01.任命式
淡い金糸の陽光が、天高く掲げられたステンドグラスに降り注ぐ。
セレスティア王国 王城の謁見の間。
厳かな式服に身を包んだ廷臣たちがずらりと整列し、その中央の玉座には、王女ステラ=フィリス・セレスティアが神妙に座していた。
しかし、彼女の胸の内は蠢く不安が渦巻いている。
(ああ、とうとう今日、あの“冷徹将校”が着任する日になってしまいました……。私だって噂くらいは耳にしています。
熊のように大きくて、威圧的で、目が鋭くてとにかく怖いというではないですか。
なぜ、そんな人を私の側近に……?!)
その瞳は不安げに惑う。小さな唇をきゅっと噛んだ。
(何度確認しても大臣たちに『まぁまぁ姫。大丈夫ですから。』とかわされてしまったけれど、一体大臣たちは何を考えてるのでしょう~……。)
不安が不安を呼び、ステラの脳裏には、無骨で粗暴なひげ面の男が、大剣を背負って、重い鎧をぎしぎし鳴らしながら現れる姿が浮かぶ。
(い、いやです~……さすがに怖すぎます。)
涙目になるステラ。
しかし、その泣き言も虚しく、任命式の始まりを告げるラッパが高々と鳴り響く。
ステラは迫り来る恐怖に思わず薄目になり、震える手のひらで玉座の膝掛けを握りしめた。
──やがて、重い扉が開く。
現れたのは、式典用の軍服に身を包んだ一際背の高い男。
彼は深紅の絨毯の上を進み、洗練された所作でマントを翻す。
視線を逸らしたまま、流れるようにステラの御前に片膝をつき、恭しく頭を垂れた。
「本当にこの人ですか?熊じゃないですが……!」
思わず隣に控える内務大臣を見やると、彼は、この期に及んで忙しないステラに呆れて、咳払いする。
たしなめられた彼女は、ハッとして姿勢を正した。
「セレスティア軍中将 グレンヴェイン、顔をあげなさい。」
ステラは公務用であることを思い出し、凛と響くにわたる声で目の前の男を見下ろす。
彼が恭しく壇上のステラを見つめれば、彼の琥珀色の瞳に窓の光が差し込む。
ステラは、目の前の男をまじまじと見つめた。
神経質そうな眉と整った鼻筋。精悍な輪郭。
そして、軍人らしく鍛え上げられた体躯。
(なにより、すごい腕が太いです、私の太ももくらいあります……。)
思ったよりも若く、容姿も整っていることにステラは安堵し──同時に、その虚ろな、冷たい瞳に恐怖を抱いた。
目を合わせられなかった。
彼のそれは目に砕いた氷をはめているようで、視線は自ずと床に落ちていく。
ステラの中には、熊が現れなかった杞憂のかわりに、また別の不安が押し寄せた。
「これより、セレスティア王位継承者 王女ステラ=フィリス・セレスティア殿下より、グレンヴェイン中将への、宰相及び護衛騎士拝命の儀式を執り行う。」
謁見の間に響き渡る、侍従の厳かな声。
張り詰めたその声に、ステラは心を落ち着けるよう小さく息を吸った。
予行演習通り立ち上がり、侍従が恭しく掲げた盆の上から、宰相の勲章と、護衛騎士の勲章を手に取る。
「グレンヴェイン。あなたをセレスティア王国の宰相並びに、わたくし、 ステラ=フィリス・セレスティアの護衛騎士に任命いたします。」
玉座を背に、一段ずつ慎重に階段を降りる、ステラ。
彼の前に進み出ると、膝まづいたグレンヴェインの胸元に、手を伸ばす。
(大丈夫、大丈夫。何も言ってこないし、噛まれるわけじゃありません。……目は怖いけど。)
ステラはそう自分に言い聞かせ、宰相の勲章を彼の軍服に取りつけた。
しかし、もうひとつの護衛騎士の勲章が上手く取り付けられない。
(……? 勲章のピンが刺さりません。軍服ってこんなに固いものでしょうか……。)
えい、えいえいっ!と、力任せに刺し続けるが、何度刺しても入らない。
(どうしましょう、周りが注目してるのに…… 。この軍服、鉄板でも入っているでしょうか……?)
そんなありえない考えが浮かぶほど、グレンヴェインの軍服は硬かった。
ステラは焦り、「失礼しますね」と涼しい顔で微笑んだ。
もう一度、彼の軍服と格闘するが、針は入らず指が滑る。
彼の軍服には、ステラの努力の跡──頼りないピンの穴がポツポツと虚しく増えていくばかりだ。
まごつくステラの様子に気づき、謁見の間には家臣たちの微妙な空気が流れる。
その変化は、ステラをさらに追い詰めた。
「た、助けてください……どうなってるのですか!この軍服……!」
儀礼上、前を見据えて姫を見ないようにしているグレンヴェインに小さな声で訴えるものの、けんもほろろの冷たい視線を注がれ、彼女はさらにパニックになる。
「ど、どうしましょう……。」
ステラの情けない声が二人の間にこぼれ落ちた──そのとき。
グレンヴェインは、さっと軍服のグローブを外すと
「御手を失礼いたします、姫。」
低く滑らかな声だった。
彼は小さくそう告げると、その大きな手をステラ姫の白い指に絡ませ、刺すべきピンの位置を示す。
その手には大小様々な古傷があり、彼の過酷な任務を匂わせた。
それより、ステラを驚かせたのは、彼の手が心地よく暖かな手のぬくもりに満ちていた事だった。思わず、目を見開いた。
「ピンを横から刺すのです、姫。お手伝い致しましょう。」
コントラバスにも似たその声色は、冷徹と名高い彼には似つかわしくなく落ち着いて、それは冷たさよりも静謐を纏っていた。
彼の手に導かれるまま針をさせば、ピンは、まるで薄絹を抜けるように、分厚い軍服をすんなり通る。
彼が留め具をはめて手早く勲章を取り付ける様を、ステラは呆けたように見つめていた。
(この人が、噂の"冷徹将校"……。)
視線に気づいた彼の琥珀の瞳がかすかに揺れる。
その冷たく虚ろな眼差しに、驚きか、戸惑いか、言葉にならぬ感情が、微かに浮かんだ。
ステラはそれが何なのかわからず、大きな瞳でじっと見つめた。
「ありがとう、グレンヴェイン。助かりました。」
小声でそう告げ、儀礼的に微笑む。
無事に勲章授与を終えると、大臣達から安堵のため息がこぼれた。
ステラはその気配を感じて、緊張の糸が切れ、どっと疲れが押し寄せる。
さっと立ち上がったその時──
(……あら?)
そう思う暇もない。
ドレスの裾を踵で踏んでいた。
(もう、次から次へと……。なんで今日はこんなに決まらないのでしょうか……。)
心の悲鳴がステラの胸の中でこだまする。
何を考えても遅い。
重心を崩したステラの視界には、スローモーションで回転する天井のステンドグラス。
何とかしようと腰を捻れば、手は真紅の絨毯に吸い込ませる。
(あぁ、だめ……。これは派手に転びます……。)
覚悟を決めてぎゅっと目を瞑ったその瞬間。
それは、それは落ちてきた天使を受け止めるような軽やかさだった。
ステラの体はふわりと浮いて、気づいた時には折れ曲がった体がすくい上げられた。
(……?)
グレンヴェインは、彼女の腰を引き寄せると、傾いた姿勢から颯爽と立ち上がる。
ステラが理解するよりも早く、その細い体は彼の腕の中に収めた。
(……えっ、えっ?!?! )
気づいた時には、軍服越しに頬が押し付けられて、厚い胸板の奥から心臓の音が聞こえる。
男性に抱きしめられたことがないステラは、自分の状態を理解するとパニックになった。
謁見の間はしんと静まり返り、二人を固唾を飲んで見守る。
「……ご無事ですか。お怪我は?」
「えっ、だだ、大丈夫です!」
頭上から降り注ぐ呼びかけに、ステラは動揺しながら見上げた。
その返事に、眉を微かに上げ、安堵したように息を吐くグレンヴェイン。
ステラは、虚ろな彼の瞳に、微かな温かみが宿ったことに混乱しつつも
(……もしかしたら、ちょっとだけ、怖く、ないかもしれない。)
そう感じた時、ステラの胸は訳もなく震えた。
それは緊張かはたまた──。
グレンヴェインはその反応を気に止めることもなく、ゆっくりとステラから距離を置いた。
彼は、その御前に膝をついて膝を折る。
恭しく頭を垂れ、ステラを抱きとめた手のひらを拳に変えて床についた。
「御無礼をお許しください、ステラ=フィリア王女。
宰相として、またあなた様の護衛騎士として、セレスティア王国の秩序と繁栄を誓います。」
まるで、なにもなかったかのように口上を述べるその男を見下ろして、ステラは目を見開く。
ステラは、先程まで彼に握られていた指先の熱を誤魔化すように、もう片方の手で握りしめる。
それだけで精一杯だった。
そんな風景を、大臣達は、見てられないと目を閉じたり、孫の姿を眺めるように見守る。
「いやはや……あの冷徹将校と言われるグレンヴェインが。なかなかやりますな。」
外務大臣があごひげを撫でて笑った。
この日のステラの失態とグレンヴェインの対応は、その後、長く大臣たちの語り草になるのだが──その事を知るものは、この場に居ない。
◆ ◆ ◆
「……先程は、その……転んでしまって、失礼いたしました。あんな式典の最中に。」
任命式の控え室。
二人は向かい合うと言うにはぎこちない距離感で椅子に腰かけた。
隣の謁見の間からは、大臣が、下級将校や役人の任命を執り行う声が聞こえてくる。
大臣の任命式が終わったあとは、最後にステラが挨拶をして閉会となる。が、この様子だと、あと一時間はこの部屋で二人きりだ。
あまりの沈黙の気まずさに、ステラはグレンヴェインへの謝罪を続ける。
「それに、あなたの軍服にも穴をいっぱい刺してしまって……。式典用の軍服ですよね、ごめんなさい。お詫びに、もう一着仕立て直しましょうか?」
ステラはあえて明るく尋ねたが、内心は申し訳なさでいっぱいである。
「問題ありません。軍服には予備があります。」
その回答はあまりに素っ気ない。
グレンヴェインは彼女を見ようともせず、前を向いたまま機械的に答えた。
さきほどステラが感じた彼のかすかな温かさは嘘のように引き、少し戸惑いながらも、おずおずと小さな声で尋ねる。
「……さっき、ほんの少し、優しくして下さった気がしたのですが……気のせい、でしょうか?」
気まずい質問だとわかっていた。
けれど、ステラは無意識に関わりを求めた。純粋にグレンヴェインという人物が気になった。
しかし、彼はわずかに目を伏せたまま、ステラの言葉に答えない。
代わりに一礼だけして剣を携えると、部屋を一巡して、扉や窓の作りを確認する。
そのあとは、また西洋甲冑のように微動だにせず、扉の横に控えた。
(な、なんて、居心地が悪いのでしょう。
見張りを付けられた罪人の気持ちが分かります……。)
気まずさに視線を泳がせる。
もはやグレンヴェインを見ることがはばかられ、ステラは仕方なく窓の外を眺めた。
窓辺は、風もなく小鳥もおらず、時が止まったように変化がない。
控え室には時計の針が進む音だけがいやに響く。
(こんなに長く感じる任命式は、生まれて初めてです。あぁ、早く終わらないかしら……。)
ステラは、いつでもこの部屋から出られるよう、ごく浅く椅子に腰かけた。
居心地の悪さに耐えながら、彼女もまた置物のように一点を見つめる他なかった。