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もうひとつの影⑸

「大丈夫?」


 背中へ伝わる手の温もりに反発する体。涙まみれの顔を袖で拭い、目を見開いてみる。

 白かった手元の布が灰色へ変わり、少し開けられた窓には紺碧(こんぺき)のカーテンが揺れていた。

 ようやく、目が覚めたのだろうか。相変わらず息は苦しくて、交感神経が働いている。これほどまでに、意識の変化なく現実へ移行する夢があるものなのか。


「顔色、戻ったみたいね」


 優しく奏でられるピアノのような声が、耳に流れてくる。


「どうして、うちに……」


 隣に座る人影は、穏やかな笑みを浮かべる日南先生だった。

 屋上で話をしたあと、倒れて病院へ運ばれたらしい。疲労によるものからだと、医師から告げられたそうだ。

 家のカードキーが机の上に置かれているから、通学鞄を探って使ったのだろう。仕方ないことだけど、セキュリティもあってないようなものだ。


 こんなことが、前にもあった気がする。ピアノを弾く僕の前に、突然現れた少女──蓬が脳裏を過った。


「なんで、日南先生が?」

「ご両親には連絡したんだけどね。その……」

「来なかったんですね」


 先生は、頷きも否定もしなかった。それは、首を縦に振ったと同じことだ。


「一日で二度も倒れたから、念のため病院に連れて行くと私が言ったの。そしたら、大事なインプラントの手術があるから……お願いしますって」


 昔から両親は、僕より仕事優先だった。

 患者想いで腕が立つ、評判がすこぶる良い歯科。いつも人から感謝の言葉を貰い、笑顔を絶やさない父と母を尊敬していた。父のような大人になりたいと、子どもながらに憧れを抱いていた時期もあった。

 だけど、町の人の笑顔を見る度に、僕の心は孤独になっていった気がする。


 どうして僕は、いつも独りぼっちなんだろう。

 どうして僕は、両親の患者じゃないんだろう。


 そんな意味のないことを、よく考えていた。


「お母さん、心配してらしたわ。でも歯医者さんだから、予約もあるだろうし大変よね。先生でよければ力になるから」

「……ご迷惑かけて、すみませんでした」


 布団に頭まで(くる)まると、自然と体が小さくなる。

 背を向けたドアから、先生が帰っていく寂しげな音がした。

 誰もいない部屋なんて慣れているのに、人が去った後の空間は余計に静けさを感じる気がする。

 薄い布から、そっと顔を出した。勉強机の上には、今朝方まで読んでいた歯科解剖学の参考書が置いたままになっている。

 最近、父から譲り受けたものだ。未知の絵と味気ない専門用語がずらりと並べられた紙は、暇つぶしにもならない。毎日、気が遠くなる一方だった。


 瞼を(ふさ)がれたように閉じてから、どれほど時間が経っただろう。目を覚ました時には、時計の針が午後六時半を過ぎていた。

 夢を見なかった。消えてしまえばいいと言ったからなのか、もしくは今が夢の中なのか。

 リビングの方から物音が聞こえる。母が帰って来たのだろうか。

 自分の家なのに、忍足で階段を降りていく僕は、きっと馬鹿げている。

 薄暗い部屋の明かりを付けた。ほんのりと香る白米の匂い。テーブルには、小さな土鍋に入った卵粥(たまごがゆ)と漬物が、『よかったら食べて寝て下さい 』の置き手紙と共に添えられていた。

 ハッとして足早に玄関へ向かうと、そこにはパンプスを履き終えた日南先生の背中があった。


「もしかして、起こしちゃた? 今、お粥を」


 気付くと、振り返ろうとする彼女を後ろから抱き締めていた。

 細くて長い指が、僕の腕をキュッと掴む。小刻みに震えているのは彼女なのか、それとも僕の方か。


「……あの、直江くん? 誰かと、間違えてない? 私は君の担任の……」

「もう少しだけ……、ここにいてくれませんか?」

「えっと、まず、この手を」


 腕を振り解くことくらい出来るはずなのに、そうしないのは日南先生の優しさなのだろう。

 シャンプーなのか花のような香りが鼻孔(びこう)をくすぐり、落ち着かない心臓をさらに速める。

 離れなくてはと頭では考えながら、抱き締めている腕はよりキツくなっていく。震える手を隠すかのように。


「誰でもいいんです。傍にいてくれるなら……、誰でも。それなら、いいですか?」



 ──嘘だ。

 本当は、日南先生と蓬の後ろ姿が重なって見えた。どこへも行って欲しくなかった。

 鼻を(すす)るような音が聞こえて、フッと腕の力が緩んだ。

 泣いてる? 雨漏りを受けるバケツのように、僕の手にポタポタと冷たい雫が落ちてくる。


「大人は勝手。きれいごとばかり言って、簡単に大切な人を傷付ける。考えてるふりして、結局は自分の思い通りにしたいの」


 涙を指で拭いながら、引き止める力を失くした僕の腕から、そっと体を離した。少し充血した目は、真っ直ぐに僕を捉えている。


「でも、そんな大人だからこそ向き合って欲しい。ちゃんと思いをぶつけて、話せば通じ合える心もある。手遅れになる前に。昔の私が、そうだったから」


 何も言えなかった。兎のような目と表面張力で保たれている涙が、日南先生の過去を物語っていたから。



 午後九時四十分。ベッドに横たわり眠れない目を閉じていると、聞こえてくる階段を上がるスリッパの音。開けられたドアからしばらくして、耳元で足音は消えた。

 目の前に母が立っていると知りながら、瞼は下がったままだ。


「梵、大丈夫? 今日は迎えに行ってあげられなくてごめんなさいね」


 想像以上の優しい口調は、薄っすらと目を開ける僕に続けて話す。


「疲労だそうね。少し無理をさせ過ぎたのなら謝ります。だから、もうピアノは辞めましょう」

「ピアノを──⁉︎」


 元から眠気はなかったけど、一気に目が覚めて体が勝手に飛び起きた。

 あまりに勢いがすぎたのか、何にも動じない母の表情が、少しだけ強張ったのが分かる。


「品を身に付けるために始めたものだから、もう必要ないでしょう。よく頑張って続けて来たわ」

「ピアノは、唯一の……」

「歯科医師に必要なのは技術と能力。それと患者さまに寄り添う心」


 言いかける語尾に被せて、母は決まり文句のようにとどめを刺す。


「梵なら大丈夫よ。信じてるから、頑張って」


 いつも母は、口癖のように【信じている】と言う。期待を向けられたその台詞は、魔法のように成績を上げたけど、同時に解けない呪いで徐々に僕を縛り付けていった。

 母の中で父は絶対的存在で、僕の意見はないに等しい。応援すると笑顔を見せながら、両親の敷いたレールを走る選択肢しか与えられなかった。


「勉強は(おろそ)かにならないようにするから、ピアノは続けたい」


 幼少期に抱いていたように、ただ寄り添って話を聞いて欲しいだけなんだ。


「もう無理しなくていいのよ。少し時間に余裕を作った方がいいわ。書道も辞めて、勉強に専念出来るようにしましょう」


 ピアノを優しく奏でているようで、母は鍵盤(けんばん)をひとつずつ圧し折っていく。音の出なくなった僕の心は、それ以上何も言えなかった。

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