君にさよなら⑹
九月十六日まで、あと一週間。今日の夜から未明にかけて、この辺りを台風が直撃すると言われている。
今にも雨が降り出しそうな天候の中、呼び出された僕は屋上へ向かった。うろこ雲の下で、髪をなびかせる日南先生がゆっくりとこちらを見る。
「すごい雲だね。これって、台風雲ってやつかな」
「……たぶん」
落ち着かない胸を抑えながら、彼女の隣に立つ。無数の小さな白い塊が、絨毯のように敷き詰められている。
あの日、夢で見た虹の雨の空と似ている気がした。
「この間はごめんね。私、どうかしてたと言うか」
「えっ、ああ……僕の方こそ、すみませんでした」
なんのことだろうと考えながら、ワンテンポ遅れて反応する。車で送ってもらった日のことを言っているのだろうか。
塗装の剥がれかけた手すりに触れて、遠くを眺める。ざわざわと揺れる木の下に、誰かが入っていくのが見えた。
朝より、風が強くなってきている。風の音で、日南先生の声が遠退いて感じた。彼女は、なんと返事をするのだろう。
「……直江くん、聞いてる?」
「あっ、すみません。なんでしたっけ」
「今違うこと考えてたでしょ」
「えっ」
「先生には全部お見通しよ? 心ここに在らずって感じ。さっきから校庭を気にしてるけど、何かあったの?」
再び視線を下げると、木の陰からさっきの男子生徒が出てきた。あの茶色の頭髪は、苗木だ。
僕が屋上へ来る前、綺原さんに告白すると言い残して彼は教室を出た。上手く伝えられたのか、結果はどうだったのか。そればかりが頭を埋め尽くす。
「心配で気が気じゃないって顔してる」
「そんなっ……ことは……!」
図星を突かれたように、僕の頬は一瞬にして熱を帯びる。
ほらねと言いたげに、髪を押さえながら日南先生がクスッと笑った。
「隠さなくてもいいのに。誰かを好きになることは、別に恥ずかしいことでも悪いことでもないよ」
言いながら、徐に僕の手を掴む。初めてここで、言葉を交わした時のように。
そんなんじゃない。綺原さんのことは好きだけど、恋とか愛という言葉では表せない……もっと別のなにか。
いつもそばにいてくれて、空気のような存在だけど、なくてはならない人。
「あの……、先生」
「あなたまで、先生を見捨てるの? 約束したじゃない。僕がいるって、言ってくれたじゃない」
「……なに、言ってるんですか?」
抱きしめられて、身動きが取れなくなる。ほのかに大人の香りがした。
でも、これは夢に違いない。心のどこかで、冷静な自分がいる。
「あれからずっと、あなただけが光だった。梵くんだけが、心の拠り所だったの。それなのに、つれないね」
餅のようにくっ付いている体を、ぐっと引き離す。
「──ちがう! そんなこと、日南先生は言わない。もうやめて下さい。僕の大事な思い出を汚すのは、やめてくれ」
ひと通り叫んだあと、気付く。ツーッと頬を流れてゆく彼女の涙に。
何も言わず瞼を伏せる姿に、胸がじんじんと痛む。こぼれ落ちる水滴があまりに鮮明で、ひとつの疑問が生まれた。
──ほんとに、夢なのか?
カタカタとフェンスが音を立て出す。鳥たちが一斉に飛び立ち、木や空気も騒ついている。
そのうちに強い風が吹き始めて、花びらや枝が空へ舞う。まるで吸い込まれていくようだ。台風が近付いて来ているのか。
「危ないので、とりあえず中へ」
言いかけたとたん、ザザッ、ザザッと日南先生が二重にズレた。なんだ?
昔の映像みたいに、背景はそのままで彼女だけが波打っている。何か唇を動かしているけど、風や変な雑音で聞こえない。
地面を踏みしめる足が、少しずつ動いていく。葉っぱが舞う先は、渦を巻いている。その竜巻に吸い込まれそうだ。
「日南先生、大丈夫ですか?」
つま先にぐっと力を入れて、体重をかけた。
『もしかしたら、あなたを助けるための物だったのかしら』
頭の中で、誰かの声がした。どこかで聞いたことのあるような。
体を押していた突風が緩まり、音がなくなった。バグでも起きたかのように、日南先生は瞬きすらせず微動だにしない。どうなってるんだ?
『──梵くん、梵くん』
今度は、頭の中に直接話しかけられている感覚がした。この声は……。
ポツンと手の甲に、桜色の水滴が落ちた。藤色、空色と増えて虹のような雨が降り注ぐ。初めて夢を見たときの景色と同じだ。
きらきらと輝く光を浴びながら、ふと思い出す。翼の生えた天使のことを。
紫がかった空に稲妻が走る。気付くと日南先生がうずくまって、震えていた。
「早く逃げないと」
彼女の腕を掴んだとき、どこかで雷が落ちた音がした。空がひび割れて、パラパラと剥がれていく。
──似ている。夢の世界が崩壊したときと、同じ光景だ。




