06.ふたつのキャラメル①
「へぇ、姫様と宰相、時々午後にどこか行っちゃうのは読書会をしてたのですね。さすが、おふたりとも勉強熱心ですね~!」
新人メイドのミレイユが、寝る前にステラの髪をとかしながら、ステラの話に驚いた。
「私はてっきりおふたりでデートしてるのだと思ってました!」
若さゆえに元気よく思ったことを口にするミレイユ。
彼女の興味津々な瞳をドレッサーの鏡越しに感じて、ステラは目を閉じた。
「そ、そんなことしておりません……。先日もグレンヴェインが選んだ『地政学的見地から考える海洋国家の軍事防衛』という本について意見を交わしました。」
「えっ!姫様、そんな難しい本を……。私、一ページで寝てしまいそうです。すごいです。」
「国を預かるとはそういうことなのですよ、ミレイユ。」
ステラは咳払いをする。ウサギとクマのことなど知らないミレイユは、ステラのその様子に尊敬を抱いた。
「宰相、前は怖くて無口で何を考えてるか分からなかったけど、最近は変わりましたよね。宰相のお部屋に出入りしてるメイドが仕事がしやすくなってきたって喜んでました!」
「えっ、それは本当ですか」
ステラが身を乗り出すと、梳かしていた髪がつられて、ミレイユは「あぁ、姫様。いきなり動かれると……」と慌てる。
「ええ、前は機械みたいだったのに、最近はお礼や一言声をかけてくれくださることもあって、すごく変わったと。
それに先月の王室広報は、グレンヴェイン宰相の特集でしたけど、あまりに人気で増刷になったそうです。国民にも雰囲気の変化が伝わっているのかも。」
「そんなことが……でも、グレンが色々な人と良い関係を作れてるようで安心です。」
「……え?私は、姫様にはもっと優しいんじゃないかって思ってました。違うのですか?」
「え?えぇ。そうですね。私達は仕事の関係ですからメイド達とは違うのです。適切な一線を引いて過ごしておりますよ。」
「わぁ、なんか大人の関係って感じです!」
ミレイユの無邪気な反応に、ステラは内心慌てる。
(そ、そんな私だけ無愛想なままなわけないでしょう……ただ、思ったよりおかしな方向になってますが……)
日々、同じ部屋で同じ時間をすごし、読書や仕事を通して、お互いの好きなことや苦手なことが分かってくると、互いの距離感も少しずつ変化する。
そのなかでステラが気づいた、グレンヴェインの、ひとつの変化。
それは、執務室で仕事をしている時──グレンヴェインがステラの世話を焼きたがること、である。
(人前では威厳ある宰相なのに、二人きりだとグレンヴェインが全然違うこと。誰にも信じて貰えないと思います。
私と二人の時はもはやお姫様扱いです。……まぁ、実際そうなのですけど。)
思わず自分で突っ込む。
(読書会で、私が選んだ『貴族社会のルールとマナー 初めてでも安心!今日からできる紳士淑女の振るまい』を読んで以来、ずっとそうです。
全ページ、一字一句暗記したように、彼の所作は変わりました。
これから先、彼にも色々なお仕事があると思って課題本に選びましたが……まさかこんなことになるとは。)
ステラはミレイユに髪を整えてもらうと、私室を出て執務室に向かう。
ちょうど廊下の角でグレンヴェインとばったり会い、そのまま二人で執務室に向かった。
「おはようございます、姫。今日も麗しく。」
「おはよう、アダム。今日もよろしくお願いしますね。」
そう答えると、グレンヴェインはあたり前のような顔で、ステラの腰に軽く手を当てて並んで歩き出す。
(前は数歩前をぎこちなく歩いていたのに……。すごい変わりようです。)
そうして執務室に着けば、ステラの椅子を引いて彼女を座らせ、ステラの机のインクの蓋を軽く緩めると、
窓辺のカーテンを少しだけ閉じて、ステラの顔に日差しが当たらないよう調整した。
特にそうして欲しいと頼んだ訳ではない。
彼は、ステラがインクの蓋が開かずに悪戦苦闘したり、光の眩しさに時々目を擦る細かい行動をよく見ていて、それがいつの間にか、彼の日課に組み込まれていた。
「……あの。グレン、それぞれお仕事もあるし、そんなに気を遣わなくても良いのですよ。」
「とんでもない。セレスティアの姫に仕えるものとして、紳士的な振る舞いは大切だと思いますから。」
(た、確かにそう言われると、そうかも……。マナーのない軍人さんは貴族社会では特に煙たがられますからね……。いえ、私、グレンに洗脳されてませんか?!本当にこんな世話を焼かれ放題の生活で良いのでしょうか?)
ステラは、書類に目を通しながら、そんなもやもやと格闘した。
「姫、そろそろお茶になさいませんか?」
気づけば時計は昼下がり。
その日は忙しく、二人とも、執務室のソファに用意されたお茶を飲みながら資料を確認することになってしまった。
「はぁ。今日のおやつは、せっかくのクリームケーキなのに、お仕事をしながらなんてお行儀が悪いです……。」
「姫、確認もあと少しですから、ここだけ済ませてしまいましょう。」
二人で既に冷めきった紅茶を飲みながら、グレンヴェインは、てきぱきと資料の確認を進める。
ステラはカフェテーブル上に置かれたケーキをお預けされながらも、ソファで膝に資料を広げた。
「グレンは、十ページの他国との同盟強化に関する表明の文章は、このままで良いと思いますか?私は気になりませんが……グレンは、少し引っかかるのではと思って。」
「……そうですね。おっしゃる通りです。実態としては同盟を強く押し進める状況ではありません。ただ、表向きそれを表明で匂わせるのは良くないでしょう。」
日々過ごすうち、彼が仕事をする上で気になりそうな所が読めるようになってきたことを、それをステラは内心喜んでいた。
思わず口の端が緩み、我慢できずに、目の前のクリームケーキをひとくち食べる。
「意見をありがとう、グレン。他にも気になるところがあるので、この表明文章は、私と外務大臣で相談しておきますね。」
「承知しました、私はその間に、内務大臣との議案を片付けておきます。」
グレンヴェインは、そう言って書類を閉じると、ハンカチを取り出して、当たり前のような顔でステラの頬を拭く。
「姫、お口元にクリームが着いておりますよ……。」
「んん~、わたし、そんな子供じゃないです……。」
むにゅむにゅ、とステラの柔らかい頬がグレンヴェインのハンカチで撫でられる。
「姫は二つのことを一度にやると大体こうですね……。」
グレンヴェインのぐさりと刺さる指摘に、ステラが唇を尖らせると、
「──姫、そんな可愛い顔をして抗議してもダメですよ。」
彼は、慣れた様子でステラをたしなめながら、ハンカチをしまう。
ステラは、彼のその振る舞いを訝しげに見つめて
「グレン、最近、変わったと言われませんか?メイド達の間でも評判だそうです。」
その言葉に彼の紅茶カップを持つ手がぴくり、と止まる。咳払いをして姿勢を整えると、
「……あまり良くないでしょうか?私なりに、姫や周りのものへ配慮や心配りをしているつもりなのですが。」
「いえ、良い方向の変化ですが……変化が急だから。私も少し驚いています。」
「そうですか。実は、最近、どれほど自分の意思を抑えて生きていたのか、と驚くことが多いのです。……姫との柔らかく温かな日々が、私の様々な感情を呼び覚まし、私自身を変えてくださったのだと感謝しております。」
変化が、他人の目にも分かるようになってきた──それはグレンヴェインにとって少し気恥ずかしくもあったが、目の前にいる自分を変えた存在への感謝が勝っていた。
一方、ステラは突然にグレンヴェインの真摯な感謝を述べられて瞳を泳がせたじろぐ。
(そう感謝されてしまうと、さすがに『過保護過ぎませんか?』とは言いにくいです……。
とりあえず過保護すぎることへの指摘はまたにしまょう。)
近いうちに必ず言おうと思っていた言葉を、ステラはそっと自分の背後に押しやった。
彼なりの成長や変化を摘み取りたくなかったのだ。
「姫には何かお考えがあるようですね。以前のように、周囲と事務的に振るう宰相として好ましいでしょうか。姫のご希望でしたら、今からでも、そのようにしましょう。」
大きな犬が耳を下げてご主人様の様子を伺うような仕草に
「だ、大丈夫。みんな、今のグレンの方が好きなみたいだし、私もグレンが心地よいように過ごしてもらう方が嬉しいです……。」
ステラが視線を逸らしながらそう告げると、グレンヴェインの背後にある見えないしっぽが嬉しそうに揺れた。
その姿を見て、ステラはふいに、食べかけのケーキを見つめた。
(この先、気づいた時には、このケーキさえグレンに食べさせてもらってそうです。恐ろしい人です……グレン……。)