はじまりの夢⑶
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「ねえ、お昼一緒に食べない?」
道着から制服へ着替えると同時に、綺原さんが声を掛けて来た。
土曜日の部活は十二時で終わる。普通ならばこのあとは自由だから、僕を誘ったのだろう。
実は前にも一度、彼女に断りを入れている。でも、綺原さんは知らない。時間が巻き戻る前の話だからだ。
「悪いけど、これから塾なんだ」
「何時から?」
「一時から、だけど」
「あと一時間弱あるわね。そこのモコバーガーなんてどう?」
「ええっと……、少し、なら」
「決まりね」
白い歯を見せて満足そうに笑う綺原さんに、少しばかり動揺した。同じように断ったはずなのに、一度目とは違う反応が返って来たから。
弓道場から少し歩いたところに、モコバーガーがある。高校が近いこともあり、部活帰りの生徒が利用しているのをよく遠目に見ていた。
学校と部活の行き来でしか通らない僕にとって、帰り道に誰かと店へ入るなど初めての体験だ。
自分の前で女子がバーガーを頬張っていることは、非日常の何ものでもない。
「ねえ、さっきから、ちょっと見過ぎじゃない? さすがに食べ辛い」
「ああ、ごめん。つい物珍しくて」
「それって、私がファストフード食べてることが?」
「そうじゃなくて。こうして外で誰かとご飯を食べるって、なかなかしないから」
小学生の頃から、習い事の掛け持ちは当たり前だった。水泳、そろばん、塾にテニス。ピアノと書道は中学に入学してからも、部活や塾と平行して通い続けた。
だから僕は、公園や誰かの家に上がって友達と遊ぶという経験をしたとこがない。もちろん、高校生になって出かけたこともない。
「部活のない日曜でさえ、お稽古で半日潰れるんでしょ? それって、楽しいのかしら」
淡々とした口調で話しながら、綺原さんがちらり表情を伺う。
「楽しくないけど、辛くはないよ」
テストの成績が良かった時、ピアノのコンテストで入賞した時、書道で段が上がる度に父と母は喜んで褒めてくれた。
その時だけは、自分の存在が認められている気がして嬉しかった。友達と遊ぶことを我慢していられた。
「楽しさだけで生きていける人間なんていない。でも、たまには美女と食事も悪くないでしょ?」
「えっ……? ああ、そう……だね」
本気か冗談なのか分からない発言に、反応がワンテンポ遅くなる。
「そこは突っ込んでくれないと。私が自意識過剰で嫌な女みたいじゃない」
「……そっか」
そのあとが、喉に詰まって出てこない。
そうめんと冷や麦の違いくらいに、女心は見極めが難しい。特に綺原さんのようなクールで何を考えているか読めない女子は、特に分からない。
綺原さんとは、二年の時にクラスが同じになったことで話すようになった。容姿が整っているため、男子の中ではちょっとした有名人で。
それが理由か定かではないが、出会った時から、女子の中で浮いていた気がする。彼女自身が、一匹狼でいることを好んでいるようにも見えた。
「ねえ、梵くんと菫先生って、どんな関係?」
「どんなって? ただの担任と生徒だよ」
「あら、面白みのない答えね」
意味深な笑みを浮かべた綺原さんが、グッと顔を近付ける。それから、わざとらしく蝶が羽音を鳴らすような声でささやく。
「見ちゃったのよね。梵くんと菫先生が美術室で逢い引きしてるとこ」
「アイビキ……⁉︎ いや、それは、ただ単に用事があっただけだから」
美術室を訪れたのは、過去と未来で一度だけ。時間が巻き戻った昨日、日南先生の体調確認をした時だ。後ろ指を刺されるようなやましいことは何もない。
でも、伏し目がちな表情は変わらずで、僕のポテトをぱくりと頬張った。まるで、決定的証拠を掴んでいる探偵みたいな顔をしている。
「そう? とっても親密そうにしてたじゃない。まあ、それは私の夢の話だけど」
「夢って?」
「夢であって夢でない。現実よりも現実な夢」
「どういう意味?」
「さあね。はっきりとした意識の中で見た夢、とでも言っておこうかしら」
抽象的に繰り広げられる彼女の話は、僕の頭を混乱させた。
【夢であって夢でない】というキャッチフレーズのような一文。身に覚えがあり過ぎて、深くは突っ込めなかった。
これ以上は詮索するなと、アンテナが張られていたから。どちらにせよ聞けなかったのだけど。極め付けは、別れ際の言葉だ。
「また月曜に、ね。直江センセ?」
先生って、なんだ?
もしかすると、綺原さんも僕と同じように、不思議な夢を見ているのだろうか。
塾から自宅へ帰って来たのは、空の明るさが弱まる夕方五時頃だった。いつものように鍵を開けて、誰もいないリビングへ入る。
静かすぎる空間に、母の声が蘇った。歯科スタッフの歓迎会で遅くなると、今朝に話していたことを思い出した。
作り置きしてあった冷たい蟹クリームコロッケを温めて、隣にあったサラダも一緒にひとりで食べた。
こんな時、他に兄弟がいたら良かったのにと思うことがある。
ひとりヒーロー遊びをしていた幼少期、後部座席から話をする両親を眺めていた小学生時代。試験や習い事の話ばかりしていた中学時代。思い返せば、いつも僕はひとり。
ピアノは寂しさを紛らわすために好都合な遊びだった。一階にあるピアノルームは、年長の時に父が設けてくれた場所。
よく、こもって練習をしている。幼い頃は隣で母が教えてくれたけど、今では立ち入ることすらない。
ひとたび鍵盤の前に座れば、柔らかく指に吸い付くような音色が部屋を充満して、心に出来た隙間を埋め尽くしていく。
悲しい曲は嫌いだ。
心を覗かれているようで、たまに怖くなる。
だから、僕は晴れやかになるようなメロディを奏でる。指が弾むような、桃色や黄色が浮かび上がるような。
「寂しい曲だね」
突然、音を切り落とされたように無の世界が広がった。僕の指が動きを止めたからだ。
ざわつく鼓動を抑えながら、左側へ顔を向ける。隣には、夢で見る茶髪の少女がいた。
「どうして……?」
陶器のような肌、触れたら指の隙間を溢れていくであろう絹のような髪の一本一本までが、鮮明に写し出されている。
たしかに、彼女は目の前にいるのだ。
はっきりとした意識の中で見ている夢と言えるだろう。
「どうやって入ったの? 家には鍵がかかっていたはずだよ」
自宅にはセキュリティシステムが導入されていて、二重ロックになっている。訪問者が敷地の中へ入るにも、中からの承認がいる。
彼女が警報も鳴らさずピアノルームへ入ることなど不可能なのだ。
「そんなの簡単なことだよ。私は初めからここにいた。今、ここに立ったの。だって、これは夢だもの」
「夢じゃないよ。ほら、ちゃんと触れる」
彼女の右腕を掴むと、つるんとした茹で卵のような感触がある。
「あったかい手だね」
「君の手も、温かいよ」
これは、夢であって夢でない。どういうことなんだ?
川のせせらぎの音が聴こえ出す。白くて細い指が、しなやかに鍵盤を鳴らしている。胸を締め付ける切ない音色だ。
「君、ピアノ弾けるの?」
「少しだけね。でも、これは弾いたことないの。さっきここで初めて聴いたから」
「さっき?」
「消えちゃいそうな寂しい曲」
このメロディを知っている。幼い頃に、母がよく弾いてくれた曲だ。無意識のうちに、僕の指が奏でていたのか。
「それから、よもぎ」
「なにが?」
「私の名前、君じゃなくて蓬って言うの。だから、これからは蓬って呼んでよ」
「……わかった。僕は、直江梵」
「梵って、変わった名前だね」
「お互い様だろう」
「たしかに。【よもぎ】と【そよぎ】って、ちょっと似てるね」
顔を見合わせて、互いに吹き出す。家で笑ったのは、いつぶりだろう。もうしばらく、声を上げて誰かと笑い合うなんてことはなかったように思う。
夜が更けるまで、ピアノの前で話していた。学校の友達と過ごすような普通の会話だ。勉強が面倒だとか、なんの映画が好きだとか。
みんなが送っている、ありふれた学校生活の一部と同じ。
蓬との時間は、僕にとって現実よりも現実味のある夢だった。