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04.二人の執務室


「グレンの机は立派でかっこいいですね。これで執務も捗りますねぇ。」


ステラは、執務室に運び込まれた重厚な机に嬉しそうに目を輝かせた。

ステラ専用の執務室に、グレンヴェインの机が運び込まれた、その日。

彼女はいたくご機嫌で、引越しが終わると彼に可愛らしい小さなクッキー缶を差し出した。


「引越し祝いです!これから同じ部屋でお仕事することになって嬉しいです。」

「お気遣い、ありがとうございます。後でお茶の時間に頂きましょうか。」


グレンヴェインは特にお菓子を好まないが、これも彼女なりの親愛の印と思えば、口の端が緩む。


ステラの執務室にグレンヴェインの机を置くことになったのは数日前のこと。

内務大臣が丸まった腰を叩きながら、よぼよぼと呟いた言葉がきっかけだった。


「姫の執務室は、我々と同じ城の南側ですが、グレンヴェインの執務室は軍のある西側。老いぼれには、行き来が大変でしての。」

「たしかに、姫をお守りする立場からも、私の執務室は姫と近い方が好ましいでしょう……。ちょうど、姫の執務室の隣が空き部屋ですね。」

「いやぁ、グレンヴェイン宰相。それでしたら、姫の執務室に宰相の机を運びましょう。我々大臣もおふたりが一緒の方が、意見も交わしやすくて助かります。どうですかの。」


そんな内務大臣の、『それぞれに同じ話をするのが大変』という裏の思惑の元、あれよあれよと引越しの話は進み、二人は同じ部屋で仕事をすることになった。

(主と臣下が同じ部屋で仕事など……。良いのだろうか?)

内心グレンヴェインはそう思っていたが、子犬のように喜ぶステラを思えば、わざわざ水を指す必要も無いか、と彼は満更でも無い顔で息を吐く。

荷運びの使用人達が部屋を後にし二人きりになると、グレンヴェインはまじまじ執務室を眺める。

彼の机は、ステラの机に直角に接する形で──椅子に座れば、互いの横顔がすぐそこに見えるだろう配置にされている。

(この配置はどうなのだ?

初めの配置計画ではお互いの机はもっと離れていたはず。合理性のためとはいえ、あまりに近い。)

試しに彼が腰掛けると、ステラもそれに気づいて、とととっと自分の執務机に腰かける。


「グレンとこんなに近いのですね!これでいつでも相談事ができますね~。

──ねぇ、手を伸ばしてください。この距離なら、届くかも!」


左前にいるグレンヴェインに指先を差し出した。

その白く細い繊細な指に、グレンの視線が一瞬、絡めとられる。

(私は彼女を支える宰相として、感情を排し、冷静な道標であるべきだ……。にもかかわらず、手を伸ばせば届くこの状況は、果たして良いのか?)


「ねぇ!グレン。手を伸ばしてみてください。座ったまま書類を受け渡せるのではないでしょうか?!」


机の端に身を乗り出し、ひらひらと手を差し出す彼女を一瞥して、彼はため息を着く。


「そうですね。私の腕の長さであれば、姫の指先に届くでしょう。しかし、そんな横着をせずとも私をお呼びいただければそれで十分ですよ。」


当たり前のようにそう返すと、積み上がった書簡や書類を確認しだすグレンヴェイン。

ステラの伸ばした指先は、誰の指先とも交わることなく少し寂しそうに膝の上に戻される。

(城下町で少し仲良くなれたと思ったけれど。……いえ、グレンにはグレンの人との距離感があるのでしょう。)

ふと視線を落とせば、目の前に決裁待ちの書類が溜まっていて、慌ててペンにインクを染み込ませるステラ。

しばらくすれば、広い執務室には、二人がペンを走らせる音と、ペタペタとたくさんの紙に判を押す音、書類をめくる音しかしなくなった。

(……この決裁、このまま判を押して良いでしょうか。少し見積もりが甘いような。)

ステラがグレンヴェインに意見を求めようかと顔を上げた。

彼は白い皮手袋をはめた長い指を顎に添え、気難しそうに書類を眺めている。

彼の焦げ茶の髪が、窓の柔らかな日差しに透けて、時折、金色に輝く。

その様子に思わず見入ってしまうステラ。

(こうして見ると、グレンは絵になりますねぇ。なにより、とげとげした感じが減りました。

……そういえば、任命式の日はあんなに二人きりでいるのが嫌だったけど、今は気になりません。)

彼はしばらくステラが自分を見つめていることに気づいていた。話しかけてくるかと思えばそうでもなく、次第にじっと観察されることに居心地が悪くなる。

仕事をしているだけで、なぜこんなに気恥ずかしくなるのかと、日頃の軍の任務とは違った妙な感覚を彼は処理しきれない。


「姫。そんなに見つめられたら穴が開きます。遠慮なさらずお声がけ下さい。」

「えっ!?あ、あの。」


見ていたことを気づかれて資料を落としそうになるステラ。

彼はさして気にしていない風を装い、さっと軍服を整えるとステラの横に控えた。

じっと見つめていた気まずさと、それに気づいていた事を打ち明けてしまった気恥ずかしさに、二人の会話は、お互い妙に事務的なぎこちなさを漂わせる。


「ご要件は?この決裁に何か問題でも?」

「あっ、この港の改修工事、見積もりは大丈夫だと思いますか?最近、工事の追加予算の請求が多いので……」

「あぁ。この決裁ですか。確かに私も気になっていました。第三、四半期の支出が楽観的すぎるかと。」

「予算の再提出はいつまでがよろしいでしょう?来週で問題ありませんか?」

「はい、助かります。」


彼はステラから資料を受け取ると、書類に事務官への修正依頼の伝言をすらすらと書き残して、


「ほかのお仕事でお困りのことは?」

「大丈夫です。……まだ着任したばかりなのに、色々と確認してくれてありがとう。」

「いえ、これも宰相としての務めですから。」


それでも二人の間にある妙な気まずさに、グレンヴェインは自分の椅子に腰掛けると、机に肘をつき額を撫でた。

小さなため息が、しんとした二人だけの執務室に嫌に響く。


「あ、失礼しました。姫に対しての不満ではなく……緊張するものですね、二人きりというのは。」


ふいに、グレンヴェインはステラの方を見て微笑んだ。

珍しく眉を下げた気まずそうな苦笑いだった。

それでもステラにとっては、今まで見た彼の表情中でいちばん自然に感じられ、彼の思いもよらないふわりとした微笑みに、思わず椅子の肘掛をぎゅっと握る。

嬉しいような、気恥しいような。

それを見られたらいけない気がして下を向くと、コンコン、と部屋の扉をノックする音が響く。


「姫様、執務中失礼いたします。お茶をお持ちしました。」


メイドのナンシーがワゴンに乗せた紅茶を運んでくる。

ステラは図らずも現れた、気まずい空気から救ってくれる救世主の登場に喜んだ。

時計を見ればもう昼下がりだ。


「ナンシー!待ってました。お茶が欲しかったのです。」

「えっ?そ、そうですか。」


毎日お茶を出しているのに、ステラの不思議な反応に疑問を感じつつも、ナンシーは執務室のソファテーブルに紅茶を並べる。

それから、ワゴンの下に載せていた小さな花瓶をとりだすと窓辺に飾った。


「姫様。エドガーから花を預かりましたので、こちらに置かせていただきますね。今日はメッセージカードもついてましたよ。」


その声にステラは嬉しそうな顔をして窓辺に近寄る。


「今日のお話はひまわりですか。とても立派ですねぇ。メッセージカードは『ひまわりの花言葉は、あなただけを見ています、です。姫が今日も健やかに過ごされることを願っております。』……なるほど。ひまわりは、いつもお日様の方向を向いてるからでしょうか。勉強になります。」

「……姫、エドガーとは?」


グレンヴェインはナンシーが置いた花瓶を掴むと、花瓶の裏を確認した。

少し傾けて水を指に取り、質感や匂いを確認しながら、彼女に尋ねる。


「もう~、グレンは慎重ですねぇ。大丈夫ですよ、エドガーは城の見習い執事です。城の温室で育てた花を、こうして時々届けてくれるのですよ。」


ステラの言葉を聞きながら僅かに眉をひそめる。

贈り物に毒はなく、水の質も問題ないのに、グレンヴェインは妙な胸のざわめきを感じた。

そのざわめきの名前を、彼はまだしらない。

胸の中に引っかかりを感じながらも、普通の顔をして答えた。


「そうですか。……今度、私からもお礼を伝えましょう。」

「えぇ、グレンヴェイン宰相。エドガーも喜ぶと思います。さぁ、お二人とも。お紅茶が冷めないうちに。」


ナンシーはそう声をかけ、二人のカップに紅茶を注ぐ。

ステラはふかふかのソファに座ると、引越し祝いのクッキーをとりわけ皿に何枚か載せる。


「あら、姫様。このクッキー缶、もしかして城下町に新しく出来たお菓子屋さんのスパイスクッキーですか?大変な人気だと聞きましたが……」

「さすがナンシー!よく知ってますね。美味しいと聞いて、頑張って取り寄せました。グレンヴェインの執務室お引越し祝いなので! ふふふ~。」


自慢げに缶を見せるステラに、ナンシーのそばかすの頬が思わず緩む。

グレンヴェインは、その和気あいあいとしたやり取りを聴きながら、北の城塞にいた頃には考えられないような、穏やかな時間を一人噛み締めていた。

(北の城塞では、体温保持のために暖炉で雪を沸かした熱湯を一人飲んでいたな……。自分にとってのお茶会はあれしかない。この人生に、こんな温かな日々が存在することはいまだに夢のようだ。)

グレンヴェインは、皿に並べられた花や動物の形をした可愛らしいクッキーや、美しい柄の施されたティーセットを見つめた。

(食べられればどんな形をしていても良く、飲めればどんな器でも良いはず。けれど、これらには確かに意味がある。これを、人は豊かさと言うのか……。)


「さぁ、では私はこれで失礼しますね。楽しいお茶のお時間を。」


スカートを優雅に広げてお辞儀をして、部屋を後にするナンシー。


「姫は、随分メイドと仲がよろしいのですね。」

「ナンシーは特別ですよ。ナンシーのお母様がメイド長をしていて、子供の頃から一緒に遊んでたから。

十年くらい私の身の回りの世話をする係だったけれど、最近配置換えがあって、お城にいてもあまり会えないのよね。」


紅茶を少し口にして、寂しそうにクッキーをかじる姫。


「姫はこの城の主人です。ナンシーがそばにいることで落ち着くのなら、そのように人事を変えれば良いでしょう。私が命じましょうか?」

「……ナンシーは、前に話してくれたの。メイドの仕事がとても楽しくて、もっと色んなことが出来るようになりたいって。目をキラキラさせたその姿がとてもかっこ良くて。だから応援したかったのです。」


ステラは、少し黙ると、しんみりした空気を誤魔化すように笑い


「でもナンシーは、私のお世話係を卒業する日、私の髪を梳かしながらべちょべちょに泣いたのよ。私もつられてわんわん泣いて、なのに次の日ばったり会って、お互い逆に気まずかったわ。ふふふ。」


そう可笑しそうに付け加える。

そう聞くと、グレンヴェインは、ナンシーの淹れた紅茶がまた違った味わいに思えた。


「……なるほど。そうやって、優しく誰かの背中を押すことも、姫なりの"信頼"なのでしょうか。」


ステラは驚いたように瞬きをする。

グレンヴェインは、可愛らしい型取りのクッキーをしばらく見つめると、大切そうに口にした。

砂糖控えめの、シナモンやアニスの風味が漂うエキゾチックな味わいのそれは、甘党の彼女の好みとは思えず、彼女なりに考えて選んでくれたのだろうか、と心が温まる。


「姫は、お互いの信頼を深めるため、私のことを知りたいと仰ってましたね。しかし、私には姫のような、こうした豊かな生き方を知りません。

言葉では誓ったものの、私に、あなたの安全をお守りする以外、どんな"信頼"を交わせるのかと思う日々です……。」

「えっ……あのこと、そんなに真面目に考えててくれたのですか。」


ステラは意外そうな顔をして彼をのぞき込むと、もぐもぐと食べていたクッキーを飲み込んで。


「それはね、グレン。……すごく簡単です。まず、机のお椅子に座ってください。」


ステラはくすくす笑いながら、お茶会もほどほどに、自分の執務机に座った。

状況が呑み込めないグレンヴェインも、彼女の後に従い、おずおずと自分の椅子に腰掛ける。


「そしたら、私の方に手を伸ばして。」

「……?手を伸ばす?こうでしょうか?」

「はい、届くでしょうか?!」


椅子に座って机越しに手を伸ばし合うと、微妙に届かない。

ステラが少しだけ身を乗り出すと、二人の爪先が掠める程度に触れあった。


「あ、指が届きましたね!でも思ったより遠いです~。手を繋げるかなと思ったのに、二人分の机は意外と大きいですね。」


ステラはグレンヴェインの指先にしか届かなかったが、ちょんちょん、と何度も触れながら、無邪気な様子でそれを喜んだ。


「……これが、"信頼"???」


困惑するグレンヴェインに、ステラは大きな瞳をきらきらさせて頷く。


「そうです。私だって、こうして手を伸ばすのは勇気がいります。──グレンが応えてくれるって思うから、手を伸ばすのです。それは、信頼でしょう?」


彼はその言葉にハッとした。

(そうか、私はさっき、姫が私に伸ばした手を取らなかった……。)

グレンヴェインは、右手の革手袋を取ると、自然と身を乗り出していた。

二人の指先が絡むように触れ合い、彼の指先が、ステラの桜貝のような爪を優しく撫でる。


「先程は失礼しました──本当はあの時、こうするべきだったのですね。ありがとうございます、あなたのおかげでひとつ学びました。」

「ふふふ、そんな大袈裟ですよ。でも、二人で手を伸ばし合うと結構届きますね。嬉しいです。」


初めて彼が触れたステラの指は、しっとりと滑らかで、ほのかな温かさを秘めていて、ずっと撫でたくなるような触り心地だと思った。

ここで、今、机越しに手を触れ合わせることに、なんの意味もない。

そんなことはグレンヴェインにも分かっていた。

けれど今この瞬間が、彼女が以前、グレンヴェインに伝えた『薄い紙を重ねるような信頼の積み重ね』のその、ごく薄い一枚なのだと思うと、その触れ合う指先を、これ以上なく尊く感じた。


「もう~、グレン。そんなに撫でたら擽ったいですよ。ふふふふ。」

「そうですね、姫の手は大変に柔らかく絹のようで……つい。失礼致しました。」


名残惜しそうにグレンヴェインが手を離すと、革手袋をはめ直しながら、


「自分が手を伸ばして、喜んでくれる人がいるというのは、嬉しいものですね。

これからは、私からも姫に、いつでも手を差し出せるように努めていきます。」


グレンヴェインの琥珀色の瞳が、ステラを見つめて、とろけるように甘く緩む。

ステラは、そのグレンヴェインの柔らかな表情に、どんな反応をしたら良いのか分からず戸惑った。


「グレン。あんまり、そのお顔は人の前でしない方がいいと思います……。」

「失礼しました。やはり宰相たるもの、威厳は大事ですから、気を配ります。」

「……そうです。でも、私とふたりの時だけは良いと思います。」

「は、はい。姫のご指示とあれば……。」


ステラは少し唇を尖らせた。

彼は主人の奇妙な指示に意味を図りかねながらも、彼女のほのかに赤い頬に気づいて、悪いものを見たように目を逸らすしかない。

ふと時計を見れば、仕事終わりの時間をとっくにすぎて、ステラはいそいそと机を片付けだす。

彼女は仕事は丁寧だが、仕事終わりの片付けは爆速だ。


「今日はいい日でした。

執務室にグレンが引っ越してくるし、クッキーは美味しかったし、机に座ったままグレンにも手が届きましたね。……そうだ。宜しければ、今日のディナーは一緒に頂きませんか?」


その誘いを快く受け、彼も机の上に置いた書類を、引き出しの中にしまいだす。

しかし、その指は、まだステラの指先に触れた感触に囚われたままで、彼は不思議な心地の中にいた。

感情は静かなさざ波のように打ち寄せる。

しかし、その感情がまだ、彼は上手く理解できなかった。

ふわふわした曖昧な心地に包まれながら、何度も指先を確かめていた。


「グレン、今日のディナーはハンバーグですよ。実はさっき、シェフに目玉焼きも載せて欲しいとお願いしておきました。」

「では、冷めないうちに早くダイニングに行きましょう。」

「グレンはハンバーグはお好きですか?」


ディナーのアップグレードを自慢するステラに微笑むと、グレンヴェインは、初めて、歩く彼女の背中をそっと支えた。

そうして二人は、好きなハンバーグのソースや、軍の祝い事で出される巨大なハンバーグなど、他愛もないことを話しながらダイニングに向かう。


グレンヴェインは、彼女の横を歩きながら、ひとつ、覚えたばかりの幸せを、ゆっくりと胸に刻んでいた。




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