忘我
「……あの」
「なんだい?」
それはこちらのセリフです。などとは言えず、クローゼットの脇に立たされたインネは、がさがさと服の山を漁る女性を見つめる。
「何を……?」
「何って、選んでんだよ。アンタに似合うやつを」
散乱する衣服を見つめながら、イルファは振り返らずに言う。大小様々なサイズの洋服。可愛らしい、少女のような印象を覚えるフリル付きの物や、女性らしくも、どこか頼もしい印象のシャツ、単なる作業着。インネが着ている軍服と同等レベルの物は少ないが、それでもそれなりの上物が点々と見受けられる。
しかしそのどれもが、恰幅の良い彼女ものではないことは確かだ。あまりにもサイズが違い過ぎるし、ふわりとした簡単なスカートに、年季の入ったエプロンという姿の彼女がそのどれかを着ている光景は浮かばない。
「一体誰のだって目をしてるね」
「あ……」
「これはアタシの若い頃のさ、息子は当然着てくれないしね」
言われて、インネはこの部屋までの道のりを思い出す。イルファに連れられたインネは、崖上のノアの家から少し離れた住宅街の、その一つに引き込まれた。三階建てのこの家の、現在地である三階に至るまで、子供部屋のような部屋を見かけたため、イルファの言う息子の物だろう。
「お、これなんか似合うんじゃないかい?」
そういって、空中でインネに合わせてみせる。「当時のアタシより似合ってるよ」と口にしながら、インネに手渡した。
「着てきな、そっちはアタシが洗っとくよ」
「……でも!」
「それ着たら、ノア坊何か言ってくるかもね」
「……?」
「アンタ、ノア坊のこと、悪くは思ってないんだろう? どういう事情か知らないし、聞きもしないけど、あのノア坊が手出したんだ、相当さ」
「彼に何か?」
確かに、イルファと関わっていたノアを見て、最初の印象とはだいぶ変化している。
彼が『元軍人』というのは気になるが、少なくとも、インネが拒絶しなければならない人間ではないらしい。あの記憶の軍人は、もっと荒々しい雰囲気を持っていた。
「ホントに何も聞いちゃいないんだねぇ。ノア坊は一か月前に軍を抜けた、エリート様さ」
少し誇らしげに、そして忌々し気に、どちらともつかない表情をしながら、皮肉を込めて彼女は言う。
「……エリート、ですか?」
「インネちゃん、アンタそんなことも知らないのかい? ここも割と辺境だけど、流石にノア坊の名前を聞いても首を傾げやしないよ」
「そう、なんですか。私、何も覚えてなくて……」
どうやらインネは、一般常識すら抜け落ちているらしい。そもそも自分は何者で、どうして逃げていたのか、或いは逃げてなどいなかった?
記憶の断片しか持たない彼女に、情報量の差を疑問に思うのは酷な話だった。
「なんで辞めたのかは知らないけどね、あの『七核』だったってのに、不思議な話さ。最初は町の連中も警戒してたけど、今や頼めばなんでも手伝ってくれるもんだから人気者さ、元軍人は伊達じゃないね」
話が長くなることを見越してか、イルファは先に散らかした衣服をまとめていく。
「彼が?」
「まあ、アタシらが勝手に持ち上げてるだけだから、ノア坊がどう思ってるかは知らないけどね」
「ノアは、何者なんでしょうか?」
「……それをインネちゃん、アンタが聞くかい? アタシはインネちゃんも十分異質に見えるけどね」
呆れ半分にインネを見つめる。その視線は足元から頭まで、ゆっくりと上がっていってやがてインネの目と合う。
確かに、それもそうかもしれない。インネ自身、ノアの家で風呂に入った際、自分の身体の違和感にはすぐに気づいた。明らかに細い肢体に、発色の悪い肌。
所々にうっすらと見える、何かの挿入跡。
それが、確実な何かになるわけでもないが、自分が居た場所、或いは、自分が今ここに居る理由であることは確かだ。
「すみません、本当に何も覚えてなくて……」
「いいさ、クスタの掟にもあることよ。『過去は見るな』って具合に」
快活な笑みを浮かべると、イルファは服を脱ぐように促した。




