27.夜闇を駆ける早馬
「グレンヴェイン大将、セレスティアの城下町が不穏になっているとの知らせです。」
北の城塞の展望台でダコール帝国の斥候を監視していると、副官が慌てた様子で彼にそう耳打ちした。
覗き込んでいた手持ちの望遠鏡をすっと下げ、視線だけを副官に向ける。
「……あそこは特に治安がいいはずだが。原因は?」
「ステラ姫がメラルトへ婚約破棄を通告したそうです。その結果、メラルトからセレスティアに莫大な賠償金を請求されて、その事が国民に知れ渡り……」
グレンヴェインは呆然とし、そのまま望遠鏡を落としそうになった。
「婚約破棄は……いつの話だ?理由は?」
「こちらには今日知らせが入りました。婚約破棄は五日前のことで、賠償金請求はそのすぐあとの話だそうです。……婚約破棄の理由は、ステラ姫の決定としか……。」
北の城塞は、国土の中でもセレスティア王城から最も遠い土地にある。
早馬の知らせも十日かかることが多いなか、五日前の情報が入ることは珍しかった。
「その通達を今すぐこちらへ。確認したいことがある。」
副官にそう告げ、また斥候の様子を見つめたが、ステラが婚約破棄をしたという動揺に何も考えることが出来ない。
姫が熱を出した夜、二人で涙を流して別れを決めた。
姫はセレスティアを、私は北の城塞を守ると誓い合ったのに、なぜ今になって……。
驚きよりもステラに相当な事があったのだと察し、待っていられず副官の走っていった道を追いかけた。
「あぁ、グレンヴェイン大将。お待たせしました。こちらです。」
向かいから戻ってきた副官から一枚の紙を受け取ると、文章を読むこともなく裏返す。
そこには、インクのシミのような点と線がまばらに走って、グレンヴェインは目を凝らした。
『差出:メラルト国境
姫体調不良 セレスティア占領懸念
賠償金 10億ティア』
ネルケと自分だけがわかる暗号で全てを察した。
北の城塞は、メラルト首都とセレスティア王城の中間地点の北にある。
早く知らせるために、ネルケが城に戻る途中でこと手紙を出したのだろうと察した。
それよりも「姫体調不良 賠償金10億ティア」の文字に愕然とする。
姫の熱が下がらないままである様子も心が傷んだが、この賠償額は到底払える金額では無い。
一体なぜここまでの問題に……。
私達だけが別れれば、全て上手くいくと思っての決断だったはず……。
思考は止まらず、グレンヴェインは副官に通書と望遠鏡を押し付けると、早足で廊下を突き進んだ。
「私はこれから王城に戻る。二十日は帰らない。
ダコールの斥候を常に監視しろ。ただし、絶対にこちらから攻撃してはいけない。反撃も威嚇に止めろ、または同程度の反撃のみ許可する。」
早口でそう告げると、グレンヴェインは走って厩舎に駆け込み、迷いなく奥の一頭に手をかけた。
「サルトス。」
呼びかけに応じて、黒毛の馬が嘶き、小さく前足を鳴らす。 長年の相棒──戦地でも、宮廷でも、彼の沈黙を共に支えてきた馬だ。
鞍を手早くにかけながら、グレンヴェインは言葉を飲み込むように呟いた。
「……姫、私たちが望んだ別れが、この結末のためだったというなら──私は、従えない。」
馬のあばらに手をあて、たたき込むように腹帯を締めあげる。
最後の手綱を引き寄せると、サルトスはぶるん、と鼻息荒くグレンを振り返った。
「行くぞ。」
次の瞬間、馬は火を吹くように地を蹴った。
蹄が荒れた岩肌を叩き、地を裂くような音を残して城塞の外縁を駆け降りた。
どれほど風が目を刺しても、凍った空気が肺を裂いても、彼は馬の手網を緩めることはなかった。
グレンヴェインの目には、もう一人の姿しか映っていない。
──この命を賭しても、守りたかった姫。
紫水晶の瞳を宿した、愛する人のことだけを。
そして、北極星が瞬く北の空を背にして、
黒い影は、荒涼とした山岳地帯を風のように駆け抜けた。
ステラへと続く道、その彼方へ──
その影は、静かに滲んでいく。
誰も、それを止めることはできなかった。
◆ ◆ ◆
梟も寝静まる深夜。
ステラは、城門が軋む微かな音に目を覚ました。
この時間に門が動くことなど、滅多にない。
なんだろう、と思い、冷たい絨毯に足を下ろす。
理由は分からない。ただ、胸騒ぎがした。
カーテンの隙間から、遠くの城門が微かに開いているが見える。
馬に乗った人と門兵が何か話しているようだ。
黒い馬はそのまま城門を通り、その足を緩めながら静かに中庭に進んだ。
朧月にかかった雲が流れ、満月が顔を出し、月の光が、その人を静かに照らした。
絵画のように馬上で背筋を伸ばしたその人は、白い軍服を纏い、夜風にマントが揺れる。
ステラは目を見開く。
それが誰か、見間違えるはずがなかった。
ステラはナイトドレスのまま、夜の城を駆けた。
絹の裾がまとわりつき、室内履きが大理石にすべる。
転びかけた足をそのまま蹴り出し、息を乱しながら回廊を駆け下りた。
──今、走らなければ。いま、会わなければ、どう生きるというの。これは、私の選んだ人生なのだから。
静まり返った城の庭。
ただ、サルトスの吐く荒い鼻息だけが夜の空気を震わせていた。
馬は、長い距離を走りきった興奮の余韻に、土を蹄で叩いていたが──ふと、顔を上げると耳をぴんと立てて動きを止める。
グレンヴェインもそれに気づき、城の方角、闇の先へと目を凝らした。
そして──世界が止まった。
そこに現れたのは、白銀の月光に照らされ、ただ一心に走る彼女の姿。
風に透ける薄衣、素足に近い足音、揺れる金の髪。
それは幻想的で月の女神のようでさえあった。
自分の望み通りの幻影としか思えず、グレンヴェインの心臓が一拍、遅れて動いた。
「……姫。」
声にならない声を落とし、彼は馬から飛び降りる。
次の瞬間には、ステラが腕を広げて彼の胸に飛び込んだ。
抱きしめた細い腕、胸に響く鼓動、柔らかな髪の香り。
──確かに、彼女がここにいる。
叶わないと願いと諦めていた光が、いま、この腕の中にある。
その事実に、グレンヴェインは心の底から震えた。
「グレン……グレン……」 ステラは顔を埋め、こらえきれずに涙をこぼす。
「ごめんなさい。私、仮面の紳士様だと気づいてなくて。あなたが言い出せなかった気持ち、何も分かってなくて。」
グレンヴェインの胸の中で、泣きじゃくるステラ。
彼はその震えごと、優しく抱き締め直す。
そして、そっと、彼女の頬を指でなぞる。
「……手紙、読まれたのですか?」
彼の声も、またかすれていた。
「はい。読んだのは本当に最近です。それで……私、もう王太子とは結婚出来ないと分かって、大臣やネルケに相談しました。」
その言葉に、グレンヴェインの目がわずかに揺れる。 彼の手紙が、王室の政治に影響を与えたことに、戸惑いを滲ませた。
それに気づいたステラは、すぐに頭を振った。
「違うの。あなたのせいでは無いのです。グレンが居なくなったあと、王太子様とは定期的に会っていたけれど……体調もよくなくて。その……最後の方は、私より、ネルケとナンシーの方が怒ってたくらいだから。」
どこか言葉を濁すように、でも心から安堵したように笑って、ステラは言った。
彼女は彼の腕を離さずしっかり握りしめ、彼を見上げる。
「メラルト=セレスティア王国の実態が、誰も幸せにならない結婚だと分かったことも、破談の理由として大きいです。──でも、このことは、皆に破談の相談をした後に分かったの。だから、結果的に、グレンヴェインの手紙で皆が救われました。ありがとう。」
ステラは、グレンヴェインの頬に手を添えた。
王城にいた頃よりやせて、肌は少しかさついている。
しかし、それが彼厳しい土地での忠誠と努力の証に思えて、ことさら愛おしかった。
ステラの撫でる手を、グレンヴェインは大きな手で包み込む。
目を瞑り眉を顰めると、心配そうに彼女を覗き込む。
「……そのようなことが。おひとりで悩まれ、大変だったでしょう。私がお傍で支えられなかったこと、申し訳ございません。……悔しく思います。」
「ふふふ。でも、そのおかげで、強くなりましたよ!あなたに逢えなくても、あなたが心にいれば、どんな困難も越えていけると思いました。」
ステラはおどけたように彼を覗き込み、「グレンがずっとそばにいたら、私はグレンに甘えてふにゃふにゃのままだったでしょうからね。」とくすくす笑い、ふいに視線を落とす。
一瞬言葉に迷い、それでも、彼の逞しい背中をそっと撫で続けた。
「私はもう、生涯、結婚できなくてもいいと思っています。
あなたがいてくれるなら、それだけでもう十分です。他に何も、望みません。
……私は、他人が望む人生を歩いてきたけれど、あなたが手紙をくれたから、自分がどう生きたいのか、やっと気づくことが出来ました。」
彼を見あげたステラの頬に、一筋の清らかな涙が流れる。
その言葉に、グレンヴェインは目を見開いた。
自分の中にも、まったく同じ想いがあることに気づく。
──自分が、どう生きたいのか。
彼の中で、名前を付けられることも無く置き去りにされていたその思い。
生きるために生きてきた彼にとって、それは射抜かれるような衝撃があった。
「姫……。」
彼は、気づいた瞬間には、ステラを力いっぱい抱きしめていた。
もう二度と、絶対に離せないと思った。
「姫。私の道標。私の光。──あなたは、私の生きる意味です。」
「グレン、私も同じです。だから、また会えて本当によかった……。」
グレンヴェインの温かさ、彼の香り。それは仮面舞踏会の夜以来で、ステラは彼の胸に頬ずりして涙を流す。
彼はそっと、その涙を指で拭った。
「姫、そんなに泣かないでください。私はあなたの涙に弱いのです。」
「ふふふ。……ダメですね。グレンがいない間は泣かないように頑張ってたのですけど。グレンを見るとどうしても……。」
いつもの、少し照れた言い方。
それさえもグレンヴェインには、懐かしく、愛おしくて、もう一度強く抱き寄せた。
「……では、この涙は、私だけのものですね。」
グレンヴェインは、そっと両手でステラの顔を包み込み、顔を上げさせる。
目尻に残る雫を、何度もキスを落として拭った。
ステラは背伸びをしながら、彼の手に手を重ねて、目元に触れるキスに身じろいだ。
くすぐったくて、少しだけ恥ずかしい。
でも、心はただ、あたたかく満たされていく。
「……グレン。」
甘く耳元で囁いて、彼女は微かに目を開く。
その長く繊細なまつ毛は震え、大きな紫水晶の瞳はどうしようもない熱に蕩けていた。
グレンヴェインは、ぐっと彼女の腰を引き寄せる。
もう片方の手でステラの顎を優しく支えると──ステラはそっと瞳を閉じた。
月明かりの下、ステラとグレンヴェインは、初めて唇を重ねた。
いちど、もう一度。
柔らかく、ゆっくりと。
お互いを確かめ合うように。
「ん……。」
ステラの小さく甘い囁きが、こぼれ落ちる。
その声に、グレンヴェインの理性はあっけなく揺らいで、貪るように抱きしめた。
深く口付けをかわせば、小さな唇と柔らかな舌の感触に夢中になって、もう止まらない。
「んんっ、ん。グレン……。」
「……私を誘ってるのですか?そんなに甘い声で。」
「ちがうの、あの。」
突然、腕の中で身じろぐ小鳥に、グレンヴェインは渋々唇を離す。
グレンヴェインは、吐息が触れる距離で冗談ぽく笑って、「相変わらず、私を振り回しますね。」と、ステラの蕩けた瞳と、赤く濡れた唇を愛でた。
「グレン……その。私、息つぎの仕方が、分からなくて……。」
頬を染め、潤んだ瞳で恥ずかしそうに呟くその言葉に、彼は思わず顔を背けた。
あまりに可愛らしく、どうしていいか分からなかった。
抱きしめても、触れても、まだまだ足りない。
どうしようもなく込み上げる愛しさと胸の痛みに、彼は思わず、ステラと額を合わせた。
「そうですか。では──これから毎日、練習しなくてはなりせんね。何時間でもお相手しましょう。」
口の端で微笑むと、今度は、ステラの顎を優しく支え、慈しむようにそっと唇を重ねた。
ステラの呼吸に合わせて、時折唇を離す。
唇が触れる距離で、ため息混じりにグレンヴェインの本音がこぼれた。
「……もう、姫を離せそうにありません。よろしいですか?」
「はい、私も同じです。何があっても、ずっと一緒です……。」
グレンヴェインは、彼女を包むように抱きしめて、その首筋に顔を埋めて呟いた。
鼻先をくすぐる柔らかな長い髪、しっとりとした細い首筋の感触に、彼は吸い込まれるように虜になる。
ステラは「ふふふ、グレン。くすぐったいですよう。」と身じろぎながらも、彼の肩に顎を乗せて、その背中を愛おしそうに触れた。
グレンヴェインが宰相として在籍していたのは半年ほどだった。
けれど、ステラは、グレンヴェインと出会う前、自分がどうやって生きていたのか、もはや朧気だ。
──彼のいない世界は、もう思い出せない。けれど、彼と共にあるなら、どんな未来でもきっと生きていけるでしょう。
そう思いながら、ステラは、夜闇を駆け抜け助けに来た、絵本の王子様のような彼の背中に、優しく手を添えた。
感謝を込めて、彼の胸に頬を寄せれば、それは温かく、そして確かだった。




