24.ネルケ
それは、グレンヴェインが北へ去って数ヶ月後のことだった。
「本当にこれでいいんでしょうかねぇ……。ネルケ宰相。」
ナンシーは渋い顔をして庭園を見つめた。
視線の先には、シセル王太子とステラ。
ナンシーのいる場所からは背中しか見えないが、ベンチに腰かけた王太子がステラの肩を抱いて寄りかかり、髪の毛にキスをしているのが見える。
ナンシーはぞっとして自分の肩を抱いた。
恋愛が嫌いなわけではない。
ただ、他者を自分のモノのように好き勝手に扱う態度がどうも馴染めなかった。
「……ナンシー、言葉を慎みなさい。貴族とはこういうものだよ。」
ネルケは静かに視線を逸らさず二人を見つめ続けた。
初めてのお見合いの日から、頻繁にシセル王太子一行が城に訪れるようになった。
王太子は、城にやってくると、いつもこうしてステラを抱いてべったりと過ごし、ネルケは護衛、ナンシーはお茶の係として、二人を遠くから見守った。
会議室では、大臣や事務官が婚姻や共同統治について調整を進めているが、月を重ねる毎に会議は長引いた。
それにつれ、二人で過ごす時間も増えていく。──しかし、心の距離はなかなか縮まらなかった。
「そういえば、シセル王太子は、グレンヴェイン宰相にはあんなに悪辣だったのに、ネルケ宰相には穏やかですよね。」
「そうはそうさ。僕の伯父はメラルトの侯爵だ。今はメラルト王室に匹敵する力があると聞くから、あの世間知らずも、僕を無視できないよ。」
いつものユーモアに満ちた彼とは違う醒めた声に、ナンシーは少しだけ目を見開いて
「ネルケ宰相は、なぜ軍人になられたのですか?セレスティア軍隊は厳しいと聞きます。地位も名誉もあるのに、わざわざ家を出て軍人暮らしをされるなんて珍しいですね。」
「……ナンシー。あれを見なよ。」
ネルケの視線の先には、王太子とステラ。
ステラは時折、王太子と距離を取ろうと腰をずらすが、直ぐに彼に距離を詰められ、二人はじわじわとベンチの端に寄っていく。
それを見つめるネルケの顔には表情がなかった。
「……僕は、ああして結婚した夫婦の子供なんだ。」
独り言のようなその言葉は、蝶が舞う庭に吸い込まれる。
ナンシーは息を飲んだ。
自分だけが硝子の箱に閉じ込められたような気がした。
「僕は三男で、年の離れた兄が二人いるんだ。けれど、兄も僕も、最期まで、母が明るく笑ってる姿を一度もみたことがなかった。……いつも、ああして怯えたように緊張していたよ。」
王太子は、ステラの髪に指を絡めながら、何やら囁いているようだった。
笑ってはいるが、ステラの背筋は強ばっている。
それがネルケの幼い日の記憶と重なり、まつ毛が震えた。
「僕は、そういう貴族の仕組みが耐えられなくて、軍人になったんだ。……軍の食事は最悪で、ベッドは硬くて、人の暮らしじゃないと思ったけど、家から出られて心底ほっとしたよ。」
いつも穏やかで軽やかなネルケの瞳が何度も瞬く。瞳の奥には、若き日の自分の姿が映る。
「……申し訳ありません。ネルケ宰相。ご心情も知らず、出すぎたことをお聞きしました。」
手を腰の前で揃えて、ナンシーはネルケに頭を下げた。
「いいんだよ、ナンシー。謝ることはない。僕も人に話すと気持ちが楽になるしね。……グレンヴェインは最悪に人使いが荒かったけど、君達と引き合わせてくれたことは感謝かな。」
その声に、いつもの気さくさが戻り、目尻が緩んだ。
憎まれ口を叩きながらも頬を緩ませるネルケの姿に、ナンシーもつられて微笑んだ。
「ひゃ、シ、シセル王太子……!」
二人の会話に、ステラの小さな悲鳴が遠くから割り込み、ネルケは慌ててそちらに駆けつけた。
王太子が強引にステラの頭を抑えてキスを迫り、彼女は涙目になりながらも、背中をめいっぱい仰け反らせて必死に抵抗している。
「ははは、シセル王太子。愛が熱烈ですね。
私どもの姫は、小さな子ウサギなのです。もっと繊細に、優しくお願いしますよ。」
ネルケは二人の割り込み、力づくで二人を引き離す。
全く笑ってない笑い声が庭に響いた。
ナンシーは、その悶着をやり過ごしながら、庭の角でお茶を用意する。
シセルに紅茶のカップを持たせれば、手が塞がって抱きつけないだろう。ちょうどいい。そう考えたのだ。
「はぁ。グレンヴェイン宰相が見たら気絶しちゃいますね……。宰相、今頃、どうしてるのかしら……。」
ガラスのティーポットにお湯を注げば、ナンシーのため息で、湯気がかすかに揺らめいた。




