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ブラウンストーン  作者: tate
5: プロファード・ハンド
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-5-


『すまない、ポカやらかした』

 ショートメッセージの着信音と共に、そんなメッセージがワタリの携帯端末に送られてきた。自動運転中のハンドルにぶつからないように、ワタリは携帯を取り出し、チサトへ画面を見せてくれた。無論、文章は英語で綴られている。エスペラントと英語は文法の並びこそ似ているけれど、単語の互換性があまりにないせいで、チサトは相変わらず英語がさっぱり理解できないでいる。

「レッシュからですね。ポカやらかしたなんて書いてありますが、とりあえず彼女は無事なようです」

 文面を訳した上で、ワタリはそう言い添えた。

「これって、自分の無事を知らせる暗号なの?」

「いいえ、文面そのまま受け取っていいと思いますよ。メールを送信出来ているぐらいなので、大した事は起こっていないと思いますが」

 以前の高速道路の名前をそのまま冠したA4号線を通ってランスへ向かう。地上と違って太陽の自然光がないここでは、居住区を離れると時間の経過がまるでわからなくなってしまう。薄暗い道路をどれほど進んだのか、「この辺で買い出しを兼ねて休憩にしましょうか」とワタリは小さな店舗の駐車場に乗り入れた。

「今って何時くらい?」

「そろそろ二十一時を回るぐらいでしょうか。この後もまだ移動する必要があるので、ちゃんと休むことが出来るのはかなり遅くなると思いますが、大丈夫ですか?」

「それは平気」

「このまま車には戻らないので、バッグは持って行ってください」

「戻らないってどうするの」

「この辺で地下通路に降りて、ランスには検問を通らなくてもいい方法で入ります」

「パリは普通に出てきたよね、それは大丈夫なんだ? というか、ここって街の移動も全部チェックされてるの?」

「ログには取っていますね。有人の検問を設けるかどうかは、その都市の施政者によるのでなんとも言えませんが。ランスにいつ僕達が入ったかは、ログに残って欲しくないので、地下を通ります。あまり良い所ではないですが、ちゃんと横になって休むだけの施設はありますから、大丈夫ですよ」

 店舗の裏手にある納屋の中に、地下通路への中継通路はあった。床の鉄格子を外して、真っ暗な地下へと降りる。

「こういう地下通路ってそこら中にあるみたいだけど、全部繋がっているの?」

「繋がっていますね。僕達のような傭兵集団が使うことは稀で、どちらかと言うと警察組織のような公僕が利用していました。最近は人が降りてくることもないようですが」

 そう言いながら、ワタリは手にしたライトを足元と壁に向けた。埃っぽくカビ臭い空気に満ちていて、あまり利用された様子が無いことはチサトにも何となく分かった。

 地下通路は降りてすぐこそは細い造りで、大人が二人並んで歩いたら道幅を占領してしまうほどだったが、本線はきちんと舗装されていて、道幅も天井までの高さも十二分な空間が取られていた。チサトはワタリの後に続いて道の端伝いに歩を進めているが、その横を四輪自動車が走り抜けるだけの余裕はありそうだ。

「結構広いんだね。オルレアン、だったっけ? あそこの地下はもっと狭かったけど、どこもあんな感じではないんだ」

「オルレアンの地下通路は、もともと反政府組織が秘密裏に作った移動用の裏道なんです。パリやランスの地下通路は、地下都市建設時の工事用通路をそのまま警察機関が接収して、迅速に移動するための通路として使用していました。重機の移動通路だったので広いんです。その後、警察機関が管理を放棄してからも僕達は利用していましたが、普通に四輪や二輪で走行できるので重宝物でした」

 警察が地下通路を利用する、その意味をチサトは少し考えてみる。人々に気取られることのない移動手段が要求されることをやっていたということだ。何をしていたのだろう。反政府組織と繋がるのだろうか。少し気にはなったが、現状にはあまり関係が無さそうだからとチサトは浮かんできた疑問を飲み込んだ。

 およそ平坦で真っ直ぐ伸びる本線をひたすらに歩き、一度だけ脇道に逸れると、その先にはもう人気のない建造物群の町だった。木造でも煉瓦造りでもないそれらは、きっとコンクリートで出来ているのだろう。近くの窓から見える屋内は薄暗く、荒れた様子だった。放棄されて久しいと思われるのに、外面だけは形を保っている。

「この辺りは元々ランスの一区画でした。ランスはパリ同様大戦直後に作られた古い都市で、その後の再開発の際に破棄され、スラムと化していた区画です。少し前までは国籍のない人が住み着いていたりしたのですが、今は全く人気がなくなりましたね。ここも都市整備の対象区画になるのかも知れません」

「つまり、整備し直すから住み着いていた人は追い出されたってこと?」

 そうです、とワタリは首肯した。

「最近まで人が住んでいた建物なら、まだそれなりに綺麗だと思います。今日はそこで休息を取りましょう」

 打ち捨てられた建築が作る灰色の町並みを横目に、二人は言葉を交わすこともなく淡々と歩を進める。自然音すらない、沈黙に包まれた空間が耳に痛い。それでも言葉を発するとどこまでも届いてしまいそうで、不用意に口を開けなかった。

 ワタリは休息が取れそうな場所の目星を予め付けていたらしく、三つ四つ建物を覗きこんだだけで今晩落ち着く先をあっさり決めてしまった。

 少し前が一体どれほどの期間を示していたのか、チサトには分からないが室内は思っていたよりもずっと綺麗だった。ベッドの上に降り積もった薄い埃の層を叩き払ってから、その上に腰を掛けた。空気が少しイガイガするが、直ぐに気にならなくなりそうだ。

 効きの甘くなったスプリングを感じていると、徐々に瞼が下がってきた。それほど疲れた自覚はなかったのだが、肉体的には堪えていたのだろう。横になったら直ぐに意識が飛んでしまいそうだ。

「チサトさん、今のうちに地下通路の構造を簡単に説明しておきたいのですが、大丈夫です?」

「うーん、大丈夫……」

 今にも眠り落ちてしまいそうなチサトに声を掛け、ワタリは紙にペンを走らせた。あくびを噛み殺しながら、ワタリの手元を覗きこむ。小さなメモ用紙に妙に入り組んだ地図がどんどん描かれていく。迷いなく綺麗な線を引くその様子は、随分と手慣れた感じだ。

「これがランスの地下通路の一部です。これが外郭ゲート、ジオフロントを構成する一番外側の扉です。ここのゲートは僕のIDと生体情報が無いとロックが解除出来ないので、チサトさんはここより先の道を覚えて下さい」

 ワタリの指先から先を目で辿る。相変わらず綺麗な指をしていると思いながら、ゆるく弧を描く地下通路の続きを目に焼き付ける。

 構造は至ってシンプルだった。地下通路はおよそ一本道で、時折地上へ繋がる横道が接続されている。ワタリが描いた地図には横道は二本しかなく、どちらを通ってもプラントアーシの駅近くに繋がるようになっていた。

「ゲートの先は大体一本道なんだね」

「僕の知る限りではそうです。最近一、二ヶ月で横道が増えていなければ、このゲートから抜ければどこから登ってもアーシ駅の最寄りに接続されているはずです。この辺の通路はジオフロントから物資を地上に横流しするために作られたもののようなので、作業員がいるかもしれません」

「危険なの?」

「作業をしている人達はプラントアーシ側の人間のはずなので、トンネルの崩落みたいな事故以外は危険はないと思います。絶対安全とは言えませんけど」

 一応これはチサトさんに渡しておきます、とワタリはメモ用紙を手渡してくれた。

 手の中に収まったそれを今一度眺め、やっぱり眠気に勝てないことを感じてポケットに差し入れた。目が覚めたらもう一度しっかり見直そう。

 このまま寝てしまおうと横になってから、あることにようやく気がついて体をワタリの方へ向けた。

「ねえワタリ君。確認なんだけど、明日プラントアーシに戻るってことでいいんだよね」

「はい、その認識で正しいです。もしかしてチサトさんにちゃんと説明していませんでしたか」

「ううん、次にどこに行くってのはいつも教えてくれてたから。あの、さっきさ、地下通路の地図を私に渡して説明したのは、ゲートから先、ワタリ君は一緒じゃないってことなの?」

 ベッドの直ぐ側にあったテーブルセットの椅子を引き寄せるワタリに視線を向ける。

 当たり前のようにワタリと一緒にプラントエルフィンに帰るのだろうと思い込んでいたが、ワタリは元々ジオフロントで暮らしていたわけで、チサトを無事地上に送り返したらその後、彼はどうするつもりなのだろう。

 ワタリがプラントエルフィンにやってきた目的は、いずれ今のような事態に陥ることがわかっていて、その時にチサトの命を守るためだったのではないだろうか。確証はない。感覚的にそういう気がするし、これ以上に筋の通る目的は思い浮かばない。

「一緒にいる予定ではいますが、何が起こるかわかりませんから。もし僕が何らかの事情でゲートの向こうまで同行出来なくても、チサトさんにはプラントエルフィンに帰って欲しいですから、そのための保険です」

「保険……」

 その後ワタリ君はどうするの? と尋ねたつもりだったが、それははっきりとした言葉にはなっていなかった。いつの間にか眠りこけてしまっていたらしく、ワタリに肩を突かれてはっと現実に戻ってきた。

「ごめん、いつの間にか寝てた。今何時? 私どれぐらい寝てた?」

 問いに答えるよりも先にワタリは人差し指を唇に当て、あまり大声を出さないようにと囁いた。

「六時間ぐらいでしょうか。人の気配を感じたので移動します」

「見つかったってこと?」

「おそらく。今すぐ攻撃を仕掛けてくる様子はまだないですが、少しずつ距離を詰めてきているのでこちらの居場所をある程度は正確に把握しているようです」

 何故チサト達の居場所がわかったのだろう。疑問は抱きつつも今更口にはしない。ワタリが敵にしているのは以前の上司だった人だ。ワタリが知っている裏道は当然知っているだろうし、その上でワタリがどのような行動を選択するか的確に予測してきている、ということはチサトにもわかる。いや、具体的にチサトがそれを体感しているわけではないが、ワタリの警戒具合からしてそうなのだろうと間接的に感じている。それに、何故相手がチサト達の位置を正確に把握出来ているのか、チサトがそのカラクリを知ったところでどうにもできない。

 いつでも動けるように、半端な格好で寝てしまったがために痛む筋肉を伸ばす。それから床の上に置きっぱなしになっているバッグを手繰り寄せた。

「この先の移動って徒歩だよね? 人並みに体力はあるつもりだけど、マラソンはあんまり得意じゃないわよ、私」

「相手の攻撃を躱しながらプラントアーシに繋がるゲートを潜ることができればいいので、そこまで極端なマラソンはしなくて済むようにします」

「つまり、相手の目をくらませて逃げ切ればいいってことよね」

 ユージン相手に、明らかに体力的に足手まといになるチサトを連れた状態で、そんな立ち回りが出来るのだろうか。ワタリを一瞥すると、彼はいつもどおりの涼しい顔で荷物をまとめているところだった。

 今更自分は何を不安に思っているのだろう。ワタリを信頼して、全てを任せるしか無いじゃないか。

 そう思って、端と気が付いた。すべてをワタリに委ねてしまっているからこそ不安なのだ。もちろん大半はワタリに任せてしまえばいい。でも、自分が状況をまるで把握出来ていないことで足場が揺らぐ。未来が全く想像出来ない状態は、それなりにストレスだ。それに、チサトが自身の手で握っておかなければならない何かがあるのではないか。

 心のなかでかぶりを振った。まずはこの場を逃げ切らないと。

 ワタリに助けてもらいながら、できるだけ物音を立てないように窓から外に這い出した。

「それでは行きましょうか」

 そろそろと移動し始める。人気のない打ち捨てられた街は相変わらず沈黙に支配されていて、チサト達以外にも入り込んでいる人がいるとはとても思えない。

 雑然と立ち並ぶ廃屋の間をジグザグに進んでいく。一晩休息をとった一軒家が見えなくなってからまもなく、遠くで銃声が響いた。振り向きたいという誘惑を押さえ、先を行くワタリの背を必至に追う。

「チサトさん、走ります。鞄は僕が持ちますから」

 そう言われて肩にかけていたバッグを渡すと、ワタリは開いたチサトの手をとって走り始めた。その間も銃声は断続的に聞こえてくるし、時折人の話し声も聞こえる気がした。

「こっちに向かってるの?」

 背後を一瞥することなく、「そのようですね」とワタリは肯定する。

 不意にワタリが強くチサトを引っ張った。勢いを殺しきれずに、横道へと倒れこむ。倒れたチサトの鼓膜を、間髪を入れず銃声が突き刺した。

「まだ走れます?」

 手を差し伸べるワタリに頷き返し、急いで立ち上がる。背後からヒタヒタと迫る人影が感じられる。顔も何もない闇が近づいてくる恐怖を飲み込み、ワタリの手を握り返した。

 ワタリに手を引かれて、薄暗い路地をどんどん奥へと入っていく。正確には、ワタリに引っ張られて走らされていた。ある程度はチサトに合わせてくれているのはわかるが、元々の速力が違いすぎる。彼に引き摺られる形で前に進んでいる。どれ位走ったのかは定かではないが、背後から聞こえていた銃声が徐々に小さくなり、自身の鼓動ばかりがわんわんと耳元で鳴り響いている。

「ワタリ君……ゴメン。もう、走れない」

 上がりきった息の合間に、何とかそれだけを絞り出す。

 チサトを一瞥し、ワタリはようやく足を止めた。脇に立ち並ぶ建物の影にチサトを引っ張りこんだ。どんなに息を取り入れても苦しいし、心臓は爆発しそうな程高鳴っているし、足は力が入らなくて、チサトはへたり込んだ。

「すみません、大丈夫ですか? 少しずつ飲んで下さい」

 キャップを開けたボトルを手渡され、唇を濡らす。あれだけ走り回ったのに、ワタリはけろりとしたまま息が上がっている様子もなかった。

 息を整えながら周囲の様子を窺う。耳を澄ましてみるが、己の鼓動が体中に響いていて外の音がよくわからない。「捲けたと思います」と周囲を窺っていたワタリが小さく呟いた。

 頷き返しつつ注意深く朽ちた街並みを見回していると、壁面に不自然な突起があることに気がついた。

「アレって何?」

 チサトの指差す方を一瞥したワタリに、「あれは監視カメラです。よく気が付きましたね」と感心されてしまった。

「監視カメラって、あれはもう動いてないの?」

「いえ、そんな簡単に監視システムは破棄されませんし、そう簡単に壊れるものでもないので動いてますよ。でもこの区画の監視カメラはまともに働かないようにしてあるので、大丈夫です。他にも人感センサーが沢山あるのですが、それも動かないようにしてあります」

「ワタリ君、そんなことまで出来るんだ?」

「いやいや、僕にはそんなこと出来ませんから。その道のプロにお願いしているんです」

「そっか、そうだよね」

 ジオフロントで使用する偽のIDを用意するときも、ワタリは色々な人に頼んで回っている体だった。

 そうだ、いくらワタリでも彼一人であそこまで手際よくチサトを守り切ることなんてできるわけがないのだ。相手がそれだけ手強いということもあるが、沢山の人が直接的にせよ、間接的にせよチサトの命をつないでくれているのだ。無論、利害関係があることはわかっているが、だからこそワタリが築いてくれた安全の上にいつまでものほほんと胡座をかいているわけにはいかない。

「ねえワタリ君。私もやっぱり銃を持つわ」

 そう伝えると、眼鏡の向こうでワタリが瞠目した。そのまましばらくチサトを見つめ、徐ろに口を開いた。

「チサトさんがそう思うのなら、僕はその意志を尊重しますけど、何故です?」

「私も参加しないといけないと思ったから。私ね、私には引き金なんて引けないんじゃないかって思ってたけど、でも私にも自分の身を守る責任があると思うし、それにね」

 続きをどのように紡ぐか、考える時間を稼ぐために息を吐いた。

「それにね、ワタリ君におんぶに抱っこだと私が後悔すると思う。ワタリ君が背負い込んでいるものを、私にも少し分けて欲しいと思うんだ。だから、私も銃を持つわ」

 一度は目を張って見せたワタリも、その後は表情を崩すことなくチサトの言に耳を傾けていた。彼の感情にどれほど波を立てることが出来たのかは、全くわからない。でも、ワタリに楔を打ち込みたくて発言したわけではない。チサト自身のため、これはチサトが当事者になるための最後の儀式なのだ。

「わかりました。チサトさんが浅慮な人間だとは思っていませんし、そういうのなら渡します。でも、引き金を引いたらきっと後悔します」

「うん、そうかもね。でもそれもわかった上での話だから」

 人を撃ってしまった後に襲うであろう後悔と虞の念は想像してみようと思ったが、できなかった。ワタリの言うとおり、引き金を引いてしまってから罪の念に苛まされ、後悔するのだろう。

「手持ちの中では一番小さい物なんですが、チサトさんの手には少し余るかもしれません」

 ワタリから手渡された短銃はこの間渡された物よりも一回り大きく、ずしりと重量感が手のひらに伝わってきた。

「こうやって肘を伸ばして、しっかりと両手で持って下さい。ちゃんと持たないと反動で怪我をしかねないので。一応予備の弾倉も渡しておきます」

 必要最低限の扱い方を説明するワタリの言葉に頷きながら、チラリと視線を挙げるとワタリのそれとぶつかった。その目が、「本当にこれでいいのですか」と問いたげに見えて、

「うん、わかってる。私は大丈夫だから」

 とうっかり口に出してしまった。文脈のない返答にその意味を捉えかねたようで、ワタリはわずかに考え込み、

「そうですね、僕が心配し過ぎていました。チサトさんのこと、信じていますから」

「ありがと」

 これでいい。銃を一つ持ったところでチサトに何かが出来るわけではないが、妙に安心した。ワタリにばかり押し付けてばかりいた現状に、ようやく自分も参加することが出来た実感が得られたからだ。

 こんなチサトの内心に気がついたら、きっとワタリは、「チサトさんは最初から当事者じゃないですか」と気遣いでも何でもなく当たり前のように言うだろう。

 微温湯だ。ワタリの傍にいるのはとても心地が良い。でもいつまでも微温湯に浸かり続けることは出来ないことも、チサトはわかっている。


 打ち捨てられた無人の街からジオフロントの外郭へと繋がる地下ルートへは、事無く入ることが出来た。オルレアンや先ほどまで通ってきた通路とは異なり、硬質の色を帯びた四方にオレンジ色の明かりが等間隔に灯る空間が闇の向こうへと吸い込まれていく。

 見たことがあった。リヨンの白人街に掛かる橋で感じた既視感、それと同じものだ。度々夢に見た光景でもある。幼いチサトが実際にここを通ったのかはわからないが、似通った道を通った体験があるのだろう。そして幼い自分を連れてこんな道を行ったのはワタリなのだと思う。……確認しても許されるだろうか。どういう経緯でワタリがプラントエルフィンに来るに至ったのか、チサトには知る権利があると思う。

「どうしました、チサトさん」

 どこか上の空で周囲を見渡しつつ歩いて居たせいか、ワタリと距離が出来てしまっていた。チサトの方を見遣り足を止めたワタリの姿に、ふと視線が止まる。何でもないと答えようとして、やっぱりやめた。

「私、この光景を夢に見たことがある」

「夢ですか」

「そう、夢。でも実際に体験したことがあるんだと思う。私ってジオフロントで生まれたんでしょ? そこから地上に誰かが連れて行ってくれたわけで」

「そうですね」

「その誰かって、ワタリ君だよね」

「それは……」

 語尾を濁して、ワタリは口を噤んだ。

「話したくない?」

「話したくないというか、チサトさんが聞いても愉快な話ではないので」

「そうかもね。でも私は知りたいと思ってるよ」

 もちろん、このまますべてを聞かないまま終わっても、チサトの中でもやもやが多少残るだけで、大勢に影響はないだろう。だから、後はそのもやもやをチサトが飲み込むことが出来るかどうか、だ。ワタリが話さないというのなら、飲み込むしかないし、それは許容する。

 二人が口を閉ざすと、コツコツと靴裏が床を叩く音が意外と響くことに気がついた。耳を澄ませてみたが、チサト達以外の足音はまるで聞こえない。

「……あの日、僕はリアルトとアニエスさんを拘引するためにリヨンの白人街へ向いました」

 不意に始まったワタリの話が、一体何のことかすぐにはわからなかった。一瞬遅れて、パチンとピースがはまる。チサトが地上に連れて来られるに至った経緯を教えてくれている。

 アニエスは、チサトの実の母親のことだ。

「リアルトがアニエスさんとの間に子供を設けていたことは、僕もレッシュも知っていましたし、おそらくは隊長も知っていたと思います。少なくともあの当時のファイアブリックでは、リアルトのおいたは公然の秘密状態でした。それが問題になったのは、外部からの一本の通報です」

「通報……」

「はい、おそらくは偶然足を踏み入れたBクラスの人間によるものでしょう。超法規的武装集団であるファイアブリックのメンバーが、よりによってエリアCの娼婦と関係を持っただけでなく子供まで居たのですから、一般市民の感覚としてはあってはならないレベルの大事件なんです。当然、当時の為政者達も動かざるを得ませんでした。心底憤慨する人もいたし、一般市民にバレてしまったから対応せざるを得なくなったと考えた人も居たでしょう。その結果、リアルトとアニエスさんは当局へ身柄を拘束され、二人の子供は見せしめとしてナッツ・ステイクの当選IDにねじ込まれることになりました」

 そうか、それでチサトはこうして狙われているのだ。そういえば以前、ワタリが今回の事態に於いて、チサトには全く非がないと言っていたが、そういうことだったのだ。だからといって、顔もよく覚えていない両親に対して恨み辛みの情念は湧いてこない。いい迷惑だと思わないこともないが、彼らが居なければワタリと出会うこともなかった。

「あの日、僕は朝からリアルトとは別行動を取っていました。彼らを拘束する役割を受けたのはファイアブリックとは別のPMSCでしたが、僕は応援としてそちらの作戦に組み込まれていたんです」

「レッシュさんは」

「無関係です。ファイアブリック本隊は動いていませんし、飽くまで僕は僕個人の技量を買われて応援要員として召喚されただけです。リアルトはこうした動きを、彼独自の情報網から把握していました。リアルトが当局の動きを察していることは、当局側も推測はしていました。それで」

「その、私の父さんのことをよく知ってるワタリ君の出番ってこと?」

「そうだったのかもしれません。この状況で、リアルトが自分の娘を安全な場所へ逃がそうとしたことは、チサトさんには容易に想像出来ると思います」

「そうね、私が親だったらきっと子供を安全なところへ連れて行こうとするわ」

「でも当時の僕にはそれが理解できなくて、それで僕は」

 リアルトが最期に何をするか見届けるつもりで彼を追ったんです、とワタリは続けた。


 ナトリウム灯が申し訳程度に視界を提供する穴倉に、荒々しい吐息が木霊する。少女と称するには幼すぎる女児を抱えた男性が一人。サングラスの奥に見える深紅の瞳が苦しげに歪み、ぜいぜいと喘ぎながらも、一歩、また一歩と前進する。その脇腹からは、じわじわと黒いものが零れ落ちていた。少しずつ視界が揺らぎ、膝は笑い始めている。

 リヨンのエリアCから一番近い、ゲートへのトンネルに何とか忍びこむことが出来たのは、人工光が夕方に切り替わる頃合いだった。

 当局……の要請を受けたユージン・シルベストリが敷いたであろう警備網をどうにかくぐり抜け、娘をこの手に収めることには成功したが、その瞬間を狙っていたかのように己と妻が狙撃された。咄嗟に反応出来たリアルトは急所への攻撃を何とか躱すことが出来たが、アニエスはヘッドショットで即死だった。

 いや、リアルト自身も下手を打った。あのスナイパー、思ったより的確な場所に銃弾を撃ち込んでいたようだ。

 光ある場所へ、自力で辿り着くことはもはや難しいかもしれない。彼は私のことを追跡してくると思っていたのだが、アテが外れただろうか。そう思い始めた頃だった。

「パパ……」

「どうしたんだい?」

「お兄ちゃんが来たよ」

 少女の金髪をいとおしげに撫でていた手が、ぴくりと揺れた。

 肩越しに背後を窺う。銃口を向ける黒髪の青年がその目に映った。よく知るその顔を認めて、リアルトは内心ほくそ笑んだ。良かった、本当に絶妙のタイミングで現れたものだ。

「ワタリ……君だけか。他の追手はどうした。こんな状態の私が追手をまけたとはとても思えないがね。君が処分してくれたのか? 最初から君一人だったのか?」

 返事はない。

 いくらワタリでも、リアルトの為に作戦上とはいえ一時的でも同じ陣営になった傭兵を問答無用で撃ち殺したりはしない。露骨に同行者を撒くこともしてはいないだろう。つまり、彼はずっと一人だった。そしてそのことをどこにも連絡していないはずだ。

「それとも、私を狙撃した時からずっと追跡していたのか。あの時は攻撃をいなすことができたと思ったが……そうか、敢えて、か」

 ツーマンセルで行動する際、狙撃を担当するリアルトに対してワタリは観測手を勤めることが多かったが、狙撃手としての腕に大した差はない。だからリアルトの回避行動まで読んだ上で急所はわざと外したのだろう。理由はわからない。

 長いことコンビを組んではきたが、ワタリの自発的な思考は全く読めなかった。今も読めない、だから曖昧に根拠もなく想像するしかない。第三者の意図が介入している時の相棒の思考回路は、手に取るように解るのに。

 いや、わからなくても問題はない。重要なのは、リアルトが生きている状態でワタリが単身で現れたということだ。

「でもよかったよ、君が来てくれて。これで私は、気兼ねなく娘を君に託すことが出来る」

「そんな申し出を受けると思うのか、リアルト」

「ああ。受けてくれると信じているよ。少なくとも君には私の行動が予測出来たはずだ。私の行動を阻止するつもりがあったのなら、狙撃でわざと急所を外したりはしないだろう? それに」

 一度言葉を切り、ワタリの反応を見る。相変わらずの能面から垣間見える心の揺らぎからすると、リアルトの適当な言もそれほど的は外していないようだ。

「君の口座に、私の全財産を移しておいた」

「何だと」

 ワタリが眉を上げた。

 金を積んだのは保険のつもりだったが、ここまでされるとは思っていなかったようだ。思わず見せた感情の揺れに、詰めを誤っただろうかと一瞬嫌な想像が頭をよぎる。

 ワタリはウェットな感情が通じにくい相手だが、殊に妥当な対価を提示する契約には驚くほど忠実だ。だからこその保険だったはずなのだが。

「依頼金だよ。君は受け取った金の分は依頼人を裏切らないだろう。私は娘を地上に連れて行こうと思っていた。だから君にはその代行を依頼したい。ふふ……君には色々と無茶を言ったが、私の最後の頼みだ。頼む」

 リアルトは、その腕に抱いていた少女を地面に降ろした。

「さあ、後はお兄ちゃんに連れて行ってもらいなさい」

 少女の背を軽く押すと、弾かれたように走り出し、ワタリの足にしがみついた。

「勝手な真似を」

「娘を殺せとは命令されていないだろう。君へ下された指令は、私と妻の殺害のはずだ。君は任務に忠実だからな、殺せと言われていない人間は手に掛けないだろう」

 リアルトは相手の返答を待たずに言葉を続ける。

「容易い依頼じゃないか。この先の扉を後二つ潜るだけだ」

 リアルトは暗い頭上を仰いだ。鈍色の金属に覆われたそこに、光はない。

「地上に放り出したところで、どうにもならない」

「私の娘だよ、半端な運は持ち合わせていないさ」

「どうやってゲートを開く。お前のIDなど当に凍結されている。お前のIDが使えたとしてもそこから足が着く」

「その程度は用意してあるさ」

 そう言うと、リアルトは首から提げていた長方形のプレートを外し、ワタリに向かって投げた。プラチナのプレートが、橙色の光をきらりと反射する。ワタリは空いている左手でそれを受け取り、怪訝な目でそれを一瞥した。

「フェイクIDだ、生体認証はスキップできる。ネットワーク上にすらログが残らない代物だよ。それも君に託そう。こうしている間も、私本来のIDが市街地で使われたログがネットワーク上を流れている。ネットの情報を盲信している奴らは、今も私がリヨン市街を移動していると思っていることだろう」

「周到だな」

「ふふふ、褒め言葉だと思っておくよ。……ワタリ、私は君を信じる。君は私の無二の友だからな。娘を頼むよ」

 脇腹を押さえ、壁に凭れ掛かるようにして何とか態勢を保っていたリアルトは、伝えたいことはすべて伝えきったとばかりにくずおれた。赤い双眸は相変わらずワタリを捕らえてはいるし、光は失われていない。

 リアルト自身が切れるカードはすべて切った。後はワタリが期待するとおりに動いてくれるかだ。

 まんじりとリアルトを見下ろしていたワタリが、徐に銃口を下げる。そして彼の足にしがみついていた少女を掬い上げた。

「お前の体は必要だ」

「わかっているさ、ここにいるよ。……すまない、私は君に甘えてばかりだな」

「全くだ」

 ぽろりと一言だけこぼれた恨み言に、リアルトは口の端を上げた。これで大丈夫だ、彼は何があっても娘の命を守ってくれるだろう。

 彼の足音が小さくなるのを聞きながら、リアルトは目を閉じた。


「――今から十八年前の話です。まんまと一人の少女を押し付けられた僕は、彼女を地上の……廃棄処分寸前のプラントに連れて行きました。偶然見つけた教会の戸を叩き、少女は神父に預けました。僕のなりを見て神父はある程度事情を察したのでしょう。理由を追及することなく、彼女を引き取ってくれました」

 これまでチサトが何度も見てきた、誰かに抱かれて薄暗い地下通路を走る夢……あれはやはり過去にあった出来事だった。妙に生々しい夢だったが、それも当たり前のことだったのだ。

「その後、そのプラントは破棄され、少女を預けた神父の足取りは途絶えます。それっきり少女に関わるつもりはありませんでした。それでも僕はリアルトの一人娘のことが、折りにつけて気になってしまったんです。彼がよこした額が莫大だったからか、感情が希薄だった僕が変化したのかはわかりません。嫌でも情報が入ってくる環境にはいましたから、地上と地下の人や物資の流れを監視しながら、少女の無事を間接的に確認していたんです。間接的にしか動かなかったのは、僕が動くことでチサトさんが不利益を被るからという側面もありましたが……僕はもう、親友の娘の顔を見たくなかった」

 ちらりとワタリの方を窺う。彼は特に目線を背けることもなく、まっすぐ前を向いていた。チサトに視線を向けることもしない。

「リアルトがどうなったかのか気になりますか? 僕が当局に引き渡しました。亡骸にしてから、です。言い訳にしかなりませんけど、どうしたらリアルトの為になるか当時の僕なりに考えた結果です。生きている彼を当局に引き渡しても、助かる見込みどころか人らしい扱いをされることもなかったでしょう。世間では僕がリアルトを処刑したことになっているようですけど、したことになっているのではなく事実です」

 淡々と事実を、彼にとっての真実を唇が紡いでいく。

「でも地上に……私のいるプラントに来たのは?」

「チサトさんの命には、膨大な金が掛けられている話はしましたよね。それです、僕の今の雇い主がそれに目を付けました。僕に時効ギリギリまでチサトさんを護衛した上で殺してこい、と命じました。だからです。本当はチサトさんに接することなく任務を全うするつもりでした。だからあそこでチサトさんに見つかってしまったのは想定外だったんですよ、僕の油断です」

 ぎくりとした。つまり、ワタリはここでチサトを撃ち殺して悠然と帰還する。でも、それならそれで仕方がないとも思う。ワタリがいなかったら、とうにチサトは死んでいる。思った矢先、ワタリと目があった。

「そんな顔をしなくても、僕はチサトさんを殺したりはしませんよ。今の雇い主は金にがめついだけで、チサトさんを個人的に殺したいわけではありません。だから僕は彼に、チサトさんが何時まで生存できるかを富豪層の賭けにすることを提言したんです。これまでの統計上、ナッツ・ステイクでは対象となった人は思春期を迎えるまでに死亡しています。貧困に苦しむ血縁に殺されることが多いので。ですから」

「つまり、私が生き残れるようにワタリ君が手引きをした上で、その雇い主に私が生き残る方に賭けさせるってことね」

「ええ。チサトさんが時効まで生き延びるなんて考える人は、ジオフロントにはいません。もっとも僕がチサトさんを護りきれなければそれまでですが、どちらに転んでも雇い主は莫大な富を手に出来ます。無論、チサトさんが生き延びる方がその富は多くなりますが」

「私……逃げ切れるといいけど」

「大丈夫ですよ。外郭ゲートに辿り着いてしまえば、そこから先へは簡単にアクセスできませんし、僕が絶対に死なせません」

 ワタリは緩く口の端を上げたまま、当たり前のように言う。

 その横顔を盗み見て唇を小さく噛んだ。蜜月ももう終わりが近いのに、未だにチサトは一歩が踏み出せないでいる。

「この後、私はどうすればいいの?」

 うん? と小さく怪訝そうに呟いてから、

「プラントエルフィンに帰るのが一番いいと思います」

「そうだよね。ワタリ君は? やっぱりここに残るの?」

「この仕事の後、半年間の契約があるのでその間はジオフロントに留まらないといけませんが、その後は多分、その後も多分こちらに残るつもりです」

 ぴくりとチサトの眉があがる。ワタリが、一瞬のうちに考えを変えて言葉を修正した。何かある。

「本当に? 今言おうとしたこと、変えたでしょ」

 う、と一瞬ワタリが言葉に詰まった。

「そういうところ、びっくりするぐらい目敏いですよね。ジオフロントに残るという話は嘘じゃないです。僕もまだ正式な通知は受けていませんが、そろそろ解体分析の時期かなと思って」

 解体、分析。

 その意味がわからなくて、ぽかんとしたままワタリを見上げてしまった。

「僕は外見上チサトさんと大差ない年に見えますが、そうでもないんです。僕は今何歳かわかります?」

 かぶりを振る。五十年はもう生きているだろうとレッシュが以前言っていたが、実際の年齢は知らない。

「ざっくりと八十年です、プラントだったらいいおじいちゃんどころかもう墓石の下です。体はともかく脳にはダメージが蓄積しますし、僕自体が貴重な研究素体なので、完全にダメになる前に研究用の資料にされるんです。一応八十年ぐらいで線を引いているそうです。まあ、任務中に殉職しても解体されるのだとは思いますが」

「……どういうこと?」

「人道的な方法で安楽死させて研究用の採材を行う、ということになってますが、実態はどうだか。ヒトの場合は解剖して臓器ごとに保存するんだと思いますが、僕も詳しくないので」

 唖然となった。人為的に作り出されたというだけで、どこにも非はないのに。

「非道なことをするものだって思ってますね? 最初からこういう条件で僕は生かされてきたし、相応の権利も享受してきてますから、そこまでの不満は抱いていません。だからこの後の人生は、僕の自由にはならないんです」

「ダメ! そこで納得しちゃ絶対にダメ。抗おうとか考えたことはないの?」

 「ないです」そうあっさりとワタリは言い切った。

「だから僕はジオフロントに」

 ワタリの視線が暗闇の向こうに向いたまま、ぴたりと動きを止めた。壁際に寄るように示すと、拳銃を抜いた。左手の人差し指を立て口元に当てて静かにするよう促してから、今まで歩いてきた方向を窺う。

 一呼吸、二呼吸。

 動きを止め、息すら潜めて、物音を立てないように気を張る。

「人の気配を感じました。念のために少し回り道をしますけど、大丈夫ですか」

 そっとワタリが囁く。

「うん、大丈夫」

 そう頷いたのを確認すると、ワタリはチサトの腕を取った。

 ここまで歩いてきた開けた通路を外れ、大人が一人通り抜けられる程度の細い脇道に足を踏み入れる。手を伸ばせば天井に触れることもできそうだ。

 入り組んだ通路を迷うことなくどんどん進んでいくワタリに引っ張られて、チサトも躊躇う余地もなくその後に続く。いくつもあるコーナーを無造作に曲がっていく背中を、無心に追いかけ続けた。

「後少しで広い通路に出ます」

 ワタリの肩越しにも開けた空間が見えてくる。彼が歩みを緩め、通路に出る前に一度立ち止まった。通路の先を窺うために少し身を乗り出した瞬間、発砲音が響いてきた。それから鈍い振動音が数秒。

 ワタリが息を飲んだのが分かった。

「大丈夫? 頬から血が出てる。それに今の何?」

「大丈夫です、皮膚をちょっとかすっただけですから。想定外の敵が出てきました。さっきのはガトリングガンです、時代錯誤もいいところの重装備兵をどこかから引っ張りだしてきたようです」

「引き返す?」

 ワタリが顎に手を当てた。わずかに考え込んでから、再び口を開く。

「いえ、ここを強行突破するのが一番確実だと思います。絶対に顔は出さないで下さい」

 鈍い足音が先の広い通路から聞こえてくる。ひどくゆっくりと歩を刻むそれは重々しくて、見えない相手が重たい荷物を抱え込んでいるのがチサトにも分かった。

 どこかから引っ張りだしたのか、ワタリは抜き身のナイフを手にした。

「ナイフで大丈夫なの?」

「あのタイプは首元の装甲が薄いので、ナイフで頚髄離断ができます。僕はこういう方が得意なので大丈夫です。しばらくは目を瞑っていて下さい」

 それから絶対に顔は出さないで下さいね、ともう一度念を押すと、ワタリは左手に持っていた榴弾を投げた。あわてて目を瞑り、轟音を覚悟して耳を塞ぐ。瞼越しにも分かるほどに強烈な光が満ちたのが分かった。ワタリの床を蹴る音を聞いて、そろそろと目を開けた。

 そしてベルトに挟んであった拳銃を引き抜き、グリップを両手で握りしめた。

 何となく嫌な予感がする。ワタリはすぐ側に居るとはいえ、今のチサトは完全に彼の視界の外にいる。

 左右どちらから誰かがやってきてもいいように周囲に気を配る。酷い緊張で息が詰まる、頭が痛くなってきた。

 震える手を宥めすかして、今まで歩いてきた方向へ目をやると、白い外套が視界を横切った気がした。目を凝らして狭い通路を睨む。

 薄闇の中に人が立っている。

 ユージン・シルベストリ。表情のないその顔は、少し前にプラントアーシの地下で出会ったカフェの店主と同じものだった。ゆるりと右腕が動き、銃口がチサトに向けられる。

『今度彼と出くわしたら問答無用で撃って下さい』

 ワタリの言葉が不意に耳の奥でリフレインされた。そうだ、ワタリはそんなことを言っていた。

 撃て! 撃つんだ。でなければ殺される!

 悲鳴を上げながら、照準も定まらないままとにかく銃口をユージンに向けてトリガーを引いた。恐怖のあまりガクガクと膝が笑い、手はぶるぶると震えている。力一杯トリガーを何回も引き、弾が出なくなっても混乱したままトリガーを引き続ける。

「チサトさん、もう大丈夫です」

 肩とグリップを握る手がワタリの手で包み込まれて、ようやく目の前に居たはずの人影がなくなっていることに気がついた。混乱を残しながらも、ようやく脳が目から入ってくる情報を処理し始めた。

 撃った、私がユージンさんを撃ってしまったんだ。

 肩に乗せられていた手が離れ、倒れ伏すユージンの元にワタリが向かう。

 グリップを握りしめたまま硬直していた指を、左手からなんとか引き剥がし、自由になった左手で右の指も一本ずつ剥がしていく。ベリベリと皮膚の剥ける音が聞こえてきそうだ。

「……ウスイか。君があの娘に撃たせるとは思わなかった」

「僕もそんなつもりはなかったんですけどね」

 血は争えないか。そうユージンが小さく呟いた。

「今、外は大混乱になっている。死んだはずの男のIDが大手を振って外を歩いている。成る程、君ならオースティンのIDを持っていても不思議はない。私とっては都合が良かったがね」

 ごぽりとユージンの口の端から血が溢れる。

 都合がいいってどういうこと? 今にもユージンは死にそうで、更にその脇にはワタリが立っている。チサトには、もうユージンには打つ手が無いようにしか見えないのに。

 勝手に喋るユージンをしばらく見下ろしていたが、ワタリはぐっと歯を噛み締めてからその手をゆるりと持ち上げると、倒れたままのユージンに銃口を向けた。

「的確な判断だ」

 薄く笑ったユージンの胸に一発だけ撃った。

「行きましょう、チサトさん。今のうちにゲートをくぐっておいた方がいい。すみません、撹乱になるかと思ったアイテムが裏目に出てしまいました。この地下通路には隊長の敷いた包囲網を崩す不確定要素がありません。時間が経てば経つほど、僕らは不利になります。先ほど攻撃してきた奴らの仲間が、間もなく襲ってきます。ガトリングガンで攻撃されたら、僕なんて盾にもなりませんから」

 握ったままになっていた拳銃は、いつの間にかワタリに取り上げられていた。空になった手を取られて改めて見やると、ワタリの上半身は血飛沫でどす黒く染め上げられていた。

「それ、返り血……だよね」

「ああ、すみません。酷い臭いかもしれない」

「ううん、ワタリ君が無事ならそれでいいよ」

 細い裏道を抜け、無数の弾痕が穿たれた一帯を通り抜ける。一度だけ背後を振り返ると、小さな山が見えた。ワタリより二回りは大きいだろうと思しき、やたらと逞しい体格の男性だった。

 目指す外郭ゲートは、ほんの五分程進んだ場所にあった。終着点とは目と鼻の先だったのだ。

『とりぷるえート認証サレマシタ。しぇるたーノろっくヲ解除シマス』

 ノイズの混じった抑揚のない声がチサトの耳にも届く。この声を聞くのは三回目だ、多分。

「ワタリ君、私」

 背後にある扉が鈍い音を上げながら、徐々に開いていく。

「これ、渡しておきます」

 掌に握らされたのは、ワタリがいつも身に付けている腕時計だった。女性が使うには重くて厳つすぎると思うのだが。

「リアルトの遺品です。彼の遺品はこれしか持ち合わせがなくて、すみません」

「待って! 半年間の仕事が終わったら、プラントエルフィンに帰ってきて。その程度の調整、ワタリ君ならできるでしょ」

 答えの代わりに、早く扉をくぐって下さいとばかりにワタリに背中を押された。たたらを踏んだチサトの体がゲートを越える。

 あわてて振り返ると、もう扉は閉まり始めていた。

「ワタリ君、私待ってるから。本気だからね!」

 徐々に彼の姿がゲートの向こうに隠れていく。その間もずっとワタリの双眸をひたすらに睨め付ける。

 無表情なままチサトを見つめ返していたワタリの唇がゆっくりと開く。

「わかりました。半年後に、またプラントエルフィンで」

 その言葉を最後まで聞き終えるよりも先に、ずしんとわずかな振動とともにゲートが完全に閉まった。

 硬質な光を湛える扉を拳骨で叩いた。

「ホントだよ、ずっと待ってるからね……」

 ぎりぎりと奥歯を噛み締め、分厚い金属で出来たゲートの一点を穴が空くほどに見つめる。いくら耳を澄ませても、目を凝らしても、扉の向こうで何が起こっているのかは到底わからない。

 どうしても吸い寄せられてしまう視線を引き剥がすように頭を振り、チサトは薄暗い回廊の先へと目を向けた。ワタリが描いてくれた地図を思い出す。何としてでもプラントエルフィンに生きて帰るのだ。それが彼の望みであるはずだから。そしてそこで彼が戻ってくるのを待つのだ。

 握りしめていた拳を確認するように一度開き、それからもう一度しっかりと握り直して、チサトはプラントアーシの地上へ向けて歩き出した。


 無造作に内ポケットに突っ込んであった携帯端末が、ショートメッセージの着信を告げた。レッシュは気だるげに端末を取り出すと、ディスプレイに視線を落とす。

『第五三期ナッツステイク当選IDのお知らせ』

 ショートメッセージのタイトルはそう綴られていた。もう一年が経ったのかと思うのと同時に、そうか、ようやくあの子の時効がきたんだ、とつい昨日まで共に行動していた彼女のことを思い起こす。無邪気で勝ち気な翠色の瞳、レッシュの心の底に降り積もっていた悪意にも薄々感づいていながらも、笑顔でレッシュを信頼してくれた彼女のことを。

 今のレッシュにはチサトの生死を知る手段はない。無論、然るべき機関に問い合わせれば、二十四時間の猶予期間の後当選IDの失効を確認することは出来るが。

 チサトは無事地上に戻ることが出来たのだろうか。必然的に対峙する事になったであろう隊長は、まだ生きているのだろうか。

 ワタリは……彼は無事だろうか。

 IDバンクに生死を問い合わせようとウィンドウを開いて、やっぱりやめた。

 どうせ直ぐにレッシュが所属するネットワークでも噂になることだ。

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