25.女王陛下
執務室には、時計の針の音と、紙をめくる音だけ。
ネルケは昼過ぎに、山間部の開発視察で夜遅くなると告げて出かけてゆき、部屋には一人だった。
決裁の承認を終えて静かにペンを置くと、次の仕事に取り掛かる。
手にとった書簡は外交局からの質問状。
経済格差がある新興国との貿易に際し、どう交渉を進めるべきか、と意見を求める内容だった。
「……似たような話、どこかで。」
ぽつりとつぶやき、書簡を机に置いた。
確かグレンヴェインと話したような、いつだったかしら──記憶の底からふと浮かんできたのは、一冊の本。
彼が以前話してくれた、国際政治における駆け引きの事例が書かれた海外の書物を思い出す。
「……そうです、グレンヴェインから借りた本……。まだ本棚にあるかしら。」
その名を口にするだけで、胸がきゅう、と痛んだ。
彼が北の城塞へ発ってから数ヶ月。
彼の部屋には近づかないようにしていた。
お互いに決意して別々の道を歩んだのに、戻ってきて欲しいと思ってしまう気がしたからだ。
鍵は、机の一番上の引き出しにしまったまま、触れてもいなかった。
けれど、今日は……。
ステラはゆっくりと立ち上がり、鍵を握りしめた。
冷たい金属の感触が心地よく、手の中でするように撫でた。
廊下を歩き、重い扉の前に立つ。
鍵を差し込み、ゆっくりと回せば、かすかな音を立てて、錠が外れた。
「グレン、失礼しますね……。」
持ち主のいない部屋に声をかけて、恐る恐る部屋の中を確認する。
カーテンが締め切られた薄暗い部屋には、大きな寝台。質素な机。そして壁一面の本棚だけ。
久々に空気が入り込んだその部屋は、換気をしてないせいで少し埃っぽかった。
「たしか赤い表紙の……。」
足を踏み入れれば、ホコリが微かに舞う。
記憶の中の本を見つけるまで、時間はかからなかった。
ステラはそっとその本を取り出す。
ぱらぱらと捲り、目当ての記述を確認すると、本を脇に抱えて部屋を出ようと振り返り──視界の端に、ふたつの箱が映る。
「……あら。忘れ物でしょうか?」
寝台の上に置かれた箱。
その上にはグレンヴェインがよく使っていた金縁に濃灰色の封筒があった。
上から覗き込めば、ステラは息が止まる。
「姫へ」
筆跡は、見間違えるはずもない。
見てはいけないものを見たように、急に心臓が騒がしくなる。
そっと手を伸ばせば、封を切る指がかすかに震えた。
ステラは、重ねられた二つの箱の脇に腰掛け、薄暗い部屋でその手紙を開いた。
姫は、もう私のいない暮らしに慣れられたでしょうか。
これを読まれる頃には、婚約の準備も順調に進み、あるいはすでにご成婚されているかもしれませんね。
私には、どうしても姫にお伝え出来なかったことがあります。
墓の中まで持っていくつもりでしたが、ある時、それは良くないと思い至り、こうして筆を取りました。
本当は直接伝えるべきお話ですが、私達がそれぞれ決意した未来への思いを揺るがせたくはなく、こうして、後からお伝えする形を取りました。
お伝えしたいことは、仮面舞踏会の夜のことです。
あの夜、姫が出会った仮面の紳士は、私でした。
」
ここまで読んで、ステラは手が震えて手紙を閉じた。
手紙を持った手はだらりとベッドに落ちる。
カーテンの隙間からさした陽の光が、部屋にまう埃をきらきらと輝かせて、何も考えられずそれを見つめた。
グレンヴェインが……仮面の紳士。
仮面の……。
頭が混乱して、ひとつに繋がらない。
仮面の紳士の会話をするたびに隣には彼がいた日々の記憶が甦り、本人を目の前にして話していた、という状況がにわかに信じられなかった。
考えても働かない頭で、もう一度手紙を開く。
「
仮面の紳士だと言わなかった理由はいつくかあります。
一つ目は、姫の純粋な恋”を壊したくなかったからです。
舞踏会の翌日から、姫は、仮面の紳士に真剣に心を寄せ、まっすぐに想っていましたね。
日々の話の中からも、姫があの夜の思い出をとても大切にしていることを知って、毎日隣にいる私が仮面の紳士だと知らせることは、あなたの夢を粉々に砕くことだと、告白を躊躇いました。
二つ目は、身分を偽って、姫に口づけたことが不敬に当たるからです。
あの時の事は出来心ではありません。あなたを今も愛しています。しかし、私はあの夜しか姫を胸に抱くことが出来ません。
その葛藤の中で、どうしようもなく、あなたを求めてしまいました。
自分の立場も責任も忘れた行いだったと思います。
宰相として、あなたを守る護衛騎士として、決して許される行為ではなく、とても言えないと感じていました。
そして三つ目。
私のような者のために、姫の未来が縛られることを恐れました。
私たちの間にある身分の差は、どう抗っても変えることはできません。
私が仮面の紳士だと告白しても、姫の心に無用な苦しみと混乱を生むだけで、それは姫を不幸にしかねないと、恐れました。
実はあの夜のために、私はネルケに頼み、ダンスの訓練を受けていました。
付け焼き刃でありますが、会話の練習をし、貴族の立ち振るも身につけ、あの仮面舞踏会に臨みました。
滑稽に思えるかもしれませんが、少しでも姫の隣に立つに相応しい紳士になりたい一心でした。
姫が私だと気づかなかったのは、このせいだと思います。
そして、仮面舞踏会の夜以降、私はそれまでより、何倍もあなたを愛おしく感じるようになりました。
夜も眠れないほど、恋焦がれました。
それ故に、真実を告げて、愛するあなたを打ち砕くことが出来なくなりました。
それでも今、こうして手紙を書いているのは、
私が、姫の書かれた“仮面の紳士”への手紙を読んだからです。
もし私が何も言わなければ、姫はきっと、絶対に現れない人を生涯想い続けてしまうでしょう。
そう思い、考えを改めました。
あなたは、私の光でした。
あまりにまばゆく、その光に惹かれ、気づけば、私はあなたを深く愛していました。
身分も立場も忘れて。
それは、間違いなく、私の罪です。
この手紙について、処刑や国外追放など、どんな罰もお受けします。
私は、それだけのことをしたと分かっております。
私はこれからも命を懸けて、この国を、そして姫を守ります。
どこにいても、何をしても、たとえあなたに二度と会うことがなくても、それだけは変わりません。
私は、生涯、あなたのために生き続けます。
グレンヴェイン
」
手紙を読み終えると、ステラは埃を被った箱を開けた。
小さい箱には、夢にまで見た、紺に金の模様が入った仮面。
大きい箱はなんだろうと開けた瞬間、ふわりと優雅な香りが漂った。
中にには、あの日、ステラを抱きしめた紺の社交服が丁寧に畳まれていた。
指先で撫でれば、あの日緊張しながら彼と踊った時に触れた生地の感触そのまま。
耐えきれず、そのコートを抱きしめて顔を埋めて息を吸えば、心が蕩けるような香りに包まれて彼の胸に抱きしめられた夜に戻される。
緊張して彼の顔を見れなかったこと。
羽が生えたように楽しいダンスを共にしたこと。
バルコニーで抱きしめられて、触れるだけの微かなキスをしたこと。
まるで今見ているかのように次々と蘇る。
ステラは社交服を掲げると、あの日を思い出してワルツのステップを踏みだす。
瞳を閉じれば、ホコリだらけの暗い部屋は、瞬く間に光溢れる舞踏会のホールに塗り変わる。
着る人のいない社交服は、ステラの動きに合わせて、はらはらとひらめいて、それでもステラは、あの日の煌めきに心踊った。
『大丈夫ですよ。私が貴女を導きます。さぁ、肩の力を抜いて。』
あの時囁かれた言葉が耳の奥から聞こえる。
目の奥には紺の社交服を身にまとったグレンヴェイン。彼は優美な仕草でステラのダンスをリードする。
『グレン、執務室で踊った時には全然だったのに、こんなに踊れるようになってすごいです!』
『そう言って頂けて光栄です……さぁ、姫。前を向いて。この一瞬を共に楽しみましょう。』
あの時見せられなかった姿。交わせなかった言葉。
心の中に思い浮かべれば、グレンヴェインへの愛しさと、それが出来なかった彼の葛藤が心に押し寄せる。
「グレン……。」
その名を読んだ。
静かに目を開ければ、夢は醒め、眩いダンスホールは、薄暗いホコリだらけの部屋に変わる。
恋の一瞬の煌めきだけを本物だと信じた私を責めもせずに、私のために真実を黙っていてくれた。
深い痛みを抱えながら、どんな思いで、この手紙を書いたの。この部屋で……。
涙が一筋、頬から流れ落ちた。
コートと手紙を抱きしめて、ステラは呆然と立ち尽くす。
「ごめんね、グレン……。」
どんな思いで私の隣にいたのか。
どんな思いで、仮面の紳士に夢中になる私と話していたのか。
そう思えば、埃まみれの白い床に水滴が落ちて跡を作る。
私はグレンヴェインの深い愛に、気づけなかった。
毎日、あれほどの献身を受けながら……。
恋の熱さも、日々の温かさも、全てグレンヴェインが与えてくれていたのに。
「……私のすべてだったのですね。グレンヴェイン……。」
大きな愛に気づかなかった自分の至らなさを受け入れれば、王太子との婚約以来、ぼんやりしていた頭のモヤが、すっと晴れ渡っていくのを感じた。
ステラは、仮面とコートを丁寧に箱に戻すと、赤い表紙の書物と一緒に腕に抱えた。
ごしごしと涙を拭い、赤く染った目元をしっかり見開く。
「もう遅いかもしれないけれど、今からでも、できることがあるはずです。私はやらなくてはいけない。」
──あの舞踏会の夜も、今も、これからも私は、あなたと共に生きたい。私の答えです。グレン……。
真実は、選ぶ道を輝かせて自分を導く。
グレンヴェインの愛に気づいたその瞳は、強く前を見据える。
グレンヴェインの部屋に鍵をかけると、足早に廊下を歩いた。
すれ違う使用人達は、ステラの別人のようなその強い眼差しに驚いて、静かに頭を垂れる。
在りし日の姫君としての儚さは消え去り、その足取りは堂々たる女王陛下の風格を放っていた。




