゃん。そ、その、ハンカチがすり抜けるとは、思わなかったから」
慌てて、優希ちゃんの頬から手を離した。何となく予想していたといっても、実際に触れてしまうと、結構びっくりした。
「う、うん。べ、別にわざわざ謝らなくても、いいよ」
何故だか、優希ちゃんも取り乱しているようだった。視線に落ち着きがなく全然関係ないところを見ている。
「あ、ありがとう?」
そして、何故かお礼を言ってしまう僕。
僕と優希ちゃんの間にある雰囲気が妙だった。なんていうか、冷静になれない。もし、冷静になれたとしても、すぐに冷静さが壊れてしまう。
そんな、今まで感じたことのないような雰囲気だった。
「あの、優希ちゃんさ。顔、拭いた方がいいと思うんだけど、どうしようか」
また、同じようなことを言う。だけど、黙っているよりはましだ。黙っていてはこの雰囲気に耐えられない。
「あ、大丈夫だよ。わたし、ハンカチは持ってるから」
そう言うと、優希ちゃんはポケットから女性っぽいハンカチを取り出して、それで、顔を拭き始めた。
どうやら、僕がわざわざ優希ちゃんの拭く必要はなかったようだ。あのハンカチは優希ちゃんが死ぬ前に持っていたものなんだろうか。まあ、そうじゃないと、優希ちゃんがあれに触れる理由が説明できないけど。そんなことを思いながら僕は顔を拭く優希ちゃんを眺めている。
「……このハンカチはね、お母さんのものだったんだ」
顔を拭き終えて、奇麗にハンカチを折り畳みながら言う。その声には悲しさとともに懐かしさがあった。
これから、優希ちゃんが言うことは過去についてだ。さっきみたいな辛い過去ではなく、幸せな、だけど今となっては悲しい過去。
「これ、お母さんの一番のお気に入りだったんだって。お父さんと付き合い始めたとき、誕生日にお父さんからもらったものなんだって。十七年くらい前のものなのにこんなに綺麗なんだよ」
優希ちゃんは自慢の宝物を見せるかのような笑顔を浮かべながらさきほど涙を拭いたハンカチを見せてくれる。
言われたとおり確かにそのハンカチはとても綺麗だった。もしかしたら、ほとんど使っていなかったのかもしれない。ときどき取り出して、そして、昔を思い出す。それだけ、だったのかもしれない。
ハンカチとしてはあまり嬉しくないことだと思うけど、渡した優希ちゃんのお父さんにとっては嬉しいことかもしれない。
「それとね、これがわたしのお父さんが大切にしてたものなんだ」
優希ちゃんがポケットから取り出したのは銀色のライターだった。ライターの良し悪しとかはわからない。だけど、そのライターに施された花の彫刻は手の込んだものだとわかる。
「これはね、お父さんがお母さんにハンカチをあげた時と同じ年の誕生日にお母さんがお父さんにあげたものなんだって。こういう柄をしてるから、お父さん、これをもらったときはあんまりいい反応をしなかったんだって」
楽しそうな笑顔を浮かべる。
「だけどね、使っていくうちに気に入っちゃったんだって。それで、気がつけばお母さんと同じように十七年間も大切に使ってたんだよ。お父さん、これで、よく煙草、吸ってたなあ。わたしは嫌いだったけど、お母さんはお父さんが煙草を吸ってる姿が好きだったんだって」
優希ちゃんはハンカチとライターを重ねる。夫婦の絆の強さを物で表すかのように。
「お父さんとお母さん、すっごく仲がよかったんだよ。夫婦、っていうよりもカップルみたいな感じだったかな。二人だけの世界に入っちゃうことが多くてわたしが一人疎外感を感じることはあったけど、でも、わたしがちょっとでも寂しそうな表情をしたら、すぐに気がつくんだよ。わたしが驚くくらい敏感に」
そして、彼女は僕の顔を見つめてきた。もう、涙で濡れてはいないけど、寂しそうな、だけど懐かしさと幸せを浮かべた表情で。
「わたし、思い出したよ。この世で何をしたかったのか」
少し表情を和らげて彼女はそう、言った……。