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これといった危機感もないまま、まんじりとリヨンの白人街に身を潜めて数日、もう四日ぐらいになるだろうか。こんなに何もしないまま時間が無為に過ぎていくのは、ここ最近ではなかった。プラントエルフィンがどうなっているか、新聞は暫く休止にしてあるから問題はないだろうけど、そろそろプラントの様子が気になっている。ジノの治療は上手くいっているだろうか。
日記代わりのメモを書き留めつつ、ぼんやりと思い馳せているとドアがノックされた。窓の外を見ると、まだまだ明るい。誰かがスナックでも用意してくれたのかしら。メモをポケットに戻してからドアノブに手を掛けた。
そういえば鍵は付いているが、それを意識してはこなかった。ワタリも施錠しろとは言わなかったし、必要性を自覚していなかった。大した根拠もないけど、屋内は安全だろう、特にここなら安全だろうと思い込んでいたことは否定できない。
「お姉ちゃん、こんにちは」
翻訳機が少女の言葉をエスペラントで伝えてきた。誰だったろう、瞬時に頭がこの少女の名前を思い出そうと働き出す。
そもそもこんな少女はこの娼館には居なかったはず。確か初日とその翌日に働いている者の名前と顔を全員分、ワタリに確認させられたはずだった。
誰かの子供? 迷子にでもなったのかしら。
チサトを見上げて満面の笑みを浮かべる少女に、チサトの口元も緩みかける。
「こんにちは。ええと……お名前は何て言うの? お母さんがここで働いているのかな?」
ワンテンポ遅れて、翻訳機がチサトのエスペラントを英語に直して吐き出す。チサトが一歩前に出ると、ニコニコと破願していた少女の腕がポンチョからするりと出てきた。手に何かが握られているのを認識した刹那、その腕が振り上げられる。次いで間の抜けた乾いた空気音。
少女が手にしていたナイフがチサトの目の前から、少女の体ごと床の上に転がり落ちた。こめかみから溢れる血液が床に広がっていく。
もう少しで少女のナイフはチサトの腹を割いていたはずだった。ウソ! こんな小さな子が、私を殺そうとした……
廊下の奥へ目をやる。見えるのは、拳銃を手にこちらに歩いてくるワタリの姿。彼が撃ったんだ。
ワタリは爪先で少女の身体を小突き、事切れているのを確認するとその身体を調べ始めた。床に転がったナイフ以外にも、身体の下に短銃を見付けると、ハンカチでそれらをつまみ上げる。武器を見付けると、それ以上ワタリは少女の身体には触れなかった。
その後、顔を上げたワタリと目が合った。深い青みがかった黒い双眸がこちらを見上げてくる。
「大丈夫ですか、怪我はないですか」
「こ、子供……じゃないの」
「見た目と年齢は比例しませんから、子供ではないでしょうね」
でも、その子は死んだ。チサトの目の前で、殺された。
急に怖くなってきた。彼の表情は普段と全然変わっていないのに、返ってそれが怖い。ぎゅっと胸の上で手を握りしめると慌てて部屋の中に戻り、ドアを閉めた。膝がかたかたと笑いそうになっている。両腕で自分自身を抱きしめた。
嫌だ怖い気持ちが悪い怖い見たくなかった怖い怖い怖い。
チサトの目の前でワタリが人を殺したのは多分二回目。一回目は……そう、あの連続殺人犯の誘いに乗ってしまったチサトを助けたとき。でもそれはチサトの推測に過ぎない、何よりあの時は銃口を向ける彼の姿を見ていない。だから実感がなかった。
礼の一つも言わずにドアを閉めてしまったが、ワタリは何も言ってこない。ノックすることすらしない。沈痛な面持ちで必死に言い訳してくれれば、言葉と共に心に降って湧いた感情も吐き出せたかもしれないのに、ワタリはその機会を与えてくれなかった。
その後、扉を開けると何事もなかったかのように綺麗になっていたけれど、廊下に居たワタリとは喋らなかった。視線も合わなかった、いや、合わせられなかった。
それから丸々二日間、チサトはワタリを見なかった。その分レッシュの顔を見ることは増えたが、彼女は彼女で取り込んでいるようで、チサトはぼんやりと部屋で時間を潰していた。娼館の女性達が部屋を連れ出してくれ、あれこれと世話を焼いてくれた。翻訳機を介して一応の会話は成り立ったけれど、細かいニュアンスは伝わらないし文化も違いすぎて正直苦痛だった。時々そっと部屋を抜け出しては、かつての自分が大好きだった青年と逢瀬を重ねた橋の上でぼんやり時を潰したりもした。
よく考えれば、こんなに長い時間ワタリが傍にいないのは、彼がチサトの元に転がり込んでからは初めてかもしれない。チサトがそれを苦痛だと感じたことはない、それだけワタリは気を遣ってくれていたのだろう。改めて、自分が彼にどれほど依存していたかを思い知らされて胸が痛くなる。
それなのに自分ときたら、彼の生業を目の前にして恐怖して萎縮した。チサトがワタリのやっていることを知ったら、きっと拒絶することを薄々感じていたのだろう。だからワタリはチサトの視界に殺害の瞬間が映らないように、ずっと包み隠してきたのだ。チサトの命を守るために、愛する人が他者の命を刈り取ってきたことを当人は微塵も知らなかったのだ。
バカだ、私。本当にバカ。愚かにも程がある。
夕食を済ませベッドの上で膝を抱えていると、レッシュが顔を出した。
「ウスイが戻ってきたけど、会う?」
「……う、ううん。後でいい」
咄嗟に首を横に振ってしまった。
そう、とレッシュは一言残して去っていった。その一言が余りにも優しい響きで、気遣われていることが嫌でも解ってしまって、チサトはベッドに突っ伏した。
「随分やつれてるねぇ」
娼館の一室を借り切りモバイルPCを叩いていると、ドアが開くと同時にそんな声が飛び込んできた。顔を上げると、レッシュが呆れた感じで顔を出した。
「どうだった」
「ファイアブリックの依頼元と内容、動いている要員を割り出した。僕のIDを使ってもログに残らないよう、ルートサーバへの偽装も依頼した。これでこちらのIDで動けるようになる」
「そう、お疲れ様。こっちの方はあれから動きはないね、身元は洗ってみたけど全然サッパリ。何処かのPMSCがアンタんとこのライバルにでも頼まれた、と考えるのが妥当だろうね。これ以上調べるには、アタシの方もそれなりのもの動かさないといけないから調べてないよ」
「それで構わない、身元が洗えないような傭兵ならどうとでもなる。だがこの場所は既に割られているだろうし、直ぐに移動した方がいい。オルレアン経由でランスに向かう」
「その辺の話も詰めたいけど、とりあえず寝たらどう? 判断力が落ちるよ」
「わかっている。詳細は確認しておいてくれ」
モバイルPCをレッシュに託して立ち上がる。暫く外していた眼鏡をケースから取り出して掛けた。
「了解。そうだ、あの子のところにちゃんと顔出しなさいよ」
「チサトさんのこと?」
「それしかないだろ。アンタは良くても、あの子が今のままじゃ後悔するよ」
行った行ったとレッシュに背を押され、ワタリはチサトの部屋へと向かう。
チサトがワタリに恐怖を抱き、避けてくれるのは好都合だった。何処かで彼女と別れなければならない。チサトが自分のこともジオフロントのことも忌み嫌って、プラントでの生活に戻ってくれることをワタリは望んでいる。物心つく前から懐かれ、まとわりついてきた少女とも呆気なく別れられることを願っている。
チサトは丸くなり、ベッドの中で寝息を立てていた。
リアルトと初めて対面した時、彼は今の彼女より年下だった。親子ほども年の離れた親友の代わりに、その娘の命ぐらいは守ってやらないといけないつもりでやってきたが、どうも外見が年を食わないと中身も若い気分になってしまう。
ワタリが知るトランスヒューマン達は、自分も含めて情動や情緒の類は極めて希薄だ。他者とのコミュニケーションに支障が出ない程度にまで投射ニューロンの形成を抑制することで、感情の優位性を抑える。戦闘時の正確な状況判断を期待してのことだ。それなりの人っぽさは経験と理解で装うことができるが、自然な形で遺伝子を受け継いだ人間が持つ情動というものは、基本的にはないと考えられてきた。
だからこそ、不思議な感覚だと思う。僕は、チサトさんに惹かれている。彼女を手の届く範囲に置いておきたいと思っている。
そんな我が儘を通す気はないし、大体にして、彼女はもっと人並みの幸せな人生を歩むべきだ。彼女にはジオフロントの為政者共の都合を聞いてやる義理もない。そのためには、地上の、プラントエルフィンで暮らしていくのがいいはずだ。
暫く横顔を見つめてから、ふいと踵を返した。今後のプランを考えなければ、直ぐにファイヤブリックの網に捕らわれてしまう。
*
夢の中の私が楽しそうに紙に絵を描いている。
『ママ見て! おにいちゃんだよ。これね、あげるの』
『もう、あなたはパパよりもお兄ちゃんの方が好きなのね』
金髪の女性が幼い私の頭を撫でる。ふんわりと母さんが笑い、私もニッコリと笑っている。楽しくて仕方がない、それもそのはず。今日は大好きなお兄ちゃんが父さんと一緒に遊びに来る日だった。
次の瞬間、私はやってきた二人の男性を見上げていた。『元気してたか?』と丸いサングラスの男性が身をかがめて私の頭を撫でる。うん! と元気に答えてから、父さんの直ぐ後ろに控えている人に私は駆け寄った。
『おにいちゃんにぷれぜんと!』
伸ばした前髪から覗いた目が無感動に私の絵を一瞥し、無言のままそれを受け取った。そして砂を噛んだ様な面持ちで、幼い私が一生懸命描いた絵を眺めている。絵の中で青年と並ぶ私は、白いドレスをまとっていた。幼い私の夢。
『なんだ、パパには何もないのかい?』
そう問い詰められて、幼い私はぷうと頬を膨らませた。
『冗談だよ、そう怒らないでくれよ』
父さんの大きな手がわしわしと頭を撫で、それから私を抱き上げた。ぎゅむぎゅむと抱き寄せられきゃあきゃあ悲鳴を上げる私。微笑みながらそれを見つめる母さんに、無表情のまま見遣るお兄ちゃん。
ああ、これは幼い私にとって幸せな時の夢だ。すっかり忘れ去っていたけれど。夢を見ていたことを自覚して、目が覚めた事に気が付いた。
今までにないぐらい、鮮明な夢だった。両親の顔が見えた、幼い私が恋い焦れた相手の顔もしっかりと見えた。
ワタリ君だった。陰鬱で光のない目をしていたけど、私が絵を手渡したのは彼だ。
彼にはずっとこの記憶があったのだろうか、忘れ去ってしまっているだろうか、覚えてはいるが取るに足らないどうでもいいエピソードの一つだっただろうか。
覚えていたからといって何になるのだろう。私はどんな顔をして、彼に話しかければいいのだろう。
こんな些細なことも処理できない人間だったのだろうか、私は。女だてらに記者を名乗って、如何なることにも一人で立ち向かってきたと思っていたし、今後もそうやって生きていける。ほんの数週間前まではそう信じて疑わなかった。自分の心が実に脆いことを今更ながらに思い知る。
窓の外から光が射しているのを見て、何となくベッドから降りた。好意が満ちている、だからこそ息苦しいこの空間から少しでも離れたところで息を吐きたい。
そっと扉を開いて廊下に誰もいないことを確認してから、するりと部屋を抜け出した。
向かう先はいつも同じ、記憶にあった橋へと向かう。夜が明けて街が眠りに落ちるころ、地上と違ってほとんど気温に変化はない。
橋の上から川の水面を眺める構図はどうしてもワタリのことが意識されてしまって、階段から河岸に降りた。緩やかに流れる水面は思っていたよりもずっと澱んで汚ない。
ふと目を覚ましたワタリは、腕時計を一瞥してから慌てて体を起こした。寝過ごした、レッシュも叩き起こしてくれればよいのに。状況が一段落したわけでもないのに油断しすぎだ。
己の失態に苦虫を噛み潰しつつ、チサトがいる部屋のドアをノックする。
「チサトさん、起きていますか? 今後の話をしたいのですが」
そっとドアノブを回して部屋の中を覗くが、そこはもぬけの殻だった。気配も全くない。彼女の性格的に一人でどこかに逃げ出したりはしないだろう、部屋を抜け出してどこかを彷徨いているに違いない。
不味いことになっている、今すぐチサトを探し出さなければ。少なくともワタリの視界に入れておかなければならない。もっと臆病な人だったら、部屋でおとなしく震えていてくれただろうに。
彼女がどこに行ったのか、こんな環境でどこに向かったのかなんて皆目検討もつかない。いつ、どこから彼女の命を狙う者が現れるか、全くわからない状況だというのに。
いや、一つだけ心当たりがある。彼女が朧気に覚えているらしいあの橋だ。ワタリは弾かれたように駆けだした。
「見ない顔だねえ、お嬢さん。こんなところで何をしているんだい」
翻訳機から男性の人工音声が発せられた。はっとなって視線をあげると、見知らぬ男性三人に囲まれていた。年は若い、チサトと同じぐらいかそれよりもう少し上ぐらいだろうか。
それにしても顔を上げるまで全く存在に気が付かなかった。いくら何でもぼんやりしすぎだろう。
どう返せばいいのだろうかと考えている間にも、じわじわと距離を詰められる。無意識のうちにじりじりと後退る。最低限保っておきたい距離に無遠慮に入られて、漠然とした恐怖が沸き上がってきた。周囲には全く人の気配がない。
自分が酷く失敗したことに、ようやく気が付いた。
そうこうしている間に、踵が橋台にぶつかった。これ以上の逃げ場がなくなったところで、肩を掴まれ力任せに地面に押し倒された。二人がかりで腕を押さえつけられて、口の中に布を押し込まれる。
恐怖と嫌悪感で息が吐けなくなる。悲鳴を上げるなんて端から無理だ、声帯は疾うに凍り付いてしまっている。直ぐ目の前で男が何かを喚いているが、音声として認識できない。
ブラウスのボタンがはじけ飛んで、ひんやりとした空気が肩に触れた。
最初に声を掛けた男が馬乗りになっているのがぼんやりと分かったけど、もうどうしようもない。
乳房を力一杯握られた次の瞬間、体に掛かっていた重みが唐突に無くなった。恐怖に見開かれていた目に映り込んでいたはずの男の姿が、忽然と消えてなくなる。それから直ぐに、腕も解放された。
のろのろと起き上がり、ちぎれた上着を掻き集めて露わになっていた胸元を押さえる。かたかた体が震えているのは多分寒さのせいだ。
先ほどまでチサトを押し倒していた男が殴り飛ばされた。潰された小動物のような悲鳴を上げながら、地面を這い蹲っている。他にいたはずの二人の姿は既にない。
「た、助けてくれ……」
懇願する男の上に屈み込み、首のあたりをまさぐっているのはワタリだった。シルバーのチェーンを襟元から引きずり出し、一瞥すると興味を失ったかのように放り出した。
胸元で両手を握りしめたまま一人震えていると、ワタリが近づいてきた。膝を突くと、自分の着ていた上着をチサトの肩に掛けた。
「大丈夫ですか? 怪我はありませんか?」
「私……あの……」
「何も言わなくていいですよ、無事でよかった」
ワタリの手がチサトの震える肩を引き寄せ、そのまま抱き締められた。たったそれだけのことなのに、ワタリの温もりが伝わってくるだけで酷く安心する。そして自分の体の震えが収まって初めて、ワタリの体もわずかに震えていることに気が付いた。
ワタリに引き起こされ、そのまま幼子のように手を引かれてチサトは娼館へと戻った。
「ごめんなさい、私……不用心だった」
弁明じみた謝罪を何とか絞り出し、チサトは口を噤んだ。弁明なんかじゃなくて感謝を示さなければならないのに、肝心な所で素直な言葉を口にすることができない。
ワタリが振り向く気配を感じたけれど、チサトは顔を上げることができなかった。数日前、酷い形でワタリを突っぱねたのに、彼は当たり前のようにチサトを助けてくれる。
ワタリがチサトを助けてくれるのは、チサトが彼の親友の娘だからだ。理由はそれしかない。本来ならばもっと感謝して然るべきなのに、彼の優しさを当然の権利のように享受している自分がいる。
己がひどくくだらない人間にしか思えなくて、ワタリに顔を向けられない。
「いいえ、チサトさんが無事でよかったです。大丈夫ですか?」
何が大丈夫なのだろうとぼんやりと考えつつも、俯いたまま首肯する。
「僕には、チサトさんの行動を制限する権利なんてありません。だからこれからもチサトさんがやりたいようにやってください」
飄々とした普段通りの口調で、軽口が返ってくる。続けて彼は少し声のトーンを落として言った。
「と言いたいし、そのつもりでいたいところですが、早々悠長なことも言っていられない状況になってきたので、今後はできるだけ僕かレッシュと行動を共にするようにしてもらえると助かります」
「わかった……さっきの人達も私の命を狙ってたの?」
「いえ、この辺りで暮らしているただの下らない連中です」
ほんの僅か語気が強くなった、ワタリが感情的になるのは珍しい。周囲のことを省みないチサトに対して怒っている、のではない。多分、チサトをこんな目に遭わせた者に対して怒っているのだろう。どこまでが本心なのかはわからないけれど。
「それから部屋に戻ったら、直ぐに着替えて荷物を纏めてください」
「わかったけど、どこに行くの?」
「プラントエルフィンに帰ります」
「……帰るって」
どういうこと? 大丈夫なの? と続けようとしたのに、言葉が喉に引っかかって途中で切れた。大丈夫って何が大丈夫なのだろう。チサトのことに決まっている。自分が無事生きて帰れるかどうかを、咄嗟に確認しようとしたことに無意識のうちに気がついてしまい、言葉が続かなかった。
「このままここに居続けることはできませんし、移動するのならプラントエルフィンに向かう方が今後の都合もいいでしょう。ジノのことなら大丈夫です。あそこの研究所は僕の知り合いが居ますし、ジノを今研究室から連れ出すことはできませんから」
つい先程まで寝泊まりしていた部屋に潜り込み、一人になると背中から首筋にかけて怖気が走った。
だめだ、時間がない。よけいなことは考えるな。
そう自分を叱咤して借りてあった替えのブラウスに袖を通す。手がふるえてボタンを留めるのに時間が掛かってしまった。急いでバッグを取り上げて部屋を後にする。一応シーツのしわだけは直しておいた。
廊下に出ると、バラチエと最初に出会った女性の姿があった。
「ムスュー・ウスイから聞きましたよ、出立されるそうですね」
「はい、何だか慌ただしくてすみません」
バラチエは緩やかにかぶりを振った。
「貴女方の事情はわかっています、わたくし達のことは気にせず行ってください」
「そのブラウスもアンタにあげるから。他に何かいるものある?」
女性の申し出に頭を下げる。
「有り難うございます、でも多分大丈夫です。……色々とお世話になりました」
視界の隅に、チサトの様子を窺うレッシュの姿がちらちらと映っている。腕を組んでこちらを見遣っているだけなのに、急かされている気がしてしまう。
小走りに彼女の元に向かう。特に誰かに見送られることもなく表に出て、促されるように車に乗り込む。反対側のドアから、レッシュが後部座席に乗り込んできた。
先に運転席に乗り込んでいたワタリはハンドルを握ったまま、ちらちらとバックミラーを見ている。
「ワタリ君、急がなくていいの?」
バックミラーの中のワタリと目が合ったついでに尋ねると、ミラーに写るワタリが微笑んだ。
「大丈夫ですよ。あ、でも急に出すかもしれないので、その辺に捕まっていた方がいいかもしれません」
言われたとおりに、アシストグリップをしっかりと握りしめた。
チサトの隣ではレッシュが足を組んで鼻歌を歌っている。彼女はチサトと目が合うと、「アイツに任せておけばいいよ」と両手を後頭部で組んだ。
視線を窓の外に向け、すっかり明るくなった町並みを眺める。ここ数日と変わらない、閑散とした朝が広がっている。
「ウスイ」
「わかっています。奴らに僕達がここを出ていくところを見せます」
レッシュは一瞬鼻白んだような表情を浮かべ、
「ご苦労なことだこと」
と肩をすくめ、至極自然な動作でアシストグリップに手を掛けた。
それからすぐ、三呼吸ほど置いてワタリがアクセルを踏み込んだ。車は緩やかに発進すると、白人街の外へと向かって走り出す。
「しっかり捕まっててください」
声と同時に、唐突に車体は右に曲がった。タイヤがキュルキュルと悲鳴を上げる。急激なGに体が振られ、手がグリップから外れてチサトは悲鳴と共にレッシュの方に倒れ込んだ。
ぐんぐんとスピードを上げながら、狭く入り組んだ白人街を抜けて大きな道路に飛び出した。道はほぼ真っ直ぐで、幸いなことに往来はあまりない。
ほとんど衝撃もなく、見晴らしのよい道路の上を車は駆け抜けていく。スピードメーターは見えないし、景色の中を流れていく目印もなく、一体どれぐらいの速度で走っているのか皆目検討もつかない。
「このままつっ走るわけ?」
「できればそうしたいところです、が」
「この状況で、何もせずに見逃してくれるわけないよねえ。後方に追ってくる車影は見えないよ」
「僕ならこのタイミングで狙撃します」
「だよねえ。前方のナビやるわ」
「頼みます」
そう言った矢先、ワタリがハンドルを切った。タイヤが舗装された道路から、土の大地に落ちる。途端に車体を振動が襲い、チサトの身体が座席の上で跳ねた。
アシストグリップを掴み直す前に、今度は反対側に車体が振られた。横からレッシュが腕を伸ばしてチサトの身体を支えてくれたおかげで、窓に顔面をぶつけずに済んだ。
酷い蛇行運転に何が起こっているのか全くわからず、レッシュの腕にしがみついていると、
「ウスイ、前方に障害物、右が空いてる。三秒後」
「了解」
車は舗装路を外れ大きく右にはみ出してから、再び道路に戻った。少しずつエンジンの回転音が下がり、徐々に車の速度も下がっているように見える。外の風景の流れる速さが若干落ち着いたような気がする。
「そろそろ射程圏内から出た?」
「ええ、ヘカーテの射程からも外れたでしょう。運悪く流れ弾を被弾したり、相手が居住区を考慮しない攻撃をしないかぎりは大丈夫です。オルレアン経由でパリへ向かいます」
「オルレアンか。木を隠す森としてはいいけど、あそこはエージェントが結構潜り込んでいるよ。それに……ってアンタにわざわざ説明する必要はなかったね」
「サントルに入る前に、オルレアン在住のIDは用意します」
「クレルモンに寄るわけ」
そのつもりです、と運転席から返事が返ってきた。
「オルレアンってどんなところなんですか」
控えめなトーンで、隣のレッシュに問いを投げた。
「ああ、ジオフロントでも比較的人種融和が進んでいる街さ。一昔前に起こった人種解放運動が一番進んだところでさ、コーカソイドもアジアンも多くて、BとCの区別が緩い。区画Bに生体認証なしで入れるのが一番大きいね。ここいらの何でもアリな場所だから、アタシらみたいな人間が駆け込むにはそれなりに便利な街さ。でも」
「でも?」
「当局もオルレアンでの事件には目をつぶりがちだから、その分危険ってこと。アンタを追いかけている連中も、オルレアンでは派手に仕掛けてくるかも」
ワタリがレッシュの言葉を遮る様子はない。その内容を修正することもないところを見ると、レッシュの言うことは概ね正解で、かつチサトも知っていたことがいいことなのだろう。
「今までは派手に仕掛けてきていないんですね」
まあね、と黒髪が頷く。
派手に、と言ってはみたものの、当然こんな出来事に巻き込まれたこともなく、比較するだけの出来事も事件もチサトは知らない。チサトが一人焦って喚いてもどうにもならないことだけは、はっきりしている。




