07.ふたつのキャラメル②
お茶の時間の後、グレンヴェインはひとりで黙々と仕事をしていた。
ステラは、先程の同盟強化の表明の件で外務大臣に会いに行ったっきりである。
(あの文章は外務大臣もなかなかにこだわりを持っていそうであった。姫も、そう早くは帰ってこないだろう……。今日も遅くまで仕事になりそうだ。)
そう思いながら、グレンヴェインのペンがふいに止まる。
脳裏に、机越しに手を伸ばし合い触れた、ステラの指先の感触が唐突に蘇った。
姫の指先の柔らかさ、嬉しそうに揺らめいた薄紫の瞳。
仕事をしているとき、剣の稽古に励むとき。
あの日以来、ほんの少し気を緩めただけで、その記憶は波のようにグレンヴェインの思考に入り込む。
グレンヴェインは一息つくと、ペンを置いて瞳を閉じた。
(今思えば、新年の挨拶で遠目に見た、光がこぼれ落ちるような輝きを放つ彼女は、彼女の真実からは最も遠いところにある姿だ。
遠くにいたからこそ、輝いて見えたとも言える。
間近で接するようになれば、明るい中にも、あの細い肩にどれほど多くのものを背負っていることか……。)
それに気づいてから、グレンヴェインは一層、彼女をいじましく感じるようになった。
(そのせいで、つい姫を甘やかしてしまう。
自覚はあるが……。)
さすがにこんなことをしたら嫌がられるだろうか?と思うものの、なんだかんだ受け入れるステラを見ていると、グレンヴェインも、まだもう少し甘やかしても良いのだろうか……?と思えてしまう。
その曖昧な攻防は、二人の間でしばらく前から続いていた。
(これは危険だ。今までのように全ての感情を抑えて生きるよりも、よほど難しい。
必要な感情と、認めてはいけない感情を分けて制御するしなくてはならないのだから。)
グレンヴェインの眉にシワがよる。
(そうだ、私がなんのためにこの城に召喚されたのか忘れてはならない。宰相として、護衛騎士としての役割をしっかりと再認識しなくては……。)
しかし、そうグレンヴェインが、踏み留まろうとする時、その壁を簡単に超えてくるのはむしろ、ステラであった。
大臣の部屋に行く前の、嬉しそうな姫の言葉を思い出す。
「グレンヴェイン。ふふふ~。いいものをあげます。これはねぇ、すっごく美味しいキャラメルです。城のパティシエが時々作ってくれるのですよ~。あと三粒しかないのですが、グレンヴェインにも、今回は一粒だけあげますね。なにか、いいことがあった時に大事に食べてくださいね。」
その言葉を思いながら、執務机の脇に置かれた小さな包み開けて、口に放り込む。
そして、あっ、と小さな声を上げた。
(いいこと……いや。こうして日々姫の隣に控え、褒美の飴を貰ったことが良いことなのだ、それでいいはずだ。)
誰に聞かれてもいないのに、グレンヴェインはそう自分を納得させた。
その飴を舌の上で転がすと、蕩けるような甘い風味と共に、一足先にこのキャラメルを食べていた彼女の、蕩ける微笑みが思い出される。
「あぁ~甘くて美味しいです~、濃厚でクリームいっぱいで、お口の中ですぐに蕩けます……いくらでも食べられます。はぁ。でも、あとふたつしかない。大事に大事に食べなくては。」
そう言いながら、その直後にもうひとつ食べていた。
なんて堪え性のない方だ、とグレンヴェインが思った瞬間、ふと笑みがこぼれる。
(なぜそんな他愛もない彼女の行動や言葉が、こんなにも胸を掴んで離さないのか。本当に無邪気で愛らしくて──)
グレンヴェインは、そこまで考えると、おもむろに椅子から立ち上がり、何かに取り憑かれたように執務室の窓を次々と開け放った。
春先にしては珍しいほどの冷たい空気が執務室に一気に流れ込む。
グレンヴェインの髪を強く跳ね上げた冷気は、そのまま部屋を一周し、最後は暖炉の火を弱々しく萎めた。
グレンヴェインは口の中に残っていたキャラメルを無理やり飲み込む。
そして何度か深呼吸して、軍服の襟を整えると椅子に腰かけた。
「まずい、集中しなくては。」
昼もすぎたというのに、彼の机の上には未確認の書類が山と積まれている。予定の半分ほどしか進んでいなかった。
冷たい指で大量の書類に次々とペンを走らせた。
その背中には、これまでの冷静沈着な彼からは想像できないほどの戸惑いが滲んでいた。
主人であるステラに心乱されていく、自分自身への戸惑いが……。
こういう時に限って、またしても、以前ステラに触れた指先がちりちりとひりつく。
(姫に忠誠を誓ったことを思い出すのだ。これからも、彼女の求める"信頼"に応えることに集中しよう。しかし──絶対に主従の一線は超えてはいけない。)
グレンヴェインには、それが、これまでに北の城塞で任務に当たったどんなに厳しい作戦よりも、はるかに上を行く無理難題に思えた。
ステラが執務室に戻って来たのは、それからしばらくした頃。
「はぁ、大変な会議でした──えっ……どうしたのですか、この部屋。」
グレンヴェインが顔を上げるより早く、ステラの声が、室内の異変に戸惑いをにじませていた。
開け放たれたすべての窓。冷えた空気にはためくカーテン。暖炉の火はしおれ、灰が舞っている。
あまりの部屋の寒さに目を丸くする姫。
なぜこんな日に窓を開けているのかと困惑する。
「あぁ、姫。お戻りですか。失礼しました、私は少し涼しい方が快適なもので。」
グレンヴェインは何食わぬ顔で執務机から立ち上がると、丁寧な所作で窓を閉じて回り、暖炉の火にふいごを当てて火を起こす。
姫がぽかんと見つめるのも気にせず、そのまま机に座り、分厚い書類を読みふけった。
(グレンは北の城塞で暮らしていたのよね。寒い国育ちの人ってそうなのかしら……。ペンギンみたいだわ。)
訝しげな視線を注ぐステラを無視しきれないグレンヴェインは、それでも何事も無かったように振る舞う。
「申し訳ありません、暖炉が温まるまでお待ちください。それとも、ブランケットや暖かい紅茶を用意させましょうか?」
「い、いえ。大丈夫。そこまでではないから。」
ステラはキツネに摘まれたような顔をして自分の机に座ると、グレンヴェインにあげたキャラメルの包み紙が開かれていることに気づく。
「グレン、なにかいいこと、ありましたか?」
両手で頬ずえをついて、にやにやと興味津々のステラ。
グレンヴェインは答えを少し考える。
特に理由もなく食べた、と伝えるにはあまりに素っ気ない気がして、
「……毎日、あなたの隣で共に過ごせる。これ以上に喜ばしい事などあるでしょうか。」
思ったよりも出てしまった本音。
それだけではない、その顔と声が想像以上に緩んでしまったことを、グレンヴェインは感じた。
心の底からじわりと滲み出る温かい感情を、彼は口元を手で抑えて押し込める。
(今の顔。姫に気づかれてしまっただろうか……?)
視線を逸らしつつも横目で彼女を見れば
「……グレン、またそんな甘いこと言って。私で遊んでいるのですか?」
「いえ、姫。遊んではおりません。嘘ではございません……。」
「なっ、なんてこと言うのですか……。」
グレンヴェインが取り繕うようにそう言えば、それはむしろ、ステラへの想いを認める言葉となってしまう。
(もう。グレンってば。キャラメルをあげたのは、いつも頑張ってくれるお礼くらいの軽い気持ちだったのに……。)
ステラのどこかくすぐったそうな、そらされた瞳。目元までほのかに染まった照れた頬。
グレンヴェインの視線は、痛いほどステラに刺さって、彼女はどうしたら良いか分からないという顔をして、自分の机の引き出しの一番上を開ける。
「……もう。そんなにじっと見ないでください。もう一粒だけ、あげますから。」
グレンヴェインの机の端に、控えめに置かれた一粒のキャラメル。
「特別ですからね、グレン。今のは……おまけです。」
たった一粒のキャラメルを、彼はじっと見つめた。
その彼の胸に去来するのは、これ以上ない甘さと、温かさと、ほんの少しの確かな恐ろしさ。
そっと彼女の顔をみあげれば、「もう、こっち、見ないでください。」とぷいとそっぽを向かれた。
(あぁ、しかし。こんなにも愛らしい姫の反応を見られるのは、自分だけの特権ではなかろうか。誰にも見せたくない。──これを平然と堪えろというのは、神に逆らうようなものだ。)
グレンヴェインの苦悩は、日々深まるばかりだった。