21.王太子①
「そういえば、お見合いが決まりましたよ。」
ステラは、明日のお天気の話でもするように軽く告げた。
柔らかい日差しが差し込む午後の執務室。
重い仕事をようやく終えて二人でお茶を飲み一息ついていた時のことだった。
机の上には紅茶と、メイド達が選んだクッキーやマドレーヌが並ぶ。
「……お見合い。」
ソファに身を沈め、紅茶のカップを手にしたまま、グレンヴェインは静かに顔を上げた。
その表情は冷静を装っていたが、目だけがわずかに揺れていた。
くるべき時が来たか、と感じた。
大臣がステラに、結婚相手候補の信書を渡した時から分かっていたことだったのに、心がざらついた。
「内務大臣とも相談して、お相手は、メラルト王国の第一王子に決めました。」
その国の名を聞いた瞬間は二人で夜まで執務室で頭を悩ませた貿易交渉の件を思い出さずにはいられなかった。あえて
「──なぜ、その方を?」
紅茶を口に軽く含む。
ステラは視線を逸らし、ぼんやりと窓の外を見た。
「……メラルトとの貿易協議、長く止まっていますよね。
彼の送ってきた信書には、婚姻が決まれば、貿易協定はセレスティアの条件を全面的に飲むと書いてありました。
また、私と彼は共に王位継承者ですから、同盟国になった暁には、ダコール帝国の防衛に対しても積極的に協力、支援する、と。
セレスティアは産業技術力は高いけれど、軍事力で心もとないところがあります。メラルトはその事も見抜いているのでしょう。」
その言葉は、まるで教科書の一節を音読するように抑揚がない。
「とてもいい話だと思いませんか。」
抜け殻のように腰掛け、ぽつりとこぼしたその声に、グレンヴェインは何も言えなかった。
ステラの瞳は、窓の外を自由に羽ばたく鳥を見つめる。わずかに目尻が潤んでいた。
グレンヴェインがステラに恋を仕掛けなかったとしても、ステラは政略結婚する道しかない。
しかし、彼が恋を仕掛けなければ、彼女はここまで人生の虚しさを感じることもなかった。
──その結果を、グレンヴェインはあらためて突きつけられた気がした。
「……お相手の王子とは、面識があるのですか?」
無理やりに話題を変えた。
「ええ。実は──子供の頃、婚約の約束をしたそうなの。ここの城の庭で。私は全く覚えていなかったのですが……この前、手紙を頂いて、ふと思い出しました。」
彼女の言葉に、グレンはかすかに微笑んだ。
「……まったく面識のない方でなく、少し安心しました。姫も、緊張なさるでしょうから。」
ステラはその慰めに静かに頷き、「頑張ります。」と少しの悲しさを唇にのせて微笑んだ。
こんな話をすることが居たたまれなくて、黙ってクッキーをぽりぽりとかじる。
「このまるいクッキー、美味しいですよ。バターとミルクの味がして、さくさくしています。」
「そうですか、では私も一枚頂きましょう。」
そんな話をしたいのではないことくらい、グレンヴェインにも伝わっていた。
静かな執務室に、クッキーを食べる、さくさくと小気味よい音だけが響く。
二枚目、三枚目……四枚目。
ぼんやりとクッキーを食べ続けるステラが気になり、グレンヴェインが隣を見れば、その頬に小さくついたクッキーの欠片に気づいた。
こんなにシリアスな話をしているのに、いつも通りの彼女。
それが救われるほど愛おしくて、思わず口の端が緩んだ。
「姫、考え事をしながらクッキーを食べていますね。いつも言ってるでしょう。二つのことをしながらおやつを食べたらダメですよ、と。」
そう言いながら、いつも通り軍服の内ポケットからハンカチを取り出そうとして──その手をそっと引いた。
「……ここに、クッキーがついていますよ。姫。」
代わりに、指先で自分の頬を指して知らせる。
ステラは、いつものように拭いてもらえるものだと甘えていた自分が急に恥ずかしくなり、
「あ、ありがとうございます……。」
身を引いて俯くと、クッキーの欠片を自分でとった。
「……宰相とはいえ、姫のご婚約が決まれば、私のような男があなたのそばで世話を焼くことなど、お相手は良く思われません。
セレスティアの未来のためにも、私も在り方を見直さねばなりませんね。」
それは、自分に言い聞かせるような、静かな宣言だった。
ステラはこくり、と頷いたが、その顔はよく見えなかった。
◆ ◆ ◆
仰々しい馬車の行列が近づいてくるのが、セレスティアの城からもよく見えた。
王子を迎えるその日。
城のエントランスには、盛大に花が飾られ、使用人や大臣達がずらりと並ぶ。
その中央に、内務大臣とグレンヴェイン、そして一際華やかなドレスに身を包んだ姫が緊張した面持ちで立っている。
そのドレスは、在りし日、いつか仮面の紳士に会うために用意したものだということを、グレンヴェインだけが知っていた。
「今日のドレス、よくお似合いですよ。」
ステラの緊張をほぐそうと声をかければ、「そう?変じゃないかな?」と不安げに首を傾げる姿に心を掴まれる。
「私は、日頃、姫がお召になっている紺の執務服の印象が強いですから。今日はいっそう魅力的に感じます。」
一線を引かなければと思っていても、儚げな様子を見るとどうしても構いたくなる。
その言葉は、励ましたい気持ちが半分、本音が半分だった。
すると、一際大きく豪華な馬車が近づいてくる。
馬車からメラルトの御者が降りると、恭しく頭を下げて扉を開いた。
ステラとグレンヴェイン、大臣はそれをにこやかに出迎える。
「ようこそ、セレスティアへ。ステファン・メラルト王太子。はるばるお越しいただけたこと、とても嬉しく思います。」
ステラは儀礼的な柔らかい声と笑顔で、長旅を追えた彼を歓迎する。ドレスを広げ深深とお辞儀をすれば、大臣やグレンヴェイン、多くの事務官や執事、使用人がそれに倣った。
シリル=セリウス・メラルト王太子は、宮廷装束の白いマントを翻しながら、満面の笑みでステラの前に現れた。その腕には、彼の顔が見えないほどの大きな花束。
「姫、私はあなたに会うために来たのです。あなたの美しいお顔を拝見し、旅の疲れも吹き飛びました!そうだ、こちらをあなたとの再会の印に…」
ステラの上半身ほどもある巨大な花束に、周囲のメイドたちがどよめき、ミレイユは後ろの方で「うわ、ナンシー先輩、見てください!でっかすぎません?!」と小さく興奮した。
ステラはあまりに大きな花束をよたよたと抱えながら
「わ、わたくしこんなに大きな花束を頂いたのは初めてです…嬉しく思います。」
「そうでしょう?花束の大きさは愛の大きさ!つまり、私がどんな男性よりもあなたを愛しているということですよ。」
シリルはそう言ってウィンクをするが、ステラは花束を抱えているせいで前が見えない。
あまりの重さによろけると、グレンヴェインがステラをさっと支えた。
「姫、この花束はお預かりしましょう。」
「良かった、落とさなくて……」
「腕は大丈夫ですか?」
「うん、ありがとう。」
小声で二人が話せば、その距離感にシセルはじっと二人を睨め付ける。
「ステラ姫。そちらの大柄の男性は?」
敵意を隠そうともしないその視線に、グレンヴェインは気付かぬふりをして、あくまで護衛として姫の近くで黙って見守った。
「こちらは、グレンヴェインです。セレスティアの宰相で、私の護衛騎士でもあります。」
「護衛騎士?つまり軍人ということかな。君、苗字は?貴族なの?」
姫に話す声とは明らかに違う不躾な様子に、様子を見守るメイド達が目でざわつく。
「私は苗字を持ちません。姫の政治の補佐や、姫の身をお守りすることが、今の私の仕事です。」
グレンヴェインは、目を合わせず、シセルの喉の当たりを見ながら、預かった大きな花束と共に事務的に礼をする。
「そう、貴族でもないのに城に仕えて宰相だなんて。セレスティアは心が広いね、驚くよ。」
もういいよ、と言いたげに、シセルは手を振るとステラに向き直る。
彼の背中を見つめながら、グレンヴェインは、セレスティアを軽んじる言い方が少し気にかかった。
「そういえば、ステラ姫。何度も私からラブレターを差しあげてもお返事いただけなかったのに、なぜ姫は自分との再会を許して頂いたのですか?私はてっきりあなたに振られたものだと。」
「あっ、あぁ……あぁ~!ええと。その……。」
手紙を貰った記憶などないステラは、なんと答えたら良いか分からない。
初めてのお見合いの緊張も手伝って口篭れば、グレンヴェインが後ろから
「王太子殿下。姫には多くの公務があり、お返事が遅れたことは多くの事情がございました。どうか誤解なさらぬようお願いします。」
白々しく頭を下げた。
忘れもしない、シセル王太子からの手紙。
確か月に三通は来ていた。
毎回、姫の気を引くような色とりどりのけばけばしい封筒に悪筆が踊る……胃がむかむかした。
その手紙は、ステラには届くことはなく、グレンヴェインに燃やされ兵舎の裏で灰になったことを、シセルは知らない。
姫は、グレンヴェインの視線が妙にそらされた様子に、彼が手紙を仕分けていた事を思い出す。
急に、誤魔化すようににこにこと王太子に向き合った。
「あら、私の家臣が勝手に話をはじめて、失礼いたしました。王太子殿下へのお返事が遅れたのは……その。あなたの愛が嬉しくて、戸惑ってしまったのです。どう答えたら良いか分からなくて。
寂しい思いをさせて、申し訳ありませんでした。」
ステラはグレンヴェインだけに聞こえるように耳を近づけると
「大丈夫です、私だってちゃんとやれますから。これは私の結婚なのです。」
まるで手伝いすぎる親に癇癪を起こす子供のような顔をして、すぐさま王太子の元に戻っていく。
ステラが、シセルを城の庭に誘い、その後ろをグレンヴェインは静かについ行く。
これからはこうして、彼女が他の男性と歩く、その後ろを歩くことが自分の運命なのだと気づくと、『姫の結婚』という現実が身に染みた。
『これは私の結婚なのです。』というステラの言葉が耳に残り、内心の葛藤が激しくなる。
彼女の未来を願いつつも、複雑な感情が交錯する。
宰相として、護衛としての職務を全うしなければならないが、その中で自身の感情がかき乱された。
姫「今の時期はバラが美しいのですよ。私の城の庭には、腕の良い庭師がおりまして、珍しいお花をいつも咲かせてくれるのですよ。」
王太子は、ステラの手を取りながら、庭に連れ出すと、メラルトの宰相や従者、セレスティアの使用人達もその後について行く。
「へぇ。田園風の庭でのどかですね。メラルトの庭とは作りが違って面白い。それにセレスティアの花はどれも美しい。でも……」
ステラは王太子に突然手を引かれ、思わずよろけてしまい、王太子の胸の中に抱かれる。
「お、王太子殿下?!」
ステラは驚いて鳥肌がたち、咄嗟に身を離そうとするが、さらに王太子に引きかれて彼に寄りかかってしまう。
「あっ!あの……!」
「あなたの美しさの前では、このバラ達の色も霞んで見えますね。」
ステラの手を愛おしそうに握りしめ抱き寄せると、熱っぽく姫を見つめる王太子。
ステラは、半泣きになり、オオカミに攫われる子羊のような目でグレンヴェインに助けを求めた。
グレンヴェインが割って入ろうとすれば、内務大臣が手で押えて首を横に振った。
王太子は腕の中で優しくステラの髪を撫で、
「あぁ~。この艶やかな金の髪さえも僕のものになるなんて。夢のようです。」
と得意げに頬ずりして、ステラは震えた。
果たしてこれが正しいことなのか、グレンヴェインのなかに葛藤が渦巻いた。
腕の大きな花束を抱え直す。
そうしないと、これを今すぐあの男の顔面に叩きつけそうだっだからだ。
──どんな状況であれ、あなたのことを守るためにここにいる。
この気持ちが消えることは決してない。
なのに、見捨てるような今の状況が耐えられなかった。
グレンヴェインの白い革手袋が握りしめられ、ぎりぎりと音を立てていることに気づいた内務大臣は、ため息をつく。
「シセル王太子殿下。ほほほ。お若いですの。姫はまだ純粋でいらっしゃるから、大切になさってくだされ 。そう急がなくても、親密になる時間など、これからいくらでもできましょうぞ。」
やんわりと二人を離すと、内務大臣はシセルに見えないように、姫の背中を撫でて慰める。
そうしてまた、二人は微妙な距離で庭を歩き出す。ステラは先程よりも僅かにシセルと距離を取っていることを、使用人たちでさえ気づいていた。
その大勢に見守れるお見合いの後方で、一人の人物がふらふらと近寄っては背伸びをして様子を見ていた。
「あっネルケ中将!こっちこっち!」
ナンシーは小声手を振り、様子を見に来たネルケを捕まえた。その身振りは、まるで花見の場所取り係だ。
「どうです?セレスティアの運命をかけたお見合いは。」
「やばやばですよ~。王太子が出会って三十分で姫を引っ張って抱きしめて、大臣が仕方なく止めに入りました。宰相はずっとお怒りですよ。ちらっと横顔が見えましたけど、すごい形相でした。」
「うわぁ、そんなことになってんの?グレンヴェイン殴っちゃえばいいのに。」
「宰相を国賊にする気ですか、ネルケ中将……」
こそこそ笑って小突きあっていると、前の方の列にいる高齢の家令に睨まれ、二人は借りてきた猫のように大人しくなる。
ステラは、突然、男性に抱きしめられた怖さで泣きそうになったが、大臣に慰められて気を取り戻した。
お見合いを見守る、多くの城の者たちを見回す。
グレンヴェイン、大臣達、軍の将校、事務官、家令、執事、メイド長、そして、メイド達─その中に、ナンシーやミレイユの顔を見つける。
この者たちを心配させてはいけない、私はこの者たちほの生活を支え、国民の命を預かる国の主なのだから──たとえ、どんな痛みにも耐えなくては。
そう自分を叱咤して、息を吐いた。
「王太子殿下、失礼いたしました。あなたの熱い視線に少し当てられてしまったようです。」
自分を奮い立たせて、満面の笑顔を作った。
「ははは、姫はお上手だ。あなたのような魅力的な方なら、沢山の男から情熱的に言い寄られているでしょう?私以外にもきっとライバルがいっぱいいるはずだ。」
「そんなことございません。私はいつも執務ばかりでして……。王太子殿下のような情熱的な方に見初めていただけるなんて、とても光栄に思っております。」
姫はそう微笑んで王太子に向き合うと、王太子はそっと、姫の頬にキスをする。
ステラは、微笑みながらもドレスに埋めた手の中で拳を握りしめてそれに耐えた。
「姫、私と結婚して頂けないですか?メラルトとセレスティアの国境に、新しい城を立てて、そこで共に暮らしましょう。
メラルト=セレスティア王国を作って、共同統治しましょう。
もちろん、あなたの思いのままの生活をお約束しますよ。
私の一生分の愛をあなたに捧げます。」
王太子は姫の前に跪くと、皆の前で宣言するように、ステラの手の甲にキスを捧げる。
プロポーズのはずなのに、何も心に響かず、ステラはむしろ、自分という存在が消えていくように感じられた。
ステラの想いのままの生活を約束すると告げられているのに、その心はなぜか息が詰まる。
その理由が分からない。
「はい、あなたのような方にそう言われて、嬉しく思います。」
機械的にその言葉が出た。
いつか読んだ恋愛小説のセリフと同じ。
プロポーズをされた時の返答を、──ステラはそれしか知らなかった。




