もうひとつの影⑷
部活へ行くまでにある十数分の時間、屋上へ出向いた。定位置になっているフェンスに腰を下ろして、近づく夏の香りを感じている。
楽しくも面白味もないのに、投げ出されている足は開放感にあふれていて、僕を安心させた。目を瞑れば、自由になれる気がして。
「直江くん」
ふわりと浮きそうな体が、背中を引っ張られるようにして現実へ戻された。
また、日南先生だ。少したわむ背側のカッターシャツを、細い指が掴んでいる。
「なんですか?」
そのままの状態で話を続けると、日南先生は握る左手の力をグッと強めて。
「直江くん、一緒に飛ぼうか」
一瞬、音の無い時間が流れる。
「……え?」と疑問符がこぼれた時には、世界が逆さまになっていた。
ドスンという鈍い音のあとに、ジーンとした痛みが太ももからお尻にかけて現れる。
空は近いままで、体中に張り巡らされた神経から柔らかな感触が伝わってきた。ようやく、先生の腕に支えられていると気付く。
とっさに遠ざかった心臓は、ぐらつく波のようで穏やかではない。
「ごめんなさい」
先に口を開いたのは、向こうだった。
「少し脅してみたら、やめてくれると思って。直江くんのこと心配してるの。でも、教師のする事じゃなかった。ごめんなさい」
自分のしたことに、動揺しているらしい。自らを責めるように瞼が下がり、その姿は雨に打たれて震える子猫みたいに弱々しく見える。
僕の放つ一言で、脆く崩れてしまいそうだ。
「一緒に飛ぼうって言ってもらえて、いつも明るくて人気者の先生でもそんな顔するんだって知れて。正直、嬉しいです」
満月のような目は、驚きに満ちている。開いた瞳孔の先に何が秘められているのか、少しばかり興味があった。
「昔、この屋上で同じようなことがあったの。まだ高校生だった。先生ね、結芽高の卒業生なの」
やはりというより、まさかの方が強かった。脳裏を過ったのは蓬の顔。もしかしたら、彼女のことを知っているのではないか。
蓬の名を口にしようとした時、吹雪を思わせる突風が吹いて、それに合わせるように、背後からひそひそと身を潜めた話し声が聞こえてくる。
塔屋の陰に、誰かいるのか?
隠れる気はないけど、後ろめたい気持ちに襲われるのはなぜなのか。
うろたえながら、もうひとつの違和感に気付く。素早く振り返るけど、さっきまでいた日南先生の姿がなくなっていた。ドアから帰っていたら気付くはずだが、それは違う。
慌てて、乱雑にフェンスへ足を掛ける。見下ろしたところにも、彼女はいない。幻のように忽然と消えた。
僕の頭は、おかしくなってしまったのだろうか。
「……先生」
今度は、鮮明に聞き取れる声が鼓膜を通過する。風に漂う花の蜜に誘われるように、僕は気配のする塔屋へと近付いた。
吐息が漏れるような音がする。胸の高鳴りが止めどなく押し寄せて、唾を飲み込む。
建物の死角に隠れて、抱き合いながら唇を重ねる男女の姿があった。皆川という教師と蓬だ。
ドクン。心臓を撃たれたような衝撃が走る。
見てはいけないものを見てしまった。するべき行動を頭では分かっているのに、体は微動だにしない。網膜に焼き付けるかの如く、彼らの行為をじっと見ていた。
蓬は閉じていた瞼を薄っすらと開き、トロンとした視線を皆川へ向ける。
「先生、やっぱりダメだよ。誰か来たらどうするの?」
「屋上なんて誰も来ないさ」
皆川は再び顔を近付ける。彼らには僕の姿が見えていないのだろう。
動け、動け、早く動け!
呪文を唱えるみたいに、心の中で何度も繰り返す。
もう見たくない。見ていたくない。
呪いが解けたのか、右足が一歩後ろへ動いた。もう一歩下りながら、大きく口を開ける。
「よもぎ──っ!」
水彩絵の具が滲みゆく景色の中、夢中で彼女の名を呼んだ。必死に、ただひたすらに。
個室に響き渡る自分の叫び声で、目が覚めた。呼吸は荒くなって、心臓は落ち着きを忘れた音をしている。嫌な夢だった。
目の先にある白い天井を眺めながら、数回深く瞬きをする。
薄いオレンジのロールカーテンが、朦朧としていた意識をはっきりさせていく。
保健室で寝ているということは、倒れたのか。それとも、また時間が巻き戻されたのか?
掛けられている布は鉛、起こす上半身は鎧のように重い。
「大丈夫? 何か、うなされてたみたいだけど」
ベッドの傍で声がした。鼓膜にこびり付いて、不快なほど離れてくれない声。心配そうに見つめているのは蓬だ。
「……誰のせいだと……思ってんの」
ポツリと、小さな氷のように放つ言葉は、誰に向けたものでもなかった。
「梵くん、顔色よくないよ。もっと寝てた方が」
額へ伸ばされた細い指を、パッと払う。
「穢らわしい手で触るなよ」
体中の細胞が、蓬を拒絶していた。丸い目をして、何も知らないような顔で僕を見ている彼女が嫌いだ。
教師とあんなことをしておいて、平然とした態度で接しられる神経が理解出来なかった。
「早く覚めてくれよ。頼むから、もう僕の夢に出てこないで」
「梵くん、どうしちゃったの?」
「全部消えてしまえばいい。全部、ぜんぶっ!」
──あの時、蓬の頭に添えられた皆川の左手薬指には、指輪が光っていた。既婚者でありながら蓬に触れていたあの男を、心の底から軽蔑する。
それと同時に、恋焦がれる瞳をする蓬を憎らしく思った。どうして僕じゃないんだ、と。そんな自分が気持ち悪くて、恐ろしい。
グッと握った薄い布に、小さな水滴が落ちる。ひとつふたつと増えていく丸いシミは、やがて目の前が霞んで見えなくなった。
行き場のない怒りを込めて握る拳が解かれることはなく、きつく締め付ける感覚は続いている。
世界は滲んでいるのに、どうして悪夢は終わらないのか。