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ブラウンストーン  作者: tate
4: フェイタル・シアーズ
22/28

-5-

 よく考えれば当たり前なのだが、プラントエルフィンの地下にも街が広がっていた。ここ、パリはプラントアーシの地下で見た街よりもずっと垢抜けていて、往来も激しい。かつての大戦が勃発する以前のプラントエルフィンはモードの発信地だったというのだから、不思議なことは何もない。

 その街並みをワタリが慣れた様子で歩いていく。チサトはジノの手を引いて、その背中を黙々とついて行く。きょろきょろと露骨に周囲を見回さないように、と釘を刺されてはいたが、周囲を見回している余裕なんて全然ない。

 とある角を右折すると、裏路地へと入っていく。ワタリは、立ち寄る場所がありますから、としか言っていなかった。一体どんなところに連れて行かれるのかとびくびくしていたが、パリは裏路地もこざっぱりとした街だった。きっちりと舗装された道路に、一定間隔で設置された街頭、プラントアーシで見かけたような路上生活者はなく、大通りとの違いは往来と差す光の量ぐらいなものだ。

 ワタリはチサト達の方を見遣ると、「ここです」と扉の一つを押した。特にらしい看板もない、一見すると唯の民家にしか見えないそれを続いて潜るが、不意にワタリは足を止めた。彼の脇から中を窺うと、そこには片手で数えられそうな程度のカウンター席と、様々なグラスが並べられた棚があった。“バー”と称される部類の店になるのだろう、チサトは写真で見たことがあるだけだが。

 カウンターの中には店主らしき妙齢の女性が一人、そして客がカウンター席の奥から二番目に一人いる。

「ねえ、ワタリ君。あの人……」

 チサトの呟きへの返事よりも早く、客はチサトに向かって、「ハ~イ」と小さく手を振って見せた。レッシュだった。

 ワタリは何事も無かったかのようにカウンターに歩み寄る。チサトをレッシュの隣に座らせると、彼は店主に声を掛けて何やら話を始めてしまった。時折チサトにも理解できる単語が聞こえてはくるが、B、とか、ID、とかその程度のことしか解らない。

 居心地悪いな、と先客の方へ視線を向けると、ばっちり目が合ってしまった。

「あ、あの……奇遇ですね、こんな所で会うなんて」

「うん? そうだね、奇遇だ。パリには何しに来たの? 観光……なわけないだろうし」

「ボクのメンテナンスのためだよ」

 と、ジノが口を挟んできた。

「アンタの? でもここにはどうやって来たの。扉にはロックが掛かってたと思うけど」

「ワタリ君が解除してましたけど」

「ウスイが?」

 ええ、とチサトは頷いた。眉を寄せたレッシュの表情に、何か不味いことを言っただろうかと罰の悪い気分に襲われる。

 「ジノ」とワタリが手招きをした。スツールからぴょんと飛び降りたジノが、パタパタと彼の元に駆け寄る。

「何してるの?」

 声を掛けると、「そうですね、チサトさんにも説明しておきましょうか」とワタリが顔を向けた。二人の元に歩み寄ると、ワタリは手にしている肌色のテープをチサトに見せた。粘着面には小さな楕円形の物がくっついている。

「IDです。ここでは身分証明が無いと区画間の移動ができないので、こうして常時身につける必要があるんですね。これはドール用のIDです」

 そう言うと、ワタリはテープをジノの左鎖骨下にぺたりと貼り付けた。

「チサトさんはこちらをどうぞ」

 と、レクタングルのアクセサリーを差し出した。チェーン付きのそれは、この間プラントアーシの地下に降りたときにワタリが渡してきたそれによく似ていた。表面には文字が刻まれているが、生憎とチサトには読めない。

「へえ、偽造IDねぇ。どの辺まで行動できる代物?」

 口を挟んできたレッシュを、ワタリは一瞥する。が、彼女の問いはまるで聞こえなかったかのように、至極自然にチサトに向かって言葉を続ける。

「常に身につけておいて下さい、それが必要になる事は極力避けるつもりではいますが。保険です」

「保険……?」

「ええ、視認用の身分証明を兼ねますから。ジオフロントでは、各人に割り当てられた固有の数字で個人を管理しています。でも数字だけでは幾らでも偽装が出来てしまうので、セキュリティレベルを上げる為に生体認証も併用しているエリアが沢山あります」

「生体認証って何?」

「その人固有の肉体的な特徴を用いて、個人を判別するやり方ですね。指紋もその一つです。生体認証デバイスは簡単には欺けないので、今後は生体認証が必要な区画は避けて移動します」

 ふうん、ととりあえず頷いて見せた。ワタリの言うことはよくわからないが、言われるがままにそれを受け取り首に掛ける。

「それで、ここからリヨンまで行くの? ご苦労なことだね」

「君には関係がないだろう、レッシュ」

 ようやく応えたかと思ったら、彼はぴしゃりとレッシュに言葉を突きつけた。明らかに距離を取ろうとしている物言いに、紫色のルージュを引いた彼女の唇が釣り上がった。

「そうだけどね。手助けしようか」

 ごくごくフランクに、当たり前のようにレッシュが言った。

 その顔色に変化は微塵も見られないが、ワタリの黒い双眸はレッシュを捕らえたまま動かない。ああ、相手の真意を窺っているな、とチサトは直感的に思った。何が引っかかったのかまでは解らないが、相手の腹を探るときのワタリはこんな目をする。多くの場合、その相手はチサトだったりしてきたから、ここまで無感情な目を向けられた事はないけれども。

「そうだね、協力して貰えるのなら心強いけど」

「けど?」


 「ボランティアではないだろう」と、ワタリは敢えてエスペラントで返した。チサトが不思議そうな面持ちでこちらを見遣っている。およそ人の好意は対価の裏返しである環境で暮らしてこなかった彼女には、二人の会話が不思議なのだ。

 ちょっといいかい、とレッシュがワタリを手招きした。チサトとジノの様子を片目で窺いつつ、招かれるがままにレッシュに歩み寄る。

「アンタ、あの子に個人的な愛着でもあったりする?」

 レッシュはワタリに顔を寄せるとそんなことを囁いた、チサトの耳に届かないようにトーンを落として。

 英語なのだから聞こえた所で彼女が理解出来るわけがないと思いつつ、無いと答える。レッシュは値踏みをするかのような視線を向けてきた。ワタリの言葉の真偽を探っているのはすぐに解ったが、元々心の動きが表情に表れる方ではないし、感情をコントロールする術はワタリの方が上だ。

 そう、とレッシュは小さく呟いた。

「協力はするよ。仮にも昔の仲間の忘れ形見を見殺しに出来るほど、アタシの感性は腐ってないしね。その代わり報酬ははずんでもらうから」

「報酬?」

「ウスイ、アンタだってわかってるだろ。ファイアブリックが動くよ、彼女を狙って」

「だろうね」

「だからさ。この仕事が終わったらさ、ウスイ、アタシの所に来なよ。どうせあの子に愛着無いんだろ。それに隊長を敵に回すんだから、それぐらいの事はしてくれるよね」

 鷹揚と頷いたレッシュの瞳が勝ち気混じりに爛々と輝いている。自然の状態ではあり得ない琥珀色のそれは、彼女もジーン・リッチであることを示している。そして緩くウェーブの掛かった黒髪から覗く左のえらはケロイド状に引きつったままだ。今の技術ならば傷を負う前の状態に戻すのも容易だというのに、相変わらず修復していない。

 しかし一体どんな無理難題がふっかけられるのかと思ったが、その程度のことなら問題はない。彼女の真意を解しながらも、「承知した」と無責任に答える。切れるカードは多いに越したことはない。



 リヨンへ向かう列車、リニアと呼ばれるそれは随分閑散としていた。最終便だからだろうか。時計の針は既に十二時を回っており、駅の周囲はすっかり暗闇に包まれてしまっている。

 だが閑散としているのはチサト達が乗っている車両だけで、乗り込む際に目にしたホームの盛況具合を考えれば、後方に連結されている車両はほぼ満員だろう。改札を通る際にレッシュが係員に耳打ちをしただけで、見るからにグレードの高い車両への乗車が許されたのだ。困惑気味にワタリを見遣ると、「彼女はそういう身分の人間なんですよ」と返ってきた。

 リヨンまでの所要時間は二時間程度だという。

「てことは、リヨンに着くのは夜中になるわよね。どうするの?」

「着いた足で車を借りて、すぐに研究所に移動します。強行軍で大変かと思いますけど、研究所は二十四時間開いてますし、少しでも早く到着した方がいいでしょうから」

 既に座席の中で船をこぎ始めたジノに目を向ける。少しでも早くジノが治療出来るようにした方がいい、ワタリの言うとおりだとチサトは思った。


 通路を挟んだ先で、チサトとジノは既に座席にもたれて寝息を立てている。ジノはともかく、チサトは全く知らない土地を移動してきている。彼女は何も言わないが、やはり疲れは蓄積していたのだろう。

「ねえ、一つ聞いてもいいかい?」

 レッシュの方へ視線を向ける。ワタリはイエスともノートも答えないが、レッシュはそれを肯定の意と取ったようだ。口を開く。

「何でこんな時期にジオフロントに来たのさ、しかもロックの解除のためにわざわざ自分のIDを使ったんだろ? どう考えたって地上に居た方が安全じゃないか」

 暫しその琥珀色の双眸を見遣り、視線を窓の外に向けた。暗闇の中に、時折非常口を示す緑色の光がぽっと現れては消える。

「所詮僕は彼女の犬だからね。主の要望に異は唱えられない」

「それにしたってさ、そもそもランスに降りてきたこと自体が無防備すぎじゃないか。今更言っても仕様がないけど、アレがなければアタシはこの子のことを未だに知らなかった」

「地上での居場所は大分前から把握されていたようだ。誰の手駒かまでは調べていないが、九ヶ月ほど前には同業が彷徨いていた」

「九ヶ月? それだけの時間があったのなら、どうしてアタシ達に情報が入ってこなかった」

「極力、情報を持ち帰らせないようにしていたからだろう。が、やはりここ数日で本格的な攻勢に出てきた」

 そりゃそうさ、とレッシュが肩を竦めて見せた。

 ランスの白人街は監視の目が緩いとはいえ、痕跡を残した以上はそこから必ず足が付く。その情報を首尾良く手に入れた何者かが、狩人を地上に放つ事は容易に想像出来ていた。解ってはいながら、ワタリは彼女を止めなかった。止めるに足るだけの言い訳も考えなかった。彼女の命が無事ならば、それ以上の干渉はしないようにしてきた、それを貫いただけだ。

 それにおそらくここ数日での攻勢は、レッシュが指摘するところの、つまりはランスで足が付いたが故の結果ではなく、前々からこのタイミングで仕掛ける予定だったと考えるのが自然だ。プラントアーシはこの周辺では規模が大きいプラントの一つである。ランスで尻尾を掴まれてからプラントアーシを捜索したのだったら、彼女の居場所を突き止めるのにもっと時間が掛かる。ワタリは二年半掛かった。

「彼女を守るために手段を選ばないのなら、地上よりはこちらの方が動きやすい。だから、彼女にはリヨンのドール研究所以外の場所で宿を取って貰う事にする」

「何だ、解っててリヨンに向かうんだ」

「ジノがペラペラと自分のスペックを話した以上、リヨンのドール研究所は張られているだろう。僕がコネを持っている研究所はリヨンしかないし、それにあそこは」

 語尾を飲み込んだワタリを見つめていたレッシュは、「ああ……そういえばそうだったね」と曖昧に頷く。

「アンタでもそういう思考するんだ」

「愚かな干渉だという自覚はある。でも、君が協力すると言い出すとは思っていなかった。あの店にいたのは、隊長の指示で僕達を捕捉するためだと思っていた」

「後半は概ね正解。パリにアンタらが現れるかもしれないって隊長が言っていたよ。アタシにも依頼は来たけどそれは断った、アンタとは対立したくないから」

「隊長とは敵対してもいいのか? 今後の仕事に支障が出るだろう」

「いいんだ、もう傭兵業からは足を洗った。今は唯のフィナンシアで時々コンサルタント、現場には立っていないよ」

 ひらひらと、レッシュの手のひらが彼女の胸の辺りで舞うのを一瞥し、再び視線を窓の外に向けた。



 ほぼ定刻通り、リニアはリヨン駅に到着した。目的のドール研究所は、リヨン駅からさらに車で一時間ほど走ったところにあった。眠い目を擦りつつ車を降り、ワタリの後に付いて研究所の裏門へと向かう。人気のない、小さな灯りだけが点ったドアを潜る。緑色の光でぼんやりと照らし出される廊下を少し歩いたところで、ドアの一つが開いた。部屋の中から漏れ出した灯りが、白い帯を廊下に作りだす。僅かに目を細めて光の中に視線をやると、そこには白衣の人物が立っていた。

「やあウスイさん、久しぶりだね。立ち話もあれだから、中へどうぞ」

 浅黒い手がチサト達を部屋の中へと招き入れた。

 いくつものガラス瓶が並ぶ棚と黒いテーブルを横目に、くたびれたソファに通される。夜半も過ぎたというのに、部屋の中には三人ほどの白衣の人物が動き回っていた。「ここは何時もこんな感じですよ。こういうのが彼らの仕事ですからね」と、落ち着かない様子で彼らを眺めているとワタリが耳打ちしてきた。仕事で徹夜なんて、チサトだってザラのことだ。

 何をするともなく、先程出迎えてくれた研究員と話すワタリの背中を見つめながら、チサトは欠伸をかみ殺した。

 別の研究員がやってきた。彼はジノをソファに横たえさせると、腹部を触り、聴診器を数度当てた。

「お腹が痛いんだね?」

 こくりとジノが一つ頷いた。

「薬を飲んでいるかな」

 再び、ジノが一つ頷く。

「何を飲んでいるのかい?」

「オピエートを」

 研究員の問いにはワタリが答える。彼らがどんな事を話しているのかチサトには解らないが、「そうか」と頷いた男性の表情が僅かに曇ったように見えた。

「現状では何とも言い難いが、とにかく詳しく検査をしてみようか。今後についてはそれからだ」

 それから壁に掛けられた時計を見上げ、「君達の部屋も用意させるよ」と男性は部屋を出て行った。

「チサトさん、ここで暫くジノを預かって貰えることになりそうです」

「入院するの?」

「はい。ここは病院ではないので正確には入院ではないですけど、検査を行ったついでにそのまま研究所で治療もしてもらった方が、ジノのためにもいいでしょうし。そうそう」

 今日は研究所の休憩室を開けてくれるそうですよ、と間髪居れずワタリに言葉を続けられてしまい、ジノの状態については結局聞きそびれてしまった。

 翌日、ジノをドール研究所に残して、チサトとワタリの二人はリヨン市街に出向いていた。日がな研究所に籠もっていても良かったのだが、ワタリが何処か行きたい場所はないかとチサトに尋ねてきたのだ。言うまでもなく、チサトは知らない世界を見てみたい。ワタリの方もそれは承知していたようで、動ける範囲でこの辺りを見てみようという話になった。

「白人街にいくのかい? じゃあ、アタシはパスだ。今のうちに当たっておきたい情報もあるし、あそこではアタシみたいなのは浮くからさ」

 とのことで、レッシュとは研究所へ帰る際に合流することになっている。

 動ける範囲、要は今のチサト達がフリーで往来が出来る場所と言ったら、実質的には地下の世界の住人が言うところのC区画しかないわけで、自然と二人の足はリヨンの白人街に向いた。ワタリの弁では、B区画以上に入り込むためのIDも偽装しようと思えば出来るそうだが、多少の時間が掛かるし、チサトの命の危険も増すとのこと。チサトもそこまでの我が儘を通そうとは思っていない。

 ここから先は徒歩で、と橋の手前で車を降りた。

「車、ここに止めておいていいの?」

「大丈夫ですよ。万が一壊されたら、別の車を借りましょう」

 しれっと嘯いた彼の背を追い、チサトは橋も足を踏み入れる。が、すぐに漠然とした既視感に足を止めた。くるりと180度、体を回転させたところでチサトはぎくりとした。

 この風景、自分は知っている。

「どうかしました?」

 足を止めたチサトの元に戻ってきたワタリを見上げて、二、三度瞬きをした。橋の上で自分よりずっと年上の青年を見上げているビジョン。やっぱりこの光景を見たことがある。

 そうだ、夢だ。幼い頃、橋の上で近所のお兄ちゃんに遊んで貰っていた夢をチサトはよく見た。いや、今でもたまに見る。そして時々、その青年はチサトを抱いて、何処かに向かって薄暗いトンネルの中を走っていた。

 夢に出てきた青年との目線の距離は全然違ったが、目の前にいるワタリは、夢の中の青年と余りにも重なって見える。漠然とまとっている雰囲気が随分と違っていた様に思っていたけれど、彼は案外チサトの記憶におぼろげに残っているあの青年と同一人物なのかもしれない。確信があるわけではないから、彼には言わないが。

「ううん、何となく見たことがある風景だなって思っただけ」

 ワタリからは案の定、「そうですか」と素っ気ない答えが返ってきた。

 橋の向こうは、もう昼近くだというのに随分とひっそりとしていた。高い塀の内側にごみごみと寄せ集められた煉瓦造りの煤けた家、同じく煉瓦造りの道路は手入れが不十分で、敷き詰められた煉瓦や石は砕け、雑草がひょろりと顔を覗かせている。

 プラントアーシの地下で見た白人街も荒れていた。それでも人の息吹は感じたし、生活感はあった。ここは違う。辺りを見回せば洗濯物が覗く窓はあるし、通りを歩く人の姿もある。だが生気を感じない、街が生きていない。

「随分と静かね」

 当たり障りのない言葉で問いを投げる。

「ここは夜の街ですからね、昼間はこんなものでしょう」

 歓楽街ということなのだろう。夜になるときらびやかな電飾に彩られた街に一変する……ような雰囲気には流石に見えないが。

「夜になると全然雰囲気が変わったりするの?」

「……そんなには変わらないですかね」

 顎に手を当て少し考えた後、ワタリはそう返してきた。

 チサトの受けた印象通りの場所なのだろうと思い、それからふとワタリの態度が気になった。よく知っている場所以上の思い入れがあるような、何となくそんな印象をうける。

「ワタリ君ってここに来たことあるの? 随分とこの辺のことも知っているみたいだけど」

「ありますよ、随分前の話ですけどね。これからどうします? 街はこんな感じなので、観光できる場所なんてないですけど」

 ぐうう、と腹の虫が鳴く。自分にしか聞こえていないかと思ったけど、ワタリの目が僅かに大きくなってチサトの腹に向いた。

「えっと……あはは、ゴメン」

「まずは何か食べましょうか」

 ワタリに連れられて入った先は、今にも傾いてきそうな家庭料理の店だった。鍵の掛かったドアを遠慮会釈なく叩いて、開店前の店を無理矢理開けさせて席に着いた始末である。ワタリ曰く、「これぐらいしないと、昼間は外食できませんから」だそうだが、店を切り盛りしていると思われる女性は、露骨に胡乱な目をこちらに向けていた。

 だからワタリが涼しい顔で座っている一方で、チサトは何だか気まずい思いで料理が出てくるのを待っている。

 間もなく運ばれてきたプレートが、テーブルを激しく打ち据えた。載っていたジャガイモとパンが踊り、パンはテーブルに転げ落ちた。

 びくっと肩を竦めて恐る恐る見上げると、先程の女性が凄まじい形相でワタリを睨み付けている。

「アンタ、よくもまあ顔を出す気になったね。どういう神経をしているんだか、アタシにゃ理解できないよ」

 ワタリは言葉を発した女性に冷たい目を向けただけで、何も言わずにパンを拾ってプレートに載せ直した。一体女性はワタリに何を言ったのだろうか。表情からすると、好意的なことではないと思うけれど。

 もう一つのプレートは、チサトの前に丁寧に置かれた。

 乾いたパンとふかしたジャガイモ、申し訳程度にチキンの入った玉葱だらけの炒め物を泥水のようなコーヒーで流し込んでいると、にわかに店の外が騒がしくなった。顔を上げると、数人の女性が話している様子が窓から見えたが、果たして何を喋っているのかチサトには解らない。

「ねえ、外に居る人達は何で騒いでるの?」

「さあ、何故でしょうね」

「ワタリ君!」

「はい?」

「ワタリ君が通訳してくれなきゃ、私は全然言葉わかんないんだから」

「それは解ってますよ」

 さっさと食事を済ませて席を立つ。ワタリが紙幣をテーブルの上に置いたのを見て、店を出た。

 居心地悪かったなと内心でぼやいてバッグを肩に掛け直す。先程店の外で騒いでいた女性達がこちらにやってくるのが見えて、手が止まった。キャミソールの上にカーディガンを羽織っただけの軽装にぎょっとして、じっと女性達を見つめる。当然のことながら、チサトは知らない顔ばかりだ。遅れて店を出てきたワタリも女性達を見た。

「やっぱりアンタか、そこの女将が教えてくれてさ。久しぶりだね、ウスイ」

「……どうも」

「アンタ、ホント全然変わらないねぇ。そっちの子はアニエスの娘よね、よく似てるわ」

 ワタリに語りかけた女性はチサトを見ると、目を細めた。

「特に予定がなかったら、店にいらっしゃいよ。ここにはアンタを歓迎しない人も大勢居るけど、うちの店はそうでもないから。それにアニエスの娘が来てくれたらみんな喜ぶわ」

 女性の言っていることは分からなかったが、先程とは異なり歓迎されている空気を感じる。戸惑い気味にワタリに目を向けると、彼は曖昧に笑った。

「彼女達の店に招待されました。行ってみます?」

「店?」

 彼女達の店は、平たく言えば娼館だった。外見はこの辺りにしては大きな煉瓦建て、内部はくたびれた木造。女性達が顔を覗かせた部屋の内部は簡素なベッドと申し訳程度の調度品を並べ、体裁だけを取り繕ったようなものだった。

 そのことに気が付いたチサトはぎょっとした。笑顔で手招きをする女性達は何をしようとしているのだろう。一緒に働かないかなどと勧誘されたり、試してみる? などと誘われたらどうすればいいのかしら。困惑の色を視線に混ぜてワタリを見遣ると、彼はいつも通りのへらへら笑顔だった。つまり、このまま女性達の誘いに乗っても大丈夫、ということなのだろう。多分。

「そういえばプラントエルフィンにこの手の店はありませんでしたね。彼女達も、別に何か悪さをしようとしているわけではないと思いますよ。行ってきたらどうですか?」

「私一人で?」

 眉を寄せると、さも当然何か問題でも? と言わんばかりにワタリは頷いて見せた。

「女性達の会合に男が混じってたら変でしょう。僕は外で待ってますよ」

 そんなことを言い始めたワタリの腕を、慌ててむんずと掴んだ。

「何言ってんの。ワタリ君が通訳してくれなきゃ、全然言葉解らないって言ったじゃない」

「いや、でも」

「でもじゃないの」

 両腕でがっちりホールドし直し、気乗りしない様子のワタリも無理矢理部屋の中に引きずり込んだ。

 連れ込まれた部屋での会話は、他愛もない世間話だった。体を売る生業から、彼女達はもっと悲哀に満ちているのかと思っていたけど、そんなことは全然なく。もしかしたらワタリが全てを通訳していないのかもしれないが、あっけらかんとした雰囲気で昔話に花を咲かせたり、客の悪口を囁いたり、皆明るくてチサトも気が付いたら輪の中に溶け込んでいた。女性達と同じ言語が操れるともっと良かった。

 街がそろそろ目覚め、夜の顔に変わろうとし始めた頃合いを図り、別れを告げて研究所への帰路に就く。適当に放置しておいた自動車も、留めたままの状態を保っていた。漠然と治安は良くないのだと思っていたけど、それはチサトの思い込みだったのかもしれない。

 白人街を抜けたところでレッシュと合流し、リヨン郊外の森へと入っていく。ワタリに言わせれば研究所の周囲に森を造ったそうだが、ともかく木々の間隙に造られた道を進んだ所に研究所があり、すっかり暗くなった一帯にちらちらと研究所の灯りが見え始めたところで、ワタリはブレーキを踏んだ。

 バックミラー越しに見えるワタリの目が、助手席のレッシュを見た。

「ワタリ君、どうしたの?」

「一応、様子を見てきます。チサトさんはレッシュと待っていてください」

 さっさと車を降りたワタリの白いシャツが、闇の向こうに飲み込まれていく。

 車内に残ったルームランプがレッシュの横顔を照らし出して、初めて彼女のえらにケロイド状の傷があることに気が付いた。

「レッシュさん、その傷は」

 随分と古い傷に見えるが、顔に残っているのが何となく気になり、反射的に声をかけてしまっていた。

「ああ、これ? この傷はねえ」

 レッシュが言葉を切る。刹那の静寂の中、暗がりの向こうの彼女が目を僅かに細めたのが見えた。不味いことを聞いてしまっただろうか、言いたくなければ言わなくてもいいと声を上げる前に、返事が返ってきた。

「そうだね、絆みたいなモノかな」

「絆、ですか」

「そ、アタシが勝手にそう思っているだけだけどね。その人との思い出はアタシの中には沢山あるけど、形に残っているものが全然なくてさ。この傷跡は数少ない形として残っている物なんだよ。本当は綺麗さっぱり消した方がいいだろうし、アイツも消した方がいいとは言ったけどね」

 レッシュは小さく肩を竦めて見せた。

 思いがけず、立ち入った話を聞いてしまったかもしれない。レッシュが言うところの「その人」が誰なのかはわからな……ひょっとしてワタリのことだろうか。話っぷりからするとまだ存命の人のようだし、チサトが知るレッシュと縁のある人と言えばワタリぐらいしか居ないからそう思うのかも知れない。

 でも、どこから見てもレッシュさんはワタリ君に好意を抱いているよねえ、それも相当入れ込んでいる類の。

 具体的な確信はないけれど、感覚的にそうだと思う。そしてその感覚に対しては結構自信がある。何か、嫌な感じだ。自分が旧知の仲の間に割り込んで、厚顔無恥にも堂々と居座っている感じがする。ワタリもレッシュも気にはしていないだろうけど、レッシュと二人きりの空間は居心地が悪い。

 もののの五分もしないうちにワタリは戻ってきた。運転席に乗り込むなり自動車をバックさせ、先程走ってきた道路に再び戻る。

「すみませんが、今日は研究所に戻らない方が良さそうです」

「どういうこと?」

「何かあったね。どうした」

 チサトとレッシュの声が被る。

「見慣れない車両が研究所の周囲にありました、おそらく追っ手かと思います。研究所で働いている人達の無事は確認しました。無駄な犠牲は出さない方針なのでしょう。僕達が戻らなければ、研究所は特に何事もなく解放されると思います」

「そ、そう。じゃあジノも無事なのね」

 ええ、とワタリがバックミラーの中で頷いた。

「聞くまでもないだろうけど、隊長達だろうね」

「でしょうね」

「これからどうするんだい」

「時効まで逃げるしかないですね。今日の所は、森に隠れましょう。レッシュ」

「何」

「降りるなら今しかないが、どうする」

 ワタリは一度言葉を切ると、英語で言葉を続けた。チサトには聞き取れなかったから、多分英語なのだろう。

 「付き合うよ」と、レッシュも英語で返した。


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