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あの日の続きを、三人で

作者: Rasky
掲載日:2026/09/21

『境界観測《リミナル・サイト》』に登場するレオン・アイナ・トーマの三人を描いたスピンオフ短編です。


本編未読でも、この作品単体で読める内容になっています。




「おーい! トーマ! いるかー?」


 俺はいつものようにトーマの家の前に立ち、返事を待つより先に木製のドアを何度も叩いた。


 朝からよく晴れていて、町にはもう人の声が行き交っている。近くの家からは朝飯を作っているらしい匂いが漂い、少し離れた通りでは荷車の車輪が石畳を転がる音まで聞こえていた。こんな日に家の中で寝ているなんてもったいない。


「トーマー! 起きろー! 遊びに行くぞー! ……おーい、死んでんのかー!?」


「朝から縁起でもないこと言わないの!」


「いってぇ!?」


 突然後ろから頭を叩かれ、振り返るとアイナが立っていた。


「何すんだよ!」


「それはこっちの台詞。朝から何回叩いてるの? 近所迷惑でしょ」


「だって出てこねぇんだもん。俺、もう一分くらい待ってるんだぞ?」


「まだ一分でしょ……」


 呆れたようにため息をつかれたけれど、一分も待てば十分長いと思う。俺がそう言い返そうとすると、背後でようやくドアが開いた。


「俺ん家の前で朝から騒ぐな」


「なんだよ、起きてんじゃん!」


「お前に起こされたんだよ」


 髪をあちこちに跳ねさせたトーマが、半分しか開いていない目で俺を見る。服も寝起きのままで、どう考えても今まで寝ていた。隣でアイナが吹き出す。


「トーマ、その頭すごいね」


「これは元からだ」


「いや寝癖だろ。昨日もっと普通だったじゃん」


「気のせいだ。……あとレオン、帰れ」


「なんでだよ! せっかく面倒な勉強抜け出して迎えに来てやったのに!」


「ふぅ〜ん?」


 しまった、と思った時には遅かった。


「やっぱり抜け出してきたんだ」


 アイナがじっと俺を見る。トーマまで眠そうな顔のまま呆れていて、どうやら今日も俺だけが悪いらしい。


 今日も朝から読み書きだの歴史だの、よく分からない話を延々と聞かされる予定だった。その後には礼儀作法まで待っていて、座る時は背筋を伸ばせ、足を動かすな、言葉遣いを直せ、食事の時はこうしろ、人に会ったらこうしろと、とにかく覚えることが多い。


 大人はどうして、あんなことを毎日やって平気なんだろう。


 七歳の俺には、天気のいい日に二人と遊びに行く方がよっぽど大事だった。昨日も同じように抜け出して一時間くらい怒られたけれど、途中から聞いていなかったので実質半分くらいだと思っている。


「大丈夫だって。夕方までには帰るから!」


「昨日もそれで怒られたんでしょ?」


「昨日は昨日だろ。今日はちゃんと早く帰る!」


「その台詞を信用できる要素が一つもないんだけど」


「俺もそう思う」


「なんで二人とも俺を信用しねぇんだよ!」


 納得はいかなかったけれど、結局トーマは着替えてくると言って家の中へ戻った。


 なんだかんだ言いながら、最後には付き合ってくれる。俺が何かを思いついて、アイナが止めて、トーマが呆れる。それでも気づけば三人で一緒にいる。昔から、俺たちはそんな感じだった。


 しばらくして着替えを済ませたトーマが戻ってくると、俺たちは三人で町を歩き始めた。


「……で、今日は何するんだよ」


「よく聞いてくれました!」


「その言い方、嫌な予感しかしないんだけど」


「まあ聞けって!」


 俺は二人へ手招きし、少しだけ声を落とした。


「北の森にさ、古い廃墟あるだろ?」


 二人の反応が同時に止まった。


「……まさか」


「そのまさか!」


「帰る」


「俺も」


「待てって!!」


 すぐに歩く方向を変えようとした二人の前へ回り込む。


「まだ何も言ってねぇだろ!」


「言わなくても分かるよ。行きたいんでしょ?」


「まあ……そうだけど」


「駄目って言われてるだろ、あそこ」


 トーマの言う通りだった。


 町の北側にある森の奥には、かなり昔に使われなくなった大きな建物がある。何のために建てられた場所なのか、大人に聞いても詳しく教えてくれない。ただ、壁も屋根も崩れかけていて危ないから近づくな、とだけは何度も言われていた。


 それだけなら、俺もここまで気にならなかったと思う。


「でもさ、昨日聞いたんだよ」


「何を?」


「年上の奴らが話してた。あそこ、昔は冒険者が使ってた建物なんじゃないかって」


「誰から聞いたの?」


「……知らねぇ」


「知らない人の話なんだ……」


「でも、宝箱が残ってるかもしれないって!」


「それ絶対子供同士の噂だろ」


「分かんねぇだろ!?」


 ここ最近、町の子供たちの間でその廃墟の噂が流れていた。


 昔の冒険者が使っていた。地下に隠し部屋がある。宝物が残されている。夜になると中から変な声が聞こえる。


 話す奴によって内容は違うし、どれも本当なのかは分からない。それでも俺は聞くたびに気になって、遠くから森の方を見ることが増えていた。


 そして昨日、とうとう「地下へ続く階段を見た奴がいる」と聞いた。


 一晩寝ても忘れられなかった。


「見るだけ! 本当に見るだけだから! 中には入らねぇ!」


「絶対?」


「絶対!」


 アイナがじっと俺を見る。


「面白そうなものが見えても?」


「…………入口から手が届くなら」


「帰ろう、トーマ」


「そうだな」


「待て待て待て!!」


 本当に歩き出そうとする二人を慌てて止める。


「分かった! 本当に入らねぇから! 入口を見るだけ! それならいいだろ?」


 二人は顔を見合わせた。


 本当は、一人で行くのは怖かった。


 大人が揃って近づくなと言う場所だし、夜には声が聞こえるなんて話まである。一人で森へ入って、もし本当に何かあったらと思うと、昨日から何度もやめようとは思った。


 それでも気になる。


 だから二人を誘った。


「……三人で行った方が楽しいだろ?」


「一人だと怖いんだろ」


「違う!」


「じゃあ一人で行けば?」


「…………それは違うだろ」


「何が違うんだよ」


 トーマが笑い、アイナまでつられて笑った。


 結局その日も、俺たちは三人で出かけることになった。




◇




 町を出て北へ向かい、森の中をしばらく歩いた。


 最初のうちは三人とも普通に話していた。途中で見つけた変な形の木を見て笑ったり、どっちの道だったか分からなくなってトーマに怒られたり、俺が「絶対こっち」と言った道が行き止まりだったりした。


 それでも奥へ進むほど、少しずつ会話が減っていった。


 町の音はもう聞こえない。木々が日差しを遮り、昼間なのに足元まで薄暗くなっている。


「……本当にこっちで合ってる?」


「合ってるって。たぶん」


「たぶんって言った」


「今のは言葉のあれだよ!」


「何だよ、言葉のあれって」


「細かいこと気にすんなって!」


 そう言いながら歩いていると、木々の向こうに灰色の壁が見えた。


「あった!」


 思わず走り出す。


「レオン、待って!」


 二人も追いかけてくる。


 木々を抜けた先に、噂の廃墟はあった。


 思っていたより、ずっと大きかった。


 昔は立派な建物だったのかもしれない。今では屋根の大半が崩れ、壁には大きな亀裂が走っている。割れた窓には何も残っておらず、石の隙間から生えた草や蔦が建物全体を覆っていた。


「……すげぇ」


 噂だけで聞いていた場所が、本当に目の前にある。


 それだけで胸が高鳴った。


「見たから帰ろう」


「早いって!」


「入口を見るだけって約束したでしょ?」


「いや……せっかくここまで来たんだし、入口くらい近くで見てもいいだろ?」


「もう始まった」


「何が!?」


 結局、三人で建物の入口まで近づいた。


 中は薄暗かったけれど、入口付近なら外からの光が届いている。崩れた棚や割れた器、錆びた金属のようなものが床に散らばっていた。


「……あれ何だ?」


「レオン」


「見るだけ! 触らねぇから!」


 一歩。


 もう一歩。


 気づけば三人とも建物の中へ入っていた。


 それでも何も起きなかった。


 最初は恐る恐るだったアイナも古い棚を覗き込み、トーマも壁に残った文字のようなものを見つけている。俺は錆びた金属片を拾おうとしてアイナに怒られた。


 怖い場所だと思っていたのに、何も起きない。


 それが少しずつ俺たちを安心させた。


「やっぱ大人が大げさに言ってただけじゃん」


「建物が崩れるかもしれないって意味なら、十分危ないと思うけど」


「でも魔物とかいないだろ?」


「だからって奥まで行っていい理由にはならないよ」


 そう言われた直後だった。


「あ」


 崩れた壁の向こうに、下へ続くものが見えた。


 階段。


 噂で聞いた、地下へ続く階段だった。


「……本当にあった」


 俺が近づくと、二人も後ろから覗き込む。


 地下は暗く、数段先からほとんど何も見えない。


「……行く?」


 俺が聞くと、アイナがじっと俺を見る。


「なんで私に聞くの?」


「いや……俺ばっかり決めるのも良くないかなって」


「今さらだな」


「うるせぇよ」


 本当は自分一人で「行く」と言うのが少し怖くなっただけだった。


「……階段の下までね」


 意外にも、そう言ったのはアイナだった。


「マジ!?」


「その代わり、本当にそこまで。何もなかったら帰るよ」


「よし!」


「大声出すなよ」


 三人で階段を下りていく。


 地上から差し込む光は、数段進んだだけで急に弱くなった。下には細い通路が続いていて、奥へ行くほど暗くなっている。


 先頭を歩こうとして、俺は足を止めた。


 ……暗い。


 思ったより、ずっと。


 少し考えてから、何となくアイナの横へ移動する。


「レオン、怖いの?」


「怖くねぇよ!」


「じゃあ先頭行けば?」


「……別にここでいいだろ」


 アイナが笑う。


 後ろではトーマまで笑っていた。


「笑うなよ! ちょっと暗いだけだろ!」


「誰も何も言ってないぞ」


「顔が言ってんだよ!」


 俺も結局笑った。


 ちょっと怖いくらいが楽しいんだ。それに、三人なら大丈夫だと思っていた。何かあっても三人なら逃げられるし、迷っても三人なら何とかなる。根拠なんて何もなかったけれど、その頃の俺にとって二人が一緒にいるというだけで、それは十分な理由だった。


 だから、奥から何かが擦れるような音が聞こえた瞬間、それまで笑っていた自分の声が嘘みたいに消えた。


「……今の、なに?」


 アイナの声も小さい。


「知らねぇ……」


 暗闇を見つめても何も見えない。


「戻るぞ」


 トーマが言った。


 今度は俺も反対しなかった。


「……うん」


 三人でゆっくり後ろへ下がる。


 その時、暗闇の中に二つの光が浮かんだ。


「……え?」


 低い唸り声が聞こえる。


 光がゆっくり近づいてきた。


 やがて姿を現したのは、四本の脚を持つ獣のような魔物だった。尖った牙を剥き出しにし、俺たちより少し大きな身体を低く構えている。


「……魔物」


 アイナが呟いた瞬間、俺は反射的に二人の前へ出ていた。


「レオン……?」


「大丈夫。俺が──」


 そこまで言って、声が詰まった。


 何を根拠に大丈夫なんて言ったのか、自分でも分からない。


 全然、大丈夫じゃない。


 足は震えているし、心臓は痛いくらい速く動いている。俺たちは遊びに来ただけで、武器なんて持っていない。


 それでも、後ろにいる二人を見たら、自分だけ逃げるなんて考えられなかった。


 俺が連れてきた。


 俺が行こうと言った。


 だったら、俺が何とかしないといけない。


 足元に落ちていた木の棒を拾い、震える両手で握った。


「俺が引きつける。二人はその間に──」


「馬鹿! 三人で逃げるの!」


 アイナが俺の服を掴む。


「後ろ!」


 トーマの叫びに振り返り、俺は動けなくなった。


 階段へ戻る道にも、もう一匹いた。


 挟まれた。


 そこでようやく理解した。


 これは冒険じゃない。


 面白い場所を見つけて、三人で騒いで、帰ったあと怒られて終わる遊びじゃない。


 本当に死ぬかもしれない。


 怖い。


 逃げたい。


 家に帰りたい。


 勉強でも礼儀作法でも何でもいい。何時間怒られたっていい。


「……レオン」


 アイナの震えた声が聞こえた。


 その声で、もう一度木の棒を握り直す。


 俺だけじゃない。


 アイナも怖い。


 たぶんトーマだって同じだ。


「二人とも、俺の後ろにいろ」


「レオン!」


「いいから!」


 正面の魔物が地面を蹴った。


「う、うわぁぁぁ!!」


 夢中で木の棒を振る。


 確かに当たった。


 けれど魔物の頭が僅かに横へ動いただけだった。


 次の瞬間、前脚が振るわれる。


「──っ!」


 身体が浮いた。


 背中から床へ叩きつけられ、息が一気に抜ける。


「レオン!!」


 アイナの悲鳴が聞こえた。


 痛い。


 息ができない。


 それでも起きないといけない。


 二人がいる。


 肘を床につき、何とか身体を起こそうとした時、魔物が俺ではなくアイナの方へ顔を向けた。


「……やめろ」


 アイナが後ずさる。


 その後ろには壁しかない。


「アイナ!」


 立てない。


 身体に力が入らない。


 魔物が一歩近づく。


「やめろって……!」


 トーマが横から飛び込み、床に落ちていた石を魔物へ投げつけた。


「こっちだ!」


 石が頭に当たる。


 魔物が今度はトーマを見る。


「トーマ、逃げろ!!」


「分かってる!」


 トーマが走る。


 でも、子供の足で魔物から逃げ切れるはずがない。


 距離が一気に縮まる。


「待てよ……!」


 俺は床を掴みながら無理やり立ち上がった。


 膝が震える。


 それでも走った。


 トーマの背後で魔物が前脚を振り上げる。


「トーマ!!」


 体当たりするようにトーマへぶつかり、二人で床へ転がった。


 直後、爪が俺の服を裂いた。


「っ……!」


 肩が熱くなる。


 血が出ている。


「レオン!」


「平気……!」


 全然平気じゃなかった。


 もう一匹も近づいてくる。


 アイナが壁際にいる。


 トーマは俺の隣。


 逃げ道はない。


 木の棒は、さっき弾き飛ばされた場所に落ちたままだった。


 何もない。


 何もできない。


 さっきまで俺が守るつもりだった。


 二人を連れてきたのは俺だから、俺が何とかするつもりだった。


 でも、何一つできなかった。


「……ごめん」


「レオン?」


「俺が……来ようって言ったから……」


「今それ言ってる場合じゃないでしょ!」


 アイナは怒っていた。


 それでも、その声も震えている。


 魔物が低く身体を沈める。


 今度こそ、本当に終わる。


 俺は二人の前へ立とうとした。


 足が動かなかった。


 怖かった。


 怖くて、身体が言うことを聞かなかった。


「……嫌だ」


 誰の声だったのか分からない。


 俺だったかもしれない。


 アイナだったかもしれない。


 魔物が地面を蹴った。


 牙が見えた。


 俺は反射的に目を閉じた。


「伏せろ!!」


 聞き慣れない怒声が響いた。


「──っ!?」


 何かが勢いよく俺たちの横を通り抜けた。


 直後、金属同士を叩きつけたような大きな音が地下通路に響く。


 目を開ける。


 さっきまで目の前にいた魔物が、壁際まで吹き飛ばされていた。


 俺たちと魔物の間に、一人の男が立っている。


 大きな剣を両手で握り、俺たちへ背中を向けていた。


「動けるか、坊主!」


「……え」


「後ろの二人連れて壁際まで下がれ! 早く!」


「は、はい!」


 考えるより先に身体が動いた。


 アイナの手を掴む。


 冷たかった。


 俺の手と同じくらい震えている。


「行くぞ!」


「う、うん!」


 トーマも一緒に壁際へ走る。


 もう一匹の魔物が男へ飛びかかった。


「右!」


 別の声が飛ぶ。


「見えてる!」


 男は振り返りもしなかった。


 身体を半歩ずらした瞬間、男の横を一本の矢が通り抜け、魔物の肩へ深く突き刺さる。


 魔物が体勢を崩す。


 そこへ別の冒険者が走り込んだ。


「こっちは任せろ!」


「頼む!」


 短い言葉だけだった。


 それなのに、誰も迷っていない。


 一人が攻撃すれば、別の誰かがその隙を埋める。魔物が向きを変えれば、そこにはもう別の冒険者がいる。


 俺たちが三人がかりでも何もできなかった魔物が、少しずつ追い詰められていく。


 怖くないわけじゃないはずだった。


 傷つくかもしれない。


 死ぬかもしれない。


 それでも、誰かが前へ出ている。


 誰かがその背中を守っている。


 最後の一匹が倒れた。


 静かになった地下通路で、俺はしばらく何も言えなかった。


 さっきまで死ぬと思っていた。


 もう家には帰れないと思っていた。


 なのに今、俺も、アイナも、トーマも生きている。


 目の前にいる人たちが助けてくれたから。


「……すげぇ」


 気づけば、そう呟いていた。




◇




 魔物を倒した冒険者たちは、俺たちを町まで送り届けてくれた。


 もちろん、その前にめちゃくちゃ怒られた。


 大人から入るなと言われていただろう。自分だけじゃなく二人まで死なせるところだったんだぞ、と。


 何も言い返せなかった。


 帰り道、俺はずっと冒険者たちの背中を見ていた。さっきまで俺たちを殺そうとしていた魔物を倒した人たちなのに、歩いている姿は思っていたより普通だった。


「……なあ」


「ん?」


 助けてくれた男が振り返る。


「さっきさ……怖くなかったの?」


 男は少し不思議そうな顔をして、それから笑った。


「怖かったぞ。当たり前だろ。魔物と戦ってるんだから」


「……でも、全然怖そうじゃなかった」


「怖くても戦えるんだよ」


 男は歩く速度を少し落とし、俺と並んだ。


「怖いから周りを見る。仲間がどこにいるか、逃げられる場所があるか、次に何が来るか。自分一人じゃどうにもならないなら仲間に頼る。それでも誰かが危ない時には、動かなきゃならないこともある」


「怖くても……動けるの?」


「動かなきゃならない時はな。ただ、何でもかんでも戦えばいいわけじゃない。勝てないなら逃げる。一人じゃ無理なら頼る。誰かが危ないなら助ける。その判断をするためにも、ちゃんと周りを見るんだ」


 俺は黙って男の話を聞いていた。


 さっきの戦いを思い出す。


 誰かが前へ出れば別の誰かが守り、一人で戦おうとしている人なんて誰もいなかった。


 俺とは全然違った。


「……俺、何も見てなかった」


「最初からできる奴なんていねぇよ。お前まだ子供だろ」


 男はそう言って俺の頭へ手を置いた。


「怖がること自体は悪いことじゃない。今日怖かったことも、ちゃんと覚えとけ。ただし──危ない場所に勝手に入るのは別の話だ」


「いだだだ! ごめんなさい!」


 頭を掴まれ、後ろから二人の笑い声が聞こえた。


「また怒られてる」


「最初に言い出したのレオンだからね」


「お前らだってついてきただろ!」


 俺が振り返ると、アイナは少し笑ってから言った。


「でも……前に出てくれたのは、ありがと。私も怖かったから」


「……え?」


 予想していなかった言葉だった。


 俺は別に格好良くなんかなかった。足は震えていたし、木の棒を振っただけで吹き飛ばされた。最後には怖くて動くことさえできなかった。


 それでもアイナは、ありがとうと言ってくれた。


「……お、おう」


「顔赤いぞ」


「うるせぇトーマ!」


 なんでか分からないけれど、本当に顔が熱かった。


 走ったからだ。


 たぶん。いや、絶対そうだ。


 言い返しながら前を見ると、遠くに町が見え始めていた。


 もうすぐ帰る。


 帰ればたぶん、もっと怒られる。


 それなのに俺は、もう一度冒険者たちの背中を見ていた。


「……俺、冒険者になる」


 気づけば、そう口にしていた。


「さっき死にかけたばっかりだよ?」


「だからだよ」


 自分の手を見る。


 まだ少し震えていた。


「俺、何もできなかった。あの人たちが来なかったら、俺も、アイナも、トーマも……たぶん死んでた。でも、あの人たちは俺たちを助けてくれた」


 うまく説明できなかった。


 ただ、助けられたままで終わりたくないと思った。


 次に誰かが怖がっていたら。次に誰かが困っていたら。今度は自分が、あの人たちみたいに前へ出られる人になりたい。


「俺も、あんなふうになりたい。強くなって、今度は俺が誰かを助ける!」


 少しの間、二人は何も言わなかった。


 最初に口を開いたのはトーマだった。


「……じゃあ俺もなる。お前一人だと、また今日みたいになるだろ」


「ならねぇよ!」


「じゃあ私も。二人だけで行かせる方が心配だから」


「だからなんで俺が一番信用されてねぇんだよ!」


 二人が笑った。


 俺もすぐに笑った。


「じゃあ決まりな。三人で冒険者になる! 絶対すげぇ冒険者になろうぜ!」


「レオン、前見て歩いた方がいいよ」


「大丈夫だって!」


 そう言った直後、木の根に足を引っかけた。


「うわっ!?」


 転びかけた俺を見て、二人の笑い声がまた聞こえる。


「今のは違うからな!!」


 その日、俺たち三人は冒険者になることを決めた。俺が言い出して、アイナとトーマがついてきた。


 それが、三人の始まりだった。




◇




「……これ、俺に?」


「うん。レオンに」


 あの日から七年が経った。


 十四歳になった俺の前で、アイナは一本の槍を差し出していた。訓練用の木槍なんかじゃない。穂先には鈍い光を返す刃がついていて、柄も俺の背丈より長い。


「え、ちょっと待って。なんで? 俺にくれるのか?」


「最近ずっと武器で悩んでたでしょ。この前、武器屋で見つけて……レオンに似合いそうだなって思ったから」


「……俺が悩んでたの、覚えてたの?」


「そりゃ覚えてるよ。毎回うるさかったもん。剣がいいって言った三日後には斧、その次は短剣だったし」


「大剣もあったな」


 横からトーマまで口を挟んできた。


「お前、大剣使うって騒いでたくせに、持ち上げた次の日に腰痛いって言ってただろ」


「……あれは忘れろ」


「無理」


 アイナまで笑っている。


 俺自身はとっくに忘れていたようなことまで、二人は妙に覚えている。特にアイナは、俺がどの武器を使って、何が合わなくて、何に悩んでいたのかまで知っていた。


 そのことに気づいた途端、目の前の槍がさっきまでとは少し違って見えた。


「それで、槍にしたのか?」


「うん。この槍、かっこいいし。それにレオンに似合うと思って」


「…………」


「なに?」


「いや……なんでもねぇ」


 なんでもないはずなのに、妙に胸の奥が落ち着かなかった。


 アイナが武器屋でこの槍を見つけた時、俺のことを思い出したということだ。俺が持ったら似合うかもしれないと考えて、わざわざ選んで、それを今日ここまで持ってきてくれた。


 俺のために。


 そう考えると嬉しかった。槍をもらえること以上に、アイナが俺のことを考えてくれていたことが嬉しい。


「……これ、高かっただろ?」


「大丈夫だから買ったの。そんなに気になるなら返してもらおうかな」


「それは駄目!」


 反射的に槍を抱えると、アイナが吹き出した。


「冗談だよ。ちゃんとレオンにあげる」


「……ならいいけど」


「欲しいなら最初からそう言えばいいだろ」


「うるせぇな、トーマ!」


 本当は、めちゃくちゃ嬉しかった。


 槍を受け取ると、ずしりとした重さが両手へ伝わってくる。柄を持ち直して構え、見よう見まねで一度突き出してみると、思っていたより自然に穂先が前へ伸びた。


「おお……これ、いいかも!」


「ちょっと、近い!」


「うおっ、ごめん!」


 慌てて穂先を下げる。


「本当に大丈夫かな……」


「大丈夫だって! 今までで一番しっくりくるし、俺くらいになると槍も似合──」


「じゃあ返して」


「ごめんなさい」


「早いな」


 トーマが笑っているけれど、返すつもりなんて一切なかった。


「……ありがとな、アイナ。大事にする」


「うん」


「お前、物の扱い雑だからな」


「雑じゃねぇよ! ……まあ、木剣は何本か折ったけど」


「三本」


「数えんなよ!」


 俺は槍を握り直した。


 壊さない、なんて約束はできない。これから本当に冒険者になれば、傷もつくだろうし、いつか壊れることもあるかもしれない。


 だったら、その時は直せばいい。


 何度でも直して、使い続ければいい。


「今日から、こいつが俺の武器だ」


「まだ使えるか分からないでしょ?」


「使える。今回は今までと違うから」


「何が違うの?」


 アイナに聞かれ、俺は槍を見て、それからアイナを見る。


 考えて出した答えじゃなかった。


「……お前が選んでくれたから」


 アイナが一瞬黙り、ふいっと顔を逸らした。


「……なんだよ?」


「別に」


「いや、今絶対なんかあっただろ」


「ない。うるさい」


「なんで俺が怒られるんだよ!?」


「レオン」


 横からトーマが呆れた声を出した。


「お前はもう少し黙った方がいい」


「お前までなんでだよ!」


 その時の俺には、アイナがどうして目を逸らしたのか分からなかった。


 自分がどうしてあんなに嬉しかったのかも、まだ分かっていなかった。


 ただ、アイナが俺のために選んでくれたこの槍だけは、ずっと大事にしようと思った。




◇




 それから、さらに五年が経った。


「レオン、右!」


「分かってる!」


 声が届いた時には、もう地面を蹴っていた。


 俺がいた場所を一本の矢が通過し、そのまま魔物の肩へ突き刺さる。体勢を崩した魔物がアイナへ顔を向けるより早く、反対側からトーマが踏み込んだ。


「トーマ!」


「もういる!」


 振り下ろされた剣が前脚を斬りつける。身体が傾き、正面が空いたところへ俺が入った。


「っらぁ!!」


 全体重を乗せて突き出した槍が胸へ食い込み、そのまま身体を貫く。魔物が地面へ倒れても、俺はすぐには近づかなかった。槍を構えたまま一歩退き、呼吸と手足の動きを確認する。


「……どう?」


「まだ待つ」


 少ししてから槍の先で身体を突く。反応はない。


「よし。終わった」


 三人ほぼ同時に息を吐いた。


「今回は噛まれなかったね」


「まだそれ言うのかよ。あれ何か月前だと思ってんだ?」


「レオンが『絶対死んだ』って近づいて噛まれたのは覚えてる」


「トーマまで覚えてんのかよ……」


「だから今回はちゃんと確認したんだろ?」


「……まあな」


 実際、その失敗があったから今は確認している。


 依頼を受け始めた頃は、こんなふうにはいかなかった。俺が先走ってアイナの射線を塞いだこともあったし、トーマと同じ敵へ飛び込んで肩からぶつかったこともある。


 それでも依頼を一つ終えるたび、三人で何が悪かったのかを話した。失敗して、怒られて、また試す。それを何年も繰り返した。


 今では、アイナが弓を構えればどこへ矢を通したいのか分かる。トーマが剣を構えれば、次にどこへ入ろうとしているのか分かる。俺が槍を引けば、二人が自然にその先を空けてくれる。


 声を掛けることさえ減った。


 七歳の頃、廃墟の地下で俺たちを助けてくれた冒険者たちも、こんなふうに戦っていた。


 怖いから周りを見る。仲間がどこにいるのかを見る。一人で何でもやろうとしない。


 あの時は分かったつもりになっただけだったけれど、十九歳になった今なら少しだけ意味が分かる。


 怖くなくなったわけじゃない。ただ、怖い時ほど二人を見るようになった。二人が動けるのか、怪我はしていないか、逃げ道はあるのか。戦えるのか、それとも退くべきなのか。


 俺一人で決めなくなった。


 たぶん、それが七歳の頃から一番変わったところだった。


「なあ」


 槍についた血を払いながら二人を見る。


「今の俺ら、結構よかったよな」


「うん。最後は綺麗に決まったね」


「俺が脚を崩して、アイナが動きを止めて、レオンが仕留めた。悪くなかった」


「だろ?」


 思わず笑う。


 十四歳の頃には少し重かった槍も、今では完全に手に馴染んでいた。柄には細かな傷が増え、交換した部品もある。それでも手放そうと思ったことは一度もない。


 最初は、アイナからもらった武器だった。


 今はそれだけじゃない。


 俺が冒険者として過ごしてきた時間も、アイナとトーマと戦ってきた時間も、この槍には全部残っている。


 だからいつからか、俺は当たり前のようにこいつを相棒と呼ぶようになっていた。




◇




「お前、いつアイナに言うんだ?」


「ぶっ!!」


 口に含んでいた水を盛大に吹き出した。


「汚ねぇな」


「お、お前がいきなり変なこと言うからだろ!」


「声でかい。聞こえるぞ」


 慌てて周囲を見る。


 依頼帰りに寄った食堂は夕食時ということもあって、冒険者や町の人間で賑わっていた。幸い、アイナは追加の飲み物を頼みに席を離れている。


「……なんで知ってんだよ。俺、お前に言ったことないよな?」


「何年一緒にいると思ってるんだ。アイナが他の男と話してる時のお前、分かりやすすぎるぞ」


「見てねぇよ。……ただ、たまに距離近い奴いるだろ。そういう時にちょっと気になるだけで」


「それを見てるって言うんだよ」


「…………」


 何も言い返せなかった。


 アイナとは昔からずっと一緒にいる。幼馴染で、仲間で、何でも言い合える相手だった。


 ただ、いつからだったか。


 アイナが笑っていると、もう少し見ていたいと思うようになった。依頼で怪我をすれば胸がざわつくし、知らない男と楽しそうに話していると妙に気になる。


 十四歳の時、槍をもらった頃にはまだ分からなかった。あの時、アイナが俺のために武器を選んでくれたことが、どうしてあんなに嬉しかったのか。


 十九になった今なら、さすがに分かる。


 俺はアイナが好きだ。


「で、いつ言うんだ?」


「まだ言わねぇ」


「なんで?」


「Cランクになってからって決めてる。それと、貯金も目標まで貯める」


「告白するだけなら、どっちも必要ないだろ」


「分かってるよ」


 アイナなら、そんなことは気にしないかもしれない。それでも俺が嫌だった。


 もし気持ちを伝えて、もし同じ気持ちだったとして。その先もアイナと一緒にいたい。


 好きだと言うなら、その先のことまで考えられる自分でいたかった。


「……ちゃんとしてから言いてぇんだよ」


「アイナはそんなの気にしないと思うけどな」


「俺が気にするんだよ」


 好きだからこそ、格好つけたい。


 たぶん、そんな単純な話なんだと思う。


 トーマはしばらく俺を見たあと、小さく笑った。


「なら、その時はちゃんと言えよ」


「分かってる」


「逃げるなよ?」


「逃げねぇよ」


「何から?」


「──っ!?」


 後ろから聞こえた声に身体が固まった。


 恐る恐る振り返ると、飲み物を持ったアイナが立っている。


「……な、なんでもない」


「今の反応でそれは無理があると思うけど」


 助けを求めてトーマへ視線を送る。


「貯金の話」


「おい!」


「貯金?」


「そう。こいつが目標まであと少しなんだと」


「トーマァ!!」


 思わず声が大きくなり、店の奥から「うるさい!」と怒鳴られた。


「……すみません」


 周囲から笑い声が上がる。


 恥ずかしくなって顔を伏せた俺の向かいで、アイナまで楽しそうに笑っていた。


「レオンって、ほんと分かりやすいよね」


「……何が?」


「別に」


 その横では、トーマが何とも言えない顔で俺たちを見比べていた。


 結局その日も、俺は何も言わなかった。




◇




翌朝、俺は自分の部屋で、けたたましい音に目を覚ました。


 ドンドンドンドン!!


「レオン! 起きて!」


「……うるせぇ……」


 布団を頭まで被っても、扉を叩く音は止まらない。


「起きてるなら早く出てきて! 依頼行くよー!」


「分かった! 起きてるから叩くな!!」


 仕方なく身体を起こし、寝癖も直さないまま玄関へ向かう。扉を開けると、そこには当然のようにアイナとトーマが立っていた。


「遅い」


「お前ら……朝早すぎんだろ。もうちょっと寝かせろよ……」


「誰かさん、七歳の頃はもっと早い時間から人の家の扉を叩いてたけどね」


「……なんで十二年前の話が出てくるんだよ」


「『トーマー、死んでんのかー!』って近所中に聞こえる声で叫んでたから」


「俺は寝てただけなのにな」


「まだ根に持ってんのかよ!?」


 アイナが笑い、トーマも眠そうな俺を見て僅かに口元を緩める。朝から二人に遊ばれている気がしてならない。


「で? 依頼って何なんだよ。わざわざ起こすくらいなんだから、いい依頼なんだろうな?」


「はいはい。これ」


 アイナは俺をあしらいながら、持っていた一枚の依頼書を差し出してきた。


「町の北にある古い廃墟の調査依頼。近くで魔物を見た人がいるんだって」


「廃墟?」


 まだ残っていた眠気が、その一言で薄れた。


 依頼書を受け取り、簡単に描かれた地図へ目を落とす。町から北へ延びる道。その先にある森と、奥に記された古い建物。


「……これ、もしかして」


「うん。たぶん、私たちが昔行ったところ」


「…………あそこか」


 今度こそ眠気が飛んだ。


 十二年前、三人で歩いた森。その奥にあった廃墟と、地下へ続く暗い階段。そこで初めて本物の魔物を前にして、俺たちは何もできずに死にかけた。


 トーマが俺の顔を見る。


「嫌なら別の依頼でもいいぞ」


「……別に嫌とは言ってねぇだろ」


 言い返しながらも、すぐに「行く」とは言えなかった。


 十二年も前のことだ。今の俺たちは、あの頃とは違う。魔物なんて何度も倒してきたし、依頼で危険な場所へ入ったことだって一度や二度じゃない。


 それでも、あの地下だけは別だった。


 暗闇から現れた二つの目。壁際へ追い詰められたアイナ。トーマへ迫った爪。そして、二人を守ると言いながら、最後には怖くて動くことさえできなかった自分。思い出そうとすれば、十二年前の光景は今でも簡単に蘇ってくる。


「……レオン。本当に無理しなくていいからね」


 さっきまで笑っていたアイナの声が少し柔らかくなる。


「私だって、あそこに行くのはちょっと怖いし」


「……アイナも?」


「そりゃそうでしょ。私たち、死にかけたんだよ?」


「俺も気は進まない」


 トーマもあっさり認めた。


 二人も怖い。そのことが分かると、不思議と少しだけ気持ちが軽くなった。昔の俺なら、怖いなんて言ったら格好悪いと思って、一人で平気なふりをしていたかもしれない。


 俺は一度部屋へ戻り、壁に立てかけていた槍を手に取った。五年間使い続けてきた柄を握ると、いつもの重さが掌へ馴染む。


「……行こうぜ」


「決めた?」


「ああ。怖くねぇって言ったら嘘になるけど、今度は勝手に入るガキじゃない。ちゃんと依頼を受けた冒険者なんだから」


「その冒険者、寝癖すごいけど」


「……直してくる」


 アイナが笑った。


 結局、身支度を整えてから三人で廃墟へ向かうことになった。


◇


 十二年ぶりに訪れた廃墟は、記憶の中よりずっと小さく見えた。


「……こんなんだったっけ?」


 思わず口にすると、隣でアイナも建物を見上げる。


「私も、もっと大きかった気がする」


「俺たちが小さかっただけだろ」


「トーマ、それ言われると何か違うんだよ」


「何がだよ」


「十二年ぶりなんだから、もうちょっとこう……あるだろ」


「分からないのに雰囲気だけ求めないでよ」


「そうなんだけどさ……」


 アイナが笑う。俺もつられて笑ったけれど、廃墟へ近づくにつれて自然と口数は減っていった。


 崩れた門も、蔦に覆われた石壁も、形こそ少し変わっているものの確かに覚えている。あの頃と違うのは俺たちの方だった。アイナの背には弓があり、トーマの腰には剣がある。そして俺の手には、五年間使い続けてきた槍がある。


 入口へ立つと、胸の奥に残っていた十二年前の感覚が急に近くなった。


「……ここから入ったんだよな」


「うん。レオンが『見るだけだから』って言って」


「その話はもう忘れてくれよ……」


「無理かな」


 三人で内部へ入る。依頼書に書かれた注意事項を確認しながら、崩落しそうな場所を避けて進んだ。昔は目につくもの全部に近づいていた俺も、今では天井や足元を確認し、途中で分かれ道があれば帰りの目印まで覚えるようになっている。


「右の壁、亀裂深いな。離れて通ろう」


「了解」


 アイナが素直に離れたので、逆に少し気になった。


「……何だよ。今日は何も言わねぇの?」


「言ってほしいの?」


「いや、そういうわけじゃ……」


「なら行くぞ」


 トーマが先へ進み、俺とアイナも続く。


 やがて崩れた壁の向こうに地下へ続く階段が見えた瞬間、三人の足が同時に止まった。


「……残ってたんだ」


 アイナが呟く。


「ああ」


 地上の光が届くのは途中までで、その先には十二年前と変わらない暗闇が続いている。


「どうする?」


 トーマが俺ではなく、俺たち二人へ聞いた。


「依頼は内部の調査までだよね。ここを確認しないで帰ったら、たぶん不十分」


「俺もそう思う。ただ、崩落か魔物の気配があったらすぐ戻ろう」


 二人の視線が俺へ向く。


「俺もそれでいい。十二年前は俺が勝手に決めたからな。今日は三人で決めようぜ」


「じゃあ決まりだね」


 三人で階段を下り始めた。


 地上から差し込む光は、一段進むごとに少しずつ弱くなる。昔はその暗さが怖くなり、先頭から何となくアイナの横へ移動した。そのことまで思い出していると、隣から声がした。


「レオン。握りすぎ」


 言われて自分の右手を見ると、槍の柄を強く握り込んでいた。


「……ほんとだ」


「緊張してんのか?」


「してるよ。ここで死にかけたんだぞ」


「七歳の時は怖くないって言い張ってたけどね」


「あの頃より賢くなったんだよ。怖いもんは怖い」


「それなら成長したんじゃない?」


「だろ?」


「そこだけな」


「トーマ、お前は一言余計なんだよ」


 二人が笑った。俺もつられて笑いながら、槍を握っていた手から少しだけ力を抜く。


 怖くないわけではない。むしろ階段を下りるほど、十二年前の記憶は鮮明になっていた。それでも今は、前だけを見て勝手に進んでいるわけじゃない。少し横を向けばアイナがいて、後ろからはトーマの足音が一定の間隔で聞こえてくる。戻る道も途中で確認してきた。怖いからこそ周囲を見るという、あの日教わったことを、十二年かけてようやく自然にできるようになっていた。


 地下通路へ降りると、昔と同じ湿った空気が肌に触れた。


「……覚えてる?」


「ああ。最初の一匹があっちから来て、戻ろうとしたら後ろにもいた」


 トーマが階段側を確認する。


「今のところ後ろは問題ない」


「そういうの聞くと、本当に戻ってきたんだなって感じするな……」


「大丈夫」


 アイナが弓を手にしながら俺を見る。


「今度は三人とも武器持ってるし、一人で何とかしなくてもいいから」


「……分かってる」


 十二年前なら、俺は二人の前へ出ていた。


 今は違う。


 アイナがどこから矢を通すのか、トーマがどこへ入るのか。その二つまで見て、初めて自分の立つ場所を決める。


 奥から、何か硬いものが床を擦る音がした。


 三人の表情が同時に変わる。


「……右奥」


「ああ。一つ……いや、まだ分からない。アイナ?」


「いつでも撃てる」


 トーマが剣を抜き、アイナも背中から弓を取る。俺は二人の位置を確認してから槍を構えた。階段までの距離、通路の幅、崩れている場所。撤退するならどこを通るかまで頭の中で確認する。


 暗闇の奥から低い唸り声が聞こえ、やがて二つの光が浮かんだ。


 胸の奥が強く鳴った。


 牙も、爪も、床へ叩きつけられた時の痛みも覚えている。何より覚えているのは、二人を守らなければと思いながら、最後には恐怖で足が動かなくなったことだった。


「……レオン」


 アイナの声に意識を戻す。


「大丈夫?」


「ちゃんと怖いよ」


「何それ」


「でも、周りは見えてる」


 俺はアイナを見て、それからトーマを見る。


「二人ともいる」


「なら大丈夫だな」


「ああ」


 暗闇から魔物が姿を現した。十二年前と同じ四本脚の獣型で、剥き出しの牙を見せながら身体を低く構えている。そして、その背後からもう一匹が現れる。


「……本当に二匹だ」


 トーマが剣を構え直す。


「一度下がるか?」


「いや、まだやれる。ただ、少しでも崩れたら階段まで退こう。無理して倒す必要はない」


「了解」


「アイナ、右から射線取れる?」


「取れる。前に出すぎないでね」


「分かってる」


 正面の一匹が地面を蹴った。


「来る!」


 俺は正面から受けず、右へ身体をずらす。


「アイナ!」


「もう撃ってる!」


 俺がいた場所を矢が抜け、魔物の肩へ突き刺さった。体勢が崩れた瞬間には、トーマが左側へ回り込んでいる。


「脚!」


「任せろ!」


 剣が前脚を斬りつける。


 正面が空いた。


 俺は踏み込み、五年間使い続けてきた槍を一気に突き出した。穂先が胸を貫き、魔物の身体が床へ倒れる。


「まだ来る!」


 二匹目が横から飛び込んできた。


 槍を引き抜くのは間に合わない。


「トーマ!」


「分かってる!」


 トーマが俺と魔物の間へ入り、振り下ろされた爪を剣で受け流す。その間に槍を引き抜いて距離を取り直すと、アイナはすでに次の矢を番えていた。


「右へ!」


「おう!」


 俺が穂先で進路を塞ぎ、トーマが反対側から圧力をかける。逃げ場を失った魔物が右へ飛んだ瞬間、待っていた矢が肩へ突き刺さった。


「今!」


 踏み込んだ俺の槍が胸を貫く。


 二匹目も床へ倒れた。


 それでも三人とも、すぐには武器を下ろさなかった。俺は倒れた二匹の呼吸と脚の動きを見ながら通路の奥にも意識を向ける。トーマは背後と階段側を確認し、アイナは矢を番えたまま俺たちの死角を見ていた。


「後ろは?」


「問題ない」


「こっちも大丈夫。でもレオン、まだ近づかないでよ」


「分かってる。もう噛まれたくねぇからな」


「ちゃんと学習してる」


「それくらいはするって」


 少し待ってから距離を保ったまま槍の先で一匹ずつ身体を突き、反応がないことを確かめる。


「……よし。終わった」


 ようやく三人とも武器を下ろした。


 静かになった地下通路に三人の呼吸だけが残る。俺は倒れた二匹を見ながら、十二年前の光景を思い出していた。同じ場所で同じように二匹に挟まれ、木の棒一本で二人を守ろうとして何もできなかった。その時に助けてくれた冒険者たちは、誰かが攻撃すれば誰かがその隙を埋め、一人で何とかしようとしている奴なんて誰もいなかった。


 壁際からそれを見ていた七歳の俺は、確か一言だけ呟いた。


「……すげぇ」


「ん?」


「昔の俺、助けてくれた人たち見てそう言ってたなって」


「ああ……言ってたね」


 アイナも倒れた魔物を見て、それから俺とトーマへ視線を向けた。


「そのあと、三人で冒険者になるって決めたんだっけ」


「ああ」


「十二年か」


 トーマが呟く。


 俺は二人を見る。弓を持ったアイナと、剣を持ったトーマ。そして自分の手には、アイナからもらって五年間使い続けてきた槍がある。


「……俺たち、ちゃんと冒険者になれたんだな」


「何を今さら」


「分かってるよ。でも、ここで戦ったら実感したんだよ」


「七歳のレオンが見たら喜ぶかもね」


「絶対『すげぇ』って言う」


「自分で言うのかよ」


「言うだろ。あいつ、単純だから」


「自分のことなのに他人みたいに言うな」


 アイナが吹き出し、俺も笑った。


 十二年前に憧れた冒険者と同じくらい立派になれたのかは分からない。それでも、あの日に助けられることしかできなかった三人が、今は同じ場所で互いを見ながら戦えるようになった。


 それだけは、少し誇ってもいい気がした。




◇




 廃墟を出ると、昼の光が妙に眩しく感じた。


「腹減ったー……」


「先にギルドだぞ」


「分かってるよ。言ってみただけだって」


「本当?」


「……飯食ってからでもいいとは思ってる」


「やっぱり」


 アイナが笑う。


 三人で森を歩く。昔はずいぶん遠く感じた道も、今歩けばそれほどでもない。七歳の頃はこの道を冒険者たちに連れられて帰った。肩の傷が痛くて、帰ったらどれだけ怒られるんだろうと考えながら、それでも前を歩く冒険者の背中から目を離せなかったことを覚えている。


「そういえば、今回の依頼が終わったらCランクにまた近づくんじゃない?」


 アイナに聞かれ、俺は頷いた。


「今回の評価がちゃんと入れば、たぶんあと少し」


「貯金の方は?」


「そっちもあと少し。まあ、装備の手入れで結構飛ぶけどな」


「槍の修理代は絶対削らないもんな」


 トーマに言われ、肩に担いだ槍を見る。


「こいつは別枠」


「そんなに気に入ってくれてるなら、選んだ甲斐あったかな」


「そりゃ気に入ってるよ。もう五年だぞ」


「途中で武器変えると思ってた」


「お前が選んでくれたから使うって言っただろ」


「……そうだけど」


 アイナが少しだけ視線を逸らした。


 十四歳のあの日も、同じだった。


 俺が「お前が選んでくれたから」と言った時、アイナは今みたいに顔を逸らした。当時は理由なんて分からなかったし、聞いても「別に」としか答えてくれなかった。


 今なら、少しくらい期待してもいいんだろうか。


 そんなことを考えてしまって、慌てて前を向いた。


 昨日、トーマに言われた言葉が頭をよぎる。


 ──なら、その時はちゃんと言えよ。


 言うつもりだ。


 Cランクになって、貯金が目標まで届いたら。


 別に、告白するだけなら今でもできる。トーマにも言われたし、俺だって分かっている。それでも、どうしてもそこだけは譲れなかった。


 もしアイナが同じ気持ちでいてくれたら、その時は「好きだ」と伝えて終わりにはしたくない。


 これから先も隣にいてほしい。


 今までみたいに三人で依頼を受けて、くだらないことで喧嘩して、帰りに飯を食って。その中で、アイナとは今までとは少し違う関係になれたらいい。


 いつかもっと先のことを考える日が来ても、その隣にいてほしいと思っている。


 だからこそ、その時くらいは格好よく言いたかった。


 冒険者として一つ上のランクへ上がって、自分で決めた額の金も貯めて、「これからのこともちゃんと考えてる」って胸を張れる状態で。


 たぶんアイナは、そんなこと気にしない。


 これは全部、俺の意地だ。


「ねえ」


「……ん?」


「何ぼーっとしてるの?」


「してねぇよ」


「してたよ。槍見ながら急に黙ったし」


「ちょっと考え事してただけ」


「何の?」


「それは……」


 答えかけて、止まる。


 今ここで言えるくらいなら、昨日トーマにあんな相談はしていない。


「まだ秘密」


「へぇ。レオンが私に秘密?」


「俺にだって秘密くらいあるわ!」


「大体顔に出るけどな」


「トーマは黙ってろ!」


 アイナが笑ったあと、ふと思い出したように首を傾げる。


「そういえば、前から気になってたんだけど。その貯金、結局何に使うの?」


「…………」


 今度こそ言葉に詰まった。


「何、その間」


「いや……別に」


「別に、でそんなに固まる?」


 思わずトーマを見る。


 目が合った瞬間、こいつは僅かに口元を上げた。


「おい」


「何だよ」


「その顔やめろ」


「俺は何もしてないぞ」


「なんでトーマ見るの?」


「…………」


 しまった。


 アイナが俺とトーマを交互に見る。


「もしかして、トーマは知ってる?」


「おい待て。なんでそうなる」


「レオンが今、自分で教えてくれたから」


「…………マジかよ」


「お前、本当に分かりやすいな」


「うるせぇ!」


 アイナは楽しそうに笑っていたけれど、やがて俺の顔を覗き込むように少し身体を傾けた。


「そんなに言いにくいことなの?」


「……言いにくいっていうか」


「じゃあ、言いたくないこと?」


「違う」


 そこだけは、すぐに否定した。


 言いたくないわけじゃない。


 むしろ、ずっと言いたい。


「今はまだ言わないって決めてるだけ」


「今は?」


「ああ」


「じゃあ、いつかは言うんだ」


「……言うよ」


 自分でも驚くくらい、真面目な声が出た。


 さっきまで笑っていたアイナも、それに気づいたらしい。少しだけ目を丸くして、俺を見ている。


「ちゃんと言う。もう決めてるから」


「…………そっか」


 アイナはそれ以上聞かなかった。


 ただ、前へ向き直る直前、ほんの少しだけ笑ったように見えた。


「じゃあ、待ってる」


「……おう」


 その一言だけで、胸の奥が急にうるさくなる。


 何を待つつもりなのかなんて、聞けなかった。


 聞いてしまったら、今ここで全部言いたくなりそうだった。


「顔赤いぞ」


「トーマ」


「何だよ」


「あとで覚えてろ」


「八つ当たりするな」


 アイナがまた笑った。


 その笑顔を見ていると、本当にあと少しなんだと思う。


 Cランクまで、あと少し。


 貯金も、あと少し。


 そうしたら俺は、アイナに好きだと言う。


 十四歳のあの日、この槍を受け取った時には分からなかった気持ちを、今度はちゃんと言葉にする。


「じゃあさ」


 アイナが前を向いたまま口を開いた。


「Cランクになったら、ご飯食べに行こうよ」


「いいけど。三人で?」


「…………」


 アイナが一瞬だけ黙った。


「……とりあえず、三人で」


「とりあえず?」


「細かいこと気にしないの」


「いや今のは気になるだろ」


「いいから。レオンがCランクになったら、レオンの奢りね」


「なんでだよ!?」


「お祝いだから」


「祝われる側が奢るのおかしいだろ!」


「じゃあ俺は一番高いの頼む」


「お前は絶対駄目!」


 トーマが笑い、アイナも声を上げて笑った。


 俺も文句を言いながら二人の横を歩く。


 その約束が妙に嬉しかった。


 Cランクになったら、三人で飯を食う。


 そのあとでいい。


 帰り道でも、店を出たあとでも、アイナと二人になれる時を見つけて、その時こそ伝えよう。


 好きだと。


 ずっと一緒にいたいと思っていることも。


 まだ何一つ伝えていないのに、そこまで考えてしまう自分がおかしくて、少しだけ笑った。


「何笑ってるの?」


「別に」


「怪しい」


「なんでもねぇって」


 アイナは納得していない顔をしていたけれど、それ以上は聞かなかった。


 俺も、まだ言わない。


 でも、もう決めている。


 あと少しだけ待ってほしい。


 その時が来たら、今度こそちゃんと言うから。


 笑いながら歩いていると、道に張り出した木の根が目に入った。


 俺は何気なく足をずらして避ける。


 少し後ろから、アイナが「あ」と声を出した。


「何だよ」


「いや、なんでもない」


「絶対なんかあるだろ」


「ないよ」


 そう言いながら笑っている。


 俺は首を傾げたが、トーマまで笑っているので聞くのをやめた。


 三人の声が森の中へ響いていく。


 七歳のあの日、俺たちはこの道を冒険者に助けられて帰った。十二年後の今日、俺たちは冒険者として同じ道を歩いている。手にはアイナが選んでくれた槍があり、その隣にはあの日と同じ二人がいる。


 あの頃に思い描いた「すげぇ冒険者」になれたのかは、まだ分からない。Cランクも、貯金も、アイナに伝えたいことも、全部あと少しだった。


 急ぐ必要なんてない。


 ここまで十二年も、三人でやってきたのだから。


「レオン、遅いよ!」


「あ、待てって!」


 いつの間にか少し先へ行っていた二人を追い、槍を肩に担ぎ直して走る。


「転ぶなよ」


「転ばねぇよ!」


 トーマへ言い返しながら二人へ追いつけば、また三人が横に並んだ。


 七歳の俺が見たら、きっと笑うくらい何も変わっていない。


 それでも俺たちは、あの日に憧れた冒険者になっていた。


 そして三人の冒険は、まだこれからだった。


最後まで読んでいただき、ありがとうございます。


七歳の頃に冒険者に助けられた三人が、十二年後には同じ場所へ冒険者として戻ってくる。そんな三人の成長を楽しんでもらえていたら嬉しいです。



〜本編を読んでいただいている方へ〜


今回は、本編に登場するレオン・アイナ・トーマの三人に焦点を当てた短編を書いてみました。


本編で描いた過去をもとに、短編単体でも楽しめるよう、一部の出来事や展開を追加・再構成しています。そのため、本編とは少し内容が異なる部分があります。


三人が冒険者を目指したきっかけや、共に過ごしてきた時間、そしてレオンがアイナに抱いていた気持ちを、本編より少し深く描きました。


本編をすでに読んでいる方には、最後の「三人の冒険は、まだこれからだった」という言葉も、少し違った意味で感じてもらえるかもしれません。



〜皆様へ〜


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