10.町はずれの歓楽街②
動物も木々も寝静まった深夜。
姫は丘の上のホテルから、オペラグラスをのぞき込む。
そのガラスの先に映るのは、城下町の入口。
「あっ、ナンシー、やっぱり来ましたよ。グレンです!」
ステラは興奮したように、手を振って、ベッドで休んでいたナンシーを起こすと、二人でホテルのバルコニーから身を乗り出す。
「どこに行くのかしら……」
オペラグラスを覗き込み、その行方を慎重に追いかけるとステラ。
その心の中は、深夜に城を抜け出て人を尾行するという行けないことをしている緊張感と高揚感で満たされて、まさに気分は探偵かスパイだ。
「グレンヴェイン宰相が向かってるの、歓楽街の方向ではないですか?」
遠目にグレンの姿を追いながら、ナンシーは戸惑いを隠せない声でつぶやく。
その様子に、ステラはオペラグラスから顔を外して問いただした。
「歓楽街……賭博やお酒、ということですか?」
「まぁそういうのもありますが……」
ナンシーは歯切れの悪い顔で答えると、姫からオペラグラスを受け取って覗き込む。
ちょうど、暗闇の中でグレンヴェインが馬からおりるところが微かに見えた。
「一応、セレスティアでは違法ですが、歓楽街では深夜だけ女性と遊ぶことも出来て……。
今、宰相が馬から降りた区画がまさにそうです。
憲兵から摘発されないように、深夜から明け方までの短い間だけ営業してるらしくて。」
「はぁ?!」
姫の怒りが頂点に達する。
(この国の宰相ともあろう人間が、夜な夜な歓楽街に出入りするだけでも言語道断なのに、女性といかがわしい遊びをしているですって?!)
少年の格好をしたステラは、キャスケットに長い髪をしまうと、黒い伊達メガネをつけた。
「ひ、姫様!やはりやめませんか?宰相にもプライベートというものがありますし……。その。なんでも知れば良いというものでは無いのです。」
ナンシーは、乗り込む気満々でホテルを出ようとするステラの腕を引っ張って泣きごとのように諌めた。
グレンヴェインとステラの関係を知っているからこその焦り。
大切な姫が傷つくところを見たくなかったのだ。
「ナンシー、行くわよ。馬が止めてあるうちに探しに行きましょう。
宰相が歓楽街で違法なお店に出入りしてると分かったら、大変な政治問題になります。私には彼と話す義務があるのです。」
それはあくまで口実でしかない。
『姫。私は……姫のためにここにおります。他の女性など、私には取るに足らぬものです。』
あの言葉はなんだったのだと今すぐにといつめたいです、あんなに誠実そうな顔をして。
──なぜか、だまされたようで泣きたいくらい悲しかった。
任命式の日、勲章をつけるのを助けてくれたこと。
初めて城下町に行く馬車で、子供の頃の話をしてくれて、市場のワイルドベリーの事で喧嘩した日のこと。
初めて指先を触れ合った日のこと。
キャラメルをあげた日のこと。
あの感情の触れ合いが嘘で、少しずつ積み重ねて来たと思った二人の関係が、自分だけの幻想だったとするなら、それはあまりに悲しくて、このままこの部屋のホテルにいることなんて出来なかった。
ステラは隠すように涙を拭いながら、ナンシーと共に夜闇を駆け抜け歓楽街にたどり着いた。
「グレン、この路地に入って行ったはずなのに……完全に見失ったわ。」
路地を覗くと、ギラギラした不思議な色のランプが細い道いっぱいに並び、雨でもないのに石畳は黒く濡れて、汚れとカビでぬかるんでる。
何より驚くのは、ステラがこれまで嗅いだことの無い醜悪な香り。
「姫、やっぱりやめませんか……?」
姫の腕に縋り、恐る恐るあたりを見回すナンシー。
ステラも同じ気持ちだった。
行くのは怖い。けれど、行かなくてはグレンヴェインの真実にはたどり着けない──。
ステラは覚悟を決めるとナンシーの手をぎゅっと繋いで、その怪しげな歓楽街に足を踏み入れた。
歓楽街に似つかわしくない二人は、すぐに陰気な町の住人に見つかり洗礼を受ける。
「やぁ、お坊ちゃんお嬢ちゃん、何しに来たんだい?!二人で初めてのお遊びかい?!俺にも見せてくれよ~」
「あら。可愛い少年、お姉さんと遊びましょうよ、気持ちよくしてあげるわよ~」
歯のない老人や病的に太った婦人が酒場で酒を飲みながらからかうと、周りの客もげらげらと下品な笑い声を浴びせかける。
無視して振り払うように進めば、今度はナンシーが痩せこけた老婆に手を掴まれた。
「お、お嬢ちゃん…少しでいい。お金をくれないかい。その頭に巻いてるスカーフでもいいよ。もう3日も何も食べてないんだ……」
ヘドロまみれの地面に座るその姿に怯え、足を止めてしまうナンシー。
姫はポケットから銀貨を取り出すと老婆に握らせ、またナンシーの手を強く引いて走り出す。
「ナンシー、足を止めてはダメ。進みますよ。」
ぬかるみにギラギラしたランプが反射する怪しい暗い小道を走りながら、何年も城下町にあるこの現実を知らず、世界の上辺だけを見ていたことを恥じた。
『ただ、食べるものがなく、日常的に草や雪を食べていて、寒かったことだけは……よく覚えています』
いつの日か、グレンヴェインが話した言葉が脳裏に浮かぶ。
あの言葉の意味を、あの時自分は分かっていなかった。きっと今も、まだ分かっていない。
まとわりつくような石畳のぬかるみと、目が滲みるほどの悪臭がそれを教えてくれている。
そう痛感した。
「あっ、姫!」
後ろを走るナンシーに突然手を引っ張られ、転びそうになりながら、二人はバラックの影に隠れる。
「あれ、グレンヴェイン宰相ではありませんか?」
指さす方を物陰から伺うと、酒場のカウンターに、確かに髪型や背格好がグレンヴェインにそっくりの人物いて女性と酒を飲んでいた。
薄茶のマントに町人風の変装、横顔しか見えないが間違いない。
様子を伺っていると隣の女性は、グレンヴェインらしき男性の膝の上に座り、甘えるように首に抱きつく。
その瞬間、男性の肩越しにその女性と目が合って、ナンシーとステラは息を飲んだ。
「ステラ様にそっくり……」
ナンシーは呆然とつぶやく。
金の髪、細い鼻筋、薄紫の瞳に薄い唇。
ステラ自身も息を飲むほどだった。
ナンシーがそっと肩に手を添えると、ステラの身体がかすかに震えているのがわかった。
「……どういうことでしょうか?」
グレンは、私にそっくりな女性を求めてここへ?
それとも……あの女性の代わりとして、私を慰めにして?
ステラの頭に様々な思考が散らばり混乱する。
ステラに似た女は二人に気づくと、わざとらしく微笑みながら、見せつけるようにグレンの首筋へと舌を伸ばそうとした。
グレンヴェインはそれに気づいて、彼女の顎を指で掴んでやんわりと辞めさせる。まるでじゃれる猫を窘めるように。
その慣れた仕草にステラは目の前が真っ黒になり、卒倒しそうになった。
「こんなところで、なんてことをしてるの、グレン……。」
全身の血が引くような感覚に襲われ、指先が冷たく痺れた。震える手で、痛む胸を押さえる。
すると、ステラに似た女はクスクス笑いながら、ステラ達を指さして、グレンヴェインに何かを囁く。
その瞬間、グレンヴェインが恐ろしい勢いで立ち上がり、二人の方を振り向いた。
マントのフードがはらりと落ち、見慣れた薄茶色のグレンヴェインの姿が露になる。
ステラは夢の中のように、現実が遠ざかっていくのを感じた。
勢いよく立ち上がったグレンヴェインの膝から、女が転げ落ちて甲高い声で喚き、カウンターにあったジョッキは倒れて床に砕け散る。
だが彼はそんなことを気にする余裕さえない。
瞬きひとつせず、血相を変えてステラに駆け寄ると、細いその腕を力いっぱい握りしめる。
恐ろしいほど見開かれた瞳。わなわなと震える唇。
「な、なぜこんなところに……!」
あまりに大きな声に、酒場の客が騒ぎ出す。
「おっ喧嘩か!?」「やれやれ!」
次々囃し立てるが、その言葉は彼の耳には届かない。
喧騒も、光も、何もかもが遠のいて、怯える姫の瞳だけが、彼の世界のすべてだった。
「あなたには、失望しました。少しずつ積み重ねた日々は私の心にしか無かったのですね……こんないかがわしい街で、私に似た女性を買うのは、そんなに面白いことですか?」
そう呟けば、自分の言葉に押しつぶされ、みるみるうちに視界が滲む。
彼を冷静に問い詰めようと思うほど声が震えた。
彼の顔を見たら、どういうつもりか睨みつけて、問い詰めようと勇んでいたはずのステラだったが、現実はなさけないものだった。
ステラの紫水晶の瞳から大粒の涙がこぼれた瞬間、彼は激しく動揺した。
誰にも見せてはいけないと焦り、着ていたマントを取ると姫を包むと、被っていたキャスケットがはらりと落ちて美しい髪が流れるように宙を舞う。
周りからは「おいおい女の子じゃないか?!」「お姫様抱っこか!やるねぇ」とヤジが飛ぶがもはやそれどころでは無い。
「や、やめてください!下ろして!」
「今は大人しくなさってください、後でいくらでも罰は受けますから……。」
ステラはグレンヴェインに担がれて暴れたが、それでも大切そうに抱え続けた。
ステラは、グレンヴェインの声が想像以上に悲しげで思わず息を飲むと、そのまま抱かれて大人しくする他なかった。
「姫、お許しください。ナンシーもこちらへ。ここはあなたたちが来るような場所では無い。話はあとにして場所を変えましょう。」
丘の上のホテルへ重い足取りで向かう。
一行はひとことも口を開かず、東の空に滲む夜明けの気配をただぼんやりと見つめて歩いた。




