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ブラウンストーン  作者: tate
1: ファイナル・ストロー
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-4-


 ワタリがニューズグッドイヤーのオフィスに戻って来たのは、時計の針が六時を少し回ってからだった。できるだけ音を立てないようにドアを開け、そっと入っていく。ソファーの上では、チサトとジノが仲良く顔をくっつけあって眠っている。ニ人に毛布を掛けなおし、優しく微笑む。

 時計に目をやる。何かトラブルがあるとまずいから、もうしばらく起きていなければならない。コーヒーを入れることにした。

 湯気を立てるマグカップをテーブルに置く。コトンと乾いた音がした。反射的にソファの上で眠るニ人に目をやる。当然この程度の物音で目を覚ますわけがない。自分とは違うのだ。いや、自分が周りとは違うのだ。

 予備の分として多めに刷られた新聞がテーブルの上に無造作に置かれている。ワタリはそれをひとまとめにし、几帳面に重ねた。山の一番上の新聞を取り、目を通す。何の変哲もない、平和なプラントの日常がつづられた新聞だ。彼は密かに愛読している社会面のチサトのコラムに目を通す。

 コーヒーをすすり、再び時計を見上げる。そしておもむろに新聞に目を落とした。



「やぁお嬢さん。お目覚めかい?」

 何か冷たいものが、自分の頬に当たる感触で目が覚めた。

 顔面が痛い。

 ここはどこ?

 緩慢な動作で、上半身を起こす。自分が横たわっていたのは、コンクリートの床の上だった。周囲に目をやる。壊れた家具やゴミが散乱している。壁にはめられた窓ガラスはほとんどが割れている。どう控えめに見ても、ここは人が暮らすような場所ではない。廃屋なのだろうか。頭を左右に振り、今自分が何故こんなところにいるのかを考える。

 そうそう、いつもより早く目が覚めたから散歩に出ようとしたんだ。そうしたら、新聞を配達するワタリにちょうど会った。少し話をして、それから……それから?

 そうだ、見知らぬ男性に道を聞かれた。

 そこから先は覚えていない。何故私はここにいる?

 『でも一人で散歩って……危なくないですか?』

 『例の連続殺人犯、まだ捕まってないじゃないですか。』

 『いくら明るいとはいえ、まだ人通りも少ないですし……』

 ワタリの言葉が頭の中で木霊する。

 まさかとは思ったが、もしかして自分は誘拐されたのだろうか? 確かに、自分の父親はここのプラントの有力者だし、自分を盾にされたらあの父親のことだ、きっと相手の言うことを聞くだろう。しかし、それは話の通じる人間のすることだ。もし、万が一にも自分を誘拐したのが連続殺人犯だとしたら、おそらく自分の身元などお構いなしに殺されるのだろう。

 いや、まだ相手が殺人犯だと決まったわけじゃない。

 自分が身に付けている時計に目をやる。時計の針は十一の文字を指している。

「なんだ、時間が知りたいのかい? あれからまだ半日と経ってないぜ」

 はっとして、顔を上げる。視界に椅子に座っている男性の姿が入ってきた。

「なんだ、まだどっか痛むのか?」

 男は椅子から立ち上がる。つかつかとエルフィンの方へ歩み寄る。そのまま屈み込み、エルフィンの顔を覗き込む。目を覗き込まれ、反射的に顔を背けた。男は無理強いすることなく、すぐに彼女の顎から手を離した。

 今の自分の態度は相手を傷つけてしまったかもしれない、相手を刺激してしまったかもしれないということに気が付く。恐る恐る視線を目の前の男に戻す。しかし、男は特に何かを感じが様子もなくこちらを見つめている。

 エルフィンは違和感を感じた。何だろうか、違和感の正体まではわからない。

 男は肩をすくめ、先程まで座っていた椅子に戻る。

「あ、あの……貴方は誰?」

 凄く恐ろしいはずなのに、思っている以上に落ち着いている自分に驚きつつ、相手の正体を探ることにする。素直に答えが返ってくるとも思えなかったが……

「オレかい? 巷で流行の殺人犯の一人だ、と言えばわかるか?」

 エルフィンの予想に反し、さらりと男は答える。

「……殺人犯の一人?」

「そう、オレ達はグループだった。他の連中はどうやら死んだらしい。今はオレ一人だ」

 男は少し寂しそうな目をした。

 どうやら、自分は例の殺人犯に誘拐されたらしい。最悪のシナリオだ。

 さて、どうしよう。

 逃げるのが一番いい。もちろん逃げ延びることが出来たら、だ。だけど今自分がどこにいるのかわからない。プラントの中央から外れたところにいるとしたら、走って逃げるのは無理だろう。女の体力では当然男には勝てない。運動は得意ではない。

 かといって、何もしなければこのまま殺されてしまうだろう。いや、こうして考えている間にも、相手の頭の中で既に自分は何十回も切り刻まれているのかもしれない。肩が小刻みに震えている。やっぱり怖い。

 男が足を組みなおす。たったそれだけの動作にびくっと震え、少し後ずさる。それを見た男は、苦笑を浮かべた。

「オレはアンタを殺して食ったりはしないよ。人間の肉に興味はないんだ。ああ、でもアンタみたいにカワイイ子だったらレイプしながら切り刻むのも楽しいかもなぁ。 こう、ヤッてる途中で首を絞めるとさぁ、アソコもギュッと締まるんだぜ? どーよ?」

 口だけを歪めて笑った顔を作る。目は笑っていない。怒っているのでもイラついているのでもない、絶望もしていない。彼は世界でたった一人孤独の淵に立っている。そしてそのまま深遠なる闇の淵に引きずり込まれていく。誰も彼に助けの手を差し伸べることもしない。彼も沈んでいく自分を冷静に受け止めている、いや違う。もがくだけの力も残っていないのだ。

 芝居がかり過ぎだろうか? エルフィンは彼がとても寂しい人に見えた。同情する気にはならなかったが、どうしようもない恐怖は少しだけ消えた。

 そしてもう一つ、先程の違和感の正体がわかった。彼の瞳孔は、丸い自分のそれとは異なり、四角い形をしているのだ。



 夕食が終わり、徹夜でダウンしているワタリの代わりにチサトがキッチンの片付けをする。食器を洗い、空いた鍋に水を張る。台拭きを片手にダイニングに戻ってくる。ダイニングテーブルにはワタリが突っ伏している。

「テーブル拭くからちょっと起きてよ」

「僕が拭いておきますよ」

 ワタリは起き上がり、チサトから台拭きを受け取る。ボーっとしながら台を拭くワタリを眺めていると、ドアベルが鳴った。チサトはエプロンを外しながらドアに向かう。こんな夜分遅くに誰だろうか?

「どちら様ですか?」

「私だよ、ローウェルだ」

 ドアを開けると、そこには少し神経質そうな顔をした中年の男性が立っていた。エルフィンの父親であり、このプラントの実質的な支配者であるローウェル氏だった。骨ばったその表情は、普段の赤みがかった威勢のよいものとは異なり、別人のようだ。焦燥と疲労の浮き出た顔は、青ざめ黒ずんで見えた。

「何かあったんですか? 顔色がすぐれないようですが」

「ここにエルフィンは来ていないかい?」

 ローウェル氏は疲れきった声を搾り出した。チサトは首を横に振る。そうかい……とローウェル氏が肩を落としたところへ、ワタリが顔を出した。

「どうかしたんですか?」

 落ち窪んだ目をくっと上に動かし、ワタリの方をギロリと見る。ローウェル氏はあまりワタリのことをよく思っていないようだ。

 疲れきった声で、エルフィンが戻ってこないことをローウェル氏は告げた。気が付いたら姿が見えなかった。昨晩、お休みのキスをしたのは間違いないから、家を出たのはそれ以降だということ、こんな夜遅くになっても戻ってこないこと、そして昼間エルフィンの姿を見た人が誰もいないということを、淡々と述べた。連絡もなしに外泊することなど考えられないと、がっくりと肩を落とした。

「あの……明け方、エルフィンさんに会いましたけど」

 恐る恐るワタリが口を開く。ローウェル氏がワタリの方を見る。彼はワタリがまだ何も言わないうちに、ほれ見たことか、こんな男が身近にいるから娘が帰ってこないのだ、と人類の敵とでも言いたげな視線を投げつける。

「新聞を渡すついでにちょっと喋っただけなのですが……散歩に行くだけだって言ってましたよ」

「君がどこかに連れて行った、というわけではないんだな」

「ええ、そうです……」

 ローウェル氏は相変わらずいぶかしげな視線をワタリに投げつけているが、彼がエルフィンをどうにかしたとまでは考えていないらしい。自警団の男たちに捜索を依頼した、と心配そうな顔をする二人に言った。娘から何か連絡があったら、私に連絡してくれ。ローウェル氏は背中を丸め、自宅に戻っていった。

「エルフィン、どこ行っちゃったんだろう。誘拐されてたりしたら……心配だな」

 チサトは戸口に張り付き、ローウェル氏の小さくなる背中を見送る。一旦部屋の中に引っ込んだワタリが、ジャケットと単車のキーを片手に戻ってきた。

「僕もエルフィンさんを探しに行ってきます」

 チサトは小さく頷く。それじゃ、と片手を上げワタリは出て行った。

 チサトはドアを閉め、ダイニングルームに戻る。途中で放り出してあった夕食の片付けの続きをしようと、台拭きを手にとる。傍と気が付き、片付けを再開する前に仕事場に置いてある電話を、ダイニングルームもすぐに手の届くところに持ってきた。もしエルフィンから連絡があるとしたら、ここに電話がかかってくるはずだ。

「ジノ、電話鳴っても私が取るから。あんたが取っちゃダメよ」

 奥の部屋から本を抱えて戻ってきたジノに釘を刺す。きょとんとした顔で、うんわかった、とジノは答えた。


 自警団の詰め所では、夜半遅くだというのに大勢の人が出入りしている。ワタリが単車を詰め所の入り口に着けると、リックに声を掛けられた。

「よぉ、ワタリ。お前もエルフィンを探しに行くのか?」

「ええ、人手は多いほうがいいでしょうしね」

「そりゃそうだ。オレも探しに行くぜ。とお前、探しに行く宛てでもあるのか? 自警団の連中らはグループを作って、担当エリアを捜索してるんだけどさ」

 オレ達は南の方を探しに行くんだ、リックは言う。ワタリが自警団の面々と打ち合わせをした方がよいかと迷っている所へ、詰め所のドアが開いて数人の男が出てきた。

「ワタリ君じゃないか。君も捜索に行くのか?」

 その中の一人が声をかけてきた。

「今晩和、ハインリッヒさん」

 リックの父親だ。自警団のリーダーの一人で、雑貨屋の主人だ。

 雑貨屋というと、細々とした日常品を狭い店舗に並べているというイメージがあるだろう。事実、三世紀ほど前の世界では、雑貨屋と言えば小規模店舗でつつましく商売をしていたらしい。現在では、雑貨屋は所謂ブルジョワな職業だ。地球規模の気候の変化と世界的な通信網の寸断により、日常雑貨は常に不足している。生活必需品が常に手に入る雑貨屋は、貴重なのだ。雑貨屋でしか手に入らないものも多い。人々は多少高額であっても、ハインリッヒ親子の営む店に商品を買い求めに来る。

「親父、ワタリもエルフィンの捜索手伝うってよ。こいつ足があるから遠くを任せても大丈夫そうだぜ」

 詰め所に戻り、リックの父親がプラント周辺の地図をデスクに広げる。三人は頭を突き合わせ、地図を覗き込む。ハインリッヒ氏が太い指先で地図をなぞり、簡単に担当範囲を説明する。市街地と北の方角を除く地域は捜索隊が出ているそうだ。ワタリはプラント北部の捜索を担当することになった。

「ワタリ君、君は一人だからあまり根詰めて探しすぎないようにな。ミイラ取りがミイラになっても困る。すぐに我々も応援に駆けつけるからな」

 ハインリッヒ氏は持ち前の大声で喋った。ワタリは曖昧に頷いた。


 プラントエルフィンの北部には朽ちかけた遺跡が、ぽつねんと残ってる。

 プラントの北部は他の地域に増して植物が多い茂り、鬱蒼とした森が広がっている。仮に、エルフィンが誘拐されたとして、そして彼女を誘拐した奴らが例の連続殺人犯達だとしたら、ここの遺跡に潜んでいる可能性が高い。

 ワタリは懐中電灯を片手に、森の中に入っていく。程なくして遺跡の黒いシルエットが視界に入ってきた。ライトを下に向け、耳を澄ます。時折、風が木々の間を通り抜ける音が聞こえるが、生物がいる気配はしない。

「エルフィンさーん!!」

 予想はしていたがやはり返事はない。彼の声は木霊することもなく、闇夜の空に霧散していく。再びライトで周囲を照らす。木々を掻き分け、遺跡の内部へと向かう。

 途中で人間の遺体を発見した。それも二人分。折り重なるようにして倒れている。肉の半分は腐り崩れ落ちており、性別の判定までは出来なかったが一人は大柄、もう一人はおそらくワタリと同じぐらいの体格をしているように見えた。あたりには腐敗臭が立ち込め、眼球のこぼれ落ちた眼窩が、肉がこびりついたしゃれこうべがワタリを見つめている。筋肉と乖離した皮膚の内側には蛆虫が蠢いている。後数ヶ月もすれば白骨化し土に還る。

「エルフィンさーん! いますかー!」

 再び声を張り上げる。エルフィンの代わりに夜行性の鳥が嘶いた。再び周囲に人の気配がないかを探るが彼のセンサーには何もヒットしない。もうここはもぬけの殻なのだろう、生き残りが居るにせよ居ないにせよ、だ。

 もう一度周囲に懐中電灯の光を投げ、何もないことを確認し、ワタリはこの場を後にした。

 森から道路に戻り、ワタリは自分の単車にまたがったまま消えたエルフィンの行方を考える。ワタリが考えている連続殺人犯の仕業なら、ここのような郊外に潜伏しているに間違いないと思ったのだが、流石にこの付近には潜伏していないようだ。

 事件の起こっている範囲とその手段から、殺人犯たちはおそらくこの付近の住人ではない。プラントエルフィンの住人はほとんどが顔見知りだ。平和ボケしたあの住人たちが、他人の血肉を貪ることに快楽を感じるとはとても思えない。

 そうなると、犯人は外からやってきた何か、ということになる。

 プラントエルフィンのような狭い地域社会では、外からやってきた人間がいれば、あっという間に話題になるはずだ。事件が最初に発覚してから半年近く経つ。半年間も人間が周囲に気が疲れずに地下に潜伏し続けることは、事実上不可能だろう。プラント内に協力者がいればそれも可能だろうが、プラントエルフィンに限っては、それはないと思われる。となると、犯人は人間ではない可能性が高い。

 今の世界、一度プラントから外に出ると、いつミュータントに襲われるかわからないという環境は相変わらずだが、被害者の女性たちはミュータントに襲われて命を落としたとも思えない。確かに、ミュータントに襲われたとしたら、男性よりも非力な女性が命を落とす確率は高い。悲しいが、肉体的な男女差の違いはこういうときに顕著になる。

 だが、犯人はミュータントのような知性の低い生物ではない。新聞で報道されている被害者たちの様子から察するに、犯人は手先が発達した生物に違いない。ミュータントが縄の痕が残るような首の絞め方ができるだろうか?

 プラントの外を徘徊するミュータント達は、もともと四足歩行の動物や自力で動くことの出来ない植物の突然変異体がほとんどだ。突然変異を遂げたことにより、霊長類よろしく高度な知能や発達した器用な手先を獲得した生物が発見されたという話は聞かない。指先が器用に動かせない動物や、もとより自力で移動することが出来ないような植物に襲われたのではないだろう。

 となると、いったい誰が?

 こんな噂を小耳に挟んだことがある。人間でもなく、ミュータントでもない生物がこの付近で目撃されたそうだ。でもその噂を聞いたのは三ヶ月以上前の話になる。

そもそも、人間でもなくミュータントでもない人間を襲う生物など、今の世界にはいない。ミュータント化していない野生の動物はめっきり小型化してしまっている。人間を襲うほどの大型動物の目撃報告はない。

 唯一あった心当たりも、一ヶ月前になくなったはずだ。仲間がいたのだろうか?

 ワタリは首を傾げつつヘルメットを被り、センタースタンドを跳ね上げた。

 単車を駆り、自警団の詰め所に向かう。プラントの外れから街の中へと入り、中心へと向かう。

 街の中といっても中心部以外は街灯もほとんどなく、相変わらず暗い夜道は単車のライトだけが明るく照らしている。単車の派手なエンジン音が閑散とした街に響く。ワタリはエンジンの回転数を落とし、ゆるゆると低速で街の中を走った。

 その間にも、普段と違う見慣れない物がないかと、注意深く路肩に目を走らせる。街の中央は整然と区画整理が行われているが、中央から少し郊外に足を向けると、そこは迷路のごとく雑然とした街並みに変わる。路肩には乗用車から自転車まで遠慮なく止められており、廃屋の数もぐんと増える。この辺りは毎朝単車を飛ばす区域だから、違和感があれば気が付くはずだ。

 トロトロと単車を走らせること五分、この辺りにもなると廃屋の数は随分減る。

 雑然とした通りを走っていると、ふと見慣れない小型トラックが目に付いた。怪訝に感じ右足を地面に着いた。ヘルメットのバイザーを押し上げた。

 あんなトラック、あったかな?

 単車のライトがわずかにあたるそれは、確かに自分の記憶にはないものだ。トラックの背後に立て付けられた家は、廃屋だったはずだ。でもそれは、どこにでもありそうな、くたびれたおんぼろトラックだった。この辺の住人が、どこぞから拾ってきたトラックかもしれない。

 そういえば、すぐ近くにはガラクタ集めが趣味である偏屈な親父が住んでいる。彼の持ち物なのだろう。

 ナンバープレートを一瞥するとワタリはバイザーを下げ、再びハンドルを握った。

 自警団の詰め所に戻る。単車を適当なところに止め、ヘルメットを小脇に抱えたまま詰め所の中に入っていく。

「あれ? テートさん、ここで何してるんですか?」

「やあやあワタリ君、相変わらず元気だね」

 数人のくたびれた様子の男性の中に、白髪の男性が一人、椅子に腰掛け茶をすすっていた。プラント唯一の警察官、キース・テート氏だ。ニューズグッドイヤー社の近くに居を構えており、チサトが幼いころから家族ぐるみで付き合いがある。妻とは死に別れ子供もいない彼は、かつての友人の一人娘を自分の娘のように可愛がっている。

「どうかね、この最中はなかなかおいしいぞ」

「い、いや。時間が時間なので遠慮しておきます」

 詰め所にかけられている時計にちらりと目をやる。短針は「ニ」の辺りを指している。

「……もしかして、もう『おはようございます』ですか?」

 テート警察官はワタリの問いに、ほっほっほと笑った。

「まぁそんなところだよ。老人の朝は早いもんでね」

 のんびりとした警察官と一言二言交わしてから、だるそうに腰掛けタバコを吹かす男たちの元へ歩み寄る。

「どんな感じですか? そちらは」

 話しかけられた男性は、無精ひげを伸ばした日に焼けた顔をワタリに向けた。

「さっぱりだな、お前の方はどうだった?」

「北の遺跡まで足を伸ばしてみたのですが、ダメでした」

 男性は咥えていたタバコを灰皿のふちに軽くたたきつける。白い灰がパラパラと金属製の灰皿の上に落ちた。ふぅっと白い煙を吐き、まぁ何だ座れや、と椅子を勧めた。ワタリは勧められるままに椅子に座った。

「捜索済みのエリアはあの地図に書き込まれている。お前が捜索した場所も書き込んでおけ」

 中央のテーブルの上にぞんざいに置かれているよれた紙を指差した。ワタリは腕を伸ばしてそれを取り上げた。赤いマジックを取り上げ、自分が走った場所を縁取った。インクが上手く出ない、ぐりぐりと紙にペン先を押し付ける。

「いずれ日が昇ったら改めて捜索しなおすことになるだろうよ。今晩のところはこの辺が引き時か」

 お前も吸うか? と、男性はタバコを差し出した。いや禁煙中なので遠慮します、とワタリは断った。

 結局、ワタリが自宅に戻ってきたのは三時を回ってからだった。物音を立てないようにそーっと部屋の中に入っていくと、リビングから明かりが漏れていることに気がついた。チサトがまだ起きていた。ドアを開けると、彼女は顔を上げた。

「お帰りなさい」

「あ、只今……って、先に寝ててくださいよ」

「んー、エルフィンから連絡があると困るからって、原稿書きながら待ってたんだけど、なんとなく調子が出ちゃってさ」

 チサトは万年筆の先でこめかみを軽く叩いた。

「あ、でももう寝るから。ワタリ君も今日はしっかり寝てちょーだい。徹夜でつらいっしょ? 朝飯は私が作っておくから」

「すみませんがお願いします。それではお先に。おやすみなさい」

「おやすみー」

 ワタリがふらふらと自室に消えるのを確かめてから、チサトはランタンの明かりを消した。


 翌日、チサトとジノが朝飯を食べていると、電話が鳴った。チサトは慌てて口の中のパンを胃に流し込み、受話器を取る。ローウェル氏からだった。

 電話口でうんうんと頷くチサトを見ながら、ジノはもしゃもしゃと自分の分のスクランブルエッグを口に運ぶ。チサトが受話器を置き、こめかみを押さえながら戻ってくるころには、ジノの皿は空になっていた。

「もう食べちゃったの? ジノねぇ、次からはもっとゆっくり食べなさい」

「電話、誰から? 何だって?」

「ん、エルフィンね、見つからなかったってさ。ローウェルさんから」

 溜息を吐き、コーヒー入れてくると言ってチサトは席を立った。それを見て、ジノはワタリの分だから、と別に取ってあったスクランブルエッグまで口に放り込んだ。


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