十二話
「お父さん……。お母さん……」
優希ちゃんは嗚咽混じりにそう呟く。今の彼女はまるで小さな子供のようだった。十歳とかそれくらいの本当に小さな子供のようだった。
本当に、本当に弱々しく見える。このまま僕が少しでも動いたら壊れてしまうんじゃないだろうか、と思うくらいに。
だから、僕は動くことができない。僕にすがりつくように弱く抱きついたままの彼女を弱く、けど、できるだけ優しく抱きしめたまま。
静かな、静かな、本当に静かな雰囲気がこの場を覆う。雨の音も、優希ちゃんが嗚咽を漏らす声も、全てが静かな雰囲気の一部となっていた。
音はするのに、静かだ。痛いくらいに、悲しく、静かだ。
この静けさは彼女の記憶の一部なんだと感じた。大きすぎて、受け入れがたくて、漏れ出てしまった悲しい記憶の一部。思いだすのが辛いのであろう記憶。
僕が彼女にしたことは間違っていたんだろうか。こんなことになるのなら、記憶を取り戻さない方がよかったんじゃないのだろうか。
そんな、否定的な考えが頭の中を巡る。後悔と自己嫌悪。それが、今、僕の中にある感情。
「……わたしのお父さんと、お母さん、わたしが死ぬ一週間前に死んじゃってたんだ」
傍から聞けば落ち着いている声。けど、こうして抱きしめているとわかる。今、彼女は震えている。
たぶん、黙っていられなかったんだと思う。黙っていたら、また、泣き出してしまいそうだったんだと思う。
それに対して僕は頷くだけ。それだけのことしかできない。今から彼女が語るのは悲しい記憶。僕は何を言ってあげれば、してあげればいいというんだろうか。いや、それ以前に何かをすべきなのか、言うべきなのか、それ自体もわからない。
「その日は、二人の結婚記念日、だったんだ。だからね、その前の日に二人だけで行きたい所に行ってきたら?、ってわたしは二人に言ったんだ。そのときは、わたしも連れていく、って言っててたんだよ。結婚記念日なんだから二人で行かないと意味ないよ、ってわたしは何度も言って……」
言葉が途切れる。それから、一度、洟をすする。死んでしまった両親のことを思い出すのは辛いんだろうか、苦しいんだろうか。両親ともに元気な僕には想像することができない。だけど、思い出すだけで悲しい気持ちになるんだろう、ということくらいは予想することができた。
だから、優希ちゃんの少し明るい声が痛々しかった。悲しさを無理やり抑えているようで、苦しさを隠して見えないところで更に痛がっているようで……見て、いられなかった。
本当にどうして僕はこんなにも無力なんだろうか。そう思うと、自然と彼女を抱く腕に力が入った。
そして、また、彼女がまた口を開く。
「それで、やっとお父さんと、お母さんは二人で行くって言ってくれたんだ。それで、結婚記念日になってお父さんと、お母さんが出発する時、わたしはそれを見送ってたんだ。その時はわたしを残していくってことをすごく心配してたなあ。二人ともね、すっごい親バカだったんだよ。だからね、わたし結構苦労したんだ。二人ともわたしのことばっかり考えてるからね。……だけど、楽しかったし、幸せだったんだ。あのときは、そうは思ってなかったけどね。けど……」
今までどこか明るい声で話していた。だけど、その声も途端に暗いものになった。
「その日、二人は事故で、死んじゃったんだ……。居眠り運転をしてたトラックが突っ込んできて、即死、だったんだって」
間が開く。その続きの声に感情はこもってなかった。
「ねえ、これって、わたしの、せいなのかな?わたしが、何も言わなかったら、二人は、まだ生きてたのかな?」
「そんなこと、ないよ……」
気がつけば僕は小さな声でそう言っていた。感情のこもらない声で自分を否定する優希ちゃんを見ていられなかった。
「優希ちゃんはお父さんとお母さんのことを思ってそう言ったんでしょ?だから、優希ちゃんは何も、悪くないよ」
「そう、なの、かな……?」
弱々しい優希ちゃんの声。
「そうだよ。優希ちゃんが自分を責める必要なんてどこにもないよ」
自然と優希ちゃんを抱く腕に力が入った。
「ひろ、や……」
彼女が泣きそうな声で、僕の名前を呼んだ。
「優希ちゃん。どうしても自分が許せないっていうんなら、僕が許してあげるよ。それは、優希ちゃんが背負ってるべきものじゃないよ」
「広也、そんなこと、言わないでよ……。そんなこと言われたら、わたし、どうしていいかわかんなくなるよ」
優希ちゃんは僕に抱きしめられたまま首を左右に振って答える。
「別に、何をしたっていいよ。怒ってもいいし、笑ってもいいし……泣いてもいいし。好きなようにしてよ。ただ、自分のことを責めないようにしてくれればそれでいいよ」
僕はそう言う。僕なんかがこんなことを言っても重みなんてどこにもない。聞き流そうと思われれば簡単に聞き流されてしまうようなそれくらいの重みしかないんだと思う。それでも、言うだけは言っておきたかった。
「広也……」
彼女がまた僕の名前を呼ぶ。
「広也、ひろ、やぁ……」
泣きながら優希ちゃんが僕に強く抱きついてきた。今度はすがりつくのではなく、体を預けるようにして。
僕は彼女の意外な反応に驚いてしまい、彼女の泣き声を聞きながら固まってしまう。正直に言って、ここまで大きな反応を返されるとは思ってもいなかった。
だけど、狼狽している場合じゃない。彼女は僕のことを必要としてくれてるんだ。だから、その期待に答えるために僕は僕に出来ることをしてあげないといけない。
本当に何をすればいいのかわからない。だから、彼女が僕に強く抱きついてきたように僕も彼女を強く、抱き締める。それから、頭を撫でてみる。優しく、壊れものに触れるように。今まで人の頭を撫でたことなんてなかったのでこんな撫で方でいいのかどうかがわからない。そして、安心させるための言葉。大丈夫、大丈夫、だよ、と何度も何度も続ける。
これくらいで、安心してくれればいい、と思いながら。