12.仮面舞踏会 前夜
午前の仕事も一段落し、ステラとグレンヴェインが執務室のソファで和やかに話をしていた時、内務大臣が来訪した。
「いやいや、姫と宰相。おそろいで助かります。お忙しいところ失礼しますよ。」
丸くなった腰にローブを引きずりながら、老齢の内務大臣は、二人の向かいに腰掛ける。
よっこいしょ、とソファに身を沈めると、持ち込んだ資料をテーブルに並べ
「来月、セレスティアに各国の使節団が来訪するでしょう。その余興として仮面舞踏会を開こうと思いましての。
おふたりは初めてかもしれませんが、セレスティアの仮面舞踏会は、他国交流での伝統行事。実に華やかな催しになりますぞ。」
内務大臣はそう言うと、慣れた様子で、舞踏会の日程や会場、食事、招待状の用意を、次々と二人に説明する。
そうして一息つくと、大臣は、先々代王の頃から既に五回は仮面舞踏会の幹事をしてきたと自慢げに笑った。
「ほほほ、内務大臣なのか舞踏会大臣なのか分かりませんな。」
丸眼鏡の奥の小さな瞳が三日月形になる。
ステラは、余興、と言うにはあまりに手の込んだその行事に面食らいながらも、子供の頃に、母のドレスルームに忍び込んだ時に見つけた仮面のことを思い出す。
イタズラのワクワクと共に記憶に鮮やかに蘇る、金の縁どりとフワフワの羽飾りが着いた白い仮面。
『ねぇ、お母様ー!このお面はなんですか?被っても良いですか?』
『まぁ。ステラ。またドレスルームで遊んだのね。』
そう言いながら、母の膝に乗って聞いた仮面舞踏会の話。
きらめくシャンデリア、華やかなざわめき。
顔がわからない人と触れ合う不思議な高揚感。
そして踊り終われば名も明かさず離れてゆく、一期一会の切なさ。
在りし日の母との思い出と共に、未だ見たこともない不思議な催しに期待が高まるステラ。
大臣は様々な確認を終えて、テーブルの上で書類をトントンと整えると
「さぁ、おふたりも楽しみになさってくださいね。きっと楽しい夜になるでしょう。各々、ドレスや仮面の準備もお願いしますよ。」
丸眼鏡を拭いたハンカチをローブにしまい、よっこらせと立ち上がる。
内務大臣の丸まった背中が扉の向こうに消えると、ステラはグレンヴェインを見つめて目をキラキラさせた。
「グレン、聞きましたか、仮面舞踏会です!
とっても楽しみです~。」
踊るように部屋でクルクル回ると、グレンヴェインを覗き込み、いたずらっ子のように笑う。
「ふふふ、グレンには仮面もドレスも絶対秘密です。会場であっても分からないようにします。」
「そうなると、会場で姫を探すのは、大海原で一粒の宝石を探すようなもの。なかなかに難しそうです。」
どことなく浮き立った嬉しそうなグレン。
自分でもそれを感じたのか、誤魔化すように咳払いをして
「それはそうと。舞踏会では、お酒も振る舞われるようでしたね。できれば、お酒はお控えくださいますよう。」
「どうしてですか?せっかくだし、一杯くらい……」
「………。」
無言の威圧。
それが先日の歓楽街事件のせいなのはあきらかで、ステラは思わず口を噤む。
──グレンを心配させるのはダメ。お酒はダメ。
そう心に刻むが、やはり仮面舞踏会への期待は膨らむばかり。
「そういえば、グレンはダンスを踊れますか?」
「いいえ。将校の研修で多少練習をした程度で、到底社交の場に出られほどではありません。……今回は、壁の花を務めることにいたします。」
「またまた、そんなことを言って。嘘でしょう?」
頭が良く仕事もできて博識。剣の腕はセレスティア随一で運動神経も抜群。
その彼がダンスだけは出来ないと言い張るのはどうも疑わしい。
ステラはおもむろにグレンの手袋越しの手を握ると、
彼に前を向くよう促した。
いちにさん、とリズムを取りがなら、彼をリードしてステップを踏み出す……が、グレンの足さばきとリズムはあまりにぎこちなく、二人の初めての輪舞曲はたった数歩であっけなく終わる。
「思った以上でした……。」
ステラの口から、がっかりと言わんばかりの素直な言葉がこぼれる。
そして、励ますように
「……では舞踏会当日は、壁にいる人の中からグレンを探しますね!」
「姫、そういう会じゃないですよ。」
彼は思わず笑った。
◆ ◆ ◆
仮面舞踏会──仮面があれば、誰が誰かもわからなくなる。姫の隣に立つその男が、どんな素性かも。
グレンヴェインは執務室の窓辺を見つめる。
今日もエドガーのものとおぼしき新しい花が飾られた。
その花瓶の花を見つめれば、グレンヴェインは言いようのない焦燥感に駆られる。
姫の美しい振る舞いや無邪気な魅力が多くの人を引きつけるのは無理もなく、それは仮面ひとつで隠せるものでは無い。
先程、姫とダンスをした時の姫の手の感触が蘇る。
あの細く美しい手が、様々な男達にベタベタと触れられることは、到底許し難い。
それだけではない。
星を浮かべた薄紫の瞳。淡い金糸の髪、ふわりと漂う甘い香り。
……それを、私以外のどこの誰とも知らない男が堪能するというのか。
それ以上にグレンヴェインの心を焦らせたのは、大臣が言っていた姫の結婚のことだった。
いずれ姫は結婚する。
それは自分が姫と、今のような関係でいられる終わりを知らせてもいた。
──しかし、仮面舞踏会の日だけは、私と姫は何者でもなくなる。
それは、その日の夜だけ、私たちの間にある海よりも深い「階級」という溝が、その日だけは消えるということだ。
そうであるなら……。
彼はいてもたってもいられず、城の西側へと赴いた。
広い剣技場や訓練場、兵士寮を兼ね備えたそこは、主にセレスティア軍の管轄。
彼自身のテリトリーでもあるその中で、迷うことなく司令官室に向かうと、ノックもせずに扉を開け放つ。
「ネルケ、いるか。」
「ノックくらいしてはどうですか、宰相殿。」
扉を開けるなり低い声で告げた彼に、ネルケは戦術書ら顔を上げて眉をひそめた。
「それより頼みがある。」
本を置いて立ち上がると、ネルケは、その不躾の来客をソファに座らせる。
彼、ネルケはグレンヴェインの副官を務める中将だ。
二人の出会いは北の城塞。
貴族の情報将校として国内外の防衛拠点を転々としていたネルケを、北の城塞で数ヶ月、世話をしたのがグレンヴェインだった。
もちろん、当時はネルケの方が遥かに格上で、グレンヴェインは付き人の立ち位置。
だが、その後、あっという間に階級をこされ、城で再会した時にはグレンヴェインが彼の上司になっていた。
とはいえ、同じ北の城塞を知る数少ない軍人同士、こうして時折交友を温めてもいる。
「何かあったのかい?君がそんなに焦っているのは珍しいね。」
向かいに腰かけると、優雅な振る舞いでテーブルの端にあったティーポットカバーを取り。
「もう冷めてぬるいかもしれないな。まぁ君ならいいだろう。」
構わず紅茶をカップに注ぐと、かすかなアールグレイの香りが辺りに漂う。貴族らしい優雅な振る舞いと、軍人暮らし故のざっくばらんさ、それが彼の魅力でもあった。
「ネルケは社交の場になれているだろう。私にダンスを教えてくれないか?」
ぬるくても上等な茶葉だと分かるそれを一口、口にすると、グレンヴェインは真っ直ぐな目で彼を見つめた。
「なるほど、君もとうとう社交界デビューかい?宰相ともなれば、色んな淑女がよりどりみどり……羨ましいねぇ。」
「そうではない。取り急ぎ、一人と踊れれば良い。ただ、私はダンスの心得もないし、身長差があるせいか彼女とは全く足並みが揃わないのだ。相当に訓練しないと難しい。」
「ははぁ~ん……つまりお目当ての女性がいる、と。これは俄然面白くなってきたな!」
北の城塞で冷徹将校と呼ばれた男がこんな面白いことになろうとは。
ネルケは内心そう思いニヤニヤと笑う。
この楽しそうな企みに参加しない手はない、と思わず身を乗り出した。
「それで、いつまでに踊れるようになりたいんだ?」
「……今度、使節団を招いての仮面舞踏会があるだろう?その日までに。」
なるほどねぇ、と企み顔で顎を撫でネルケ。
策略家らしく目標までの計画を手早く練り上げると
「いいじゃないか、グレンヴェイン。
君の目標達成にはいくつかの準備が必要だな。
まず一つ目は特訓の時間。
今からだと週に三回はレッスンが必要だ。
二つ目は場所。
……これは剣技場の隣の室内訓練場部屋を使えば良いか。鏡もあるしちょうどいいな。
そして、最後に……ダンスの練習相手。
その踊りたい相手と同じ背格好の女性が好ましい。
僕の仲の良いお嬢さん達に頼んでも良いが……週に三回、城に来て貰うのは難しい。それに宰相の訓練相手となるば口の固さも大切だ。」
そんな人物いるだろうか?と考え込むネルケに、グレンヴェインはぬるい紅茶を飲み干して、口の端を上げる。
彼の頭の中には、うってつけの女性の姿が思い浮かんでいた。
それから数週間後、ナンシーが小走りに廊下を急ぐと、執務室の前で姫とばったり会った。
メイドが立入ることはない城の西の方に向かうナンシーを不思議に思うステラ。
「ナンシー。どこに行くの?」
「姫様!ええと……兵士寮です!最近お洗濯が多くて、時々お手伝いに行ってるのですよ。
ほら、今も洗った服をお届けに行くところで……。」
慌てて取り繕うと、胸に抱えた洗濯袋を抱きしめる。
中には、ネルケに借りたダンスの練習着と靴。それは、ステラにだけは絶対に知られてはいけない。
なぜなら、ステラを繁華街で危険に晒したのに何も咎められなかったグレンヴェインの温情を、ナンシーは忘れてなかったからだ。
(ごめんなさい、姫様。でもきっとこれも、全部、姫様のため……!)
心の中でそう何度も謝ると、姫からの詮索をさけるように、急ぎますので!と不自然に話を切り上げるとまた走り出す。
城の西は、中心部から離れていて、なかなかに遠い。
息を切らせて急ぎながらも
(そういえば、姫様の隣に立った時、姫様の方が少しだけ背が高かったわ。背が伸びられたのかしら。ダンス用の靴、もう少しヒールの高いものにしてもらった方が、宰相の訓練に良いのかも……。
これは内緒の作戦。
すべては、姫様と宰相の笑顔のため──)
ナンシーはそう心に決めて、訓練場への道を急いだ。
ナンシーが額に汗を浮かべながら訓練場に駆け込むと、そこには想像しなかった光景が広がっていた。
「えっ!?は……はわ。す、すごいです……宰相。」
頬を赤くして、言葉にならないナンシー。
彼女の視線の先には、社交界用の衣装に身を包んだグレンヴェインが立っていた。
ロングコートはしっかりとした光沢のある紺の生地で誂えられ、その上には繊細なダマスク柄が浮かぶ。
グレンヴェインの体型にぴったり作られた上質な縫製が彼のスタイルの良さをよりきわだて、袖口や襟に縁取られた金色の装飾は、彼が動く度にキラキラと煌めいた。
同じ生地で作られたウェストコートは細身で、首元にひらめくジャボとのバランスが、たくましく鍛え上げられた胸元と引き締まったウエストをより一層ひきたてる。
彫刻のように整ったその姿には、至らないところなど一つもない。
ナンシーが来たことに気づいて、振り向くグレンヴェイン。
「あまり着慣れないもので。おかしくないでしょうか?」
少し窮屈そうな顔をしながらそう尋ねれば
「おおおおかしいなんて!!その!とても凄いです……宰相。たぶん、姫様が見たら……びっくりします。」
ナンシーは、日頃のグレンヴェインからは想像できない姿に圧倒される。
大人の色気が溢れる魅惑的な佇まいを直視出来ず、恥ずかしさに耐えかねて、思わず洗濯袋で顔を隠す。
洗濯袋越しにも、顔の熱さは隠せなかった。
その様子に、ネルケが声を上げて明るく笑う。
「ははは。ナンシー嬢には刺激が強いかな?
なんと言っても僕の家、エディンガー家御用達の仕立て屋に作らせたのだ。
どんな男だって、あの仕立て屋にかかれば一流の男。
この紹介料は高いぞ?グレンヴェイン。」
そう言いながら、小さな小箱を開けると、中のクリームを手に取る。
「この社交服のテーマは、さる大国の貴公子。髪型もそれっぽい方がいいな。こんな感じでどうだろうか?」
整髪料を使ってグレンヴェインの髪をかきあげ、櫛で後ろに流す。
いつもは前髪に隠されている精悍で美しい額と少し気難しそうな眉が露になると、それはより一層グレンヴェインの魅力をひきたてた。
「さぁ、今日は最後のレッスンだからな。
本番衣装を身につけて、ビシビシいくぞ!」
ネルケが気合を入れて両手をパンと叩くけば、二人はそれに従い、各々基本の動作を確認する。
その日の特訓はいつもにも増して厳しく、練習の半分が終わる頃には、グレンヴェインの額に汗が浮かんだ。
それでも、ネルケの指導は緩まることがない。
「グレンヴェイン、ターンが早い!君のペースではなくナンシーの重心に合わせて!」
「その足さばきでは軍人だと名札を下げてるようなものですよ、もっと繊細に!」
「それではパートナーがどちらに進むのか分からず迷います!手の方向と目配せで、しっかりと相手をリードして。」
その日の訓練は予定を遥かに超え、訓練場には夕方頃までネルケの檄が響いていた。
◆ ◆ ◆
一方その頃。
ステラがいつも通り執務室に入ると、なかには誰もいない。
ひとりぼっちの夕暮れ時の執務室。
「そうだ、今日はグレンは剣のお稽古でした。」
彼が剣の訓練をしたいと言い出したのは数週間。
改まった様子で姫の前に立つと、最近、剣の感覚が鈍っていること、姫の護衛をする上でも良くないことを説明し、週に三回ほど、城の西の訓練場で訓練をしたい、と頭を下げてきた。
「もちろん、公務には影響がないようにいたします」
そう念を押す彼の熱心さにほだされ、頑張ってね。この国のためにありがとう。と明るく励ました。
それ以来、時折、夜遅くに西の訓練場のあかりが着いていることに、ステラは気づいていた。
(グレンは本当に努力家ですねぇ。宰相になってからも剣の腕を磨くなんて。)
詳しいことは何も言わず、ストイックに訓練に励むその様子は彼らしく、ステラは愛おしそうにその明かりを見守ることもあった。
ステラは彼のいない執務室を見渡す。
ずっとひとりで使っていたはずなのに、今日は妙にさみしい。
グレンが来てから、彼が部屋にいることが当たり前になっていた──つまり、この心にある寂しさは、彼が日々満たしてくれている寂しさの量。
今更気付かされた。
「でも、ナンシーも、グレンも、最近忙しそうですから。皆、忙しそうです……。」
ステラはぽつりと呟いた。
しんとした部屋の空気に気弱になり、グレンの執務机を撫でると、そこには手紙の束や筆箱、羽根ペンやインクが持ち主の性格そのままにきっちりと並べられている。
「グレンは、いつもちゃんとしてますね。」
その机の端を愛おしそうに撫でれば、ふいに、彼と出会ってからの日々を思い出す。
任命式の冷たい眼差し。
護衛騎士の勲章をつける時に助けてくれた温かな手。
初めて城下町に行った時教えてくれた、彼の出自。
無理やり、彼の口にラズベリーを入れたこと、
初めて『グレン』と呼んだ時の、照れた顔。
執務室に彼の机が運ばれて、初めて指先に触れたあの日。
バタースコッチをあげたあとの、柔らかな微笑み。
繁華街で私を見つけた時の動揺。
そして──朝焼けの中『命ある限り、この手を離さない』と誓い、手にキスをしてくれたこと。
彼と出会ってそう長くない。
それでも、そのひとつひとつが、胸の奥に灯り続けている。
日々を照らす、ささやかは光のように。
ステラはその輝きを改めて眩しく感じ、きゅっと心が苦しくなって胸を掴んだ。
そして、その日から感じていた疑問に俯いた。
(なぜあの時、『命ある限り、この手を離さない。』と言ったのでしょうか。
宰相と護衛騎士は任期があることは、グレンも知っているはず。
なのに、どうして……)
その問いに心を惑わせながら、ステラは落ち着きの無い様子で、グレンヴェインの椅子を撫でた。
この椅子にいつか違う人物が座る日が来ると思うだけで、とてつもなく悲しかった。
(私だってずっとそばにいて欲しい。
けれど、私は王位継承者、あなたは宰相であり護衛騎士。
この壁は、私たちが生きている限り超えられません。
叶わないと、わかっているのに……)
葛藤を抑えられず、彼の椅子の黒い皮に小さな爪をぐっと立てる。
しばらくそのまま俯いて
(辞めましょう、これ以上踏み込むのは。
グレンは、この国と私に忠誠を誓い、私を守り、セレスティアの政治を推し進めている。
これ以上、何を望むというの。)
なんでも聞けば良いというものではない。
在りし日の学びを胸に呼び起こすと、ステラは、爪を立てた椅子から、そっと手を離した。
ふと視線を逸らすと、グレンヴェインの書類箱に未決裁の書類箱に何枚かの書類が溜まっていることに気づく。
気を紛らわせるようにそれを手に取れば
(城壁修繕の承認、嘆願書の報告書、人事計画の確認、王室広報の最終確認のお願い、備品購入の許可……私にも承認できそうですね。)
ステラはその書類の束を抱えると、自分の机に座り、ペンを執る。
「今は、私にできることに集中しましょう。それに今は皆が忙しい時。私も力になりたいです。」
黙々と机に向かうステラの頬を、焼ける夕日が照らしていた。




