皇帝と姫
目の前で、ただこちらを見つめる存在。
それだけだ。それだけだというのに、インネは足が動かなくなる。それではダメだと。今すぐ逃げ出さなければならないと。頭では分かっている。それなのに、脚も腕も、喉すらも動きはしない。
「まあ、姫君に問う必要はない。丁度『梟』を飛ばしたところだ。近くにある事は知っている」
「――っ! ……っぅ」
(……ノアが危ない)
悲鳴を上げたい程怖い。その双眸で睨まれるだけで、全身にゾクりと悪寒が走る。それでも、思い浮かぶのはノアの横顔だった。
「……『烏』が心配か。案ずるな、アレにはまだ使い用がある。殺しはしない」
「……っ!」
「だが、どうだ。姫君が素直になれば、の話だ」
「なっ……」
「ふん、所詮人間は自分の命が惜しい。恥じることではない、普通のことだ。余も命は惜しい」
まるで、全てを見透かしているように。愉しげにこちらを伺う。悪魔のようだ、とインネは思った。その悪魔に、躍らされている。
「……んな……と」
「なんだ……?」
「そんな……こと、ありません」
躍らされている。だが、これ以上は御免だ。ノアは、今も戦っている。『梟』が向かったとこの男は話した。確か、『七核』五位、最強の狙撃手。ノアが戦っているなら、インネも戦う。彼が立つのなら、インネも立ち上がる。
インネルナ・ヘルシャは、『祈憶姫』なのだから。
「ほう……。面白い、ならば余に従え、『祈憶姫』」
不気味に嗤いながら、皇帝、ジェローム・ヘルシャ・ブレン十三世は姫君の手を取る。




