日記1:寝返り
「うわぁぁぁ!!」
炎龍の叫び声が、屋敷中に響き渡る。
おそらく、たまに聞こえるこのような声が原因で、
“妖の巣喰う屋敷”と呼ばれてしまうのだろう。
「何事よ、炎龍」
砂雪が慌てて声のするほうに向かう。
「瞬が、しょんべんたらしやがった」
と、瞬を逆さづりにしながら言った。
「そんなの、氷らせて処理してしまえばいいじゃない」
と、砂雪は、逆さづりの瞬を抱きかかえ、言葉の通りの処理をする。
「…ネコ娘、私だけか?瞬の逆さづりに、いささか問題があるのでは?と、思ったのは」
「いえ、凛だけではないのです。私もそう思ったのです」
獣のような耳の生えた少女と、首のない少女がそう話す。
ごもっともだ。
「凛、ちょっと言ってきて欲しいのです」
「ネコ娘、そういうのは、言い出した奴が行くものだ」
沈黙。
「放置なのです」
「同意見だな」
そうして二人は、今見た光景をなかったことにした。
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「よし、あと少しだ!」
「頑張れ、瞬!!」
そう言う炎龍と砂雪の前には、あと少しで寝返りをうてそうな瞬。
「ぅあ、あ。…あ~ぅ」
と、何やら今一気合の入らない声を出しながら、挑戦する瞬。
ちなみに、現在午前一時である。
「ネコ娘。瞬にやる気、あると思うか?」
「以心伝心ですのね、凛。きっと、同じ事を思っていると思うのです」
(瞬、やる気ないな…)
(瞬、やる気ゼロなのです…)
同じ事を思っていた。
「うぅ~あぅ!」
と、気合を入れなおして、勢いをつける瞬。
「良いわよ、瞬。そのまま行ってしまいなさい!!」
「行けー!!」
二人の声援を受け、瞬は見事に寝返りをうった。
「よっしゃ――っ!!」
「やれば出来るじゃない、瞬!!」
二人の賞賛の次の瞬間。
「だぅ!!」
と、『やったね』という声の後に、一瞬で部屋一面が氷付けとなった。
「凛、寒いのです」
そう言い、肩を震わせるネコ娘。
「愚問だな、ネコ娘。まわりを見てみろ」
一面氷付け。
畳の大広間すべてが、氷っていた。
「いえ、そういう意味ではないのです…」
「ネコ娘。言いたいことは、痛いほどよく分かる。だが―――」
凛の視線の先には、炎龍、砂雪を筆頭に、浮かれている妖たち。
「瞬が妖の力を使ったぞ!!」
「この歳で!!」
「見込みがあるじゃねぇか!!」
「今日はめでたいわね!!」
と、口々に叫ぶ始末。
「誰か、この部屋の氷を溶かそうと、思わないのですか?」
「愚問だな、ネコ娘」
凛がため息交じりに言う。
「既に我ら以外の常識を持つものは、この屋敷に居ない」
氷狼でさえ、瞬が寝返りをうち、さらには、妖の力を使ったことに、喜びを覚えている。
「いや、めでたいとは思う」
ここ数ヶ月寝食を共にした赤子が、寝返りをうったのだ。
成長した、という意味でうれしくないはずがない。
しかも、妖の血をしっかり継承していたことも、証明した。
実にめでたいことばかりだ。
だが、実際問題として。
何百年、それこそ何千年を生きる妖たちが、目の前の状況を無視して、
このめでたさだけに目をやる。
というのは、いささか問題ではないかと思う。
「うれしいのは、誰もがみな同じなのです」
深々と頷く凛。
「そうだ。だが、だからといって、この状況…
少々浮かれすぎだと、我は思うのだが…」
既に宴会が始まっている。
「…先代方が居ても、変わらないのです、きっと」
初代・ぬらりひょん、雪女の雪乃夫妻は、『隠居だ―――!!』と、言ったきり行方不明。
が、彼らが居ても状況は変わらないだろう。
むしろ、孫の成長を喜び、ここに居るメンバーで一番激しい行動に出るだろう。
「二代目が…。せめて、二代目の旦那が居れば、状況は芳しい方向に向かっただろうに…」
二代目・久遠和莉、ぬらりひょんと雪乃の娘・弥雪は、現在旅行中だ。
二代目の旦那、というのは和莉のことだ。
陰陽師である和莉は、人間世界で育った。
つまり、常識がある、常識が通じるということだ。
「凛。居ない人を求めても、意味ないのです」
尤もである。
「ネコ娘。我と一緒に、月見酒でもするか?」
「グッドな提案なのです」
こうして、瞬の寝返り&初めての力の発動の日は、ドンチャン騒ぎで幕を閉じた。