16.仮面舞踏会④
白いバルコニーには、満月の光が降り注ぎ、大理石の床をほのかに照らしている。
風が鳴り、ステラとグレンヴェインの間を抜けていく。
二人はただ見つめ合う。
わずかな時間、手を離した後悔と、互いの温もりを確かめ合うように。
「探しておりました。もう一度お話したかった……。」
グレンヴェインがそう呟くと、ステラは嬉しそうに頷いた。
城に戻り仮面を外せば、いつでも話せるのに。
そう思うと、グレンヴェインには、こんなにも求め合うお互いを滑稽に感じた。
(初めは、姫が他の男と仮面舞踏会を楽しむのが許せなかった──ただ、それだけのはずが。
姫の愛らしく繊細な反応は、私を想像以上に狂わせた。
見てはいけなかった、あなたが男を前にあんな魅惑的な顔をするなんて。
私はあなたを守るべき立場なのに……。)
しかし、グレンヴェインに残された『ただの一人の男として姫を愛せる時間』はもうわずか。
そう思うと、彼女を求めずにはいられなかった。
舞踏会の喧騒が遠く響く夜空に、雲がひとすじ流れてゆく。
眩い銀色の満月が、大理石の床にふたりの影を重ねる。
逸る気持ちを抑えきれず、軽く腰を引き寄せたつもりが、思わず強く抱きしめていた。
柔らかな温もりと、甘く誘う香り。
しっとりと吸い付く肌の感触。
彼女の髪が頬に触れた瞬間、倒錯的な目眩がする。
もっと強く抱きしめたい。
その衝動を抑え切れず、強く抱き締めたことを謝れば。
「お許しください。貴女の魅力に、理性が追い付かきません。」
「……驚きましたけれど、嬉しいです。」
ステラは耳や首筋まで赤く染め、潤んだ瞳で彼を見つめる。
そのいじらしさに、グレンヴェインが彼女の頬を人差し指で撫でれば、子猫のように身じろぐ。
その様子がまた愛らしい。
「ふふっ、くすぐったいです……。」
「そうですか?では、こちらは?」
自然と指が彼女の頬の下に滑る。無防備な姿に抑制が効かなくなり、その白い喉をくすぐれば、腕の中で彼女が身悶えて笑う。
「ふふふっ。もう~遊ばないでください。」
聞きなれた笑い方、困った時の『もう~』というステラの口癖が、いま胸の中にある。
彼にとっては夢のように嬉しかった。
恋人同士のようにじゃれえるこの距離感に。
「ずっとこうして貴女を愛でたかった。今、時が止まれば、どれほど幸せでしょう。」
いつからかステラを見るたびに飲み込み続けてきた言葉が、仮面を言い訳にしてこぼれ落ちる。
ステラは、その言葉にじわじわと確信に近づく。
「……不思議でした。貴方とダンスを共にした時の安心感。初めて会ったはずなのに。ずっと知ってるような……。」
白い仮面に覆われた紫水晶の瞳が、グレンヴェインをのぞき込む。
その眼差しに
(姫、それは私が毎日、あなたを隣で見つめているからですよ。)
その言葉を飲み込めば切なさが増して、ふんわりと柔らかい、無垢な頬を何度も撫でる。
「お名前を……お伺いできませんか?」
ステラの耐えかねた一言。
彼は、答えを初めから決めていたように俯く。
「もし私が名乗れば、二度と貴女に会うことは出来ないでしょう。……それでもよろしいですか?」
「……やはり、私を、ご存知なのですね。」
「仮面がなくては、貴女に愛を語ることも許されない身です。」
グレンヴェインが彼女の腰をぐっと引き寄せるれば、ステラはつま先立ちになる。
彼女の顎先を掴み、くっと上を向かせた。
お互いを求めて視線が絡み合うその瞬間、ステラは紺の仮面の下に、臣下の姿が重なり、後ろめたさに息を呑む。
「い、いけません……これ以上は。」
子鹿のような頼りなさで、彼の胸を押して身を離そうとするが、彼はそれに構わず力づくで抱き寄せた。
情熱を隠そうともしない瞳が彼女を見つめる。
これが罪だという自覚ははっきりある。だが、これを逃せばこの機会は二度とない。
私が彼女に愛を注げるのは──ただ、目の前の淑女に恋い焦がれる、誰でもない一人の男である、この瞬間しかない。
その確信がグレンヴェインを焚き付ける。
俯いた彼女の細い顎先をしっかりと強引に掴んだ。目の前で逃がさないように。
情熱に浮かされた瞳がステラを射抜く。
「……拒まれても、私は貴女を奪います。」
「……そ、そんな。」
共に踊っていた時とは別人のような余裕のない彼の行動に、ステラの体は求められる喜びに湧き上がる。
一方で、彼の強引さの中に切ない想いの匂いを感じてもいた。
(彼に惹かれてます──。)
ステラの微かに開いた赤い唇。
その奥には、バラ色の濡れた舌がのぞく。
(あぁ、もっと姫が欲しい。
私の愛で姫を蕩けさせて、浸したい。
私なしでは生きられないほどに……。)
彼の願いは、渇望となって理性をも飲み込む。
「この先に進めば、もう戻れないぞ。」
頭の奥であの時の警告が叫ぶが、もうそんなものは何の役にもたたなかった。
彼が、ステラの肩に顔を埋めれば、甘い髪の香りに熱い吐息を堪えきれない。
彼女は首筋を撫でる湿った熱に体の芯が痺れて息を飲んだ。
グレンヴェインは顔を上げる。
彼女の全てを奪いたい、衝動に任せて食い散らかすように。その悪魔の誘惑を何とか抑えて。
驚かせないよう優しく、丁寧にステラの顎先を撫でれば、その指先が震えた。
待ち望んでいた興奮に、彼の視界がハレーションを起す。
欲望に溺れながら、最後の理性をつなぎ止めて捧げたのは──蝶が花に止まるような触れるだけのキス。
微かに触れた、初めての柔らかさ。
心が燃え尽きるような静寂のなか、彼女の名を心の奥で何度も呼んだ。
グレンヴェインが、ステラを抱き締めると、彼女も手を伸ばして、彼の背中を撫でた。
「は、初めての、キスでした……。」
震える声で告げると、ステラは恥じらいを隠すように彼に抱きつき、そっと胸に頬を寄せた。
じわじわと胸に沸きあがる、甘くくすぐったい初体験の余韻……。
彼の胸の中の愛らしい小鳥は、ふふふ、と喜びに囀る。
(ひ、姫の初めてのキスのお相手が……私……。)
胸の鼓動が響いて、気が遠くなりそうだった。
胸に頬を寄せる彼女にも、この音が聞こえているだろう。恥ずかしく感じた。
「光栄です……。」
ネルケに与えられた戦術書の鎧が剥がれおち、素直な感想を口にすれば
「貴方は……?」
「実は……私も。」
「えっ、意外です。でも嬉しい……!」
ふわりと綻ぶようなステラの笑顔。
(ファーストキスなんて、考えたこともなかった。
守ってきたわけじゃない。ただ、愛のない世界で生きてきただけ。
それを、こんなにも喜んでくれるなんて……。)
彼女の擽ったそうな笑みを見つめると、グレンヴェインは、これまでの、虚ろで乾ききった人生が救われるような気がした。
(そう、私はこれまでも何度も彼女に救われている。この無邪気な笑み、ひたむきさ──無垢な愛に。)
グレンヴェインは、慈しむように細い腰を撫で、柔らかな髪を指にからませて弄ぶ。
彼の満たされゆく想いを、傾いていく満月だけが見守っていた。
(今、彼女に惚れきった、蕩けるような目をしてるに違いない。もうそれでいい。
この先、愛を注ぐことは許されないのだから。
せめて今夜くらいは。)
月明かりが照らすバルコニーで、愛を交わすように静かに抱きあっていると、ふいにダンスホールから、歓声と拍手が湧き上がった。
「仮面舞踏会も、もう終わりですね。」
ステラは二人は別れの時に気づき、名残惜しそうに身を離す。
諦め切れない様子で彼を見つめ、紺色のコートの袖を掴んだ。
「 ……また、お会いすることは叶いませんか?」
返事の代わりに流れる沈黙。
春の風がバルコニーのカーテンを揺らし、その音が嫌に響いた。
「そうですね。今夜のことは……なかったことに。」
彼の答えに迷いはなく、悲しそうな彼女の瞳を見つめて静かに告げる。
そして最後に、ステラの手を取り恭しくお辞儀をすると、短い別れを告げた。
「今夜のことは忘れません。……さようなら、真珠のご令嬢。」
コートを翻して階段を駆け下りれば、すれ違う人々が彼に別れの言葉をかける。
それに答えることも無く、全てを振り払って舞踏会を後にした。
(明日、もう何もなかった顔には戻れない。
けれど、もう一度同じ瞬間を差し出されたら──私はきっと同じことをする。)
何度も警告された一線をついに超えた。
力任せに仮面を剥ぎ取り、暗い夜道を馬で駆ける。
息を切らせて城に着いた時、彼ははじめて城の城門をくぐることを躊躇った。
その城門の名は──『日常』。
グレンヴェインに様々な喜びと葛藤をもたらした仮面舞踏会は、こうして静かに終わりをつげた。




