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小説

忘れ去られるものへ

作者: ちりあくた

 穏やかな春の陽気を徐々に感じるようになった。見舞いに来る友人の話では、どうやら外では梅がほころび始めているらしい。確かに、最近は私のいる病室にも自然な暖かさが戻りつつあった。火鉢の熱気も嫌いではないが、やはり太陽の生み出す温度感こそが、人肌に最もよく馴染むのだろう。


 私はこれで二十三回目の春を迎える。二十の折に喀血し、それきり、大学での日々をこの寝台の上へ置いてきた。回復を望む気持ちは最初こそ強かったが、近ごろは惰性だ。長い療養の年月が、ほとんど無駄でしかなかったことを、もう知ってしまっているからである。


 家族や友人は「療治」という言葉を使う。だが二十年近く寄り添ってきた身の本音は、はっきりとわかる。私は延命されているだけなのだ。実際、身体の具合は悪くなるばかりで、数か月前には辛うじて起こせた身も、今では、まるで布団に縫い付けられたように動かない。


 窓の外の空色で季節を知り、訪れる人々の噂話で世の中が動き続けていることを悟る。その間、私の時だけが止まったままだ。肉体は死へ向かって崩れてゆくが、精神は何ひとつ成しえていない。私はただ、他人が羨ましかった。――身体さえ自由なら、明日死んでも構わぬ。身体さえ動けば、私のやりたいことができる。私の夢が……。


 夢?


 少し黄ばんだ天井を眺めながら、私はその一語に違和感を覚えた。

「私には夢があった」――この言葉は二十の時点で、すでに過去形だった。私は幼いころから物語を書くのが好きで、いつか千年の後までも残る名作を書いてやる、と息巻いていた。名作を生むには評価が必要だと、そう信じていたのだ。


 中学へ上がるころ、私は本格的に物語を書き始めた。正直、痛々しい文章ばかりで、同人誌へ寄稿しても誰の目にも止まらぬことが多かった。それでも、文章を鍛えるために日々書き続け、書き続け、書き続け……。高校二年のころには、文芸誌の欄でも少しは名の知れた存在となっていた。評を得るために流行の傾向へ寄り添い、文体を変え、さまざまな文士と交流し、小さな地方誌の文学賞にも入選した。


 ――が、それがどうした?

 十九の私は、既にそう思い始めていた。


 意欲が失せたのは、ある日の唐突な出来事だった。糸がぷつりと切れるように、一瞬だった。


 ある晩、文士仲間と文通を交わしていた折、半年ほど前に評判を博した、とある短篇の話題が出た。すると返ってきたのは、「あれは、どんな作だったかな」というたった一行の返答だった。私は誌面の切り抜きを封筒へ同封し、「こんなのもあったなあ」と他愛ない調子で書き添えた。それで文通は終わった。


 だが、その瞬間、私のやる気は確かに消えた。きっと友の一言は、最後の一押しだったのだろう。薄々感じていた現実を突きつけられ、夢はひどく価値のないものへ変じた。頭の中の屑箱へ夢の残骸を押し込み、それから私は一作も書いていない。


 千年残る作品など夢のまた夢だ。近ごろは印刷技術も進み、書物は増え続けている。それでも凡作は山となった名作に埋もれ、いずれ見失われる。教科書に載る文学作品や、文化を揺るがした名著が、世に留まれる限度なのだ。大評判を呼んだ作品でさえ、百年後には古書店の棚にあるかどうかも分からぬ。


 百年前の作品で、今も読まれているものが、どれほど残っているだろう。一握りの星々がかすかに輝いているだけで、あとの星屑は誰にも知られない。半年前に評判だった作品ですら、すでに記憶から薄れかけているというのに。


 私の作品も、必ず死に絶える。千年どころか、百年さえもたないだろう。

 友が魂を込めて書いた力作も、憧れの文豪の大好きな小説も、文芸誌に載った幾百の作品も、いずれ忘れ去られて消えてゆく。


 あの頃は、夢が潰えたことが苦しかった。書くことなど無駄だという諦念に包まれた。だが、今になってみれば、なぜか不思議なほど静かな心で、夢のない現実を眺めていられる。


 視線を窓外へずらす。水色がいよいよ冴え、春の気が濃くなってきた。そろそろ桜が綻ぶころだ。軒先には小虫が舞い込み、母は冬支度の布団を干していることだろう。友人たちは袴や外套を春らしいものに改めて歩いているはずだ。


 私はもう、その姿を見ることはない。近ごろ、そんな予感が胸をよぎる。重病人は自ずと死期を悟るというが、まさしくその感覚なのだろう。


 空の青が眩しいほど輝いていた。永劫に続く生命力がそこにはあった。薄命な私とは違い、深く、広く、力強い。空は千年後も、きっと傷ひとつなく在り続ける。だが、そんなことはどうでもよかった。羨望も無念も湧かない。私はただ、この瞬間の空の美しさに、静かに感じ入っていた。


 思えば、あの頃は青かった。今の空のように。


 所詮無駄かもしれぬものを、無邪気に信じていられた。現実に夢を重ね、自分の可能性を果てしなく広げられた。


 私が羨んでいたのは、過去の青さだったのだ。


 あの若々しい私こそが眩しかった。千年後には誰も覚えていないであろう、滑稽な道化のような必死さが、今になってみれば何よりも美しく思い出される。


 ああ、もっと書いておけば良かった。唯一の心残りがあるとすれば、それだけだ。

 戻れるものなら戻りたい。たとえ夢を追うことの無意味さに打ちのめされるとしても、私はもう一度、あの頃のように書き続けたい。


 なぜなら――そこにこそ、意義があるからだ。


 私は千年先の読者を夢見ていた。だが、もっと先、数万年、数億年、数兆年……いずれ地上の営みは、ことごとく滅びてしまう。では、誰の記憶にも残らないのなら、すべての作品は無意味なのか。


 今なら、その問いに答えられる。

 創作の真価は、過去にも未来にもない。


 あの懸命に筆を走らせていた後ろ姿――そこにこそ、書くことの意味があった。主題をひねり、構成を練り、人物を産み落とす……その一瞬一瞬こそが、何より価値があったのだと、私は胸を張って言える。


 気がつけば、もう昼ごろであった。

 柔らかな自然光が病室の空気を照らす。糸屑がひとつ、目の前をおぼつかなく舞った。そして一瞬、糸屑はまばゆい白にきらめき、どこかへ消えた。


 私はふと、救われたような心地がした。

 そうして、おもむろに目を閉じた。

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