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ブラウンストーン  作者: tate
5: プロファード・ハンド
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-3-

 あらかじめ渡されていたIDチップをかざすと、都市ゲートの警備員は微笑みながらチサトに何かを言った。自動翻訳機の電源はオフにしてあるため、彼が何を言ったのかはわからないが何となく微笑み返してゲートを通過する。

 首から下げた金属性のレクタングルが己の身分証だなんて不安定にも程があると思うのだけど、ジオフロントの人々が疑問を抱いた風は微塵もない。

 リヨンからオーベルニュ経由でサントルに入ったチサト達は、小丘に作られた都市ゲートからオルレアンに入ったところだった。途中、クレルモンでIDチップを調達した他は休憩らしい休憩もとらず、ここまで一日足らずでやってきた。

「翻訳機はオンにしておいても大丈夫ですよ」

 何となくIDチップを弄びながらあくびをかみ殺していると、ワタリと目があった。

「ううん、でもこのIDってオルレアンに住んでいることになっている人のものなんでしょ? それなのに翻訳機がないと生活できないとか、おかしくない?」

「チサトさんのIDは、オルレアンの住民権を取得してからそれほど時間が経っていないので、翻訳機を使っていても問題ないと思いますよ。この辺の人はエスペラントだってこともわからないでしょうし」

 ワタリがそう言うのなら、多分そうなのだろう。いちいちワタリやレッシュに翻訳してもらうのも手間を掛けるし、翻訳機をオンにしてイヤホンを耳に付ける。このイヤホンもワイヤレスで骨伝導式になっていて、とはワタリの受け売りだが、小型で耳の穴に押し込まなくてもいいため、ぱっと見ではイヤホンの存在を感じないのは便利だと思う。

「今日はここで一泊するんだろ。じゃあアタシはしばらく別行動するよ。ホテル決まったら携帯に連絡入れといて」

「ああ、わかった。そうだレッシュ、午後二時のティータイムはどうする」

「……いや、決めてないよ」

「では二十五分に待ち合わせるというのは」

「了解。そちらはアタシが担当するよ」

 ひらひらと手を振ると、二人を残してレッシュはあっという間に雑踏へと紛れていった。

「レッシュさん、用事でもあるのかしら。それにお茶って……」

「金融の仕事をしているそうですから、そちらで何かあるのかもしれません。彼女独自の情報網もあるでしょうし」

 首を傾げていると、ワタリが答えてくれた。ティータイムについては触れなかったが、チサトも関わることなら彼がまた何か言うだろう。

「三人で行動していると目立つから別れた、という説もありそうですが」

「そんなに私達の組み合わせって珍しい?」

「そこそこ珍しいですね。といっても、珍しいのはモンゴロイドの僕なんですが。周りに、僕のようにあまり彫りの深くない人間はいないでしょう」

 そう言われて辺りに目を遣る。見える範囲にいる人々は白人か黒人のどちらかで、ワタリのようなアジア系の人間はいない。

「以前はアジアからヨーロッパに移動するのに空路が使えたんですけどね。今は陸路しかないので時間が掛かるんです。遠距離間でのコミュニケーション手段も発達しましたし、旅行のような非生産的な趣味は完全に富裕層の特権になってしまいましたから」

「ふうん……それで今日はこれからどうするの? 私、どこかに隠れていた方がいいんだったら、何でも言って」

 表向きは強がって平静を装っているけれど、ずっと不安が心の中で渦巻いている。本当は、どこか安全なところで小さくなって嵐が過ぎ去るのを待っていたい。それでも明るく振る舞って、恐怖なんか微塵も感じていないように取り繕っているのは、ワタリの中のチサト・レイナードという人間像を壊したくないからだ。命を狙われたぐらいで怯え竦むなんて、私が積み上げてきたイメージとは違いすぎるじゃない。

 心のどこかで、「ここにいれば安全ですよ」とワタリが手を引き、セーフゾーンに連れていってくれることを望んでいる。不安を何とか飲み下して、平常心を装う必要がない環境に行きたい。

 だけど、少し目を丸くしてチサトをまんじりと見つめていたワタリは、ううむと顎に手を添えて考え込んでしまっていた。

「隠れていればいい場所があれば、僕もそこにチサトさんを押し込んでおきたいぐらいなんですが……スイス銀行の貸し金庫辺りなら安全かも」

「……それって人が入れるの?」

「人は預けられないです、当然ですが」

 当たり前よね、と反射的に突っ込む。ですよね、とワタリも笑って返してきた。

「現実的なラインで安全な場所は、区画Aの近くでしょうね。相応の身分の人達が周囲に多くいれば、相手も無理はしてこないと思いますし。ホテルもその辺りで探します。チサトさんにお願いしたいことは、僕の側から離れないで下さいってことぐらいでしょうか」

「ん、わかった」

 ホテルまでは歩きましょう、とワタリは北を指さした。

「そうだ。お互いに見失わないように手でも繋ぎます?」

「手じゃなくて腕貸して」

「うん? どうぞ」

 差し出された手ではなく、左腕に自分の腕を絡めて引き寄せた。一応、彼が銃を握る右手は自由になるようにしておいた。嫌がられるかと心配したが、ワタリは面映ゆそうな笑みを一瞬見せただけで歩きだした。

 ワタリの体温を感じているときが一番安心できる。


 北方の、以前は森が広がっていた地域がクラスAのコミューンになっているのだそうだ。

 街の佇まいは美しく、中世の時代の建造を模した建物が街並みを作っている。家々は白を基調とした色で染めあげられ、一体感を作り出している。プラントエルフィンでも昔を懐かしむ人々がマロニエを街路樹として植えて回っているが、この街並みも同じような感情で作られてきたのだろう。

 区画BとAを隔てる壁のようなものは特にない。背の低い金属性の柵が頼りなげに境界を作っている。ランスでは鉄条網がBとCを隔てていたと聞いたが。

 少し声のトーンを下げて、ワタリに問いかける。

「あの柵を乗り越える人っていないの?」

「いないですね。あれ、レーザー障壁になっているので乗り越えようとすると攻撃されます。柵の上空を通過する物体を検知して、高強度レーザーを照射するんです。兵器のセンサーを損傷させることが目的なんですが、人間は視覚がやられるそうです。理論だけは三世紀ほど前に確立されていたシステムで、今では多くの都市で使われてますよ。なので、不用心に柵を乗り越えたりはしないことをお勧めします。一応注意書きはありますが、読めないですよね」

 ワタリの指さした先には、看板が立てられていた。錆一つなく、綺麗にペインティングされたそれに書かれている文章は……当然だが読めない。

 むしろ、その向こうの光景に視線が吸い寄せられた。

 綺麗に舗装された広い道路の真ん中を、プラカードを持った集団が陣取っていた。プラカードに書かれている内容はわからないが、ボールド体にエクスクラメーションマークが多分に踊っているところを見ると、何かを主張するためにあそこにいるとは思うのだが。

 まじまじと一団を見つめていると、

「あれはジェネティックエンジニアリング反対運動をしている人達ですね」

 とワタリが答えてくれた。

「ジオフロントでは遺伝子操作が当たり前のように行われているって、以前話しましたよね。ジノはその産物ですし、僕やレッシュも例外じゃないんですが、最近はそんな風潮に反対する人達が出てきているんです」

「へえ、でもなんで? 私には遺伝子をいじるなんてぞっとしない話だけど、今までは普通にされてたんでしょ」

「まあそうなんですけどね。最初に言い出したのはアメリカの偉い学者だったかな、このまま遺伝子を操作し続けると多様性が減少して、来る変化に人類が対応できなくなるおそれがある、とか何とか。確かにそうではあるんですが、今でも遺伝子保存法で改変が認められている部位はかなり限定されてますから、そんな極端なことにはならないと僕は思いますけどね」

「改変!?」

「改変というか、好ましい遺伝子だけを選択するというか。例えば髪や目の色を、有りうる可能性から選択する、といえば分かります?」

「分からないけど」

「子供って両親の特徴を持って産まれてきますよね。なので両親の遺伝子を見れば、子供が持って産まれてくるであろう髪や目の色って事前にわかるわけですね。多くの場合、髪や目の色は何種類か候補が挙がるので、その中から好きな色を選ぶこともできるってことです。僕のような黒髪黒目の両親からは金髪の子供はまず産まれてこないので、そういったあり得ない色にはできないんです」

「はあ……何となくわかった……気がする」

「それでも人為的な選択が入るので、遺伝子操作自体を法制で禁止しようって謳っているのが彼らです」

 へえ、と相づちを返して、改めて道の真ん中を陣取る一団を見遣った。リヨンで見てきた人々と違い、こざっぱりとした身なりで見目も整った人が多いように思う。

 中心にいるのは、車椅子に乗った少女だった。可愛らしいフリルのドレスから覗く四肢はやせこけ、気怠そうにアームサポートと背面シートに体を預けている。そのハンドルを握るのは、スーツを着こなした壮年の男性だった。

「車椅子に乗っている子がいるね」

 そっとワタリに囁く。ついと彼の目が動きチサトが示す一団を見遣ると、これといった感慨を抱いた様子もなく淡々と口を開いた。

「多分、遺伝病で歩くことができないんでしょうね」

「遺伝病……」

「疾病については僕は門外漢ですけど、遺伝子操作の全面禁止を主張する人達の間では、遺伝病を持つ子供がたまに産まれるようになってきているんですよ」

「遺伝子をいじらないから?」

 そうです、とワタリが頷く。

「でも疾患を持つ子のケアができるのはそれなりの資産がある家だけですから、遺伝子診断で遺伝病を避けることは一般的な医療行為です。あそこにいる人達は、多分全員ランクAでしょう。金持ちの道楽程度にしか見ていない人も多いでしょうね。チサトさんはどう思います?」

「何が」

「今のジオフロントの状況を、です」

「ワタリ君はどう思ってるの?」

「僕ですか。うーん、僕にとってはこれが普通なので、改めて意見を求められると困るというか……遺伝子の多様性自体は絶対になくならないですけどね」

「何で」

「ランクCは遺伝子操作を受けられないからです。旧欧州エリアではランクCはコーカソイドばっかりなので、地域で見れば人種に依存する遺伝子は淘汰されていますけど、ホモ・サピエンスという種で見る分には純化はしないでしょう」

 ふうん、と生返事を返す。

 ジオフロントの事情はよくわからないが、遺伝子操作なんてものはなくても幸せな人生を送ることはできる。チサトの育ってきたプラントには当然そんな技術はないし、ジオフロントよりも技術レベルも遅れているが、少なくともチサトの知る人は充足した人生を送っている。

 それでも、ジオフロントの人々の大多数が幸福を感じているのなら、現状がベターなのだろう。


 サテライトオフィスから、フィナンシエのクローズドコミュニティを覗いてから、PMSCsオーソライズネットワークにアクセスする。

 民間のサテライトオフィスはこれまでも利用してきたし、通信が傍受されて危機に陥ったことは一度もない。レッシュ個人のIDを使用して、いつも通りの行動を取る。彼女の性質をよほどよく知り、現状に精通するものでなければ、レッシュの行動の意図は汲み取れないだろう。 PMSCsネットワーク上ではいつも通り、南ア地域での護衛や救助、中央アジア地域での代理戦争の依頼が大半を占めており、時折欧州や米国発の依頼が紛れ込んでいる。活動エリアが欧州地域のオーダーを一つずつチェックするが、流石にオープンな場所にはナッツ・ステイクに関連した依頼は流れてこない。こちらとしても見つかればラッキー程度のメンタルで覗いているのだから、動きが表だって見えなくても問題はない。

 個人ベースの依頼まではチェックする術がないわ、と端末のログをすべて消去して席を立つ。

 尾行が二人いると別れ際にワタリが言っていた。オフィスまでに成りを確認はしたが見知った顔でもなく、これいった目印も特に見られない。スーツ内のホルスターに収まっている短銃を見ればどこのPMSCsかぐらいは分かるかも知れないが、レッシュが存在に気がつかなかったレベルのエージェントであることは確かだ。単独でやり合っても勝ち目は薄いだろう。

 サテライトオフィスの自動ドアをくぐったところで、不意に足が止まった。考えごとをしていたから咄嗟に対応できなかった、のではない。十二分に警戒していたとしても、きっと同じ結果になったに違いない。

 なぜこの人がこんなところに立っているのだ。疑問を動揺と共に一瞬で飲み下そうとしたが無理だった。驚愕の色を含む言葉がぽろりと出てしまう。

「ユージン隊長……」

「ここで君とやり合うつもりは流石にないがね」

 表情を微塵も崩さず、彼女のかつての上司は淡々と言い放った。

 近場のカフェのオープンテラスに、レッシュとユージンが腰を掛ける。オーダーしたコーヒーが運ばれてきたところで、不利を承知の上でレッシュから口を開いた。

「隊長まで前線に出張らないといけないほど、事態は切迫しているのかしら」

「ファイアブリックは動いていない。飽くまで私が個人的に動いているだけだ」

 ユージンは薄く笑ってレッシュを一瞥した。

 相変わらずの感情のこもっていない目は、その裏の意図が読みとれなくて恐ろしい。目に感情がこもらないのはワタリも似たり寄ったりだが、ユージンの方が物理的な接点が少ない分得体が知れない感が強くなる。塩基を人工的に組み立てて作られた生命体だからなのか、人格形成のための情操教育に不備があったのかは定かではない。

 ジェネティックエンジニアリングの粋を凝らして産み出された彼らの存在も、今ではなかったことにされている。

「ウスイは敢えて我々……いや、追っ手に足跡を残しているようだ。クレルモンで偽造IDを調達したログが残っていた。君がウスイに加担する事は容易に推測ができる。オースティンの娘の分と併せて三つ、そのうちの一つはオルレアンの市民権を得て半年も経たない人間のものだ。オースティンの娘はエスペラントしか話せないだろう、その不自然さを隠すためのIDだ」

 それはレッシュにも分かっている。そもそも、彼の足取り自体が実に素直なのだ。のこのことリヨンにやってきたことも、オルレアンを経由するという選択も実に安直だ。

 その辺のPMSCならワタリが分かりやすく残した足跡を見つけるのにも四苦八苦だろうが、あのファイアブリックの隊長が相手なのだ。彼ならばネットワーク上に僅かでも痕跡を残せば、そこから的確に追いかけてくる。そしてワタリはそれを分かった上で、足跡を残している。

 おそらくワタリはナッツ・ステイクに、チサトに関わることに無関係な人を巻き込まないようにしているのだ。

 PMSCsが狂犬の集団とはいえ、不必要な殺人は犯さないし、無駄な攻撃は行わない。

 そして、ファイアブリックのユージンの力量はPMSCsならば皆知っている。ユージンがワタリの足跡を的確に追跡し、そのユージンを他のPMSCsが追いかけることで漁夫の利を狙う。

 ワタリは敢えてこの状況を作っている。

 この思考自体は理解できるのだが、チサトのためにここまで配慮しているということが、レッシュの持つワタリ・ウスイという人物像とは距離が有りすぎて不自然だった。

「ただ、彼自身のIDは使用履歴が全くログサーバに上がってこなくてね。リアルタイムで蓄積されるログにも痕跡がないところを見ると、どうやらストリームから直接データを削除しているようだ」

 言葉の意図が読みとれなくて、小さく肩を竦めてみせる。

「ナッツ・ステイクのデッドラインを待ってから、パリかランスから地上に移動するつもりだろう。なかなかクレバーな選択だよ。デッドラインさえ越えてしまえば、彼女の戸籍はジオフロントから抹消される。リミット前のいざこざをジオフロントで始末すれば、本来の生活空間が侵されることもなく、あの娘は何もなかったかのように今まで生きてきた世界に戻れる」

 確かにそうだ。ホームタウンで大っぴらに命をねらわれるよりは、おそらく今後は一切の接点がない土地の方がトラブルの種をまき散らしても影響は小さい。ワタリの態度から察するに、そこまでチサトのことを考えた上での行動であることも間違いないだろう。

「昔のよしみで一つ情報をやろう。パリの斜行エレベータおよび外郭へのゲートは物理的に閉鎖されている」

「期限は」

 ユージンは口の端を上げただけだった。

 パリからは地上に出られない、つまりランスに向かうしかないということだ。選択肢が一つ潰された。いや、潰されたのは一つだけではないだろう。ワタリの目には、地上へのルートは一本しか残っていないはずだ。

 ブラフの可能性……はないか。その程度の情報なら簡単に裏を取ることができる。

 情報を流す体を装っているが、その実こちらの行動範囲を狭めてユージンにとって優位な状況を作るために動いている。イヤな男だ、一番イヤなところは、ユージンは言動に感情がないことだ。淡々と依頼をこなす、その判断は常に適切でぶれがない。だからこそ均衡が崩れた時点で勝敗が決まる。物量、情報量共にワタリの方が不利だろう、彼に勝機は見えているのだろうか。レッシュには見えない。眼前のホワイトカラーに今度こそは殺されるかも知れない、心の中で自嘲する。

「レッシュ、君はいつまでウスイに付き合うつもりだ。君ほどの人材をこんなところで失うのはやはりもったいない。君にとってオースティンの娘など、どうでもいい存在だろう」

 そりゃあねと珈琲を一口啜ってから、何度目になるだろうとぼんやり思いながらも再び肩を竦めて見せた。

「彼女が生きようが死のうがアタシには関係ないさ。でもウスイにとっては違う。彼がどんな報酬を得ているのかは知らないけど、アタシはウスイが欲しいから。あの子の生死は無視できない事柄になったってとこ」

 そう、結局はこれに尽きる。レッシュが生き残ったところでワタリが途中で殺されたら何にもならない。あれが単体で動いていれば殺したって死なないだろうが、厄介なお荷物を抱え込んでしまっている。

 ワタリがレッシュを残して、チサトと共にどこかでのたれ死んでしまうなんて考えただけでもぞっとするし、そんなことは許しがたい。

 ならばレッシュが自らの手でお荷物を切り捨ててしまえばいいのだが、ワタリの不興を買うのは避けたいし、そこまで非情にもなれない。感情に支配されるが故の現実だ。

「アタシが今も生きてるのは、リアルトとウスイのお陰だから。リアルトがきっかけを作らなければウスイは動かなかっただろうし、ウスイが動かなかったらアタシはあそこで殺されてた」

「そうか、残念だ」

 感情の欠片もない言葉を並べ、ユージンは席を立った。

 ユージンの背中を見送ってから、携帯端末を手に取る。自らの首を絞めることになるのはわかっているが、ユージンが残した情報をワタリに伝えないわけにもいかない。


 ワタリの持つ携帯端末が着信を告げる。

「ああ、レッシュか。ホテルの部屋を取ったよ、場所は転送しておく……うん? 隊長が? 状況はわかった、対応する。それじゃ」

 ワタリは携帯端末のボタンを押すとしばらくディスプレイを見つめた後、「ちょっと寄りたい場所があるので、付き合ってもらえます?」とチサトの手を取った。

 区画Bの込み入った裏通りを歩いた先の一軒家、何とかいてあるのかはわからないがメタリックな表札の出ているガラス張りの扉をワタリが押した。

 屋内はカウンターと開けた空間、そして壁際に据え付けられた金属ラックに箱型の物体が雑多に置かれている。売り物と思しきそれらには目をくれることもなく、カウンターに歩み寄るとワタリは天板をノックした。カウンターの奥のブースに収まっていた人物が手を挙げたのを見て、ワタリはカウンターの中に入る。チサトも訳が分からないままその後に続く。

 男性の座るテーブルには、やたらとごついキーボードと大きなモニタが三台、その周囲には空き缶が大量に並んでいる。

「やあウスイさん、久しぶり。今日は何の用?」

「ID付随の情報を書き換える必要があってね」

「あー、ってことはエイさんに繋ぐ必要があるね。暗号キーは?」

 ワタリがスティック上の何かを手渡す。データを保存するためのメディアなのだそう。

 顔を上げた男性とチサトの目が合う。ぺこりと頭を下げると、男性も律儀に頭を下げてきた。年の頃はチサトやワタリとそう変わらないだろう。

「あと、彼女の写真を撮ってもらえると助かる」

「いいよ。カメラは何処にあったかな」

 受け取ったメディアをキーボード脇のスロットに差し込み、席を立つ。部屋の奥へと歩いていき、タワーチェストの引き出しをごそごそと漁り始めた。

 目を凝らして薄暗い部屋の奥を見つめていると、

「彼は情報を扱うプロですよ」

 とワタリが言った。それから、ID、と首から下げたレクタングルを指さした。

「IDには個人情報が記録されているのですが、その中に実際に記録されているデータは、只の番号の羅列なんですよ。それ自体には何の意味もないんです」

「番号の羅列? じゃあ、どうやって個人を特定するの?」

「個人情報の実体は、外のデータベースにあるんです。ネットワークで繋がったデータベースには、名前や国籍、基本的な生体情報からDNA情報なんかが保存されていて、IDチップに記録された番号と照合するわけです」

「ふうん。でもそれだと、このIDと私の情報って繋がらないよね」

 そうなんです、とワタリが頷く。

「長期間偽造IDを使う場合は、データベースの内容か認証先を書き換えるんですが、今回はネットワーク上の情報に直に割り込んで姑息的にデータを書き換えます」

「エイさんと繋がったよ、そこのマイクが繋がってるんで。そっちのお嬢さん、ID用の写真撮るからちょっといい?」

 随分と小さなカメラで写真を一枚撮られた。

 全然自覚はなかったが、相当にぞっとしない顔をしていたようで、

「今撮った写真を使って、チサトさんのIDに対してチサトさんの顔写真が表示されるようにするんですよ。悪用はしないので、大丈夫です」

 などと、ワタリに説明されてしまった。

 苦笑いしつつ、ワタリが見つめているモニタをチサトも覗き込む。

『何だ、また君か。確かにね、アクセス用の共通鍵はたまに売りに出しているけどさ、よくもまあ毎回手に入れて来るものだよね。感心するよ、頭がおかしいよね君。ああこれは褒め言葉。して、この度は何用? まだ前回依頼は有効期間内だけど、何かクレーム?』

「いや、新たな依頼だ。これから転送する写真とIDを関連づけてくれ」

『その程度ならお安い御用だけど、期間は?』

「期間は二週間。画像は即時反映されるようにしてくれ」

『つまり、ネットワークに介入して直接認証情報を書き換えろってことか。ドメインは?』

「フランス国内」

『広いなあ』

「大した範囲ではない」

『ううん、まあ仰るとおりで。データも届いたよ、すぐに作業に取りかかる。念のため一時間は認証データの参照を避けてもらえるかい』

「承知した」

 通信が切れるのと同時に、

「地下道への入り口ってまだ残ってます?」

 と店番をしていた彼に、ワタリは唐突に質問を投げた。

「まだ使えるよ。でも、できれば揉め事は勘弁して欲しいんだけど」

「仲介料に色付けときますので。少しの間、彼女のこと頼みます」

 渋い顔をする店員を尻目に、ワタリは外へと滑り出ていった。

 チサトの顔をちらちら見ながらしばらく黙り込んでいた店員は、大仰に肩を落とすと、「付いてきて」と店の奥を指し示した。

「危ない橋、渡ってるよねえ。ウスイさんが付いているから何とか凌いでるって感じがするよ」

 薄暗い納屋の扉を開け、適当に積み上げられた箱をぞんざいにどかしていく背中が、そんなことをぼやいた。それがチサトに向けて発せられた言葉なのか、ただの独り言なのか定かではないが、それ以上にその言葉の意味するところが咄嗟に理解できずに反応できなかった。

 舞い上がる埃にむせながら、あれ? と店員は首を傾げる。

「お嬢さんが、オースティンさんの娘さんなんだよね? 例のナッツ・ステイクに当選しちゃったっていう。僕の勘違いじゃないよね」

「そうみたいです。実感は全然ないんですけど」

 そう答えると、彼は感嘆の吐息を漏らした。

「ってことは、ウスイさんは貴女に危機感を感じさせないぐらい頑張っちゃっているってことなんだろうね。うーん、依頼内容とあんまり釣りあわない気もするけど、どうなんだろう」

 床に設えられた取っ手を引き上げると、床材の下にぽっかりと開いた空間が見えた。鈍く光る梯子が二段ほど見える。

「あの、一つ聞いてもいいですか?」

「何?」

「ワタリ君がどういう仕事をしているのか、ご存知なんですか?」

「んん、僕らは情報を扱う商売やってるし、ある程度はウスイさんからも事情は聞いているから全く知らないわけではないけど。何か知りたいことでも?」

「何だか私は、どこに行っても面倒くさい存在みたいで。まるで存在しない方がよかったみたい。そんな私のために、何でワタリ君は頑張っているのだろうって」

 思わず本音が口をついてしまった。

 リヨンの白人街で話を聞いた時に薄々感づいてはいたけれど、それを肯定してしまったら自分には生きる資格がないことを認めてしまう気がしてならない。そんなことを口にしたら、ワタリもリヨンの女性たちも真実はオブラートに包み隠して、雁首そろえて否定するのだろう。だってチサトはリアルト・オースティンという人物の娘なのだから。

 おそらくこの店員とは、今後も関わり合いにはならない。ワタリともそれほど深い付き合いがあるわけでもないようだ。

 多分自分は、胸の中でぼんやりと沸き上がっていることを言葉にして吐き出したかったんだ。相手は誰でもよかった、チサトの言葉に何の感慨も示さない人物ならば。

「これは僕が勝手に思っていることだけど」

 彼はそう前置きをした。

「それはきっと、お嬢さんがオースティンさんの娘だから。もちろん、ウスイさんに報酬を出してお嬢さんを守るように依頼した人物は居るよ。具体的な報酬額は聞いていないけど、世の中の相場を加味するとウスイさんは経費に金を出しすぎだなあって感じ。それもあって、ウスイさんはもっと個人的な理由で動いている気がするんだ」

「私の父が関係しているんですか」

 そう、と頷く。

「リアルト・オースティン。僕らと同じ白人で遺伝子を全く弄っていないのにAAになった凄い人だよ。皆……と言うと若干盛ってるけど、僕ら白人は皆知ってる。でもって、愛した女性がC区画の人間だったってだけで、すべてを失ってしまった。この辺は人によって受け取り方も色々だし、現実に背鰭尾鰭が付いて大袈裟な話になってるだけだって思っている人が大半だけど」

「事実、なんですね」

「多分ね。貴女がいるのだから、事実であることには間違いなさそうだ。で、そのオースティンさんとウスイさんは親友だったらしい。親友の娘の命を助けても、不思議はないよね」

「らしいって」

「ネット上の眉唾物の噂話では、そういうことになってるんだよ。お互いに背中を預ける仲だったって。でもオースティンさんを処刑したのもウスイさんだっていうから、本当かどうかは何とも言えないね。僕の父ならもっと色々知ってたと思うんだけど、生憎その辺の話は遂に聞くことはなかったなあ。貴女の存在自体が、ここではタブーみたいなものだし」

 ワタリがチサトの父を処刑した? 何気なく口に出されたパラグラフがチサトの心を捕らえる。おそらく言葉通りの意味しか持たない言葉なのだが、それはチサトにとっては看過してはならないことだ。

 僕から見れば美談の一つなんだけどね、とフォローとも付かない呟きを吐いた。「あ、ウスイさん」

 肩越しに背後を窺うと、すぐ後ろにワタリが立っていた。チサトと向かい合う形で立っていた店員の反応からすると、つい今し方戻ってきたようだけれど、全然物音がしないから気が付かなかった。

「上にはあまり兵隊が居なかったから、ここが襲われることはないと思います。本隊は地下に配置しているのでしょう」

 物騒なワタリの言葉に、店員は安堵の表情を見せた。

 チサトの横をするりと通り抜け、ワタリは地下に開いた穴を覗き込む。どこからかペン型のライトを取り出して、暗闇へと光を向けた。

「行きましょう、チサトさん。付いてきてください」

 この人、今さっき本隊は地下にいるっていったよね……大丈夫なの? と不安がちらりと脳裏をよぎったが、今までもワタリの指示に従っていれば大丈夫だったではないか。

「わかった」

 一つ頷き、チサトは恐る恐る梯子に足を掛けた。

 地下道は水路を伴う薄暗い空間だった。地下の空間にさらに地下という概念があるのが何となく不思議だったが、些末な疑問は飲み込む。チサトの目が闇に慣れるのを待って歩きだしたワタリは、ライトを付けていない。会話も必要最低限だけで、無言のまま水路の脇に作られた煉瓦畳の道を歩いている。

 不意にワタリは立ち止まると、チサトにも止まるようにジェスチャーで示す。それから近くの壁を作った拳で叩き始めた。

 喋るなとは言われなかったのを確認し、小声でそっと話し掛ける。

「何してるの?」

「物資補給です。この地下道はよく利用していたので、色々と置いてあるんです」

 壁石の一つを引っ張りだし、その奥からビニール袋を幾つか取り出した。短銃が入っていることはわかったが、他は小さな箱と……暗くて判別が付かない。

「チサトさんにはこれを渡しておきます」

 ワタリはチサトが視認できるように、ペンライトで手の中にあるものを照らし出す。手を差し出すと、チサトの掌には少し大きいぐらいの拳銃を渡された。ワタリが扱っていたものよりも大分小型で、思っていたよりも随分と軽い。

「撃ち方と弾倉交換のやり方を教えます。ユージン・シルベストリという人のことは覚えてますか?」

「覚えてるけど」

「では今度彼と出くわしたら問答無用で撃って下さい。彼は僕と違って現場に出られるほどのスペックはないので、それで動きを止められますから」

 撃つ? 私が……?

 手の中で鈍く光る拳銃に現実感を感じないながらも、この引き金を引くことを絶対に自分にはできない事だけはわかった。

 弾倉を手に取るワタリを制する。

「待ってワタリ君、私には撃てない」

 一瞬ワタリは不思議そうな目をチサトに向け、はっと何かに気が付いたかのように動きを止めた。

「ごめん、私には無理だと思う。別に宗教上の理由とかそんなんじゃないんだけど、そこまでの勇気が私にはない……」

 これは甘えだ。やりもしないうちから逃げて、ワタリならチサトのお願いを聞いてくれるだろうという我が儘だ。

 いざそんな局面に際したら、あっけなく引き金を引けてしまうかもしれない。予想した通り恐怖に押し潰されて何もできないかもしれない。そして、引き金を引いた自分の冷血振りにも、引き金が引けなかった意気地のない自分にも幻滅するのだ。

 だから逃げる。

 いつもそうだ。自分は巧妙に自分の立ち位置を変えることで、一見問題に立ち向かっている体を作りつつも、実際に自分は何もしてこなかった。

「そうですよね、すみません。この期に及んで日和ってしまいました」

 ワタリは一端はチサトに渡した拳銃を取り上げ、ビニール袋の中に戻す。

「ダメですね。こちらに戻って以来、プラントでの常識をつい忘れてしまいます。……ここまで大事にしておいて今更なんですが、本当はチサトさんに何一つ知られずに片を付けるつもりだったんです。こんなのは、普通の女の子が体験すべきことではないんです」

 あれ、と彼の背中を見遣った。珍しい、ワタリが腹の内を口にするなんて。

 ビニール袋の口を縛り上げると先程の隙間に押し込み、行きましょうかとワタリは立ち上がった。

 「ジャンク屋に迷惑を掛けることはできないので、ホテルの近くまで地下を移動します」という最低限の目的だけを話し、それ以来二人は黙々と歩を進めている。チサトの歩調に合わせてくれていることはわかるが、それでも何も知らないままに薄暗い地下を歩かされている身としては、不安ばかりが満ちていくわけで。そんな心の内が気がつかない内に顔に出てしまっていたらしい。

 肩越しにチサトを一瞥したワタリが、唐突に口を開いた。

「この地下道には、奇襲を仕掛けやすいポイントがいくつかあります。想定しているホテルまでのルートでどうしても一カ所、そのポイントを通らないといけないので、その前になったらちゃんと声を掛けますから安心してください」

「う、うん。何かゴメン、別に不満があったわけじゃないんだけど……」

「いえ、恐怖を感じるのはわかります。僕がもっと説明すればよかったですね。多分、襲撃してくるのは生身の人間だと思うので、大したことにはならないでしょう」

「生身じゃない人間なんているの?」

 いますよ、と当たり前のようにワタリが頷く。

「サイボーグって聞いたことあります? サイバネティック・オーガニズム。もっぱら身体を多かれ少なかれ機械化することで戦闘力を上げた人間を指す言葉ですが、昨今トレンドではないのであまり見かけることはなくなりました」

「トレンドじゃない?」

「ええ、機械の部品を埋め込んだ後のメンテナンスが面倒だということと、破損したときの対応が迅速にできないことが多かったんですね。今は腕が一本なくなっても再生できるようになりましたし、そもそも脳内麻薬を操作することで生身でも十分な戦闘力が得られるようになったので。後はパワードスーツという強化外骨格がありますが、それも流行っているところは見たことがないです。あれは重量もあるのでどうしても音が響きますし。結局のところ、人間が一番替えの効く手っとり早い戦力だってことですよ」

 そんなことを言ったら、ワタリ自身も替えが効いてしまうということではないか。チサトにとっては替えの効かない大切な人なのに。嫌な言い方をすると思ったが、口には出さない。

 ワタリが止まるように腕を広げた。先ほど話していた奇襲する絶好のポイントに近づいたのだ。気持ち身を縮こまらせて壁際に寄り添いながら、前方を伺う。

 一歩ワタリが足を踏み出すと、曲がり角の向こうから銃声が聞こえてきた。以前聞いたワタリの使っていた銃よりも軽い音が途切れなく滝のように聞こえてくる。

 ぎゅっと胸の上で手のひらを握りしめていると、ワタリと目があった。大丈夫ですよ、とその唇が語る。チサトは息を殺して身を潜めることしかできないのに、妙に心臓がバクバクと高鳴っている。

 耳をふさぐようにワタリがジェスチャーで伝えてきた。おとなしく彼の指示に従う。

 銃声が止んだ隙にワタリは少し身を乗り出すと、左手を大きく振った。

 一呼吸の後、閉鎖された地下の空間に爆音が響きわたった。悲鳴をかみ殺して、頭を抱えてしゃがみ込む。あまりの衝撃に天井から細かい破片がチサトの上に降り注いだ。

 背中に落ちてくる破片を感じなくなってから、恐る恐る顔を上げる。舞い上がる砂埃を吸い込まないように、手で鼻と口を覆う。十字に交差した水路は埃と煙にすっかり包まれ、四つん這いになったままチサトは動けずにいた。

 曲がり角の向こうからワタリが戻ってくる。

「大丈夫です、行きましょう」

 酷く遠くからワタリの声が聞こえる。すべての音に靄がかかっているかのように、ぼんやりとした不明瞭な音が鼓膜を打つ。

「何? ごめん、よく聞こえない」

 自分の声ですら、どれぐらいの大きさなのかさっぱりわからない。多分、先程の爆発音で耳が馬鹿になってしまったんだ。

 それはワタリにもわかったようで、彼は水路の先を指で差してから腕を差し伸べ、へたりこんでいたチサトを引き起こした。チサトの体に被った埃を払い落として怪我がないことを確認すると、チサトの腕を取ったまま再び歩きだした。

 ワタリに引かれるままにそろそろと足を踏み出す。コーナーに敷かれた煉瓦の表面はでこぼこに削られていた。壁にもいくつもの穴が空いて見える。

 謂われのない悪意が自分に向けられている。

 それでもまだ、現実感が湧いてこないのが不思議だった。


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