邂逅
浴室に入ると、そこはあまりにも簡素な物だった。
ノアは男の子だ、という事実を抜きにしても、少々何もなさ過ぎた。
自動洗濯機に、目視でわかる程度の量しか入らないタンス。洗面台には手洗い用の固形石鹸がポツンと佇むだけだった。
「……私は……」
鏡を見て、映る自分を見つめる。
青銀髪の髪に、心配になるくらいに白い肌。触れれば折れそうな華奢な腕。
おおよそ普通ではない。けれど、インネは自分が果たして何者なのか、その記憶は無かった。
「……?」
そして、自分の胸元へと視線が行く。いや、今まで気づかなかった方が異常かもしれない。なぜなら、自身の首には一つのペンダントが下げられていた。
「何これ……?」
手にとって、確かめる。
赤い、宝石のような石。その周りを、歯車のような装飾が飾っている。細かく、丁寧に施されたソレは、まるで芸術品のように、しかしどこか実用的な雰囲気を纏っていた。
『インネ!! 逃げてっ!』
「……!?」
脳裏に声が響いて、とっさにペンダントを手放す。放り出されたそれが、コツンと胸を叩く。
しかし部屋には当然誰も居ない。ノアの声でもなかった筈。
「……っ!」
思考に耽った瞬間、一つの光景がフラッシュバックする。
それは、銃を手にした軍人が、自身を追う様子。周囲に構わず乱射さえる弾丸が、インネの足元に着弾し、髪を霞め、弾けていく。
「何……? 今の……」
知らないはずのその場所で、インネは必死に逃げていた。
インネの胸に、複雑な感覚がしこりのように残る。忘れてはいけないような、大事な何かが。
しかし、自身の名前以外思い出すことのできなかったインネは、顔を顰めながらも服を脱ぎ始めた。
◇◇◇
「……お風呂、ありがとう」
「うん。あ、やっぱり少し大きかったかな」
余り過ぎている袖を見ながら、ノアはカップを差しだした。
湯気の立つ白いソレには、濃い茶色の液体が揺らめいていた。鼻孔をくすぐる香ばしい香り。
「何か思い出した?」
「なにも」
「そっか」
下手くそにも程がある会話。手札が少なすぎるせいで、一切続かない。
そもそもノアは、人と関わることが少なかった人間だ。帝国遊撃部隊隊長という立場にありながらも、『七核』でもあり、それ故に単独任務が多かった。
隊として動くときも、ほとんどの指揮を副隊長に任せており、自身は戦場にいた。
口下手なのは極一部の人間しか理解しておらず、周囲からは寡黙かつ孤独な軍人と言うイメージを持たれてしまっている。
自慢のようだが、実際問題ノアは気にしていなかった。僅かばかりながらも話せる人間はいたし、彼自身そこまで人とのコミュニケーションは好まない。それが幸か不幸か、こんな形で仇となった。
「……そのペンダントは?」
話の種を探そうと視線を彷徨わせた末に、少女の胸元に下がるソレを見つける。
黄土色とも、金色ともつかぬ微妙な色の歯車、そこに囲まれるようにして、僅かな装飾の施された宝石が嵌っている。照明の光を受けて、曖昧に輝くペンダントはどこか妖しくも不思議な雰囲気を纏っていた。
「気づいたら持っていたの」
「そっか」
思えば、他人と話すのはかなり久しかった。近所に住むイルファという夫人なら、つい先日野菜を分けてもらったばかりだが、彼女を他人と言うのは少々差異が生じる。
本当に自身は会話というスキルが欠如しているのだと痛感する。促して自身も隣に座ったソファの上で、呆れる程の沈黙が流れる。
彼女も彼女で、あまり会話が好きではないのだろうか。いや、それは違う。
記憶を失っている、それが真実か定かではないが、事実と仮定して、何もわからない状態で、目が覚めたら名前も知らない人間の、それも男の家にいる。警戒して当然だ。
そもそも、ノア自身、この状況をよく理解していなかった。人が倒れていて助けるのは、根本として当然としておく。しかし、しかしだ、果たして本当に自分でなければならなかったのか? それこそイルファなどの女性、或いは医者にでも連れていくべきだったのでは? いや、その道は外傷がなかったという事実でとりあえずは消える。
今からでも連れていくべきか? 少なくとも、ノアのような少年と無言の空間で過ごすよりはマシなはずだ。違う、それでは彼女の不安要素を増やすだけ――
「――ノア坊!! いるのかい?」
「「っ!?」」
インネが肩を跳ねがらせ、カップの液体が少し零れる。ノアは玄関に視線をやり、誰の乱入かを確信した。
救いが来た。
随分と無責任な思考の中、ノアは玄関の扉を開ける。
「アンタ、女の子を連れこんだんだって!? 港のオヤジが遠目に見たって――!?」
丸みを帯びたふくよかな身体に、気難しそうな顔立ち。茶色いシミの目立つエプロンをかけた女性。ノアの理解者の一人であり、何かと気にかけてくれる人、イルファだ。
「イルファさん」
「もしかしてそこのお嬢ちゃん!? いやぁあんたも隅に置けないなぁ、軍を抜けて越してきたって挨拶に来た頃は、そのまま独り身で逝くんじゃねえかと心配したよ」
「いや……あの、彼女はそうじゃなくて……」
「あたしイルファってんだ、ここのすぐ近くに息子と旦那と暮らしてんだ、困ったことがあったらいいな! 面倒見てやるよ」
ずかずか部屋に入っていき、カップを握り占めたまま硬直するインネの頭をポンポンと軽く叩く。
「イルファさん、彼女は記憶喪失で、岸で倒れていたんです」
「そうなのかい!? ノア坊……アンタ、弱みに付け込むなんて」
「違いますって! とりあえずその考えから離れて下さい!」
「ふふっ」
少々理不尽な勘違いにノアが抗議していると、背後から可愛らしい、しかし少し掠れた声が聞こえた。
「……?」
振り向いて、ノアは首を傾げる。インネが笑っていた、口元を隠すようにして、右手を持ち上げて、先ほどまでの暗い表情を消していた。
「あ……ごめんなさい」
「いや、いいけど。その、君もそんな顔するんだ……」
口をついて出たのは、そんな、侮辱とも思える言葉。しかし、ノアは無意識かつ自然に発していた。それは、ある意味では珍しいことであった。ノアは、普通言葉にする前に一度脳内で思考する。相手の反応を見当をして、会話に挑む。それは彼の処世術であり、サガでもあった。
それ故に、『帝国遊撃部隊隊長』という立場を任せられたのかもしれないが。彼は知る由もなかったが、寡黙で孤高な少年隊長は、部下から案外慕われていた。
とはいえ、しかし、それでも、少女に、それも記憶喪失という状態の彼女に向けて放つ言葉ではなかった。
「……! あ、いや、そういう意味じゃなくて……ごめん」
気づき、訂正し、謝罪。真面目なノアらしい流れ。だが、当のインネは、気にしている様子はなかった。
「……いいよ、気にしてないから」
「……なんだお二人さん、ぎこちないね?」
それを見て、イルファがまた余計なことを言う。そろそろ頭痛がしてきそうで、ノアは彼女を押し戻して、玄関付近へと。存外、救いにならなかった。
「イルファさん、とにかく、彼女と僕は何もないですし、そろそろ帰ってください。また野菜が余ったらいただきますから」
「なぁにもらう前提で話してんだノア坊。まあ、押し付け先が減るのは困るからね……」
「なんです? まだ何か?」
言いきらない内に、イルファが一点を見つめ始める。一体何なんだ、インネも居る、これ以上彼女を混乱させたくはない。本来なら彼女を一人にして、少し時間を与えるのがいいのだろうが、生憎このクスタは町は静かだが人がやかましい。
ノアが数日家を空けるか。そもそも彼女の意見を聞かなくては、今彼女はものを自由に言える立場ではないだろう。それを利用してノアが意見を押し付けるのも最低だ。
「インネちゃん、だっけ? それ、ノア坊から借りたのかい?」
そんなノアを無視して、イルファは人差し指をインネに向けて、怪訝そうに眉を顰めた。
何が言いたいのだろうか、別に、サイズが小さいから窮屈、というわけでもないだろう。そもそも少し大きいくらいだ。しっかり洗濯もしてある、まさか戦闘の後の汗臭い状態の物を貸すわけがない。それはノア自身が御免だ。
「はい……何か?」
当のインネも、不思議そうに首を傾げている。腕を持ちあげて、少し余った袖が揺れる。可愛らしい、というのだろうか、それらの物に無縁だったノアは、自身の抱いた感想が正しいのか疑問だった。しかし彼にそれを確認する術はない。そもそも、確認するつもりもなかった。
「あのねえノア坊、女の子なんだから、もう少しマシな服を渡してやりなよ。軍服ってのは可哀そうさ、いくら元軍人たって、『七核』だろう? 普通の服はないのかい? 金はあるだろう」
「……僕が必要じゃなかったから。そもそも、僕は私服なんて持ってないですし」
ノアが首を振って告げる。当然だと言外に伝えると、眼前の女性は頭を抱えるようにため息を吐いた。
「インネ、ちょっと来な」
かと思えば、またも部屋にズカズカと足を踏み入れ、次の瞬間にはインネの腕を掴んでいた。
「え……?」
困惑した様子のインネは、イルファに握り込まれた自身の右腕を煩わしそうに見つめている。しかし気にする素振りのない恰幅の良い女性は、強引にインネを玄関外へと連れ出した。
「ちょっと! 彼女はまだ目覚めたばかりで……!」
「だからだろう? ノア坊みたいな男より、アタシみたいなおばさんといる方がまだマシだっての」
「…………」
痛いところ、いや、そもそもの問題を突かれてノアはそれ以上口出しできなくなってしまった。腕を引かれるインネも、それほど嫌そうにはしていない。
結局、インネはイルファに連れらて行ってしまった。




