『鶯』のアテナ
帝国の汚点。世界の掃き溜め。小さくか弱い少女には、そんな印象を覚えることすら難しい、埃まみれの場所。
二日に一度、投げ捨てられるように与えられる、カビの生えたパンだけが、唯一の食事。それを、さらに薄汚れた子供らで分けるのだから、あってないようなもの。泥まみれでくすんだ赤髪の隙間から、光の失った瞳を覗かせる。時折聞こえてくる罵声に身体を跳ねさせれば、次には銃声が響き渡る。
孤児院を公的には名乗っているこの場所は、実際には人売りの商品倉庫でしかなかった。その扱いは家畜のそれ、あるいはそれ以下かもしれない。
攫われたか、捨てられたかした幼い子供達を集め、放り込んでおく。奴隷の向かう先は決まって、貴族街に巣食う悪趣味な輩。奴隷で済めばいいが、それ以下の待遇も多々ある。
が、今は聖王国との戦争が激化しているため、貴族にもそんな余裕はない。自分の領地の価値を保つので手一杯だ。そんな政治的背景もあり、赤髪の少女はどこにも売り飛ばされずに豚箱で寝転がっている。
なぜここにいるのか、なぜ、自分は生まれたのか、何もかもわからない。もはや輪郭すら思い出せなくなった彼女を産んだ存在を脳裏に宿して、無駄なエネルギーを使わないように無心になる。
だがしかし、ある種の平穏は唐突に終わりを迎える。
「な⁉︎ てめッ――がぁ⁉︎」
(――ッ⁉︎)
聞き慣れた男の、聞き慣れない悲鳴を耳にして、少女はひゅっと息を吞む。何かが起こった。それだけは分かった。何か、これまでになかった何かが。混乱と動揺に支配され、恐怖に顔を歪ませた子供たちはその場で放心状態。しかし少女はチャンスを逃さなかった。部屋の隅、換気のための小窓、そこにはめ込まれた、もう錆びついてボロボロの格子に体当たり。派手な音が響き渡るが、部屋の外では銃声もなっていてもはやお構いなしだ。
肩に擦り傷を作りながら、やっとのことでぶち破る。転げるように外へ出れば、やいのやいのと組織の人間が怒号を上げていた。
それと同時に、凍てつくような眼光を迸らせて、ただひたすらにその全身を振るう少年が目に映る。
(……なに⁉)
絶好の脱出の機会、しかし、脚はそれ以上動かない。コンクリートの外壁で囲まれたこの孤児院を出るには、この動乱を利用するしかない。それなのに、身体は言うことを聞かず、視線は大人をなぎ倒し続ける少年を追いかける。
「隊長、あらかた片付きました。あとは後続に……え?」
(しまった)
換気口の前で固まる少女を見つけた少年は、続く筈だった報告を中断しその頭上に疑問符を浮かべた。少女は焦る、焦って走り出す。少年が言っていた、もうこの辺りに奴らはいないはずだ。しかし、少年は目にもとまらぬ速さで回り込み、あっという間に少女を追い詰める。
「待って、君は孤児院の子だよね?」
「……」
「ああそうか。僕はノア、ノア・クヴァルム。この孤児院を潰しに来た。だから逃げなくていい」
「……!」
「どうしたノア? っと、孤児の嬢ちゃんか。まだ中にもいるんだよな?」
奥から顔を出したのは、少女の何倍もある巨体に、太い腕を携えた男だった。右手に握った拳銃には、赤い液体が滴っている。
「おそらく。今の騒ぎで逃げてきたのかな、皆のいる所、わかる?」
「……向こう。奥の部屋」
「……! ありがとう、君はここで待ってて、後で別動隊が保護に――」
「――まって!」
思わず、少年の服を掴んでいた。自分でも、どうしてそうしたのか、よくわからない。それでも少女は、その裾を強く握っていた。
「……困ったな。師匠?」
「まあいいだろう。お前が懐かれるなんざ珍しいな」
以降、少女にはアテナという名が与えられ、二人の軍人の指導の下、彼女もまた軍人へと昇華する。それが、『鶯』の原点であり、今尚彼女を生かし続ける光であった。
◇◇◇
「つっても、馬鹿正直に鉄道使ったりはしねえよ」
そう肩を竦めたクロノス。人気の少ない路地などを伝い、なんとか地下鉄までやってきた一同。無論夜中、警備員の数人程度しかこの区画には配置されていない。ここから帝都までは直通の線路が敷かれている為、搭乗の資格がある者ならば簡単に向かうことができる。が、現在指名手配中にも等しい一行が車両に乗るわけにはいかないし、そもそもこの時間帯のダイアは組まれていない。だからこそ、というべきか、クロノスはここを選んだ。
「整備用の地下トンネルがある。……まあ、軍に居たんならわかるだろうが、ありゃフェイクだ。本来は軍用の地下通路、帝都から外まで直通のな」
進軍用に鉄道とは別に掘られた地下通路。本来はこの通路も車両で行き来するような代物だ。表向きには整備用となっているこの空間も、元軍人が四人も居ればただの裏道と変わらない。
とは言え、相手がこれを想定していないとも限らない。だが果たして、帝国側にこちらの意図が理解できるだろうか。
「そういえば、皇帝は僕らの動きは分かってるんでしょうか?」
「さあな、嬢ちゃんの石で居場所が筒抜けなら、大方は分かってんだろ。それに、ここまで歩いて敵一人でてこねえってのも妙な話だ。……まあ、罠だろうな」
「それを、踏み壊すのが隊長でしょう。……このまま帝都まで行けたとしたら、もう決まりですね」
「だろうな」
「……?」
頷きあう二人の背後で、会話についていけないインネが小首を傾げる。すぐに、そばを歩くヴィルヘが補足する。
「残りの『七核』を、分散させることなく、全て我々にぶつけてくる。そういうことです。姫様、これまで以上にご注意を」
「にしても、こんな老骨で出向くことになるとは思わなんだ」
「ドニ爺、そりゃねえだろ。やる気満々に自分用の銃拵えてんじゃねえか」
部隊の機動力には影響するものの、外すことができなかったのがドニだ。彼の投入は最後まで検討された。が、苦渋の決断の上、参加することになった。一つはガンスミスとしての役割。ノアの特殊な拳銃は、最悪の場合整備が必要になる。そして、『祈憶姫』インネのお守り役だ。ヴィルヘも貴重な戦力の一人、彼女にインネを任せれば、その分動きにくくなる。最低限彼女を守ることができる人材として、彼が抜擢されたわけだ。自分では老骨などと嘆いているが、あれで彼は前線で活躍していた兵士の一端。途中からガンスミスへと職を変え、名を上げたのが真相だ。
元軍人や市民の寄せ集めである『アンタレス』。従軍経験、戦闘経験のあるものは少なく、その中で腕利
きを探すのは困難。そして、彼らは彼らで戦力が必要。結果、このメンバーで決定した。
「そういやノア、あの弾を撃ったんじゃとな?」
ドニ作の高威力弾。『鷲』との闘いで初めて使った代物。恐ろしい程の威力だったが、思えばデメリットが存在したはずだ。
「渡した手前でなんじゃが、あともって五回じゃ。それ以上撃つとそいつが吹っ飛びかねんからな」
「わかってるよ。少なくとも、『七核』以外では早々使わない」
それに、あの弾は実弾だ。本来ノアは撃てないはずの物だった。それが、人に向けていないという条件、そして、戦闘時の興奮状態で一時的に撃つことができただけの話。次、即座に撃てるかどうかわからない。
「にしても、とんでもねえもん作るな、相変わらず」
「なんじゃ不満か? クロ坊にはそっちをやったじゃうて」
顎で示して鼻を鳴らす。クロノスの腰に下がっているのは、帝国正式採用拳銃グレイゴーグだ。初期型のロングバレルタイプ。この時期の物は別時期と比べ質が良く、命中精度に優れている。が、彼の銃はそれだけではない。名匠ドニ・バールの手が加えられ、隅から隅までカスタム品。全てクロノスの趣味嗜好、掌に合うよう調整されている。大雑把な性格の彼の為、リアサイトまで大きく、感覚射撃用に変更されている。
「いや、コイツは一級品だけどな、そんな危ねえ弾いつ作ってたんだ?」
「実際役に立ったろう。備えあれば憂いなしじゃよ」
得意げに言って見せる老人は、そのままツカツカと歩みを進めてしまう。それに肩をすくめたクロノスは「恐ろしいこって」とため息をつくだけだった。




