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名前のない物語⑸

 夏休みに入ってすぐ、再び金宮先生が訪ねてきた。家庭教師と言うわりに、ほとんど授業はなく、つい最近まで忘れていたほど。

 お祖父様からの命令だとか言っていたけど、この人は全てが胡散臭い。


「じゃあ、次の英文訳してみて」


 とりあえず勉強は教えるつもりらしい。

 問題を見て、シャーペンを持つ手が止まる。不自然に難易度が下がっている。中学生でも分かるレベル。それより、問題なのは解答の内容だ。



「なんで書かないの? 分かんない?」



 挑発されて、仕方なしに文字を綴る。


【私はあなたにキスしたい】



「これって、セクハラじゃないですか?」


 軽蔑の眼差しを向けたところで、この人が怯むはずもない。

 それどころか、下瞼を持ち上げて満足そうな笑みを浮かべている。不気味より、恐怖に近い嫌悪を抱いた。


「そういう綺原ちゃんはどうなの?」

「どうゆう意味」

「付き合ってもないのに、キスしちゃうのどうなのかなー」

「……!」


 なんで、あなたが後夜祭のことを知っているの。

 喉に詰まって出ない言葉。反応を見て楽しんでいるのか、またすぐ爆弾は落とされる。


「あっ、でもいいのか! だって、君ら婚約者だもんな」


 喉を押しつぶされたみたいに、何も言えなくなった。

 数秒、じっと私を見て、金宮健は立ち上がる。ベッドに立てかけてあった『シンクロニシティ』の本を持ち出して、こちらへ渡した。


「これは君の夢でもあり、今は俺の夢でもある」

「……どうして」

「二十五の君が見てる夢に侵入したんだ。君のお祖父さんに頼まれてね」


 向こうの私は、普通に食事を摂り、仕事をして毎日を過ごしているらしい。

 以前、意識を持ちながら夢を見ていた梵くんと同じ。でも、それは抜け殻となっていて、目に光が宿っていない。

 意識が別の場所にあると気付いたお祖父様が、この人を使って目覚めさせようとしていると知った。


「他人の夢に入り込むのは、意外と単純で簡単なんだ。だけど、条件が揃わなきゃ一生無理かもしれない」

「……そんなこと」

「まあ、俺は雇われてる身だから、ちゃんと任務は全うするつもりだけど。無理矢理するのは、俺の趣味じゃないんでね。ちゃんと自分で頃合い見つけてくんないと。あっち、廃人になっちゃうかもよ」


 なにもなかったかのようにヘラッと笑って、「じゃあ忠告はしたんで、そろそろこのへんで」と、金宮健は去って行った。



 あれから、夢についてや金宮健のことを調べてみたけど、詳しいことは何も分からなかった。

 この地球上には幾つもの空間が存在していて、意識を飛ばすことで夢と現実を脳が区別している。

 夢の世界から目覚めたとき、元の世界に意識が戻るかは保証出来ない。そう金宮健は言っていた。

 戻れたところで、現実は悲惨。だったら、そのまま意識が帰らなくてもいい。


 歩道を歩きながら、強い日差しを帽子で遮る。小走りで図書館へ入ると、エレベーターで待ち合わせの二階へ向かった。

 夏休み中に、梵くんが初めて連絡をよこしたのが日南菫のためだなんて、しゃくに触る。

 ひと通り話を聞いて、私たちは図書館を出た。

 また変な夢を見たという彼に、『シンクロニシティ』の本を貸した。


 ──バグが起こる場合、外部からのアクセスで意識が二重になっている可能性がある。


 もしかしたら、未来の日南菫が夢に侵入しているのかしら。まさかね。


「今日はありがとう。何かあったら、また連絡するね」

「……わかったわ」


 じゃあと手を振って、図書館の前で別れようとする梵くんの服を掴んだ。

 なに、と首を傾げる彼。自分でも、理解できない行動をしている。


「あ、あの、特に用事がなくても、暇だし連絡してくれていいから」


 上から目線で、嫌な女。そんなことを考えていると、少し驚いた顔をしていた梵くんが、にこりと白い歯を見せた。


「うん、綺原さんも遠慮なくしてよ」


 この優しい眼差しを、ずっと近くで感じていられたらいいのに。



 蒸し暑さが増す八月に入った。昔のアルバムを見ていたら急に恋しくなって、何年か振りに実家へ顔を出そうと思い立った。

 この世界では、いつまで住んでいたのか不明だけど、母やお祖父様に会いたくなって。

 アパートから、電車で一時間かかる老舗旅館の桜花蘭(おうからん)へ足を運んだ。


 最寄り駅で、水色のセーラー服姿の女子高生とすれ違う。振り返ってみるけど、彼女はこちらに見向きもしないで足を進めて行った。

 高校生の頃、近くの女子校へ通っていた。さっきの女生徒とは、それなりに仲良くしていたつもりだったけど、ここでは他人なのだから仕方がない。


 坂道を下り、風情のある建物を通り過ぎる。

旅館へ繋がる長い階段を登りかけた時、肩をグッと後ろへ引かれた。


「なぜ、貴方(あなた)がここに……」


 血相を青くして私を見ていたのは、美しい着物に身を包む父方の祖母。


「おばあさま、お久しぶりです。実は」

「ここの敷居(しきい)を二度と(また)ぐのではありません! もう貴方の居場所は、桜花蘭にはないのですから」


 ひどく動揺した様子で、さらに祖母は心無い言葉を私に浴びせた。


(けが)らわしい。だから不徳の至りで産まれた子など、早く縁を切れと言ったのです。なのに、貴方のおじいさまと母親は……うちの旅館(かお)に泥を塗ったも同然です」

「……なんの、お話でしょうか」

「知らない方が幸せという事もあるでしょう。どうぞお引き取りなさって、二度と(わたくし)の前に現れないで頂きたいわ」


 階段を上がる祖母の背中が見えなくなっても、しばらくその場で動く事が出来なかった。

 不徳の至り? 私は、父の実子ではない?

 桜花蘭に不要な娘だったのは、三女だからではなく不倫で産まれた子だったから?

 どれだけ努力しても認めてもらえなかった理由は、そこにあったの?


 吐き気が止まらなくて、何度も止まりかけた心臓を押さえながら、ただひたすらに駅へ向かうことだけを考えた。



 終わりの日に見ていたような薄雲が広がる八月十八日。日南菫の命日と言われる日、梵くんに連れられて彼女の家を訪れた。

 人の死を防げるのなら、もちろん協力したいとは思うけれど、正直複雑でもある。

 部屋で二人きりになった時、居心地が悪くて肺が重く感じた。

 駅に繋がる階段の下。力無い彼を抱きしめながら泣き叫ぶ彼女の姿が、今でも鮮明に思い出される。すぐ近くに婚約者である私がいたのに、最後に彼の温もりを感じていたのはこの人だった。


 それに、彼の別の夢に現れて、この人はおかしな行動を取っている。本当に彼女はこの世界に存在する日南菫なのか、確かめなければならない。

 本棚から取り出したスケッチブックを、日南菫が机に並べていく。家へ押しかける口実に、いくつか絵の相談をしたいと言っていたからだろう。

 何を質問するか考えて来たことさえ、一気に頭から消え去ってしまったけれど。


「さて、本題に入りますか! 質問どうぞ?」

「あの、すみません。忘れてしまって」

「じゃあ私から聞いてもいい?」

「菫先生が、私に?」


 屈託(くったく)のない笑顔。憎みきれない愛嬌を振りまいている。


「綺原さんって、どうして美術の授業を選択したの?」

「それは……」

「絵、そんなに好きじゃないでしょ」


 勘づかれていた。何も返せないでいると、もしかして……と眉が動く。


「私のこと監視してたの?」

「監視だなんて……!」


 言い掛けた言葉を、人差し指で妨げられた。取り乱すなんて、あなたらしくないと言うように。


「ずっと、綺原さんのことが気になってたの。常に行動を見られてるような、不思議な視線。でも攻撃的なものじゃなくて、何か心配してくれてるような」

「死のうとしてませんか?」


 彼女の顔色が変わった。瞳孔が開き、微かに唇が震えている。


「……そんなわけ」

「手首の包帯、ほんとに捻挫かしら」


 バツが悪そうに、背中へ隠すように手を回す。

 もうすぐ一ヶ月になる。ただ捻ったにしては期間が長すぎるし、何度も普通に動かしていた。おそらく、見られたくない傷でもあるのだろう。


「最近、眠れない日が続いてて、気付いたら……。どうしようもないのよ。たまに、自分が自分じゃなくなるの」


 声を震わせ、ほろりと涙が流れた。

 未来の日南菫がアクセスして来ているので間違いない。自分のせいで、彼が犠牲になったことを悔いての行動なのか。


「負けないで下さい。ここには、私たちがいます。しっかり自分を持って、見失わないで」


 小さく頷く彼女に、ティッシュを差し出す。

 何かが起こる前に、私も覚悟を決めなければならない。


 ──今のあなたは、生徒に寄り添える教師として素敵だと思うから。生きて。



 真っ暗のアパートへ帰って、テレビも付けないで服を着替える。音のない空間に一人でいると、ふと頭に湧き上がってくる言葉。


『穢らわしい。だから不徳の至りで産まれた子など、早く縁を切れと言ったのです』


『もう貴方の居場所は桜花蘭にはないのですから』


 ガシャンと何かが割れる音がして、気付くとテーブルに置いていた花瓶が落ちていた。手を付いた時に当たったみたい。

 祖母の声が部屋中に響いて聞こえて、震えが止まらなくなる。


「ごめんなさい、ごめんなさい……穢らわしくてごめんなさい」


 ぶつぶつと呟きながら、キッチンの流し台で嗚咽(おえつ)する。気持ちが悪くて、体の中から何かを吐き出したいと思うけど出来ない。

 これは夢だと暗示しながら、これが現実なのだと吐き捨てる。

 どこにも向けられない(いきどお)りは、やがて自然に消滅していくのかしら。

 穢れた血が流れる私は、幸せを望んではいけない人間なのでしょうか。


 あの日以降、そんな夜を何度も繰り返している。


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