挨拶について臆病な私の考察
先ずは私の理想。
おはようございますに込めた少しの礼儀。
ありがとうございますの感謝の気持ち。
お願いしますという信じる心。
ありとあらゆる挨拶に、ひとつひとつ意味を問う。持つことを願う。
しかし
私はいつからか、挨拶をしなくなった。
それは単なる虚無感の慣れだと逃げていた。意地でも自分を正当化していた。
私が挨拶をしようが、真面目に生きようが、答えを求めてはいけないんだと、とある方に教えられた。
ならば挨拶は意味のない行為で、言葉は道具に過ぎないものだろうと、次第に慣れていった。
それでもはじめは、答えのない寂しさを知った私は、どうしても腑に落ちないものを感じた。
今では少しだけ滑稽に思う。
気付いたことは、
私は、誰に挨拶をしているつもりだったか。
おはようございますの意味を知らず
ありがとうございますに義務を感じ
お願いしますに当てはまった便利さ
それなら、私の考えは今までのものを覆せるし、答えを求めることが如何に無意味かを納得できるというものだ。
私は、向き合おうと思った。
本当に挨拶として意味を求めたい。
私は挨拶をコミュニケーションとして、改めて考えたい。
礼儀もあるがそれだけでなく
心からの挨拶を。