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20.手紙

三通の信書を託された日から、ステラは物思いにふけることが増えた。

王と王妃の訃報を受けてからの日々は目まぐるしく、政務にあけくれ、心折れるようなことも多かった。

その日々に唐突に現れた仮面の紳士。

世界はその色を変えた。よく浸した甘いフレンチトーストのような日々。──だからこそ、それを終わらせるのに少し時間がかかった。


(仮面の紳士様は、私に甘い夢を与えてくれます。ほんの少しだけ現実から目を逸らすことが許される、甘い夢……。)


けれど、もうそろそろ、夢から目覚めるときだと、心のどこかでわかっていた。


数日後の夜。

ステラは一人、私室の片隅に蝋燭を灯し、便箋に向かっていた。

窓から流れ込む夜風がカーテンを揺らし、どこか遠くの森がざわめいている。

下書きを書いては破り、書いては重ねるうち、机の上には紙の山。

何を書いても足りなくて、どの言葉も違っていて──それでも書くのをやめたくなかった。

心にあの夜が浮かぶ。

ほんの数時間交わした会話と、ひとつのキス。

それだけなのに、どうしてこんなにも、心に残るのか分からなかった。

けれど、もう探すことはできない。

探すことを諦めるために、彼女は手を止めたくなかった。


(この手紙が、届くかもわからないです。

でも、いつかどこかで、偶然でも彼にこの手紙を渡して、読んでもらえるかもしれない。今は、そう思えるだけでいいです……。)


ステラは眠い目を擦ると、もう一度手紙の下書きに向き合った。


(けじめをつけなくては。私は……未来の女王なのだから。)


断ち切ろうとするほど、それが一生に一度の恋だと、胸の奥が知らせた。




「……グレン。」


執務室での仕事も一段落した夕方。

明日の仕事を確認しながら、机を片付けてだしたグレンヴェインに気づいて、ステラは、ためらいがちに彼の隣にたった。

いつものように背筋を伸ばし、書類に目を通す彼が顔を上げる。


「姫。何かご用でしょうか?」


「……少しだけ、お時間をいただいても良いですか?仕事では無いのですが……。

手紙の下書きを読んでいただきたくて。」


彼女が差し出したのは、紺縁に金色の模様が入った三枚の便箋。

柔らかい色や臙脂の縁どりの便箋を使うことが多いステラにしては珍しい便箋だと違和感を感じれば、宛名に『仮面の紳士様へ』と書かれていて、便箋の選択に納得がいった。

あの仮面のデザインと同じだ──。


「……なぜ、私に彼への手紙を?」

「その。私は男の方にプライベートでお手紙を書くのは初めてで……変じゃないか見てほしくて。グレンヴェインも、告げてはいけない人に恋をしてると言っていたから、アドバイスを貰えるかもと……。」


ステラは照れたように笑ったが、それはどこか自信なさげで儚げだった。

グレンは何も言わず、便箋を開く。

軽い紙の音を立てて、三枚分にずっと目を通した。

緊張が気づかれないようにしなくては、それだけが頭を巡った。


『セレスティア主催の仮面舞踏会の夜、私を「真珠の令嬢」と呼び、一緒に踊ったことを覚えていらっしゃいますか。


あなたと踊ったのは、ほんのひとときでしたが、優しく手を取られ、囁かれた瞬間、どうしたら良いか分からなくて、世界がとても眩しく見えたのを覚えています。

あんなに胸が熱くなったのは、生まれて初めてでした。


月夜のバルコニーで触れた、あなたの指先。低く優しい声。まっすぐに見つめてくれた情熱的な瞳は、私の世界を変えてしまいました。

翌朝から、何をしていてもあなたのことばかり考えてしまい、お恥ずかしいことに、政務にも集中できず、私はあなたに恋をしてしまっていたのだと気づきました。


私はあの日以降、もう一度あなたに逢いたくて、たくさんの人にあなたの事を尋ねましたが、誰もしりませんでした。

でも、あの夜、あなたが私が誰なのか気づいていたこと。そして、名乗らずに去っていったことがあなたなりの優しさなのだと気づいて、私は、あなたを探すことをやめました。


今でも、時々、もう一度お会いしたいなぁと思ってしまいます。

でも、私は、あなたと結ばれなくても構いません。

ただ、あなたと出会えて、あんなに素敵な恋を教えていただいて、私は本当に幸せでした。

私のたった一度の恋に、眩いほどの煌めきを与えてくれて、ありがとう。


いつか時が流れて、どこかで偶然また出会うことがあっても、私はきっと、あなたのことを好きなままでいると思います。

それだけは、寛大な心で許していただけたら嬉しいです。


どうか、あなたの人生が幸せで満たされますように。

あなたが心から愛する方と、温かな未来を築かれますように。

それが、私のささやかな願いです。


あなただけの真珠

ステラ=フィリス・セレスティア』




読みながら、グレンヴェインは、指先に力が入ったことに気づかないふりをした。

数行進むごとに心が軋むのを、ただ静かに耐えて受け流した。


「……良い、お手紙でした。」


グレンヴェインは、わずかに掠れた声でそう言った。

丁寧に綴られた便箋の文字は、ステラの筆跡そのままに、まっすぐで、優しく、残酷だった。


「……よく見ましたが、誤字もなく、言葉も美しい手紙だと思いました。」

「本当ですか?気持ちが重くないかしら……。」

「良いのでは。お相手も読まれたら胸を打たれるでしょう──しかし、仮面の紳士は誰か分からないままなのですよね?どう渡すのですか?」


グレンヴェインは、さりげなく尋ねた。

ステラは小さく笑って、そっと手紙を彼から受け取り封筒にしまうと


「はい。仮面の紳士様はどこの誰か分かりませんから。……でも、もし、わたしがいつか結婚して、おばあちゃんになって、どこかで偶然すれ違うことがあったら……その時に、渡せたらいいなと思ってます。」


彼女は便箋を胸元に抱きしめ、窓に降り注ぐ夕陽に目を細めるような笑みを浮かべた。


「それまで、この気持ちは、私の中にしまっておきます。」

「……そうですか。」


グレンヴェインは、静かに微笑んだ。

その取り繕った笑みに、ステラは気づけなかった。

優しさと、どこか諦めに似たまなざしを浮かべたまま、彼は深く頭を下げる。


「では、私はこれで。軍の者に呼ばれておりますので。」


丁寧に椅子を戻し、封筒を抱きしめたステラに一礼すると、執務室を出た。

扉が閉まる音が遠ざかる。

彼は大きく一度だけ息を吐いた。

──姿勢を崩すな。歩幅を乱すな。

靴音は、廊下に反響し、いつも通りの規則正しさを保っている。

すれ違う使用人達に挨拶をしながら、彼の思考は、手紙に囚われたままだった。


『良い、お手紙でした……。』


そう言った言葉の裏で、自分の心が砕けていることを、彼もまだ気づいていなかった。


(あれは彼女の初恋なのだ。

そして、廊下で話した大臣の言葉通りであるなら、最後の恋になるだろう。

何よりも大切にされるべき記憶。)


そう言い聞かせ歩いた私室への道は、いつもより何倍も遠く感じた。

扉を閉め、鍵をかけると、その背中を扉に預けた。

ずるずると力なく崩れ落ちながら、革の白い手袋を外して、床に投げ捨てる。

俯き、額に手を強く押し当てれば、こらえきれず、もう一度だけ深く息を吸った。

視界が滲んだのは、そのあとだった。


『あなたが心から愛する方と、温かな未来を築かれますように。それが、私のささやかな願いです。』


ステラの幸せを祈る言葉は、祝福の刃となってグレンヴェインに突き刺さる。

忠誠と愛、その葛藤が、彼が臓物を掻き回す。

胃を引き出されるような痛みだった。

グレンヴェインは、自分には感情など必要ないと思っていた。

しかし、彼女と日々過ごす中で、自分の中に芽生えた人間らしいものの存在を痛感した。


(今更「ずっと黙ってましたが、あなたの恋の相手は、家臣でした」などと今更名乗ることは、できない。

主に対する重い裏切りだ。)


一方、もし彼女がグレンヴェインを受け入れたら、この苦しみを彼女が背負うことになる。

彼女を追って月夜のバルコニーに駆けた時から、分かっていたことだったのに──手を伸ばしてしまった。

床に座り込み、項垂れる。

目から水がこぼれた、と思った。

涙を知らない男の瞳が、初めて濡れた。

涙をどうしたら良いのかも、どうしたら涙を止められるのかも分からない。

一人、孤児としてさまよい歩いた時も、軍人として、宰相として過ごした中でも、涙を流すことなど一度もなかった。

けれど今、軍服の胸元に落ちるこの熱を、どうにもできない。

胸に輝く宰相と護衛騎士の勲章に涙が滴る。

セレスティアに仕える者としての誇り。忠誠。

あの日、ステラに与えられ、命を懸けると誓った証が、濡れて鈍い色に変わっていく。

声にならぬ嗚咽を、奥歯できつく噛み締めた。

扉の外に聞こえぬように。

ゆっくりと血走った目を見開く。


──答えは一つしかないと、そう静かに悟った。


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