名前のない物語⑶
一人暮らしの家へは、知らないうちに帰っていた。考え事をしながらでも体が道を覚えていて、いつの間にか自宅に辿り着いていることは、小学生の頃にもよくあった。
今回もその感覚と似ていたと言えば、そうなのかもしれない。
部屋でひとり、今日一日のことを考えてみる。見るもの触れるもの全てがリアル過ぎて、とても夢とは思えない。
だいたい、このアパートは大学の時に住んでいた場所で、高校生のうちは実家から通っていた。
地元の女子校を卒業したはずが、彼のいる結芽岬高等学校に入学したことになっている。
現実で起こっていることなのか、それともまだ夢の中を彷徨っているのか。
ベッドの上に、見覚えのある本があった。まさかと手に取ってみる。
──夢を通じて、誰かと繋がることが出来る。
信じられないけど、もしかしたら八年前の彼に夢の意識がアクセスしているのかもしれない。
目が覚めてしまったら、彼がいない現実が待っている。それは心苦しくて、もう少しだけこのままでいたいとも思ったりして。
枕を濡らしながら眠りに着いたのは、中学生以来だった。
次の日からも、同じ世界は続いていた。夢の世界で高校生になった私は、お弁当を作り制服に袖を通して学校へ通う。
不思議なことに、前からここにいたかのような物が揃っていて、高校生活をするに不便はなかった。
一週間も経つと、今いる場所が現実のような気がして来て、少し気が楽になった。近くには声を掛けてくれる苗木がいて、もう会えるはずのない彼が隣で笑っている。
だから、時間を巻き戻って別の人生をやり直していると思うようにした。
もう一度、ちゃんと彼を知ることが出来る機会を与えてもらえたの。
今度は、心から好きになれるのかもしれない。
夏休み明け、産休に入った美術教師の代わりに、彼の命を奪った日南菫が赴任して来た。
はっきりとした顔立ちで長い髪をさらりとなびかせる彼女は、まだ二十四、五あたりで容姿も綺麗だった。
明るく気さくで、生徒たちからは菫ちゃんと慕われ、とても模範的な教師に見える。
私は怖かった。また彼が、日南菫に奪われてしまうのではないかと思って。それは命と言うよりかは、心の方だったのかもしれない。
三年に進級して、日南菫がクラスの担任となった。相変わらず彼のことを気にかけて、姿を追っている。
二人がどんな関係になるのか知りたくて、どちらかと言えば苦手な美術の授業を選択した。
この頃から、夜の寝苦しさが強くなっていた。
美しく輪を描く水面。透明感のある水の中に鮮やかな花が咲いていて、その前で誰かと手を繋ぎ合っている。
でも、そこに温もりは感じられなくて、私の中に湧き上がる感情もない。
「この花、綺麗だね。なんていう花だろう」
「睡蓮じゃないかな。朝に花が開いて夕方に花を閉じる。睡蓮には、清らかな心って意味があるんだよ」
徐々に遠ざかっていく声。並ぶ背中を見つめている。彼の隣にいるのは、私じゃない。
「この水の上に顔を出してるのが、ハスの花。その花言葉は、──離れゆく愛」
二人は同時に振り返り、こちらを見た。
あの頃の直江梵と日南菫。耳に響く甲高い笑い声が、胸を突き抜いた。
「やめて、お願い……やめて」
体は穴だらけになって、そこから白い光が漏れていく。最終的に、私は彼らの前から消えてなくなった。
悪魔のような夢から覚めると、高校生の姿のままベッドの上にいた。荒い呼吸と攻撃されたような胸の痛みが残っている。
覚めることのない悪夢とは、現実と夢どちらのことを言うのだろう。
校庭の角にある木の下で昼食を摂る時、ベッドの上で薄い布に包まる時間、ふと考えている。
ここに、私が求める答えなどあるのかしら。一番望むものは何なのだろうと。
夢の世界にいる直江梵は、学校の屋上でよく黄昏ている。何かを憂い、消えようとしている。
「直江くん、一緒に飛ぼうか」
耳に飛び込んで来た声が、心臓を握り潰す。思わず前のめりになる体をぐっと踏み止めた。
近すぎるくらいの彼らを、影から見ていることしか出来ない。
私との関係は婚約者からクラスメイトへと離れていくのに、日南菫との心は縮まって行く。
「……梵くんが、タイムリープ?」
彼はおかしなことを口にした。夢にしては設定が練られていて、この世界を現実だと思い込んでいる。
「初めから違ってたんだ。僕と綺原さんが未来から来ていることに違いないけど、元々の世界は別だってこと」
詳しく説明してくれるから、うなずくしかなかった。これは夢のはずなのに、まるで現実を生きているようで。
「ところで、梵くんはいつからタイムリープしてるの?」
「八月二十一日。日南先生の葬儀から」
「菫先生の……葬儀?」
彼のいた世界では、日南菫が命を落としていた。それが現実なのか、夢なのかは定かではないけど。
「……梵くん。九月十八日は、あなたの葬儀だったの」
現実の方が夢に思えてきて、本当はあなたの婚約者だったことを伝えられなかった。
ここを生きる彼は、たしかに存在している。私と夢をみることで、最悪な未来を変えられるかもしれない。
夢日記となるものをつけ始めて、二週間が過ぎた。文字にするのは苦しいけれど、新しく彼らとの思い出が増えていくたびに、頬がほころぶ。
五月の連休が明けて、彼から不思議な夢を見ていると話を受けた。なんでも、知らない女の子と夢の中で会っていると言う。それは私なのに、と嫉妬するのは私らしくない。
夢を通して繋がるには、いくつかの条件を満たしていなければ起こらない。そのうちのひとつに、知っている者が含まれる。
だから、おおよその見当は付いていた。その子は高校生だと言うから断言は出来ないけど、おそらくは日南菫。
「……梵くんが、止めたいんじゃなくって?」
良くないことをしている。
その濁した言い方は、不倫を指しているのかもしれない。以前、彼女を襲おうとした皆川という男は、高校の教師をしていた。
妻と子どもがいながら、生徒と良からぬ関係にあったらしい。
「夢に関わらない方が身のためだと思うけど。もしも、本当に現実と繋がっているのだとしたら、戻ったときに良くない今になっている可能性だってあるのよ」
あなたの未来を救いたい。
願うばかりで、何をどうしたらいいのかなんて、何も分からない。
でも、日南菫と深く関わらなければ、この人が命を落とすことはない。




