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22.王太子②

シセルはプロポーズの成功に心踊り、頬を赤くして興奮した。ステラの手を何度も撫でた。


「本当ですか!そうしたら、新しい城には私の部下を連れていきましょう。とても有能ですから、ステラ姫の政務を助けてくれるでしょう。美しいあなたが、手紙の返事も書けないほど忙しいなんて聞いて、私は心が痛みましたよ。

もっと伸びやかに、楽しく蝶のように暮らしてください。

政務など、あなたのような美しい人の仕事では無いですから。」


グレンヴェインは、遠巻きにその様子を見つめ、砕けそうなほど、奥歯を噛み締めた。

眠い目をこすりながら、それでも国民のために夜遅くまで公務に励む彼女の姿を彼は知っている。

国民のために尽くす彼女の崇高な精神を軽んじるような発言に、冷静だと言われる自分でさえ、顔が歪むのがはっきりと分かった。

それだけではない。

日々慈しみ、励まし、尽くしてきた愛しい相手が今日会ったばかりの礼節も知らない男にプロポーズされる。

そして愛しい相手がそれを受け入れている。

グレンヴェインには、夢にも抱けないほどのことさえも、この男には簡単にできる。

強く握りしめた拳。皮の手袋が引き攣れた音を立てる。

この生まれという絶望の断崖の前にひれ伏すしかなかった。

──あぁ、私にとって、姫は何もかもなのだ。あなたを守ること、支えることが私の喜び、私の生きがい。

その思いを押し殺し、グレンヴェインは冷静を装って微笑んだ。


「姫。家臣として喜ばしく思います。私もまた、あなたの幸せを祈り続けることをお約束します。」


ステラはその声にふと振り返る。

グレンヴェインが恭しく頭を下げていた。

見渡せば、多くの家臣が顔をほころばせている。


シセルに愛を告げられ、グレンヴェインに幸せを祈られ、ステラの瞳は、次第に虚ろになっていく。

──大丈夫です。やっていけます。ちゃんと結婚して、この国を強くして、皆を安心させてあげたいです。これは、私だけができる仕事なのですから。


ステラの後ろ姿を見守るグレンヴェインは、ステラの毛先が、微かに揺れるのに気づいた。

咄嗟に庭の草花を見る。風は吹いていない。


微かに肩が震え、重心が傾き──次の瞬間。

くにゃり、と華やかなドレスが歪んで、シセルの手から、ステラの手がすり抜ける。


「……姫!!」


呼ぶよりも早くグレンヴェインの体は動いていた。

後ろに仰け反るように倒れるステラの体。

大きな花束を投げ捨てれば、花びらが散る。

美しく長い髪が舞い上がり、全てが静止画のように止まって見えた。

飛び込んで、ステラを抱きとめるが、体制を戻せずにグレンヴェインは背中から地面に叩きつけられる。


「ぐっ……。」


それでも姫の体に衝撃がかからないよう、体を丸めてステラを守り抜いた。


「姫!?大丈夫ですか?」

「……。」


ステラの意識がないことに驚いて、頬に触れれば、熱を持って異様に熱い。

何度呼んで頬を叩いても意識を取り戻さないすにグレンヴェインは気が動転する。


「姫!大丈夫ですか?!姫!」


多くの家臣が驚きの声や悲鳴をあげ、医者を呼びに走る使用人の慌ただしい足音や、二人のもとへ駆けつける家令、将校達の声が飛び交い、場は騒然となる。


シセル王太子は、誰にも気に止められることもなく、ただ呆然と立ち尽くす。

彼がプレゼントした大きな花束は地面に散り、色とりどりの花弁が、美しく地面を染めていた。



◆ ◆ ◆



ステラは夢を見ていた。

仮面舞踏会の夜。

人々をかき分けて仮面の紳士を探すステラ。

しかし彼はどこにもいない。

どこかにいるはずなのに、と人並みをかき分けて探し回れば、グレンヴェインが姿を現す。

なぜか彼だけが仮面をつけていない。


「朝の紅茶は薄めがよろしいですか?」

「お疲れのようですね、この書類は私が担当しましょう。」

「好き嫌いせず召し上がってください。育てた国民や料理人が悲しみます──今日だけですよ。私のプリンと、そのアスパラガスのサラダを交換しましょう。」


場にそぐわないやさしい声が、ぼんやりと記憶を反芻するように流れていく。

それは次第に聞こえなくなり、グレンヴェインも、周りにいた舞踏会の参加者も消えて、ひとりぼっちになるステラ。

ダンスホールに泥の雨が降ってきて、纏っていた白いドレスは黒く汚れる。

おろおろと逃げ惑い、誰か傘を、グレンヴェイン、たすけて。

そう叫んでも虚しい声が響くだけ。

雨は冷たく肩を濡らし寒さに震える。

磨きあげられた床は泥にまみれて、歩くこともままならない。

──あぁ、もう誰も私に温かな温もりを与えてはくれないのですね。私は、当たり前のように、それに守られていたのですね。


ゆっくりと目を開く。

あたりは真っ暗で、視界が霞んで何も見えない。

目を擦ろうとすれば、手の重い感触にそちらを見る。


「姫、大丈夫ですか。良かったです……お目覚めになって。」


両手で彼女の手を握りしめていたグレンヴェインは、心底ほっとした声をかけた。

ステラの額のタオルを取ると、優しく手で覆う。

その大きな手で包まれて、ステラは気持ちよさそうに息を吐く。


「まだ熱いですね。無理なさらず、今日はこのままお休みになってください。」

「はい……。あっ!お、お見合いは?!」


顔面蒼白になり飛び起きるステラの肩を、グレンヴェインは優しく抑えた。

あえて落ち着きはらった声でゆっくりと見つめ、何度も髪を撫でた。


「大丈夫ですよ。無事に終わりました。メラルトの王太子も姫を心配なさってましたが……お見合いは成功です。」


グレンヴェインは、軍服の上着を脱ぐと、シャツの袖をまくって、タオルを濡らす。

氷を入れた水に漬けた手は、目が覚めるように冷たい。


「そうですか……。」


ステラは、脱力してベットに倒れ込むと、ぼんやりと呟いて寝台の天井を見上げた。

グレンヴェインが上掛けをかけ直し、タオルをのせると、満足した子猫のように目を細める。


「タオル、冷たくて気持ちいいです……。」

「さっき、ナンシーが様子を見て、水に氷を入れてくれたのです。」

「そうでしたか。皆にも心配をかけましたね……。」


ステラはゆっくりと瞬きして、目に涙を溜めた。

窓から差す月明かりが、涙に反射して暗闇に輝く。

目が覚めてくると、昼間の出来事が濁流のように押し寄せて、逃げ場がない苦しみの中にいることを思い出した、


「……グレンヴェインは、私が結婚してもそばにいてくれますか?シセル王太子が作るといった新しいお城に着いてきてくれますか?」


縋るような声だった。

それさえあれば、どんなことも耐えられると思えた。

溢れる不安が、涙とともにこぼれ出す。

グレンヴェインは息を飲んだ。

こんなに早く核心を突かれるとは思っていたなかったからだ。

グレンヴェインは、ステラの涙に心が揺れたが、仮面の紳士にあてた手紙を読んだ時の決意を呼び覚ます。


「……私はついていけないと思います。シセル王太子は、出自の良くない私を快く思っていないようでしたし、政務は彼の部下が担うとも言っていました。」


その言葉を紡いですぐ、グレンヴェインは、ステラから離れる理由をシセルになすり付けた自分を恥じた。

これでは姫の結婚が別れの原因だと言っているようなものだ。

慌てた内面を悟られないよう、静かに付け足した。


「……元々、宰相の任を解いて頂こうと思っていました。ダコール帝国の動きが怪しいと前にお伝えしましたね……北の方面は急速に情勢が悪くなっています。

私は北の城塞に戻り、セレスティアの宰相にはネルケをつけようと考えています。」


両手で小さな手を握りしめ、ベットの端に肘を置いた。

彼女に近づけば、ほのかに周りの空気が温かく、倒れて熱のある最中に話す話ではないのに、とやるせなさに眉を顰める。

ステラがどう反応するか気がかりで、返事までの一瞬だ長かった。


「そう、ですか。分かりました。」


拍子抜けする返事だった。


「?……大丈夫ですか。」

「……はい。今まで、グレンヴェインには沢山助けてもらったから。今度は私が頑張る番です。」


しっかりとした声でそう告げたが、しばらく静かに過ごしていると、ぽたぽたと、シーツに涙がこぼれる音がして、グレンヴェインはステラを見つめた。

大丈夫なわけがない。

グレンヴェインは耐えきれず、小さな手を握りしめ直すと自分の額に当てた。

顔を見られないように俯く。

全く泣いたことがなかったのに、あの日から涙腺が生き返ったように涙脆い自分を恥じた。


「グレン、悲しまないで。大丈夫です。私が結婚すれば、メラルトの軍事力が手に入ります。北の方面の抑止力になるでしょう。」


ステラは握りしめる彼の手に負けないほど、力を込めて握り返した。

とめどなく溢れる涙は髪の毛を濡らす。

ステラの声は何度も震えて詰まり、堪えた嗚咽にきゅう、と小さく喉が鳴った。


「……今度は、私がグレンを守りますから。大丈夫。」


それでも必死に言葉を紡いだ。

──もう、これしかないのだ。

暗闇の中、二人は同じ考えにたどりつく。

長い沈黙を漂いながら、二人はお互いの運命が離れていく瞬間を、確かに感じていた。




姫はしばらくすると疲れて眠りにつき、グレンヴェインはそれからもずっと姿勢を変えずに、彼女の手を握り続けた。


満月の月明かりがほのかに二人を照らす。

仮面舞踏会の夜を思い出した。

あれからまだ数ヶ月しかたっていない。

グレンヴェインは、時の残酷さを感じた。


起こさないように、力を込めないよう、手を握り直す。

もう最後だと思うと、目に焼き付けておきたかった。

細い指。桜貝のような小さな爪。

ほのかな温かさ。

柔らかい頬に、嫌なことがあるとすぐ尖らせる唇。

繊細で、純粋で、透明な宝石を閉じ込めたような美しい心。

手間のかかる危なっかしさに、蕩けるような優しさ。

いたずらっぽい無邪気さに、芯の強さ。

日々すごした、これまでの全てが愛おしかった。


「……ステラ。」


彼はその名前を、初めて呼んだ。

絞り出される苦しい声は慟哭にも似ていた。

しかし、その言葉は暗闇に吸われて、返事をするものは誰もいなかった。


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