もうひとつの影⑴
月曜日の朝。いつもより早く家を出て、校門の前で登校して来る生徒を迎えた。挨拶向上習慣としての生徒会挨拶活動が、今日から一週間行われる。もちろん、この作業も二度目だ。
変わらない挨拶を交わして、見送る。同じように感じる毎日でも、時間が戻る前と違う言動をすることによって、些細な変化をもたらしている。
「会長、さっきから手に持ってる棒切れなんですか?」
不思議そうにしながら、副生徒会長が首を傾げた。
「これから役立つんだ」
「そんな小枝が?」
例えば、もうしばらくすると、隣に立っている副生徒会長の肩に毛虫が落ちて来る。彼女は虫が苦手のため、泣きながらそこら中を走り回って、登校中の生徒と衝突。膝を擦りむく怪我をして、大騒ぎしていた記憶がある。
木から鳥が飛びたった拍子に、毛虫が落下した。肩に着地するタイミングで、枝でキャッチする。
こうして、副生徒会長が怪我をする未来はなくなったというわけだ。
そのうちに苗木が登校して来た。眠そうにあくびをしながら、目を擦る仕草まで一度目と一致している。まるで、映画の映像を繰り返し見ているみたいだ。
「よう、直江。朝っぱらから、お疲れさん」
「おはよう。あのさ、苗木。放課後だけど、今日は早く帰った方がいい」
「なんだよそれ? 学校来てもう帰りの話か?」
「いいから、出来るだけ早く。絶対その方がいいと思う」
真顔で言い続ける僕を見て、苗木はしぶしふと頷く。
「わけ分かんねぇけど、わかったよ。終わったら、さっさと帰ればいいんだろ?」
首を傾げながら、苗木は校舎へ入って行く。
よしと心の中でひと息ついて、僕は挨拶活動を再開させた。
***
「少女漫画の見過ぎだな」
「あら、失礼ね。昨日ドラマで見たのよ」
「【君とは出会う運命だった】なんてくそイタイこと、千円貰ったって誰も言わねぇぞ?」
「じゃあ五千円なら?」
「それは、ちょっと時間くれ」
「あなたって、想像通りの単純な男よね」
前の席に座る綺原さんと苗木が、いつもの調子で言い合っている。気が合うのか合わないのか、ふたりはこうしてよく意見のぶつかり合いをする。
この会話も、なんとなく覚えがある。
聞こえない振りをして席を立とうとすると、決まって二人は振り返るんだ。
「なあ、直江はどう思うよ?」
「ええ……、どうって?」
「初恋って、叶わないモノでしょう? だから、それくらい夢見ようとしてるのに」
「叶うこともあるだろう!」
「死ぬまでに言われてみたい台詞を馬鹿にしてくるの。苗木って、デリカシーないと思わない?」
離れかけた椅子へ腰を下ろして、苦笑するしかない。
僕がどっち付かずな態度を取ると知っているのに、今度こそはと彼らは同意を求めてくる。
一度目はなんと答えたか、忘れてしまった。
「なかなか言えるもんではないけど、世の中にはいるんじゃないかな。七六億人もいるわけだし」
答えながら真っ先に思い浮かんだのは、日南先生だった。
【君の生きる時間を、私にちょうだい】という言葉も、現実で声にされると相当癖があると思う。
「ほら、梵くんは味方してくれるわ」
「なんだよ、直江。珍しく綺原の肩持つのか?」
「うーん、どっちかに肩入れした覚えはないんだけど」
「どうだかなぁ~」
いつもの調子で、僕はそら笑いを浮かべた。
二人のことは友達として好きだけど、天秤にかけるような時間はなるべく早く過ぎて欲しい。間を取った答えを生み出すのは、精神的に疲れるのだ。これは何度繰り返しても、慣れないだろう。
二度目の世界で変えられる事には限りがある。今朝の毛虫みたいに、僕が直接手を加えられる小さな出来事は可能だ。
でも、他人の感情が絡む事柄は難しい。放課後になって、改めて実感させられた。
向かい側の東棟校舎に、帰ったと思った苗木の姿が見えた。スマホは通学カバンの中で、連絡は出来ない。帰りのホームルームでも早く帰れと忠告したのに、もう手遅れだ。
たった今、苗木が立つドアの先に一組の女子がいる。彼の気になっていた子が、数学の男性教師と抱き合っている場面を目撃する事になるだろう。
視聴覚室へ行くなと言えば、逆に気になると思って言わなかったのが裏目に出たのか?
彼の心理が向かわせたのかは分からないけど、結果は時間が戻る前と同じ道を辿った。知っていたのに、阻止出来なかった。
ごめんと東塔校舎から視線を離して、僕はそのまま階段を上がる。
屋上から見上げる景色は、青一色。ここから飛び降りたらどうなるだろうと、よく考えていた。
それは、強い意志ではなく、比較的緩やかな感情。この向こう側にはきっと、見たことのない美しい世界があると、深い意味もなく単純に思っていた。
追い風が吹くと体が揺れる。不安定なフェンスはカタカタと小さな音を立て、まるで【空を飛んでみたい】という僕の気持ちに拍車を掛けているようだ。
繰り返しの日々で気付いたことが、もう一つある。
同じ日常フィルムが流れているはずなのに、一度目と違う行動を取る人物がいること。
「見つけた」
いきなり手首を掴まれ、心臓がビクッと跳ね上がる。首だけ振り返ると、日南先生が立っていた。走って来たのだろうか、息を切らしている。
──思い出した。この日、【今日】は、初めて日南先生と言葉を交わした日だ。
「そんなに慌てて、どうしたんですか? 手、離して下さい」
「離せません。直江くん、こんなところで何してるの?」
「空を見てただけですよ」
「……そう、空を?」
手首を締め付けている力が、ギュッと強まる。それから、花が開くようにゆっくりと手が自由になった。今の間は、なんだったのだろう。
小鳥が地上へ降り立つように、軽やかな靴音を鳴らしてフェンスから身を離した。
コンクリートにしっかりと両足を着けているのに、日南先生は僕を見たまま立っている。まるで、危なっかしい五歳児を見張るみたいな顔付きで。
そうだ。なぜかやたらと心配されていたんだ。
日南先生は、徐に僕の手を握った。一度目の時は、驚きが強くて気付かなかったけど、小さく震えている。
「直江くんは、時々ふわふわって、どこかへ飛んで行ってしまいそうに見える」
「まあ、空を飛びたいって思いは……少なからずあります」
その気持ちの終着点に、何があるのかは分からない。死にたいと考えたことはないけど、解放されたいと思うのは常に、だ。
だから、あの時僕は驚いた。自分自身が気付いていない心を見透かされていたこと。それから、この後に続くセリフに。
春風に揺れる髪を耳に掛け微笑むと、日南先生は同じように真顔で言ってのけた。
「直江くん、君の生きる時間を私にちょうだい?」
何度聞いても、背中がむず痒くなる。なんと反応したらいいのか困惑しながら、それでいて少し冷静に言葉を返す。
「それって、どういう意味ですか?」
頭のネジが抜けている。前はそれくらいにしか捉えていなかった。
でも今は、もう少し平静な気持ちで受け答えが出来る。
昨年、赴任して来たはずの日南菫は、体育館階段の壁画に思い入れがあると言った。一度目は持病で死んでしまうと告げたのに、今は否定している。
八月二十一日。日南菫の葬儀が行われた夜から時間は巻き戻り、同じ過去が繰り返されている。変わった夢を見るようになったのも、その日からだ。
不思議な現象と彼女は、何か関係があるのかもしれない。
「どうと聞かれると、ちゃんと答えられる自信がないなぁ。しいて言うなら、直江くんが死んでしまうのが怖い……かな」
口調は穏やかなのに、なんて寂しそうな表情だろう。まるで、本当にいなくなることを知っている目をしている。
日南先生の死を目の当たりにした僕みたいに。
「人間はいつか死にますよ。みんな、死ぬ」
「そうだけど」
「でも、まだ死なないで下さい」
「わたし?」
「一応、心配してるんですよ。先生のこと」
戸惑った表情で、日南先生は僕を見た。
無理もない。釘を刺したのは、これで二度目だ。それほど親しくもない生徒ならば、気味が悪くもなるだろう。
「そういえば直江くん、これから生徒会よね。早く戻りましょう?」
「すぐ行きます。でも、これから試したいことがあるので、少し一人にしてもらえますか」
「でも」
「何が先生をそんなに不安とさせるのか分からないけど、絶対死なないから大丈夫ですよ」
「絶対ほど信用ならない言葉はないよ」
疑っていると言いたげに、先生はまた風にさらわれそうな髪を耳にかけた。
青空が背景となって、一枚の写真みたいだ。
なんだろう。日南先生って、なんと言うか、こんなに綺麗な人だったのか。
「……分かったわ」
引かない僕に負けたと言うような顔をして、ちらりと振り返りながら屋上を出て行った。
先生の姿が見えなくなったのを確認して、冷静に周りを見渡す。
カシャンカシャンと音を立てながら、僕は幅の狭い鉄格子に両足を乗せた。夢の中で蓬がしていたように。
時間が巻き戻るきっかけが死だとしたら、ここから飛び降りたらどうなるのか。
ゆらゆらと風が僕を揺らす。深呼吸すると、広い空へ吸い込まれそうになる。
「待って!」