『祈憶姫』のインネ
「……ッ⁉︎」
懐かしい声の残響を追いかけて、インネは目を覚ました。聞き覚えのある声で、いつか聞いたお話。
知らないはずの何もかもに、言いようのない郷愁を覚える。
誰だ、一体誰だった?
声の主を記憶から引っ張り出そうとして、強烈な痛みが頭蓋を殴る。
とても、とても大切なものだったはずだ。忘れてはいけない、そんな使命感が、起き抜けの頭でも思考をやめさせない。必死に思い出そうと思考を巡らせて、思い出せなくて、ぼやけた視界に首を傾げる。
「……?」
どうやらそれは、寝ぼけているだけではないようで、瞬きの後には頬に温度が伝っていた。
慌てて目元を拭って、そこでようやく合点がいく。あれは、『祈憶姫』の記憶なのではないか。記憶の片隅に残るそれが、どうしてか今呼び起こされたのではないか。
ただ、あの懐かしい声を、もう一度――
「――インネ?」
衣擦れの音で目を覚ましたのか、隣で寝ていたノアが訝しげにインネを見つめてくる。
そのまた隣で寝息を立てているアテナに片腕を抱き枕にされているため、大した身動きはとれないでいる。
「なんでもないの。夢を、見ただけ」
「……そう、もしかして、あの話?」
思い当たったことと照合して、ノアは気遣うように優しく問う。言われてみれば、それと繋がっているような気もする。
「隊長も、不安なんだ、きっと」
それは、インネも感じている。誰だって、これからのことを考えれば不安にもなる。だからこそ、インネの覚悟を、確かめたのだろう。
◇◇◇
数時間前、食事が終わり、仮眠の準備に入っていた頃。
「嬢ちゃん、ちょっといいか? みんなも聞いといてくれ」
それぞれの手を止めさせて、神妙な面持ちで地べたに座ったクロノス。呼ばれたインネも何事かと眉を顰める。
「一個、一個だけだ。聞いておきてぇことがある」
「なんですか?」
インネが頷くと、クロノスはそれまでの陽気な雰囲気を捨て、恭しく、頭を下げる。
「姫インネルナに、一つお聞きいたします。姫は、皇帝打倒の後、どうするお考えですか」
鋭く、そして低く。『姫守』のクロノスは問う。支える主の覚悟を、期待を寄せる姫君に、国を治めるその意思を。
インネは、重々しいその問いに、間を長くは開けなかった。それは、たまたまではない、既に、決めてあったことを、当然のように問われただけ。だからこそ、インネは宣言する。
「私は、何もわかりませんでした。何も知らない私を、それでもノアは助けてくれた。皆さんは、私を守ってくれた。……私に、皆さんに応える力があるなら、皇帝が間違っているなら――私が正す」
流れついた無知のインネ、ではなかった。クロノスが、ヴィルヘがその忠義を尽くすのは、気丈で、誰かに光を灯すと豪語する、古の姫君
『祈憶姫』だった。
「私の名前は、インネルナ・ヘルシャです」
「「――—ッ」」
そしてそれは、等しく、明確に、二人の忠義に答えたのだった。
◇◇◇
「君が覚悟を決めたなら……僕も、いつまでも止まってられない、か」
ぐりぐりと、胸元に垂れ下がる弾丸を弄りながら、ノアは自身を改める。
彼は、そこまでも自分を責めていく。あの夜聞いた話でも、今もなお。
ノア・クヴァルムという少年は、その双肩に、あまりに荷が重いほどのものを乗せている。
それは、軍を抜けたという事実程度では拭えるものではない。ノアの多くを、インネは知らない。いや、知らなかった。もう、知らないふりはできない。この眼で、記憶で、何を観たのか。それを、インネは思い出す。
それでも、彼の苦悩の一端。長く細い糸の先、糸くずを摘んだだけ。
だからインネも、彼に多くは語れない。彼がなぜ、今なお銃を手にしているかもわからない。でもインネは、力に、なりたい。
「ノアが、頑張るなら、私も手伝う。だから、一人で悩まないで」
「……インネ」
目を丸くしたノア、一瞬辛そうに顔を歪めた後、ゆるゆると首を振ると
「ありがとう」
一言、微笑みながら、そう紡いだ。




